4話目
緩く吹く北風が、磯の香りを運んでくる。空は冬独特の、灰を撒いたような白さをしていた。
さすがに平日だからか、私と七瀬以外、水族館へまっすぐ続くこの道を歩いている人はいない。
「ここまで海に近づくと、磯の匂いがすごいね。懐かしい気持ちになる」
「遠宮さんは昔、海の近くにでも住んでたの?」
「うん。小学校の途中まで、太平洋沿いの町に住んでたんだ。お父さんの仕事の関係で引っ越したんだけど」
「へえ。じゃあ、今でも海の近くは好き?」
「好きだなぁ。昔の事思い出して、ちょっと落ち着くの」
「いいね。俺はずっと住む場所変わってないから」
「でも引っ越しは嫌だよ。新しい場所って疲れるもの」
そういうものか、と七瀬が首を捻った。引っ越したことがないらしい。羨ましいな、とちょっと思う。
会話が途切れたところで、七瀬の顔を盗み見る。さっきから顔が青い気がするんだよね。気のせいかな、空がこんな色をしているからそう感じるだけかな。
そうならいいけど。七瀬の体調をちょっとは気にかけるようにしよう。
「あ、そうだ七瀬。はい、これ。券渡しとくね」
渡し忘れていた特別展のチケットを財布から出し、渡す。受け取った七瀬はそれをじっと見た。
「……くらげの特別展、なんだ」
「そう。くらげ、嫌い?」
「ううん。むしろ好きだよ。そうか、くらげか」
七瀬はチケットから目を離し、また呆けた。何かを思い出すかのような顔。
水族館で、何か特別な思い出があるんだろうか。
少し悲しそうな顔を見なかったふりをして、私は足を進めた。
波の音に囲まれた水族館の中へ入り、階段を下りる。最初に現れたのは、サメが悠々と泳ぐ大水槽だった。
ちょっと濁っている様に見えるのが残念だけど、魚の姿は十分に見える。
「不思議だよね。どうしてサメは他の魚を食べないんだろう」
巨大水槽のガラスの前で見上げていれば、隣に立つ七瀬が答えをくれた。
「あいつらはね、常に餌をもらって腹が空かない状態にしてんだ。だから食べないんだよ」
「へー。じゃあお腹空いた状態にさせたら、一瞬で水槽が空っぽになるね」
「そうかもね」
微かに七瀬が笑う。ちらりと顔を見ると、少し疲れたような顔をして水槽を見ていた。
世界の海ごとに分かれた水槽の展示を抜けて、そのまま外の回廊へ。いきなり風が強く吹いたから、思わず首元のマフラーを巻き直す。
「やっぱり外は寒いね。聞きたかったんだけどさ、寒くない?」
「俺?」
「マフラーも手袋もしてないから」
七瀬はだいぶ薄着だった。コートは羽織っているけど、手袋もマフラーもニット帽も着けてない。コートが少し短いから、手首のブレスレットが覗いてる。見ているこっちが寒そうだ。
けれど七瀬はにっこり笑って「そうでもないよ」と言った。
「昔から、寒さには弱くはないから」
「ならいいんだけど。すごい青ざめた顔してるからさ」
「え」
水族館の奥へ進めば進むほど、さっきから七瀬の顔は青ざめて硬直してる気がする。さっき笑ってくれたけど、その表情すら硬く感じてしまう。
「大丈夫?」
七瀬が顔を逸らし、俯く。何か聞こえた気がするけど、ため息だろうか。
「……ここに来るの、誘わないほうが良かった?」
七瀬、辛そうだし。悪いことしたな、とこちらもため息をつくと、慌てた様子で彼は首を振った。
「いやいや、誘ってくれたのはありがたいんだ。ただ、ちょっとね。色々思い出しちゃって」
「なにを?」
「……俺の兄ちゃん、昔死んでさ。最後の思い出なんだよね、ここ」
ああ、と何も言えなくなってしまった。
だから、ずっと顔が暗かったんだ。
「……そうとは知らず、軽々誘ってごめん」
「だからいいんだって。そろそろ行かなきゃとは思ってたから。ほら、ペンギン。見に行こうよ」
朗らかに笑う七瀬の顔は、やっぱり暗い。
次第にどうしても暗くなっていく七瀬が心配で、私は少し出口に急いでいた。そして出口手前で、右手に折れると特別展の「くらげ展」。
「どうする、七瀬。このまま出る?」
言外に「辛かったらこのまま帰ろう」という意味を込めたつもりだったけど、いいや、と七瀬は首を振った。
「特別展のチケットを無駄にしないために来たんでしょ。行かないと意味ないよ」
「でも七瀬……」
「大丈夫だって。ごめんね、こんなに心配させて。楽しめないでしょ」
「いやいや私が誘ったんだから、別にそれはいいって」
後半は言葉少なになってしまったし、七瀬は辛そうだし、本音を言えば、本当にちょっとだけ、私も気が滅入ったけど。
でもそれを言ったら、七瀬がもっと滅入るでしょ。それに文句を言うほどじゃないし。
「じゃあ、入るよ? 辛くなったら本当に出てね」
「ありがと。でも俺、ちゃんと水族館は回らないといけないんだよ。兄ちゃんが死んでから一回も行けてなかったんだ。だから、本当は明日までに、一度」
後半は独り言だったみたいで、あまり聞き取れなかった。でも、明日までに一度? 明日、お兄さんに関係する何かがあるのだろうか。
とりあえず私たちは、くらげ展の中に入った。
半ドーム式になっているその中は、薄暗い照明で青く暗かった。真ん中の柱に透明な水槽が組み込まれていて、それを囲む円形の水槽が6個。足を長く伸ばしたくらげがそれぞれの水槽で泳いでいる。普段の生活からは想像しないような、不思議な空間だった。
「綺麗だね」
私たち以外に誰もいない。けれど普通の大きさの声も憚られて、私は小声で七瀬に言った。こくん、と彼は小さく頷く。
足音も忍ばせて、ゆっくりと真ん中の水槽に歩み寄る。足元も暗く、目の前のくらげも、おぼろげに見える。
そこにいたくらげは、分厚いドーム型の傘を持って、足はタコのそれが折りたたまれたような、太くて短いものだった。
「くらげって、全部が全部、触覚みたいな長い足を持っているわけじゃないんだね」
「これはブルージェリーっていうくらげ。日本ではタコクラゲって言うくらいだからね。足がタコみたいだろ」
「そう思ってた」
小さく私は微笑んだ。でも七瀬は、さっき以上に顔が硬い。お兄さんとの思い出は、ここが一番強く残っているのかもしれない。
「こっちは幻想的だね」
真ん中の水槽から離れて、右側の円形の水槽を覗き込む。傘にクローバーみたいな4つの四角の模様がある。足は短いけれど、細く何十本と伸びていた。青い照明のせいか、透明な傘は青色に染まって、銀河でも泳いでいるような美しさが光っている。
「それはミズクラゲ。一番、一般的かな。店でも売ってたりするんだって。……」
「へぇ。……思ってたんだけど、七瀬って物知りだね。くらげだけじゃなくてさ、今まで色々案内してくれたし」
そう、何も七瀬が説明するのはここだけじゃなくて、最初のサメもそうだし、ウミガラスのところでも、ペンギンのところでも解説をしてくれた。
魚好きなの? と聞こうと隣の七瀬の方を向いて、
私は唖然とした。
七瀬が、ゆっくりと目から涙を流していたからだ。
「……ごめん、兄ちゃん、ごめん」
「七瀬?」
「ごめん、ごめん、ごめん……!」
くしゃりと顔が歪む。耐えきれなくなったのか、七瀬は膝から崩れ落ちて、肩を震わせた。
嗚咽が止まらず、涙がぼろぼろと零れている。
静かなこの空間で、その姿はまるで懺悔に見えた。