1章 娼館「ダーク・ミクスチャー」8
特別仕様と聞いてしまうと、風俗通い(あくまで学術目的だが)の自分はどうにも気になる。
というか、こんな化け物ばかりの娼館で特別仕様もクソもないだろうとは思うのだが、ルーセット氏がわざわざ口にした以上、何かしらの意味はあるのだろう。自分が通常利用する時は、シースルーの浴室、洗面所、ベッドルーム、トイレが完備された、結構オーソドックスなプレイルームだった。特別仕様ということは、これら以外に特別な設備でも付いているのだろうか。それとも単純に特別な女の子が相手をしてくれるだけなのか。どちらにしろ、中に入って調査をしなければ。
「心配はいらないと思うけれど、この部屋の感想は一般のお客様には教えないでね?殺到されると困るから」
ルーセット氏がネイザーの前に進み出てドアノブに手をかけつつ言った。ボイラー室の時もそうだったが、部屋の扉を開ける時はいつもルーセット氏が開けてくれている。客を部屋に案内することに慣れているのかもしれないし、他に目的があるような気もする。そういえばこの館に入る時は従業員らしき中年男が扉を開けてくれた。あの中年男はどことなく不衛生な印象があったし、ここの従業員のこともルーセット氏に聞いた方がいいかもしれない。
木製特有の甲高く軋む音は一切せず、扉は滑らかに開き放たれた。ネイザーに続いて自分も入室し、最後にルーセット氏も続き、後ろ手に扉が閉められた。特別仕様、と聞いたために色々と想像してしまったが、どの想像図にも当たらない、変わった部屋であることは確かだ。102号室は一言で言えば「豪邸の娯楽室」といった印象で、「娼館の一室である」という知識がこの部屋を奇妙なものにしている。壁には本棚が立ち並び、その足元には点々と椅子が設置されている。部屋の中央部分には何の用途か不明だが大きな台があり、その上には種々の娯楽道具が雑に広がっている。無論、性的な意味を排除しての「娯楽道具」だ。これまた用途不明だが、奥まったところにはキッチンが見える。その一方、プレイルームにありがちなシースルーの浴室やらベッドやらは一目では見当たらない。
「確かに特別仕様な感じですが…お客さんと女の子がお遊びするような設備はないですね。浴槽とかベッドとか」
「浴槽はキッチンの正面の扉を開けたところにあるわ。他の部屋に比べてかなり小さめだけれどね」
「そのキッチンが何で娼館の一室なんかにあるのよ。そんな特殊なプレイもできるから”特別仕様”ってこと?」
ネイザーの言う”キッチンを用いた特殊なプレイ”とやらに一瞬興味は湧いたものの、それは口に出さないでおいた。確かにこの部屋に備えてあるキッチンは娼館に置いておくにはもったいない程に充実している。火口のスペースは3口と仮定してもまだ余りあるくらいだし、鍋はかなりの数が吊るしてある。包丁は錐のように細いものから、冗談なくらいに刃の巨大なものまでそろっている。まな板についても多くの種類が整理して立てかけられており、食材ごとに使い分けるためか、色分けまでされている。ちょっとした小料理屋くらいならこのキッチンでも可能なのではないだろうか。
「あらあら、保健所さんは想像力豊かね。残念だけれど、この部屋では性行為禁止よ。女の子達のためだけのスペースだから」
なるほど、と自分は思った。娼館でプレイルームとして使用せず、かつ事務室としての機能も無さそうだし、この部屋は―――
「わ、私はそんな変態チックなプレイなんて想像してないわよ!ベッドとかが無いのが気になっただけだから!それで、結局この部屋は何に使うところなの?」
「多分、ここで働いてる女性達の休憩室兼控室ですよ。そうですよね、ルーセットさん」
さすがに風俗に通ったことのない女性職員(多分だが)が推測するのは難しかろうと、猫耳まで真っ赤になったネイザーに教えてあげた。ここが激安の娼館であるとは言え、女の子達に常時客が付いている訳でもないだろうし、彼女たちが空き時間を過ごす場が必要なはず。先ほどルーセット氏が言った「女の子達のため」という言葉と照らし合わせれば、この部屋が休憩室兼控室であることは導くことができる。しかしこのあと、ルーセット氏はこの部屋の別の役割を説明してくれた。
「あと修行にも使うわね、愛人になるための」
「え?愛人?」
「そうよ、うちの女の子達の基本業務は普通の娼婦と変わらないけれど、空いた時間には愛人になるための修行をしてもらっているの。ここはそのための部屋ってわけ」
ルーセット氏は部屋の中央に鎮座する台に腰を乗せ、両手を広げてこの部屋の役割を語り出した。その美貌も相まって、まるで開幕直前に舞台上で前口上を述べる女優にさえ見えてくる。しかし、女優に見えるのはあくまでルーセット氏である。この館に女優とは言わないまでも、誰かの愛人になれるほどの相貌を持った女の子なんていなかったはずであるのはこの自分が証明できる。化け物しか在籍していないくせに、あたかも相貌良好な従業員がいるかのように述べたルーセット氏に腹が立ってしまい、思わず聞いてしまった。
「しかし、失礼ですが、ここの従業員の方達は愛人とするには多少個性的というか…」
「あら?ここの女の子達を見たことがあるのかしら?」
しまった。待ってましたと言わんばかりの被せっぷりで痛いところを突かれてしまった。わざわざ自分に突いてくるということは、自分がこの館のリピーターであることがバレているのか?いや、カマをかけただけか?いやいや、実は本当に相貌良好な子でもいたからこそ聞いてきたのか?等と考えを巡らせているところに、ネイザーが助け舟を出してくれた。
「こっちはここに立ち入り調査をする前に集められる情報は集めてるのよ。すくなくともここの従業員に関する情報で、ここが愛人養成施設も兼ねている、なんて話に説得力を持たせられるものは無かったわ。つまらない嘘はやめなさい」
と言うネイザーはさっきの発赤も収まり、冷静な調子に戻っている。ルーセット氏を視界に入れつつも、部屋の観察は怠っていないようである。
「嘘…ねぇ。ねぇ保健所さん、きっとその情報って、女の子達の容姿を貶めるものばかりだったでしょう?」
「ここで働いているのがそこまで美人揃いじゃないって自覚はあるみたいね」
美人どころか化け物しかいませんよ、とネイザーに加勢したくなる気持ちを抑えて、二人の会話を黙って聞くことにした。ここの従事者に関する情報をその責任者から聞けるのはかなり貴重である。
「そう言われてしまうのもしょうがないわね。ここのお客様の大半はこの館に娼婦を求めてきてるから。でもね、娼婦と愛人は求められる技能は全然違うわ。誰かの愛人になるには、もちろん性行為のスキルも必要だけど、それ以外にも必要なことがある。何かわかる?」
「そんなもの知りたくもないわよ」
ネイザーはぶっきら棒に答えた。確かに、そんなものどうでもいいから従業員について詳しく聞きたいのだが。
「保健所さんも誰かと結ばれた時のために覚えておいた方がいいわよ?愛人に求められるもの、それはね、正妻が持ち合わせていないもの。ここだけの話、うちにはハイステータスなお客様もいらっしゃるけれど、そのほとんどの方は政略結婚しているクチなの。つまらない政略結婚相手に飽きてしまって、正妻には無い何かをここの女の子に求める、ってこと。ポンコツな奥様には作れない料理だったり、世間知らずの奥様にはない知性を磨くための場がこの部屋よ」
「その割に、衛生に関する知性は磨かせなかったのね。あんなボイラー室を普通の衛生観念を持った女の子が見たら、そのままにはしておかないと思うけれど。一体どんな従業員が在籍してるのかしら」
「…ボイラー室には女の子は立ち寄らないってだけよ。少なくとも、女の子達で最近体を壊してたり、精神不安定になってる子はいなかったわ。だからクリプトスポリジウムもマナ濃度も、こちらに何か落ち度はないし、この部屋も調査するだけ無駄だと思うけどねぇ」
従業員で感染していたり、周囲のマナ濃度に影響を及ぼす程精神活動が活発だった者はいない…か。最もルーセット氏の口先だけという可能性もあるし、後で体調チェック表と出勤表は見ておこうと心に決めておいた。
「無駄かどうか決めるのはこっちよ。それに、従業員が感染しているかどうかなんて検査すればわかるんだから、あまり口からでまかせを言わない方がいいわね」
「でまかせなんてひどいこと言うのね。まあ、仮にうちの女の子が原因だとしても、彼女達が出勤するまでは証明のしようがないけど」
ネイザーは従業員から浴槽水にクリプトスポリジウムが汚染されたと踏んでいるようだ。もしそうだとしたら、マナ濃度の逸脱もその従業員が原因だろうか。いや、ルーセット氏が言った通り、従業員の検査は従業員が出勤するまでは行いようがない。今は施設調査を進めよう。
「まあまあ、先輩。ここの従業員とこの部屋のこともわかったことですし、施設調査を進めましょう。給水管が供給しているのはこの部屋じゃキッチンと浴室とトイレぐらいでしょうし、先輩は浴室を見て下さい。自分はキッチンとトイレを見ますから」
「何でアンタが仕切るのよ。まあいいけど、トイレはしっかり見ておきなさい、重点的に」
「重点的に」の真意がわからず自分達は調査を分担した。
キッチンの水を念のため採水し、流しの状態や蛇口の汚れまで丹念に見たが、ボイラー室とは違い、かなり綺麗に保たれている。食品による汚れや水垢もないし、このキッチンで愛人修行をしてる化け物は中々綺麗好きなのかもしれない。自宅の蛇口部分は、自分がズボラであるせいかよくわからないヌルヌルとした汚れが結構溜まっているのだが、それが恥ずかしくなってきてしまった。
キッチンの調査が終わり、トイレに入ったはいいものの、この期に及んでも先ほどネイザーが言った「重点的に」の意味はわからなかった。言葉のとおり、しっかり見ておけばいいのだろうか。トイレの中も特筆するようなところはなく、一般的な意味で綺麗である、と言える。壁面、床面に便の飛び散りは見られないし、便座に汚れもない。手洗い器には使い捨ての手拭きが置いてあって、布製タオルを共用するよりは衛生的と言える。汚物入れの中もせっかくなので調査のために確認しておいたが、中身は空であった。後は採水をしてトイレの調査は終了である。レバーを捻り便座とタンクに水が流れる。何の変哲もない光景であるはずだが、自分にはその光景を見て何か引っかかるものがあった。自宅の光景と流れる様子は大して変わらないし水は見た目には綺麗だ。正体のわからない「何か」を心に吊り下げたまま、容器に水を採った。この行為についても日頃の業務と変わるところはないはずだが、いったい何が心に吊り下がっているのだろうか。
正体不明の疑問を感じながらも、一通りキッチンとトイレの調査は終わったので浴室に入る。
「先輩、こっちは終わりましたよ。ま、衛生的と言えば衛生的でしたね」
「わかった。こっちも今終わるわ。それで、トイレは重点的に見た?」
「見ましたけど、問題のあるようなところはありませんでした」
ネイザーには他意があって、実はトイレで何かしら証拠でも見つけてほしかったのかもしれないが、正直に言うことにした。後輩だし、何かアドバイスでもくれるのかと期待はしたが、ネイザーは
「そう。ならいいわ。それじゃ次は103号室ね」
と、何でもなさそうに言うだけであった。浴室から出たネイザーは自分と同様に、不衛生な部分は見つからなかったとルーセット氏に報告した。女優然のルーセット氏は多少顔を綻ばせはしたが、すぐに涼しげな顔に戻った。ただ、自分達の報告に気を良くしたようで、最後の調査場所である隣室、103号室に向かう足取りは軽やかだった。
次の103号室で何も見つからなければ、いよいよ基準値逸脱の原因は従業員にある可能性が高まる。しかし、従業員検査で何も出なければどうするか。自分達としては「原因不明として本件終了」と上司に報告すれば言葉通り終了である。これでもし、やはり娼館 ダーク・ミクスチャーに原因があって、それを自分達が見落としたとなると、今後被害者が発生する恐れがある。そうなれば減給やら降格やらの割を食うのは他ならない自分自身である。
基準値超過のあった水を採水したのはこの103号室の浴槽なのだ。いかなる手がかりも見落とさないよう、調査に当たらなければならない。「何か」が吊り下がったままの心でそう呟き、自分はネイザーと共に隣室に向かった。




