#036「清算と」
#036「清算と」
@五所川原の病院、病室
――カーテンの向こうから聞き覚えのある声がする。母が誰かと話してるようだ。この声は、ひょっとして。
東海林の母「それで、どうなの? 小山内さんとは。今は、彼と一緒に同棲してるんでしょう?」
七海「それが、フロ・メシ・ネルの古風な関白亭主なのよ。彼の辞書に、レディーファーストや家族サービスという文字は載ってないみたい。政治や経済には詳しいけど、堅物で冗談の通じない、ハッキリ言って面白味の無い人なの」
東海林の母「アラアラ。結婚前からそれじゃ、先が思いやられるわね」
七海「定年後に熟年離婚してやろうかしら? 濡れ落ち葉にヘバリ着かれたくないわ」
東海林の母「そうならないように、一から教え直して、育てていけば?」
七海「ウーン、それもそうね。家庭科を再履修させてやるわ」
――間違いない。一戸七海だ。出来れば、顔を合わせたくないな。待合室に居ようかな。
東海林の叔父「何やってんだ?」
東海林「ウワッ」
七海、カーテンを開ける。
七海「何だ。誰かと思ったら、タツとタツの叔父さんじゃない。何をコソコソしてたのよ? ――こんばんは、叔父さん」
東海林「入るタイミングを計ってたんだよ。ナナの話を邪魔しちゃ悪いと思って」
――ウーン。我ながら苦しい言い訳だな。
東海林の母「ウフフ。目が泳いでるわよ、樹。――もう一人は、留守番かしら?」
東海林の叔父「こんばんは。――受付で退院手続きをしてる。忘れ物は無いね?」
東海林の母「えぇ。急な入院だったもんだから、大した荷物も無いのよ」
東海林の母、荷物を持ち、ベッドから降りる。
東海林「自分が持ちますよ、母さん」
東海林、東海林の母に両手を差し出す。
東海林の母「ウウン、良いの。重い物は入ってないから」
七海「フフッ。これは何かしら?」
七海、近くに置いてあった眼鏡を手に持ち、目線の高さに掲げる。
東海林の母「嫌だわ。歳は取りたくないものね。ありがとう」
東海林の母、眼鏡を受け取り、荷物の中へしまう。
――歳のせいにしてるけど、どこかオッチョコチョイで早とちりする癖は昔からだよね、母さん。
東海林「そもそも論になるけど、ナナは誰から入院してることを聞いたんだ?」
七海「散歩から帰ってきた小比類巻さんが、東海林家から救急車が出て行くのを見たそうよ。あとは、噂が噂を呼んで私の耳に入ったってところ。納得した?」
東海林「あぁ、なるほど。そういうことか」
――斜向かいの婆さんの口コミは、エスエヌエスより迅速に拡散するんだな。
*
@京成上野駅、二番線
――病院から戻ったあと、母の退院と、何故か自分の帰国も記念して、盛大に祝うことになった。そしてその宴には、ちゃっかり七海と七海の婚約者まで臨席していた。ヘベレケに酔っ払った叔父さんの介抱をしつつチラチラ観察した限り、二人はお似合いなんじゃないかと思った。たしかに気の利かないところはあるけど、七海がワガママには、一生懸命に応えようとしてる様子だったからね。
東海林の叔父「悪いね、空港まで送れなくて」
東海林「良いですよ、気を遣わなくて。それより、治りましたか?」
東海林、指で軽くトントンとコメカミを叩く。
東海林の叔父「マァ、新幹線の中でグッスリ寝て、幾分は痛みが治まったよ」
東海林「これに懲りて、今後は深酒しないことですね。――大学の手続きの件、お願いします」
東海林の叔父「中退させるのは惜しいが、善き師匠に巡り会えたのなら仕方ないな。あとは俺に任せて、樹は向こうで頑張りなさい」
東海林「はい。それでは、行ってきます」
東海林の叔父「行ってらっしゃい。道中、気をつけてな」
♪ミュージックホーンの音。
――故郷に帰れば、旅立つ前の日から再出発できると思ったけど、自分が居ないあいだも、故郷は自分の知らない時を刻み続けてるわけで。変わらない物など何一つ無いと頭で解っていながら、故郷には変わらない物を求めてしまっていたようだ。今度、日本へ帰ってくるのは、夢を叶えたときだろう。




