2章 診療所「イーレトレン・クリニック」5
イーレトレン・クリニックは北部出張所が管轄する王都北部では長い歴史を持つ診療所で、出張所からはそう遠くない、山の麓で開院している。医師も看護師も最低限の人数で切り盛りする、いわゆる「町のお医者さん」だ。医師は現在、院長のコランタン・イーレトレンとその息子、ヴラン・イーレトレンの2人が在籍している。
アンバーが把握している限り、イーレトレン・クリニックは”ずいぶん前から開院している”という事以外は何ら主だった特徴のない、平凡な診療所であった。死亡の届出や感染症の報告等も遅滞なく行ってくれているし、保健所による立入検査の結果もそう悪くはない。
12年前のその届出は、当時の院長であったルイ・イーレトレンから提出されたもので、死因の欄に”原因不明の遺伝性疾患”と記載されている以外に気になる箇所はない。届出は死者の名として「ローレン・サングラド」という人物を挙げていた。
「12年前亡くなったのはローレン・サングラドか。てことは今回の四半期報で亡くなったのもサングラド家の人間かな」
死因が遺伝病である訳だから、とそのように類推したところで、アンバーは事前に考えていたよりもかなり長い時間、書庫にこもっていたことに気が付いた。何十冊もの四半期報、そして何千枚もの届出をめくっていたのだから当然である。
「もう今日は帰るか」
翌日アンバーはいつもと変わらない、平凡な勤務に従事した。アンバーがたまにチラリとアロイを見やってもやはりいつもと変わらない、若干さぼりつつ、の勤務態度であった。
クリニックの詳しい情報を探ろうと昼の休憩時間に地下書庫に赴いてはみたものの大した収穫は無く、トボトボと執務室に戻ろうとしたところで、日頃クリニックや病院の立ち入り検査を行っている職員と遭遇した。
「あ、ちょっといいかな」
「アンバーさん、どうかしました?」
職員は他に接するのと同様に平常な調子でアンバーに応じてくれた。
「君って結構診療所の立ち入り行ってるでしょ?イーレトレン・クリニックについて知りたいんだけど」
「イーレトレン・クリニック…ま、取り立てて言うことのあまりない診療所ですね。この前行った時も軽微な法令違反だけでその後改善報告の連絡も来てますし」
イーレトレン・クリニックは特徴のない、どこにでもあるような診療所である、というのがこの職員の主張だったが、アンバーは気になって尋ねた。
「軽微な法令違反って?」
職員は少し難しい顔をしたものの、自分で納得した風な顔になって話し始めた。
「同じ公務員同士ですし、情報漏洩にはならないですよね。この前行った時に指摘した法令違反は2つで、1つ目が医療過誤予防、2つ目は院内感染予防。北部みたいな田舎にある診療所じゃあ割とよくある指摘事項ですけどね」
「というと?」
「1つ目から説明しますと、イーレトレン・クリニックじゃあ医療過誤予防対策が不十分でした。他の医師によるカルテの精査とか、患者情報共有のためのミーティング実施頻度が定まっていなくて、ミーティングの議事録も無かったんです。スタッフの数が少ない医療機関にありがちですね」
なるほど、とアンバーは思った。イーレトレン・クリニックは前日に調べたところだと医師は皆イーレトレン姓だった。恐らく一族による家族経営の診療所で、子は父の、父は祖父の作ったカルテに口出しすることが難しいのかもしれない。加えて、家族経営であるゆえに患者情報の共有は家庭でも出来るからわざわざミーティングなどは設けていない、といったところだろう。
ここまで考察したところで、アンバーは職員に続きを促した。
「2つ目は院内感染予防ですね。イーレトレン・クリニックじゃあ診療所内各所の拭き取り検査は実施していましたが、その結果の検討が不足していました。それと、これは医師の感染症に対する意識改革が必要なんですが、院長も他の医師も、感染症にはとりあえず抗生剤でいい、という考えを持っているのが聞き取りやカルテの点検で判明しました。
なので拭き取り検査の結果を日頃の衛生管理に反映させることと、抗生剤の使用には薬剤感受性試験結果とか論文とかの科学的な根拠に基づくこと、って指導しましたね」
医療機関は当然ではあるが、衛生的でなければならない。診療器具はもちろんのこと、ベッド、待合室の床や壁に至るまで衛生的な状態を保つことが院内感染の予防には必須である。このために医療機関が日頃実施するのが清掃や器具の滅菌、毛布の交換等のルーチンワークだが、これが実際の所本当に微生物の除去、滅菌に貢献しているのか、医療機関は院内感染予防のために確認しなければならない。なので、確認のために拭き取り検査を行ってルーチンワークの効果を検証するという訳だ。だがこの検証が上手くなされていないと言う。
抗生剤の多用は王都の中の医療関係者では関心事の一つで、これが多剤耐性菌の出現に一役買っていると言われている。薬剤感受性試験は、患者に巣くう細菌にどの抗生剤が効果を持つか調べるための試験である。一口に抗生剤と言ってもその種類は豊富であり、細菌によって効く抗生剤とそうでない抗生剤が存在する。それを見分けるために患者から得た試料をシャーレ等で複数種類の抗生剤に暴露し、その効果を患者の体で試すよりも前に確かめるのだ。しかし、”とりあえず抗生剤”の考えが蔓延していたり、薬剤感受性試験を行う程時間の余裕がない医療機関が多い昨今では日々耐性菌の発生が報告されている。イーレトレン・クリニックも現在の態勢のままでは今後耐性菌の発生場所になる可能性があるだろう。
「教えてくれてありがとう。それじゃ」
アンバーは職員に礼を言い、2点の指摘事項を再度頭の中で反芻していた。
(とりあえずはクリニックのことが少しわかったし、次は遺伝病のことを詳しく調べてみよう)
そう考えてアンバーはアロイのデスクに向かうことにした。




