1章 娼館「ダーク・ミクスチャー」9
「ここが103号室…まあ、普通の部屋ですね」
扉を開けてすぐ正面には飾り気のないコンソールテーブルとソファがある。テーブルには造花かもしれないが美しい花が生けられており、ベッドの白と壁面の茶褐色の中で一際浮き立つ藍色をしている。部屋に進み入りその花に近付いてみると芳醇な甘い芳香が感じられ、今もってこの部屋に娼館の一室”らしさ”を彩っている。5枚の花弁で花は構成されており、全体として五芒星の形である。花弁は辺縁から濃い藍色に始まり、中央のめしべに向かって藍色が薄くなっていくが、花脈は色が薄まらずに花弁の中で色を維持し、めしべの起始部に向かって伸びてゆく。
「その花の名前がわかったら女の子にモテるわよ、保健所さん」
自分が花に見とれていたせいか、ルーセット氏が声をかけてきた。ハッとして部屋の中を見回すと、既にネイザーは部屋の確認をしているようで、マットレスをひっくり返したり浴槽の水を採っていた。
「ちなみにルーセットさん、前回の採水から今日までの間で配管を繋げ直したり、浴槽の清掃方法を変えたりした?」
採取した水を手元に収めつつ、ネイザーが聞いた。もし配管の位置関係が変わっていたりすると、基準値逸脱のあった時の浴槽水と今採取した水の間である程度の比較ができる。とすると、今採取した水を検査した際の検査結果に色々と考察が出来るようになる訳だが、特に理由なく配管なり清掃方法を変えることもしないだろう。
「いいえ、変えてないわ。多分、その水を検査しても前回と同じ結果になるんじゃないかしら?」
「…そうね。でも何か参考になるかもしれないし、とりあえずこの水は頂いておくわね」
ネイザーが少し間を置いて答えたが、ルーセット氏の言う通り前回と同じ結果になっても、検査費用の分だけ税金の無駄遣い、ということにしかならなそうだ。しかし昨今のご時世、無駄な検査なんて課長は許してくれないだろうし、宝ならぬ水の持ち腐れだろう。
さて、自分も部屋を見て基準値逸脱の原因を見つけなければ、と思いトイレに向かおうとした時だった。ネイザーがさっさと浴槽から出てきて、
「そっちはいいわよテイク。ここの調査は終わり。採水もできたしね」
唐突に103号室の調査終了を言い渡してしまった。しかし、原因らしきものもまだ見つかっていない状態である。ネイザーの意図がわからずに、思わず聞き返してしまった。
「え?この部屋入ってから大して調査できてないですよ?もしかして先輩の方で何か見つけたんですか?」
恐らく多少の非難も混じったようにネイザーに聞こえたとは思うが、それを意に介さずにネイザーは断言した。それもかなりの自信を持って。
「何も見つからないから、ここの調査は終わりってこと。時間をかけるだけ無駄よ」
ますますネイザーの言うことの訳が分からない。キスの件や階段の件で自分の頭が疲れ切っているのは自覚しているが、ネイザーもやはり自分と同様、疲れてきていると見える。
「あら、この部屋で特に異常が見つからないということは、原因不明で終わりそうね。私もわざわざ保健所さんを案内した甲斐があったわぁ。もしきっちり調査もしてもらえずにこの館に不備があった、なんてことにされたらお客様が減っちゃうもの」
ルーセット氏が今にも高笑いしそうなほどの勝ち誇った声でこちらへの勝利宣言をした。いやいや、ボイラー室の汚れとかは歴とした不備ですよと再度注意したかったが、ルーセット氏の宣言に被せる形でネイザーが付け加えて言った。
「この娼館に原因が無いなんてまだ言ってないわよ、ルーセットさん。だってまだ調査するところが残っているもの。そうでしょう?」
そう言うネイザーの顔は、ルーセット氏の高慢になりつつある顔色を凍らせる程に灰汁どい笑みを湛えていた。自分はてっきり、一方的に事業者にマウントを取られた格好になってしまったので悔しさを滲ませた表情をしていると思ったが、そんな表情からはむしろマイナス方向に振り切った、清々しいほどの笑みだ。
「なんのことかわからないわね。この館の調査は103号室で終わり、と言ったのはあなたじゃなかったかしら。それを今更、どこを調べるつもり?」
ルーセット氏は今まで聞いたことの無い冷たい口調でになったが、顔色は能面のように変化がない。ネイザーは明らかに自分の知らないことを握っている様子で話を続ける。
「それはご自身がよく知っているでしょ。わざわざ私に偽の配管図を渡したぐらいだもの」
…偽の?さっきネイザーが持ってきた配管図が?いや、もしそうだとして、なぜネイザーはあれが偽物だとわかったのか、”まだ調査するところ”とはどこなのか、頭の中に数多くの疑問が湧き起こる。
ルーセット氏は自分と違って何かに気が付いたようで、
「…感付いたのは、さっきトイレに行った時ね」
もはや怒気を隠すこともしないが、それでも冷徹な口調を保ってそう言い放った。
「トイレ?先輩、何のことです?」
さすがに場の会話に入れないことが恥ずかしく感じられ、ネイザーに聞いた。無論、トイレのことの他にも聞きたいことは山積していて、一から百まで全部聞きたかったのだがルーセット氏とネイザーの間に漂う危険な雰囲気がそうさせてくれなかった。
ネイザーにしろルーセット氏にしろ、爆裂寸前の火薬の如き雰囲気を纏っているのだ。もっとも、ネイザーは爆裂してもネコの性分が発現するだけだろうがルーセット氏が爆裂した際にどのようになるのか、想像すらできない。
「アンタのキス未遂後に私、トイレに行ったでしょう?で、用を足した後にトイレの前で配管図を持った従業員に会ってね。ここに入る時に私達と対応したアイツよ」
あぁ、そいえばそんな奴いたなぁ。
「その場でソイツから配管図を受け取って確認してみたの。トイレを使った後だったから私はその配管図が偽物だってこと、一目で気付いたわ。偽物の方はきっと、行政相手用にあらかじめ用意されていたんでしょうね」
そこでネイザーは懐からここの配管図―――ネイザーによると偽物らしいが―――を取り出し自分に見せつけた後、ルーセット氏に突き付けた。正直、その配管図を見ても自分はどこが偽物なのか全くわからなかった。
「ルーセットさん、これはあなたが用意したこの娼館の配管図よね。そうと認めてくれる?別に否定してもいいわよ。まあ、今まであなたはこの配管図を元に私達と同行してきた以上、状況的には既に認めているも同然ではあるけれど」
ネイザーは流暢に畳みかけて、偽物の配管図をルーセット氏が用意したという事実を認めさせるよう誘導している。それに呼応して意図的か無意識か、ルーセット氏はムキになったように答えた。
「ええ、それが何か?保健所様一同がここの配管図を見せるよう仰ったんだから、用意してあげるのが責任者の役目でしょう?それを、わざわざ用意してあげた配管図を偽物呼ばわりだなんて、一体何様のつもりかしらね」
もし無意識にムキになってきたのであればネイザーに軍配が上がりそうだ。上気した者ほどボロが出やすいのは自分でも経験でわかる。そのボロの正体はわからないが。
ネイザーは「言質が取れた」と小声で呟き、この場を制する一言を発した。
「ふ~ん、そう。じゃあ、そのうえで聞くけど、どうしてこの配管図に”排水管”の記載が無いの?」
しばらく、静寂が続いた。ルーセット氏は顔色こそ変化はないが、次の言葉を紡ぐためか唇を震わせている。が、震えているだけで何の発声もない。舌戦ではあったが、戦意を喪失している…ように見える。
自分はというと、ネイザーの言葉に弾かれたように、ルーセット氏に突き付けられた配管図の正面に回り込んでそれをまじまじと見つめた。
「確かに…排水管がない。給水管だけですね、これ」
「私もトイレを使っていたから気が付いたんだけどね。アンタにもトイレに気が向くように仕向けてあげたのに、気付いてなかったわね、その調子じゃあ」
そう言われてやっと気が付いた。ここの隣室で生じたあの違和感の正体は―――
「トイレの排水管すら記載されていない、ってことですね」
「最近は浴槽の水とかキッチンの水は施設内で循環、浄水して再利用する施設もあるから、そこの排水管が記載されていないのはまあいいとして、トイレの下水まで循環、浄水させるなんてこと、環境志向の強い金持ちか、変人の魔法使いしか普通はしないからね。こんな娼館、そこまで資金潤沢でもなければ魔法使いも雇えなさそうだし」
サラっと娼館の悪口を織り交ぜてネイザーは解説してくれた。だいぶ機嫌がいいようで、いつもは若干隠れがちな猫耳もピンと立っている。目もランランと光っており、まさにこれから獲物を狩りにでも行こうとする猫のようにでも見える。ネイザーに黙らされたルーセット氏が今度は唇をつぐみ、暗い瞳でこちらを睨んでいても、もはやそれすら快感に感じる様子である。
「それで、偽物であることに気付いた私はルーセットさんの部屋に侵入して本物の配管図を手に入れたって訳。テイクもこれを見れば次に私達が調査すべき場所がわかるはずよ」
今度は先程の偽物に似てはいるが、多少、管が複雑に織り込まれた配管図が目前に展開された。
偽物とは異なり、103号室の浴槽から排水管と思しき管が出ている。その管は部屋や壁の廊下を走行しつつ他の管とも合流し、とうとう配管図の中でも目立つ、太い管になっていった。
そしてその管の行く先は―――
「ボイラー室の正面、地下6号室よ。そこではこの館での全ての排水が浄化されているの」
自分達の次なる調査場所が決定した瞬間だった。




