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異世界保健所  作者: hybrid
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1章 娼館「ダーク・ミクスチャー」13(終)

娼館「ダーク・ミクスチャー」の調査は一応の終結を見せたが、調査のさなかで生じた犠牲について、テイク達は所長室に呼び出されることになる。調査の経緯を報告していく中で、その犠牲の原因が、実は異世界で流行している”とある薬物”にあると指摘されテイク達の立場が危うくなるが…?

娼館「ダーク・ミクスチャー」調査の翌日、半ば予想はしていたが、自分とネイザーは朝礼直後に保健所長室に呼び出されていた。保健所職員の調査のさなか、しかも目の前で死人を出してしまったのだから、経緯の報告だけすれば済むような呼び出しではないだろう。昨日の凄惨な光景が頭から拭えないまま、思い足取りで自分達は所長室に向かった。


「まったく、シリンジ使用の理由書に取り掛からなきゃならないのに、呼び出しなんて面倒ね」


愚痴を垂れるネイザーに相槌を打ちつつ、自分はチラと後ろを見やった。自分達の後をついてくる形で、医薬務課の職員も所長室に向かっているのだ。シリンジの中に不動化薬が充填されていなかった件について、所長に説明に行く腹積もりだろう。


「このまま所長室に入ったら、医薬務課と一緒に報告する羽目になりそうですね」


医薬務課連中に聞こえない声量でネイザーに話しかけた。ネイザーはすでに背後の連中に気が付いている様子で、


「所長もそのつもりなんじゃない?充填の当事者と使用の当事者から同時に聞き取った方が状況の把握がしやすいだろうし」


それはそうだが、医薬務課の連中の前で所長のお小言と言う名の説教を食らうのは正直バツが悪い。ネイザーはそんなことには慣れているが、まだ新人の自分にとっては心理的ストレスが大きい、と思う。


「ま、ほとんどのことは私が昨日のうちに報告してるし、テイクは私が縄を取りに行ってる時のことを詳しく話せばそれでいいから」


ネイザーが言い終わるところで、自分達は所長室の前に到着していた。質素ではあるが重量感のある扉が目の間にそびえている。自分が最後に所長室に入ったのは入所したての頃で、仕事のことを何も知らぬまま何となく入室したのを覚えている。仕事を多少経験した今の状態で所長室に入るという事は、やはり入所したての時とは異なる感慨を感じる。


「所長、失礼します」


扉のノックもそこそこに、ネイザーは所長室からの返答を待たずに扉を開けた。

室内にいたのは、所長、補佐、理事といった保健所トップの御三方に、総務課、医薬務課、そして衛生課の課長達であった。うちの衛生課長は今朝の朝礼の時から執務室にはいなかったので、恐らく出勤早々所長室に入ったのだと思われる。御三方も各課長も若干顔が強張っており、室内に不穏な空気が流れているのは言うまでもない。


自分とネイザーは課長に目で促され、扉に最も近い下座の席に腰を下ろした。この部屋にいる職員の中で、席の上座下座にこだわるような人物は理事と総務課長ぐらいしかいないだろうが、理事はそのこだわりが強いのだ。筆頭課でもない衛生課に属する技師が上座に座ってしまえば衛生課長が理事から睨まれることは容易に想像できる。そう思って大人しく下座に座ったのだから、今度こそ酒を奢ってほしいものだ、と心中でつぶやき、医薬務課連中が入室するのを待った。


数秒後、いかにも眠たそうな顔つきの(医薬務課は保健所の中でもずば抜けて残業時間が多い課だ)職員が入室してきた。顔ぶれはやはり、シリンジへの薬品充填を担当する薬務係の係長と係員だ。そして意外なことに、検査係の係長もと係員も連れ立って入ってきた。


ルーセット氏の死体の検査でも行ったのだろうか?とネイザーに目配せしようと隣を盗み見たが、ネイザーも意見を持ち合わせていない様子で、肩をすくめてみせただけだった。


「それじゃあ、人は集まったから、報告をお願いします」


所長室に入室した職員が全員座るのを待って、理事が慇懃に場を仕切り始めた。


保健所理事は、言うなれば保健所組織における事務職のトップだ。保健師、薬剤師、獣医師、栄養士、そして医師等、資格職の職員が持ち合わせたり身に付けたりすることのできない事務知識・経験を動員することで、保健所の事務作業が誤った方向に向かわないように軌道修正を行ってくれている。これからこの部屋で行うような報告会議の進行役としては一番の適任かもしれない。


「それではまず衛生課から昨日の経緯を簡単に報告します。衛生課は、娼館「ダーク・ミクスチャー」の浴槽水に基準値逸脱があったことを探知し、ネイザー主任技師、テイク技師の2名を当該施設の調査に向かわせました。そのときの持ち物は?」


衛生課長が本件の発端を説明し、ネイザーに回答を求めた。


「我々が通常の施設調査に行く際に持っていく物とそう変わりません。ただ、今回は調査施設が娼館であるという事から、従事者が反社会組織に関わり合いを持っている可能性を想定しました。そこで医薬務課に申請し、不動化シリンジを携行しました。不動化シリンジは通常、興奮した重病人や、錯乱した薬物中毒者を無力化する目的で使用されます。中には不動化薬、つまり手足の筋肉を動かなくする薬として効果の知られるスキサメトニウムがはいっているので、いざという時の防衛手段とすることとした次第です」


「それでそのー、不動化シリンジ?っていうのは、施設調査の時は結構持っていくものなの?」


「施設の種類によります。今回は娼館でしたが、以前は普通の旅館にも携行した事例があります。確か調査当日に反社会組織の貸し切り予約があったとかで」


ネイザーの説明を遮る形で質問したのは総務課長だ。保健所の運営や他の機関との折衝に尽力するのが役割で、保健所業務に何か問題が生じた際に議会に報告するのも総務課長の役目だったりする。議会では議員から色んなことを根掘り葉掘り聞かれるため、とにかく色んな情報を収集したがるのが総務課長の性質である。


「衛生課では調査対象施設が膨大にありますので、職員の身体、生命に被害が生じかねない時は、衛生課長としても不動化シリンジ携行を許可している、という体制です。さて、不動化シリンジを携帯してネイザー、テイク両名は施設調査を開始しました。調査に同行したのは、同施設の責任者であるルーセット・オーネ氏です」


「今回の死人、か…」


やっと所長が口を開いたが、その言葉に一同、口をつぐんでしまった。所長は保健所のトップであり、そして医師だ。学者の論文に重みがあるように、医師が生命の生死について言及する事には重みが感じられる。本件で死者が出たことについて、保健所としてどのような対応を取るべきか、その最終判断を委ねられるだけあって、所長の責任は重い。そしてあらゆる情報も見逃してはならない。そのような考えから自分達の報告を黙って聞いていたが、不意に口をついて出てしまった言葉が今のセリフだったのだろう。


「…そうです。過程は飛ばして、ルーセット氏が亡くなる前後の説明をしたいと思います。2人は施設調査の終盤で、基準値逸脱の原因がルーセット氏に監禁された水棲エルフにあると突き止めました。ルーセット氏は監禁の事実を今後も隠し続けるために2人の口を封じようとし、その折にテイク技師が思いついたのが不動化シリンジの使用です」


「ですが、テイクがそう考え着いた時には既にシリンジの中身はありませんでした。私が調査の過程で施設の従事者に投与した後だったためです」


「その投与した相手が昨日警護隊に逮捕された男って訳ですね」


どうやらあの中年従業員はネイザーの手柄で逮捕されたらしい。罪状は公務執行妨害だろうか。それか、水棲エルフの監禁にも関わっていたかもしれない。暴行罪か監禁罪もありうる。まあ。そんなことは今はどうでもいい。そろそろ報告も核心に迫りそうだ。


「そうです。ですが、あの男に不動化薬を投与した時、不動化作用は現れませんでした。ただ暴れて、そして嘔吐したのみです。私はその隙に縄を使って男を縛り上げました。そして手元に残ったのは、数滴の薬物が付着した空のシリンジだったという訳です。それでその後は―――テイク、お願い」


「えっ!?」


自分は唐突なネイザーの不利に不意を突かれ、所長室の空気にそぐわない、素っ頓狂な声を上げた。“私が縄を取りに行ってる時のことを詳しく話せばそれでいいから”なんて言っておきながら、経験の浅い新人に管理職環視の中報告をさせるなんてひどい無茶振りだ。だがそう憤慨していても、管理職連中の顔は自分に向いたままである。仕方ない、と自分は一呼吸を置いて話を進めることにした。


「今ネイザーさんが言ったように、ルーセット氏に襲われそうになった時にこちら側にあったのは、少しだけ薬液の付着したシリンジと、救出した水棲エルフぐらいでした。そこで自分は過去文献の内容を思い起こしたんです。水棲エルフは、元となる水溶液があれば、それを何倍にも増幅、精製する能力があると」


「なるほど、スキサメトニウムを水棲エルフに頼んで増量してもらおうとしたと。状況が状況なだけに、妥当な判断だと思います」


医薬務課長が助け舟を出す形で同意してくれた。医薬務課長はまだ若いのにもかかわらず多くの課の管理職を歴任してきた人物で、いわゆる“出世頭”なのだと思う。どの職員にも公正で頼りにされているが、個性があまり見つからない分自分には“よくわからない人物”として映っている。保健所が有する薬物、及び王都で行われる医学術式のカルテを管理する課の長だけあって、医学薬学の知識に秀でていることは間違いない。ちなみに所長は臨床経験を持たないが、医薬務課長は持っていたりする。


「水棲エルフは不動化薬の増量を快諾してくれました。自分はルーセット氏のチャームに一瞬かかりましたが、その内に不動化薬の増量、精製が終了し、多分、ネイザーがそれを受け取ったのだと思います」


「多分?」


「はい。自分はチャームにかかっていたので、その一瞬の明確な記憶は思い出せないんです。自分が我に返ると、ネイザーさんがルーセット氏の首にシリンジを突き立てていました。不動化薬の効果はじきに現れるだろうと予想した自分は、他の部屋に縄を取りに行こうとしましたが、その時にルーセット氏の絶叫が響きました」


「………」


所長室の静寂が次第に重苦しいものに変わってくる。昨日ネイザーがおおまかに説明してくれたとはいえ、これからその説明に肉付けを行わなければならないのだ。この作業は、管理職の頭の中にネイザーが描いたぼんやりとした地獄絵図に、自分が輪郭を持たせるようなものだ。


「ルーセット氏の苦しむ様子に自分は足を止めました。それを見かねてネイザーさんが代わりに隣の部屋に縄を取りに行きました。それはわずかな間でしたが、その間にルーセット氏には大きな変化がありました。

…皮膚の緑変、線条の出現に続いて、皮膚が破綻しました。その直下に見える筋肉と、骨でさえも、一部では溶解しているようで、骨髄までわずかに認められたほどです。頭部では脳が露出し、眼筋の溶解によるものか、眼球が逸脱するまでに至りました。最後には動かずに倒れこんで…そのままでした」


喉に上ってきた嘔気を遮るように自分は言い切り、唇を咬んだ。ルーセット氏が死に至った光景は、今まで自分が経験してきた中で群を抜いて嫌悪感を催すものであった。その光景を生んだ原因が、あるいは自分の提案によるものかもしれない。この部屋にいる誰かにそう指摘されるのが怖いのだ。

だが自分の危惧とは裏腹に、意外な人物から意外な言葉が突いて出た。口を開いたのは医薬務課の検査係長だった。


「やはり…」


所長室にいた誰もが、自分から検査係長に視線を移した。検査係長の言葉の真意を皆が待っていた。


「これでテイク技師の報告は終了ですか?それなら検査係の報告を聞きましょう。お願いします、検査係長」


「ええ、はい。検査係では昨日の一報を受け、2つの業務を徹夜で行っていました。1つはルーセット・オーネ氏の検査です。死因不明の死体は警護隊の依頼を受けて死因究明を行う、というのがうちの係の業務でもありますから。もう1つはシリンジ内薬液の検査です。一報を受けた際にルーセット氏の死因としてまず考えられたのがシリンジでしたから、ネイザーさんから受け取って早速内容物の分析を行いました。その報告をお願いします」


検査係長が隣の眠たそうな係員に話を促したが、当の本人は眠りこけていたのか、検査係長から「オイ」と小突かれて初めて自分がしゃべる番だと気づいたようだ。


「まずルーセットさんの検査結果ですが…あー、薬物が原因で亡くなったようです。体から検出された薬物はシリンジからも検出されたので、まあ、シリンジが原因じゃないですかねー」


「ですが、シリンジの中身はもともとただの不動化薬だったんじゃないの?詳しく説明してください」


所長も身を乗り上げて検査係員に求めた。仮にシリンジに薬物が毒性発現量まで充填されていれば、保健所始まって以来の大失態、というより大事件だ。


「んー、まあ、薬物は死体からもシリンジからも2種類見つかりました。しかもお互いに関係のあるモノです。コデインとデソモルヒネという薬物なんですが」


コデインは聞いたことがある。確か、かぜ薬に含まれる鎮咳剤だ。それと多幸感をもたらすとかで巷の労働者に好まれていて、依存が問題になっている。しかしデソモルヒネの方は初めて聞く薬物だ。


「デソモルヒネ!?」


この部屋にきて一番の発声を行ったのは、所長と補佐の2名だった。どちらも目玉が飛び出さんくらいに目を剥いている。デソモルヒネとやらは、医師の資格を持つ両名でしか驚けない程の薬物なのだろうか。


「所長と補佐と、医薬務課なら知らないでもない薬物です。ま、そんなのが見つかったって訳です。それと、薬物ではありませんが、微量ながら死体とシリンジから塩酸とガソリンも見つかっています。ガソリンなんて異世界から持ってくるしか調達方法はないのに、なぜ検出されたのかは不明です」


検査係員によれば、所長と補佐と医薬務課なら知っている薬物らしいが、自分にとってはサッパリだ。それはネイザーも課長も同じなようで、


「所長、デソモルヒネという薬物はそこまで強毒なんですか?」


と課長が堪えられず聞いた。デソモルヒネのことがわからないと、この先の話し合いの内容も十分理解できない可能性がある。それは一課長として看過できないのだろう。

課長の質問に応じ、所長が説明してくれた。


「ああ、ルーセット氏の症状とデソモルヒネという言葉で合点して興奮してしまった。この場にいる全員がわかるように説明する。


まずは皆が保健所職員として周知の事柄からだ。コデインは風邪薬として王都でも広く流通し、その効果を発揮している。作用は鎮咳が主で、多少の鎮痛、止瀉、幸福感をもたらす。そしてコデインは麻薬の一つでもあり、薬物依存を引き起こすこともある。安価で手に入るという事も相まって、今後王都で問題になりそうな薬物の筆頭だ。

そしてこれは私、補佐それに医薬務課しか知らないことだが、異世界ではコデインから派生する薬物が問題となっていると、転生者からの情報提供があった。実は、コデインを元に簡便な化学反応を繰り返し、精製することで、デソモルヒネを主成分とするある薬物が完成するらしい。それは医院で用いるモルヒネとさほど変わらない効果を持つ一方で、依存性が高く副作用も重篤だ。さっきテイク技師が報告した、ルーセット氏の症状がそれに類似している。おまけにその薬物は精製過程で粗悪なガソリン、塩酸、ヨードを用いるせいで腐食性も高い。症状、依存性、入手の簡便さ、どれを取っても、最悪の薬物と言える。


転生者が元々いた世界では、その薬物を“クロコダイル”と呼んでいたらしい」


所長な簡単な説明の後は、しばらくの間沈黙が漂っていた。今の話が正しければ、ルーセット氏は“クロコダイル”そのものか、もしくはそれに類似した薬物で亡くなったと言える。だが、いったい誰がいつの間にそんな薬物を作ったのか。答えは1つしかない。

あの水棲エルフだ。シリンジの中には始めからスキサメトニウムではなく、コデインが入っていたのだと仮定すると、ネイザーが中年の従業員にシリンジを使った際に不動化作用が現れなかった点を説明できる。コデインの副作用である嘔吐が発現したのだ。そしてコデインが付着したシリンジが残った。そして――そして―


「つまり、自分が水棲エルフに増幅を頼まなければ…?」


そもそも“クロコダイル”は生成されなかった。ルーセット氏が死ぬこともなかった。


「シリンジにはガソリンと塩酸が入っていたんでしょう?それは一体どこから来たの?」


ネイザーが検査係員に詰問しているのが聞こえる。


「ああ、それは…多分…シリンジに残った溶液の超高濃度のマナが原因ですね。多分ですけど。テイクさんが水棲エルフにシリンジの中身の増幅をお願いした時に、あるいはそれより以前に、水棲エルフはその中身がコデインだと気づいたのかも。そんで、ルーセット氏への復讐心に駆られて、どこかから仕入れた“クロコダイル”の情報を元に、魔法で“クロコダイル”を生成したんじゃないですか?既存の物質をただ増幅させただけにしちゃあ、マナ濃度がべらぼうに高かったですからね」


「魔法で生成した“クロコダイル”…。ネイザー技師がルーセット氏に投与してから致死するまでの時間が異常に短いのが気になっていましたが、水棲エルフが魔法で生成した魔薬だから、ということなら、警護隊へ矛盾なく報告できます」


警護隊への報告は補佐が段取りをつける様だ。その報告書には無論、自分の名前も載るのだろう。麻薬生成の立役者として自分の名が載るだなんて、なんと不名誉なことだ。そしてルーセット氏への償いはどのようにすればいいのだろう。


「でも今の話を鵜呑みにすると、シリンジには元々コデインが充填されていたってことになりますね。私達が申請したのは確実にスキサメトニウムのシリンジだったのに、医薬務課がシリンジの準備を誤ったということになりませんか?」


ネイザーが強情に議論を止めないようにしてくれているが、水棲エルフに依頼をした自分の責任にならないように努めてくれているのは明らかだ。だが所長室の風向きは医薬務課に吹いている。筆頭課の意見の方が予算も人員も意見も優先される。これが保健所における筆頭課と底辺課の現実と言うものだ。


「こちらでも申請書とか充填の状況、シリンジの個数とかの確認はしますけど、充填を担当した非正規職員のミスか、ネイザーさんが間違ったシリンジを持っていったかのどちらかじゃないですか?」


薬務係長がネイザーを挑発するように答えた。こちらを怒らせるのが目的なようだが、これ以上言い合っても話し合いが長引くだけになる。下手に長引くよりは自分の行動が間違いだったと早々に認めた方が良いだろう。そう思い、自分が口を開いたところで、


「そうだ!じゃああの水棲エルフはどこに行ったの?昨日は警護隊が医院に連れて行って治療を受けさせるって話だったでしょ?」


と、テーマを変えた。確かに、あの水棲エルフはどうなったのだろう。治療を受けた後は監禁の被害者として警護隊の聴取を受けているのだろうか。彼女がこの場にいれば内容も少しは変わっていたかもしれない。しかし総務課長が残念がる素振りすらなく、首を振って答えた。


「彼女は失踪しました。医院から連絡があって、処置が終わって警護隊に移送しようとしたところで姿をくらましたとのことです。警護隊には言えない後ろめたいことがあると考えるには十分な行動と言えますね」


水棲エルフの失踪が意味することは、シリンジの件について自分の立場を安全にし得るものがいない、ということだ。もはや自分の立場を良くする方法は何一つない。あのエルフに増幅なんか頼まなければよかった、と後悔するが後の祭りだろう。


「証言する可能性のあった水棲エルフが失踪となると…所長、どうされますか?」


理事が所長に最終的な結論を仰いだ。もう議論すべきことは無いということか。少々強引に議論が終わってしまいそうだが、こちらもできる議論はもうない。自身が受けるであろう減給処分か、それ以上の処分を予想しながら所長の言葉を待った。


「…本件において、保健所の落ち度として考えられるのはシリンジの中身がスキサメトニウムではなかったかもしれないこと、そして、テイク技師の軽はずみな水棲エルフへの依頼とそれに乗ったネイザー主任技師だ。前者については今後の申請書等の調査でその真偽を掘り進めることが出来るが、後者については依頼した事実は変わらない。したがって、ネイザー、テイク両名の減給処分が妥当なところだ。

だが、今回の調査でネイザー主任技師とテイク技師は、娼館の水質違反と監禁・暴行という生命への危害を両方とも解決してくれた。死人を1人出したとはいえ、職務を完全に全うできなかった訳ではない。したがって、2人の処分を減給処分から一段階下げ、厳重注意とする。衛生課長、2人に対し注意を徹底すること。以上」


「…所長がそう仰るなら、経緯報告が終わり、2人の処分も決まりましたし、これでこの場は終了です。皆さんお疲れさまでした」


理事の言葉を合図に所長室にいた面々が離席、退室していった。自分とネイザーは狐につままれたような面持ちで座っていた。立ち上がった課長が自分達の肩に手を着き、


「減給食らわなくてよかったな2人とも。所長がここまで職員のミスに甘々なのは久しぶりだぞ」


とねぎらってくれた。だが自分達の処分は軽すぎる。


「私達の処分、軽すぎませんか?民間人に薬物を簡単に渡しちゃって、挙句の果てに異世界の薬物で死人を出してしまったのに」


「今回の所長の恩赦は、2人が警護隊に恩を売ったのが大きかったんだろう。「ダーク・ミクスチャー」は警護隊の中でも問題施設として悪い意味で有名だったらしい。対応に困っていたところに保健所の連中が乗り込んで、そこの責任者を始末してくれたばかりか…おっとすまない、責任者がいなくなってくれて、しかも監禁の純然たる証拠まで持ってきてくれたんだからな。警護隊はこれで大手を振って「ダーク・ミクスチャー」を潰しにかかることができるって訳だ」


「その監禁の生き証人である水棲エルフがいなくなったんじゃあ、恩をちゃんと売れたのか疑問ですが」


皮肉を言う元気は取り戻すことが出来た。しかし同時に、行政の仕事をやっていて嫌なことを改めて実感する。

今回の件で言えば、自分は明らかに、ルーセット氏の死に加担した咎で罰せられるべきだったのだ。それを警護隊への恩だとかいうもので捻じ曲げられた。そりゃあ、処分は軽い方がいいに決まっている。だが、王都民の健康、生命に携わる我々が行政機関同士の馴れ合いや恩やらで対応を変えてもよいものだろうか?


所長や課長、そしてネイザーはこの疑問に対する回答を持ち合わせているのだろうか。


これにて娼館編、終了です。


プロットを作らずになんとなく書き始めて、途中で方向性を変えて、文体もまとめずにとりあえず完結だけでもさせないと、と思いながら投稿を続けていました。


設定を詰め込んだ割に大して活かしきれていなかったり、主軸がブレブレだったにも関わらず根気よく読み進めて下さった方、どうもありがとうございます。


文中のクリプトスポリジウムだとか、コデイン、クロコダイルの件についてご意見、質問等あれば遠慮なく投げて下さい。ガチ勢とまではいきませんが一定の回答はしたいと思います。


個人的には寄生虫と薬物対策とウイルスが三度の飯より好きなので、今後もそれ関係で話を書いていく所存ではあります。でもしばらくは性病の話を別小説で書き進めます。多分。


「異世界保健所」の次章は、いつになるかわかりませんが、異世界風の医療ミスの話でも書けたらいいな、ってところです。プロットは全くないけどね。

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