1章 娼館「ダーク・ミクスチャー」11
部屋の奥の薄闇に目が慣れるまでの間、自分が感じ取ったのはその臭気だった。
部屋のカビ臭さ以外にも、滞留した水が腐敗したときに発する、あの嫌悪感をもたらすような臭いが漂っていた。
いや、それだけではない。おおよそこの娼館のような風俗施設では絶対に感じたくない臭気も、この浄水室の大気には含まれていた。”栗の花”の臭い。いや、これは確実に”精液”の臭いだ。なぜ精液なんて、水質管理上不衛生極まりない代物の臭いが浄水室に充満しているのだろう。そして精液以上に、娼館どころか一般施設でさえも感じ取られてはならない臭気を自分の鼻は感じ取っていた。
生物がいのちを営む上では避けられない、だが誰もが鼻をつまんでシャットアウトしようとするものの臭い。汚物の臭いがこの部屋の臭気の大半を占めていた。
業務上、不衛生な施設には何度も立ち入ったことがある。そして、様々な種類の悪臭に耐えながら業務をこなしていた。ある程度は悪臭への耐性を獲得してきたと自負するが、この部屋の悪臭は別格である。もし自分が一年目の新人だったら、腹から立ち上る嘔気に屈服していただろう。この部屋の臭気に吐瀉物の臭いも混じったら、と考えるとそれだけで口内が酸っぱくなる。
水、精液、糞尿が元来の臭いを保ちながら、かつ各々の腐敗臭を方々にまき散らしている。日頃摂取するうえで腐敗してはならないはずの、水の腐敗臭というのは、脳に混乱をもたらす。水は腐敗していない、つまり無臭のものを摂取する、という大前提が脳の中に備わっているため、その大前提をひっくり返す刺激に脳が対処できないのだ。そして、対処できない刺激は脳の中でどの部位が処理をするか、責任の押し付け合いが生じる。その結果、延髄の嘔吐中枢にスイッチが入り、嘔吐が起きる。
精液の臭気というものは、男からすれば日常的に受ける刺激ではある。しかし、娼館という、他の雄も使用する施設で嗅いで良い気分になるものでは決してない。これは持論だが、世の男には、本能的に他の雄の臭いを払拭あるいは回避しようとするのではないだろうか。きっとその本能がこの嫌悪感を惹起するのではないか。まあでも、この持論には精液臭に対する女性の応答について裏付けが必要だろう。この空間で女性は2人もいるものの、雰囲気的にそんなことを聞く気にもなれないが。
当の女性たるネイザーは、目一杯に散大させた瞳孔で
「何なのよこれ…」
と呟いた。警戒でも非難でもなく、恐怖が声音に織り込まれていた。
自分の目はネイザーに続いて薄闇に慣れていき、この呟きの意味を思い知ったのだった。
浄水室とは言っても、その用途に供する設備はない。ボイラー室よりもはるかに広いのは、巨大な浴槽があるためだ。恐らく各部屋の排水管がまとまったのであろう複数本の太い管から、汚水が流れ落ちている。その先には浄水室の半分以上の面積を占める浴槽があり、汚水を浴槽内に受け止めている。
浄水設備のない浄水室とはどういうことだろう。口に出そうとしたところで先にネイザーが吠えた。
「これのどこが浄水室なのよ。まるで拷問部屋じゃない!」
自分はネイザーの言う意味がわからず、ネイザーの視線の先を追った。
そこは浴槽の脇の奥まった空間。浴槽の壁と部屋の壁との間の僅かなスペースに誰かが横たわっていた。
一目でエルフとわかる長い耳に美しい肢体と相貌。だがその首は壁から伸びる鎖につながれ、首輪の周囲の皮膚が浅黒く変色している。一糸まとわぬ皮膚には痛々しい生傷が浮かび、乾いてこびりついた血が以前の傷を想起させる。両手首の皮膚がいびつに盛り上がっているがそれでも極端に細く、手首周辺を一周する細かい傷があることから、もともとは腕輪をはめていたことがうかがわれる。
このエルフの惨状を薄闇の中、ここまで目に焼き付けることができたのは自然と自分が彼女の元に駆け寄ったからだった。そしてネイザーと同様に吠えずにはいられなかった。
「ルーセットさん!この人に何をしたんですか!」
だがルーセット氏はニヤニヤと笑むばかりで答えない。
「先輩、かなり弱ってますよ。それにたくさん傷もありますし、早く医院に連れていきましょう」
そうね、とネイザーはうなずくと、振り返ってルーセット氏に首輪と鎖のことを問いただそうとした。そこでかすかな声が足元から聞こえた。
「助けて…」
ハッと気が付き目線を下に向けると、彼女は目をわずかに開き、こちらに視線を向けていた。
「大丈夫ですか?今医院に連れていきますから」
「あらぁ、それはダメよ。うちの従業員なんだから、今日も働いてもらわなきゃ困るわ」
やっと口を開いたルーセット氏の言葉には呆れるしかなかった。彼女の現状を見れば誰だって分かる。浄水室に監禁され、虐待され、客達の慰み物にされていたのだ。これでは従業員ではなく、奴隷だ。
「何言ってるんですか、こんなに傷があるんですよ!今すぐ医院に連れていくべきです!」
「そうは言っても、今”それ”がいなくなったらうちの水がどんどん悪くなっちゃうけど、それでも保健所さんはいいのかしら?」
ルーセット氏の言っていることが理解できなかった。彼女とここの水に何の関係があるんだ?いや、関係があったとしても今は手当が優先だ。それに生物への虐待は自分たちではなく警護隊案件だ。警護隊への通報とルーセット氏の確保もしなければならない。
「彼女に水を浄化させていたのね。浄水室に監禁までして」
ネイザーが合点がいったとでもいうようにルーセット氏に言い放った。
「そう。”それ”はね、エルフの中でも珍しい、水棲エルフの生き残りなのよ。水質操作なんてお手の物って訳」
水棲エルフなんて、文献を見たことはあったが会ったことはない。だがルーセット氏の言うことが真実だと仮定すると、ある推察ができる。この娼館の基準値逸脱だ。
もしこの娼館の浄水を彼女が担って、クリプトスポリジウムの除去やマナ濃度の安定化に貢献していたとする。しかし何かの拍子に彼女自身がクリプトスポリジウムに感染したら、浄水効率と精度は落ちるだろう。それどころか、彼女自身が汚染源になって娼館中に供給する水にクリプトスポリジウムのオーシストが混入するかもしれない。
「きっと浄水設備を作る金がないから彼女に浄水作業をやらせてたのね」
「もう保健所さんも察している様子ね。”それ”は色々と私に貸しがあったから、この館で働かせたの。浄水以外にもお客様の相手とか、お酒の合成ね。なのに、ある時期から”それ”の体調が悪くなった。汚物もほぼ垂れ流し状態になったから、この部屋専属にしちゃったの。それでも物好きなお客様が来たときは相手をさせていたんだけど、まさかあの体調不良がクリプトスポリジウムの症状だなんて思わなかったわぁ」
饒舌に説明するルーセット氏をもう自分は正視できなかった。他人を奴隷として扱うような人物がいるしこの娼館が恐ろしい存在として感じられ、同時に自分の体の心配をせざるを得なかった。自分もクリプトスポリジウムに感染している可能性がある。そんな自分の心配をよそにネイザーは語気を強めて言う。
「よくもペラペラと犯罪行為をひけらかせるわね。彼女のことは警護隊案件として通報させてもらうし、彼女の糞便を検査してクリプトスポリジウムが見つかれば、今のルーセットさんの供述とあわせて基準値違反の件も因果関係成立よ。自分がしょっぴかれる自覚ある?」
確かに、このまま彼女を娼館の外に連れ出し、手当と検便ができれば今回の案件は解決できる。加えて警護隊に恩も売れるし一石二鳥だ。だが”連れ出せたら”の話だ。ここまで娼館の裏側を知ってしまった自分達をルーセット氏はそうやすやすと帰してくれるだろうか。恐らくだが、こちらには不動化シリンジという自衛手段が無い。ひょっとすると、この娼館から無事に帰るのが今日一番の仕事かもしれない。
「自覚なんてないわ。だって保健所さん達はこの娼館から出られないもの」
ルーセット氏の声は冷たく、こちらに悪意があることを強く感じさせた。その姿は浄水室の扉の近くに見え、後ろ手に扉を閉める音が室内に響く。
「扉なんて閉めてなんのつもり?私たちも監禁するなんていい度胸じゃない」
強がってはいるが、ネイザーの声は上ずっている。ルーセット氏はじりじりとこちらに歩み寄り、宣告した。
「そうねぇ…。保健所さん達を監禁して調教して売り物にするつもりよ。でもその前に、保健所さん達と私、どちらがご主人様か教えてあげる。私の”チャーム”でね」
”チャーム”というと、人を魅了する魔法だったか。いかにもダークエルフが使いそうだ。そしてそれを使われたら自分は終わりかもしれない。思えばこの娼館に来てから、ボイラー室や階段で自分の意識が遠のく経験があったが、実はチャームを軽く受けていたのだと思う。ルーセット氏は軽く自分達にチャームをかけ、ネイザーと自分のどちらの耐性が低いのか試していたのではないか。
ルーセット氏とこちらの距離はどんどん縮まっている。チャームの特性上、かなり相手に近寄らないと発動できないとは思うが、既に自分はチャームにかかった恐れがある。まだ距離は離れているといって悠長にしていられない。チャームの発動が可能な距離に縮まるまでにこの状況を何とかしなくては。というかネイザーは何やってるんだ。と見やったが、ルーセット氏の雰囲気に気圧されているのか、微動だにしない。平和に調査が終わればネイザーと酒でも一杯やりたかったが、それも難しそうだ。
ん?酒といえば―――
ここまで考えているうちに自分の表情に何かを感じたのか、名前も知らない水棲エルフが心配そうにこちらを見上げていることに気が付いた。
「あの…大丈夫ですか?」
「ええ。でも気を付けて…あいつはあなたを標的にする…」
「やっぱりそうですか」
「力になれたらいいんだけど…ごめんなさい」
「そんなことないですよ。ところで、お酒を作る余力は残っていますか?」




