1章 娼館「ダーク・ミクスチャー」7
ボイラー室から廊下に出て給水管を辿る道中、主に口を開いていたのはネイザーとルーセット氏だった。
「マナ濃度の説明はどこから始めればいいかしら。まさかダークエルフともあろう種族がマナのことを何も知らないなんてことはないと思うけど」
自分の背後を歩くルーセット氏はネイザーの煽りに気づかないふりをして、
「基本的なことは知ってるわよ、エルフの魔力をなめないで欲しいわね」
と短く返してあげていた。煽りへの対応一つ取っても、ネイザーとルーセット氏の間には天地程の隔たりがあるように感じてしまう。この館の前で、ネイザーの煽り耐性の低さに気づいてからもうどれくらい時間が経っているだろう。
まだ営業開始時間には遠いと思うが、そろそろ女性達が”お仕事準備”のために出勤してくるのではないかと身構えてしまう。ここの女性の中に万が一でも、客としての自分の顔を覚えていてるのがいて、その人物と鉢合わせでもしたらかなり面倒なことになる。
ネイザー、ひいてはうちの課の職員に、自分が風俗利用者であるということがばれるだけでなく、今後ダーク・ミクスチャーを客として利用することも憚られてしまうのだ。そうなっては自分の学術・研究意欲の発散場所がなくなってしまう。これは自分のクオリティ・オブ・ライフに多大な影響を及ぼすに違いない。
ひょっとするといるかもしれない自分の顔見知りに出くわす前にこの調査案件を終わらせよう、そう心に決めた時にはすでにネイザーの説明が始まっていた。
「それじゃあ基本的なところは省くわね、マナが魔法の源だとかいう話とかは。ここのマナ濃度で問題だったのは、基準範囲を上回っていたこと。マナ濃度が基準範囲を下回る原因はたくさんあるけど、上回る原因は数えるしかない。何かわかる?」
わからない。というかネザー、マナの基本を教えてくれないのか。ルーセット氏は知ってる風だけど、こっちはまるで知らないっていうのに。自分は魔法何てかじったこともないからさっぱりである。
「マナは”この世界”でひとりでに生成されることはない。これがエルフとそれ以外の種族、かつ魔法使いと学者の共通認識。この認識からエルフのみが独自に発展させた考え方が、マナは神性がこの世界に供給してくれている、というもの。だから、マナ濃度が上がるのは神性による供給過多が原因、というところかしら?」
ルーセット氏は意外にもマナのことを自分よりよく知っている。まぁ、魔法をよく使う種族なのだから多少は知っていて当然なのだろうが、それでも自分にとっては興味深い話を聞けたと思う。ただ、「神性」という言葉を使われてしまうとこの後の説明がしにくくなる。もしこのルーセット氏の回答に間違いがあったとして、それを正すと「神性」部分まで正されたと思われてしまう。これを宗教の否定、と受け取られると保健所への苦情につながるのである。
「神性」の否定と取られないようにルーセット氏の回答を正す、これはネイザーの腕の見せ所かもしれない。自分はネイザーの言葉を待った。
「…その通り。あとはその「神性」の適用範囲ね。ただ、今日は保健所の立場で調査に来ているから、それに則った適用をさせて頂戴」
「ウフフ、説明が上手いのね。それじゃあ保健所さんに適用範囲を指定させてあげる」
これは上手くルーセット氏を丸め込めたのだろうか。ルーセット氏は怒っているようには見えないし、むしろネイザーを一部、認めたような感もある。この話術には先輩として尊敬できるものがある。後はマナ濃度が上昇する原因を、「神性」に則って納得させられるかどうかである。
「マナを供給してくれる「神性」を、人を含む生命全般に適用するわ。つまり、マナ濃度を上昇させる原因は生命ということ。私も、このテイクも、ルーセットさんも、マナ濃度を上昇させられる。ただほとんどの場合、上昇の程度は低いし、個人の意思でコントロールできないの。各個人の精神活動が、無意識の内に周囲のマナ濃度に影響を与えて上昇させている、というのが保健所の見解よ」
「でも、生命全般に「神性」、なんてちょっと強引過ぎないかしらぁ?公的な立場なはずの保健所さんが、エルフが想定している神と生命全般を同一視するのは、宗教観念の否定ではなくても解釈の湾曲ではないの?」
「解釈の湾曲を行うなんてつもりは毛頭ないわ。私達は再現性に基づいた科学の考え方に従ってて、それに沿うように説明しただけ。説明にはご納得頂けた?」
「ウフフ、もちろん。保健所さんの講釈を長々と聞けるなんて貴重な経験だったわ。あ、そろそろ見えてくる階段を上りましょう」
自分達の前方に廊下の行き止まりが見えてきた。その5メートル手前で右側の壁が途切れており、壁の途切れた先には階段が見える。館に入ってから既に1度は通ったはずの階段だが、クリプトスポリジウムの説明を長々として頭が疲れたのか、既視感を全く感じない。
しかも、階段を上っているはずが、知覚はその逆を感じている。頬に触れる気流は下から上へ、体の加速度は前方斜め下へ———。
視界にはネイザーの腰が見えるはずなのに、これはルーセット氏の後頭部のようだ。
つまり自分は実際の所、階段を上っているのではなく、下っているように感じている。ルーセット氏の後ろ姿に導かれ、館の最深に向かっているのだ。最深では館の恥部がガバリと口腔を露出し、自分の最奥の欲望と結びつこうとしている。その結合に溺れればこの体は一切がルーセット氏の———。
この感覚はボイラー室の———。
「ちょっとテイク!シャキッとしなさい!」
自分の思考は唐突に途切れた。目の前にルーセット氏の後頭部は無く、ネイザーの顔が見える。口調とは異なり、表情には不安と困惑が見て取れる。先ほどルーセット氏にキスしかけたときの憤怒の表情とは打って変わって見え、多少は後輩のことを心配してくれているようだ。
「アンタ、大丈夫?ブツブツ言いながら体はグラグラしてたし、見てらんないわよ。あとは1階の部屋の調査でとりあえず今日は撤収できるんだから、気合入れなさい」
「あぁ、スイマセン、先輩。どうも頭が疲れてたみたいで。失礼しました。でも、地下1階は見なくていいんですか?」
「それは今あなたの先輩が言った通りよ。103号室に向かう給水管が通過する部屋は102号室だけなの。それは配管図で証明できてるでしょう?」
ネイザーが配管図を目の前で広げて示した。確かに配管図上はボイラー室と103号室を結ぶ給水管が途中で経由するのは102号室のみだ。それ以外は廊下や階段の壁の向こう側を走行しており、怪しい部屋等は無いように見える。まあ、自分はまだ配管図には慣れていないので見落としているだけかもしれないが。しかしネイザー大先輩が102、103号室と言っているのだからそれでいいのだろう、多分。
「ええ、それは間違いないわ。さっさと102号室に行きましょう」
自分達の足は地下1階を素通りして、102号室に向いた。その間、ネイザーはマナの説明を続けていたが自分は先程の感覚を思い出していた。
ボイラー室でルーセット氏にキスをしかけた時の感覚と似ていた。いきなり頭の中が乱され、別の思考に割り込まれたかのようだったが、それでは、“別の思考”の持ち主は誰だったのだろう?ルーセット氏はあの時念話をしていたと言って、実際にその念話相手がネイザーに配管図を渡した。念話と思考操作を同時並行で行うなんて芸当がルーセット氏にできるとは思えないし、階段を上っていた時はネイザーが話しかけていた。ルーセット氏が“別の思考”の持ち主ではないだろう。ネイザーが思考操作の魔法を扱えるとは聞いたこともない。
とすると、ここの3人以外の誰かだとしか思えない。この館の女性陣は割とバラエティ豊かだし、思考操作に長けた種族でも雇っているのだろうか。だとしても、自分の思考に割り込ませた理由がわからない。割り込まれた結果としてこちらが何か被害を被ったわけでもない。特に目的のない思考操作…わざわざそんなことをする奇異な存在がこの館にいる、のかもしれないとしておこう。
「ここが102号室ね。とりあえず、図面は間違っていないみたい」
図面と扉のプレートに目を行き来させて、ネイザーが言った。ボイラー室とは違い、扉は木製で艶があり、どことなくいい香りもする。扉の装飾や模様のために彫られた溝にはほこりも溜まってなく、客の目に入るところは清掃が行き届いているように見える。
「そう、この部屋が102号室。この部屋は色々と特別仕様でね、普通のお客様は入れない部屋なの」




