5話目
とりあえず出よ? と泣き続ける七瀬を引っ張り出して、近くのカフェに入った。泣く男子を引っ張ってる女子、という異様な光景に店員さんは驚きもせず、2名様ですね、と窓際の席に案内してくれた。
「えっと、さ。とりあえず何か飲まない? 落ち着くと思う」
ずっと肩を震わせている彼。やっぱり水族館には誘わない方が良かったなぁ、と私は後悔した。こんなに辛い場所だとは思っていなかった。
彼はまだ涙を流す目でメニュー表を見ていた。……大丈夫かな。見えるかな。
ほどなくして、「ミルクティーにするよ」と七瀬がかすれた声で言う。私は頷いて、店員さんを呼んだ。
「ミルクティーと、カフェラテください」
「どちらもホットで構いませんか?」
七瀬が頷いたので、それでお願いします、と注文した。
で、だ。
「あの、まず七瀬。何度も繰り返して悪いけど、本当にごめん、水族館誘っちゃって。そんなに辛い場所とは思ってなかったから……」
「いや、俺、も断らないの、悪いから。逆に、ごめん。め、迷惑かけた」
まずは頭を下げあった。謝罪はもうこれくらいで、お互いいいでしょ。
「で、聞きたいんだけど、お兄さんと最後の思い出だから、やっぱり水族館は辛い場所なの?」
私は遠回りに聞くということが、昔から出来ない。だから例え相手にとって嫌なことだったとしても、こうやって直球で聞いてしまう。
七瀬は赤い目を擦りながら、苦笑いした。
「聞くん、だね」
「気になっちゃったから。嫌だったら言わなくていいからさ。もう触れない」
「……いいよ。どうせなら、話す」
おまたせしました、と店員さんがカップを2つ持ってきた。白い湯気が、私たちの間にふわりと浮かぶ。
「……俺には、3歳年上の兄がいたんだ。スポーツも勉強も得意で、音楽だけ苦手で。でも誰にも優しくて。そういう良い兄」
ようやく落ち着いたのか、七瀬の口調からどもりが消えた。涙ももう浮かんでいない。
「今みたいな時期にね、水族館が好きだった兄ちゃんが、誘ってくれて。その時、兄ちゃんが17だったから、俺が中2の14か。それで帰り道、さ」
カップを握っていた七瀬の手が、だらりと垂れた。少し俯いて、声が小さくなる。
「電車に乗ろうとしてた時だったんだけど、ホームで俺、いきなり兄ちゃんに押されそうになって」
「え……?」
思わず声をあげてしまった。だって今までの話じゃ、仲の良さそうな兄弟じゃない。
「なんでか俺も知らない。俺が兄ちゃんを知らないうちに怒らせてたのかもしれないし、なんかむしゃくしゃしてたのかも」
「でも、死んだのは……」
「うん。そう。俺、たまたまその押そうとした手を避けちゃってさ。勢い止まらず兄ちゃんが落ちたんだよね」
え、と次は声も出せなかった。
「慌てて手を掴もうとしたんだけどさ……ブレスレットしか掴めなくて。千切れて兄ちゃん落ちて。そこに電車が来て」
「そんな」
「だからさ、水族館今まで来たくなかったんだ。色々思い出すから。でももう、そうも言ってられないし。良いタイミングだった」
「タイミングって、なんの」
「……最近、夢に死神が出てくるんだ。最初は遠かったのに、今はもう目の前。ねえ、明日、立春の前の日だろ」
七瀬はようやく顔をあげて、力が抜けた笑みを浮かべた。
「春が来る前に、俺は死神と心中するんだよ」
「……どういう、こと」
いきなりの言葉に、思考が追い付かなかった。目の前の七瀬は、にこやかな顔をしている。
「兄ちゃんが殺し損ねた俺のこと、殺そうとしてんだよ。明後日、俺は兄ちゃんの年齢を抜くから。多分それまでに殺そうとしてるんじゃない」
「……七瀬」
「なに?」
「なんで自分が死ぬっていうのに、笑ってるの?」
信じられなかった。
お兄さんが死んだ、そのくだりは本当なんだと思う。でも、死神が殺す? 殺し損ねたからって死者が正者を殺すの?
それにどうして、七瀬は朗らかに笑ってるの?
「……俺、兄ちゃんと比べて出来が悪いんだ。だからじゃない? お前なんて生きてても意味ないって、殺そうとしてるんだよ」
「そんなのおかしいわよ。死なないといけない人なんて誰もいない。それに死んだ人が生きている人を殺すなんて、あり得ない」
「でも俺は、死神と明日、心中しないといけないんだよ」
断固として言い切る七瀬。
ずっと前からしてるカウントダウンって、これのことだったの?
自分の死を毎日カウントしていたっていうの?
ミルクティーを飲み、ゆるい表情をする七瀬。あまりにも当たり前な風景が目の前に合って、思わず言葉が零れ出た。
「……じゃあ明日、ずっと私といなさいよ」
「え?」
「それだったら殺されないでしょ? 七瀬が死ぬなんて、私、嫌だよ。こんなに話したのは今日が初めてだし、七瀬は辛そうでちょっと気まずかったけど、それでも今日、楽しかったもの」
「遠宮さん……」
「なんで兄が弟を殺そうとするのよ。そんなのおかしい、だって水族館に行くくらい、仲が良かったんでしょ? それなのに、なんで」
「遠宮さん」
なんでだろ、目元が熱かった。思わず下を向く。震えそうになる言葉をただ吐き出した。
「そんな何年も経って、なんで。おかしいわよ。殺しに来たら私がお兄さんを叱りつけるから。そんなのおかしいって」
「……遠宮さん」
頭に手を置かれた。何事かと顔を上げる。
そうしたら、目の前に七瀬の顔があって。
一瞬、互いに触れて。
え。
「……遠宮さん」
席に座り直した七瀬が、顔を上げる。
そうして、
「……嘘。ぜーんぶ、嘘だよ」
「……は?」
「兄ちゃんが死んだのは本当だけど、死に方とか、死神とか、全部嘘。本気にしないでよ」
「……は?」
涙が引っ込んだ。というかキスされたことすら吹っ飛んだ。
「何言ってんの?」
「俺としては、なに本気にしてんの? だよ。こんな出来た話、あるわけないじゃん」
「……あなた、あんなに泣いてたのに」
「嘘泣きでーす。カウントだって、ただ引っ越すだけだよ」
あはは、と七瀬が笑う。
騙されてたのか。
人が死んだ話を使って、騙されてたのか。
そんな男といるのを楽しいと思い、そしてキスもされたのか。
信じ込んでいた恥ずかしさも相まって、一瞬で目の前が真っ赤になった。
パァンッ!
「っ……」
私が七瀬を引っ叩いた音が店中に響く。
店員さんが何事かと出てくる。私は悪いけどそっちを睨んで、来るなと言外に伝えた。
「ふざけないでよ! 死を扱ってなんていう嘘ついているの!? あなた最低ね! そんな人だと思わなかったわ!」
七瀬は何も言わない。ただ頬を抑えてるだけ。
それも癇に障った。
財布から千円取り出し、テーブルに叩きつける。
「悪いけど気分悪いから帰るね! そんな話、私以外にはしないのをお勧めするわ。きっと誰も引っかからないから!」
勢い良すぎて椅子が倒れてしまった。直して、さっさと店を出た。
最悪な一日になってしまった。