#000「旅立ち」
#000「旅立ち」
@アパート、東海林の部屋
――自分は、何でも描ける気でいた。でも、それは根拠のない自信でしかなかった。
東海林「天才も、二十歳過ぎれば只の人」
――高校在学中に漫画家デビューしてから、かれこれ五年余りの月日が流れた。現在、二十一歳。才能を喪失し、無難で退屈な作品しか描けなくなってしまった。
東海林「かつての新進気鋭のギャグマシーン、絶賛スランプ中。ワー、ハッハッハ。……ハァ」
東海林、ガックリ肩を落とす。
東海林「空元気は止めよう。笑えない自虐ネタを飛ばしたところで、虚無感に苛まれるだけだ。現実逃避してないで、荷造りを進めよう」
――なぜ荷造りをしているかといえば、絶望による自殺でもなければ、家族の反対による駆け落ちでもなく、担当編集者の計らいで、転地療養とアイデア探しを兼ねて、日本ではあまり知られていない国へ旅行に行くことになったからだ。
東海林「この旅行に、大して期待してない。いや、期待して落胆したくないだけだというのが本音かな。エーイ。あとは野となれ、山となれ」
――この旅行には捨て身、捨て鉢、ヤケッパチで臨むんだ。旅行案を呑んだ段階で、もう腹は括ってる。今の自分に、怖い物は何一つ無い。
東海林「自暴自棄になった人間ほど、傍迷惑な存在も無いだろうな。――さて。これで、あらかた詰め終わった。あとは、明日の朝に早起きするだけだ。人事は尽くしたから、天命を待とう」
東海林、鞄のファスナーを閉め、天井灯を消し、布団に横になる。
*
@国際線、機内
東海林、ガイドブックを開く。
――グースフォーチュン州。州の首都はチェリーブロッサム都。ただし、首都機能が集約された政治都市なので、観光には適さない。経済と文化の中心は、沿岸部のムルベリーハーバー市。中華街があり、東洋と西洋の文化が混沌と渦巻く。州の公用語は英語だが、ここではアジア諸外国語も平然と飛び交う。
東海林「ヘー。それじゃあ、日本語が通じるところもあるかもしれないな。アッ、漢字表記との対応表がある」
東海林、折り込みページを広げる。
――グースフォーチュンは雁福。チェリーブロッサムは桜花、ムルベリーハーバーは桑港か。和語読みでは、かりのさいわい、さくらのはな、くわのみなと。漢語読みでは、ヤンフー、インファ、サンコンになるのか。
東海林、ページを捲る。
東海林「それで、目的地のヘブンミニスター島は、天使島か」
――和語読みでは、あまのつかい。漢語読みでは、ティエンシー。緑豊かで、平和を愛する島民が多く、非常に治安が良い。島の大半部は地中海性気候に属し、冬は温暖で降水量が多く、夏は気温が低く乾燥している。
東海林「月別の気温を見る限り、一年中春物で過ごせそうだな。ただ、気懸かりなのは、このあとの記述だよな」
――世界各地から亜人が集まる楽園にして、地球上他に類を見ない摩訶不思議な異国。
東海林「担当編集者曰く、この旅行は、日本の常識の殻を打ち破り世界に向けて蒙が啓く絶好の機会になると言っていたけど、先行きが不穏すぎる。アーア。一度括った腹が、緩んで解けてきた。道理で、搭乗間際にガイドブックを渡したときにニヤケ面を浮かべてた訳だ。あの野郎、帰ったら覚えておけよ」