1章 娼館「ダーク・ミクスチャー」12
水棲エルフは今度は非難がましい目でこちらを見つめ返している。
”こんな事態に酒だなんて、公務員は頭が湧いているんじゃないの?”
という心の声がなぜか自分には聞こえる。だが、自分の真意は酒ではなく、不動化薬を作ってもらうことにある。
実は、さきほどのルーセット氏の言葉から、自分が以前呼んだ資料の内容を思い出した。水棲エルフはその性質上、様々な水溶液を生成できるらしいのだ。それこそアルコールから媚薬から何から何まで。そうして彼らの生活環境である水の質をコントロールして生きてきたのである。時には毒液を生成して他の種族に被害を与えることもあったほど、彼らの能力は高い。
もしネイザーが空の不動化シリンジを持っていて、シリンジの中に不動化薬の一滴でも残っていたら、この状況を打破できるのではないか?
この考えのもと、改めて目の前の彼女に問うてみる。
「いえ、酒ではないんです。ひょっとしたら自分の先輩が不動…というか、まあ、麻酔薬を持ってるかもしれないんです。もし麻酔薬の一滴でも残っていたら、あなたならそれを増幅・生成できるんじゃないかと思って」
ここまで説明すると、合点がいったのか彼女の目に希望の色が僅かに灯った。
「あぁ、そういうこと…。そうね、一滴でも残っていれば時間をかけずに100mlくらいまで高濃度の麻酔薬を増幅できるわ」
心の中に生まれた希望が結実したような心地だった。ネイザーがシリンジをまだ持っていれば―――そう考えた矢先だった。
「シリンジはあるけど、それは無理よ」
半ば諦めの境地に達したかのような声色でネイザーが言った。自分と水棲エルフの会話は聞こえていたようだ。ネイザーは顔をこちらに向けずに、部屋の扉と自分達のちょうど中間地点まで近づいてきたルーセット氏を注視している。表情は窺い知れないが、口惜しい顔にでも歪んでいるのだろう。さらに小さな声で不動化シリンジの正体を明かした。
「実際に打ってみてわかったけど、不動化薬じゃなかったわ、あのシリンジの中身。テイクの予想のとおり、従業員にぶち込んでやったけど、不動化どころじゃなかったもの」
「え、でも…現に本物の配管図を手に入れたってことは、あの従業員は撃退できた訳ですよね?」
シリンジの中身がそもそも不動化薬でなかったとしたら、希望の実も絵に描いた餅になってしまう。そんなことを信じたくないがためにネイザーに疑問を投げかけるしかなかった。まるでストレスを回避するために駄々をこねる子供のようだ、と自分で思った。
「不動化の代わりにゲロを吐き始めたから、その隙に縛り上げたのよ。縄と猿轡はそこらの部屋に常備されてたから助かったってだけ」
催吐作用を持つ不動化薬は多くあるし、従業員がゲロを吐いたのは不思議ではない。問題は不動化作用が発現しなかった点だ。有効成分は定期的に作用評価を受けて少なくとも半年に1度は見直しを行っている。半年の間に何度も不動化シリンジを打ち込まれでもしない限り、従業員に既に耐性ができていたとは考えにくい。とすればシリンジに不動化薬ではない薬物が充填されていた、と考えられる。不動化薬の調整やシリンジへの充填は医薬務課が行っているが、そこまでずさんな管理をするだろうか?あちらの課の方が仕事は正確だと思うが…。
だが、医薬務課への非難をしている暇はない。ルーセット氏はさらに距離を縮めてきている。こちらの意図には気付いていないどころか、水棲エルフの特性も知らないのだろうか。ただ、チャームの効果範囲に接近している為か、自分の思考が少し鈍くなってきている実感がある。
なかばヤケになりながら、なかば思考がまとまらないまま、自分はネイザーに言っていた。
「まあでも、催吐作用があるだけの薬物なのは確か、でしょう?こっちに投げて下さい。彼女に増幅を…お願いしますから」
「見知らぬ一般人に薬物を渡すのはアレだけど…仕方ないか」
キラリと光る物体が宙を舞い、自分の眼前に迫ってきた。タイミング良く片手でキャッチし、掌中のシリンジを確かめると、その内面に僅かながら水滴が付着しているのを視認できた。この薬物は不動化薬ではなく一体何なのか、考える暇もなく見知らぬ水棲エルフに依頼した。
「この薬物を…増幅してください。あと…増幅し、した後のシリンジは…ネイザーに渡して」
「まかせて。あいつにはきっちり苦しんでもらうわ」
水棲エルフにシリンジを手渡した直後、視界が90度回転した。と同時に、横っ面に冷たい部屋の床を感じる。しかし起き上がる気力は無く、ただだらしなく四肢を投げ出しているだけだった。脳はただ5感の情報を処理しているだけで、何も思考ができない。それどころか、別の何かの思考が脳を犯しているようだった。
―――この娼館を?―――
―――わかってるけど、臨床試験を実施するならその下準備が―――
―――ここの利用者は文化の程度が低い。ミームへのインパクトを評価する意義はほぼないけど、それでいいなら―――
脳内を誰かの思考が駆け巡っている。だが完全にチャームの効果範囲に入った自分の脳は、ただそれらを傍観する事しかできず、意味のある思考であると処理することさえしなかった。
「もうそっちの保健所さんは動けないわ。あとはチャームの効かない保健所さんだけよ。もっとも、チャームが効かなくても問題はないけど」
「あらそう、ずいぶんな自信ね。人数だけならこちらが優位なのに」
「そのことならじき解消されるわ。保健所さんが縛った私の部下がこちらに向かっているようだし。あとは部下が到着するまでの間、あなた達がこの部屋から出られないようにするだ―――」
「ネイザーさん、できました!」
「―――ッ!」
自分の脳が凌辱から解放された。意味のある光景として視界に見えるのは、シリンジを首筋に打ち込んでいるネイザーと、驚愕の表情が張り付いたルーセット氏と、それを呆然と見守る水棲エルフだった。
シリンジが首筋に打ち込まれたことでチャームが解除され、思考が自分のものとして復活したのだろうが、問題はこのあとである。
シリンジの中には不動化作用は無いものの、催吐作用だけは達者な薬物が充填されているはずだ。ルーセット氏が嘔吐で取り乱した際に縛り上げないと、状況は好転しない。そして、気を失わせれば自分がチャームにかかる可能性も低くなるかもしれない。
そう考えて床からさっと起き上がり、他の部屋にあるはずの縄を取りに行こうと扉に向かった。
しかし、その行動はルーセット氏の絶叫により中止せざるを得なかった。
部屋というよりも、この館全体に響かんばかりの絶叫だった。天井を仰ぎ、目を剥き口角が裂けそうなほど口を開いたルーセット氏はもはや美しさからかけ離れた存在だった。ただの催吐薬がなぜここまでルーセット氏を苦しめているのか、視線を注ぎつつ、自分は後ずさった。ルーセット氏から離れたネイザーも視線を外さない。
十数秒の絶叫を終えたルーセット氏が再びこちらに顔を向けた時、確かな変化があった。
皮膚の変色・不自然な線条、脱毛、頭部の陥凹が見て取れた。
こちらを睨む目からは理性の光が消失している。自分達によろよろと近付くが、足取りは危うく、腰から上の姿勢が安定しない。まるで酩酊している様子で、口からは涎が滴っている。嘔吐作用が現れる素振りはないが、今ならたやすく縛り上げることが出来そうだ。
ネイザーもそう判断したのか、
「テイクはそいつを見張っといて!」
と自分に命令し、部屋を飛び出した。
ノロノロとこちらに近付くルーセット氏をかわしつつ、ネイザーをしばしの間待っていたが、ルーセット氏は沈黙を一貫していた。というよりも、喋りたくても喋れないように自分には見えた。なにせ、口をパックリと開いたままなのだ。涎が滴り続けているのを見ると、嚥下中枢か口腔周りの筋肉がおかしくなっているとしか思えない。そしてしばしの間でも、ルーセット氏の変化は続いた。
今や露出している肌のほぼ全域が暗緑色に変わり、そのほぼ半分では皮膚が破けて筋肉と骨が露出している。筋肉も骨も溶解している部分があり、腕から髪の毛の束のように垂れ下がっている。一番の変化は頭部であった。おおよそ先ほどまでの相貌は失われ、毛髪が全て抜けた結果、頭皮が露出している。その頭皮もとこどころ陥凹が深くなっているのみならず、暗緑色に変わり線条が縦横無尽に走っている。まるで爬虫類の鱗のように。しかもそれは、隻眼の爬虫類だ。なにせ、眼球を眼窩に収めておくための筋肉までも溶解・断裂してしまったのか、ルーセット氏の片方の眼窩には、そこにあるべき眼球がもうない。眼窩の主は、腰から上の姿勢の揺動に耐えられず床に落下し、それをルーセット氏が踏みつぶしてしまっていた。
自分と水棲エルフはルーセット氏の変化に戦きながら、ネイザーを待つしかなかった。
そして、
「テイク!一緒にそいつを縛って!」
とネイザーが部屋に転がり込んだ時、ルーセット氏の変化は既に極致に達していた。
「何、それ…。ルーセットさん…?」
「はい…先輩が来るまでの間に皮膚も頭も溶けだして…今さっき動かなくなりました」
ルーセット氏は物言わぬ屍となっていた。破け千切れた皮膚や筋肉はルーセット氏の跛行に沿って散乱し、くずおれた体から体液が流れ出ている。頭部は眼窩から上の皮膚も骨も、脳さえも溶けだし、亡くなっているのは一目瞭然だった。
「…この館から出て、警護隊に連絡しましょう。あの従業員が戻ってこないうちに」
「そう…ですね」
自分は水棲エルフに肩を貸し、ネイザーの元へ歩いて行った。
しかし、ルーセット氏を屍に転換せしめた薬物は、彼女が作ったのか…?そう考えると、彼女が肩を貸すに足る相手なのかと、心の中で問わずにはいられなかった。
館を出た後のことはあまり思い出せない。警護隊と保健所に連絡して、従業員が逮捕されて、聴取を受けて…。だが、ほとんどのことをネイザーがやってくれた。
「テイクは娼館責任者のチャームを受け、洗脳・混乱状態に陥っている可能性がある」
との説明までしてくれたおかげで、いくらか仕事の後処理も減った。
明日にも聴取が待ち受けていると思うと少々気怠いが、ひとまず娼館の調査が終わったという安堵感が、帰宅した自分を深い眠りに誘ったのだった。




