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苛々して、長時間椅子に座っていられる気がしない。
リリアはその後の授業を受けることを止めて、教室へ鞄だけを取りに行ってそのまま校舎を後にした。
(初めて、授業をさぼってしまったわ)
今まで公爵夫人としてふさわしい人であろうと努力していたから、多少の体調不良でも授業にでていたし、現に今まで無遅刻無欠席だったのだ。
まさかこんなことで皆勤賞を失うとは。
でも本当に、どうしても勉強という気分では無かった。
「はぁ……。こんなに早い時間に寮に帰ったら、メイに心配されるわよね。どうしようかしら」
授業をさぼるのはやっぱり少し後ろめたい。
教室に戻ろうかと頭の端で考えるけれど、でもやっぱり気力が湧かなかった。
人の居るところに、居たくなかったのだ。
きっと食堂での騒動は噂になっているだろうし、誰かの好奇に満ちた目にさらされることが煩わしくて仕方がない。
(とにかく、人気のない方に……)
リリアは校舎から離れた森の方へと移動することにした。
森と言っても学園の敷地内にある、きちんと整備されたもので、生徒の憩いの場として使用されている。
それでも敷地内のずいぶん外れの場所にあるし、授業中でもあるから人の気配はまったく無かった。
舗装された石畳の道からも外れて、木々の生い茂ったの方へと入って行く。
森の奥へ向かって五分も歩くと、周囲はもう高い木々が生い茂るばかりだ。
「静か……学校内なのに、空気も特別に綺麗な気がする」
誰の目も無い、誰にも何も聞かれない、自分だけの空間。
ここでなら、我慢する必要なんてない―――そう、思ったとたん。
「っ……」
ぽとぽとと、土の上に染みが落ちる。
黒い瞳からとめどなく溢れる、涙。
「っ、ど……して……? エドワード様……」
エドワードに嫌われることは、リリアにとって何よりも怖いこと。
叱られて、失望されたことがショックだった。
(見て見ぬふりをしておくべきだった? 聞き分けのいい子でいるべきだった? ―――私の嫉妬は、眉を吊り上げて怒られるほどに、醜いものだったのかしら)
――嫌われた、だろうか。
想像すると泥沼に足を取られたみたいに足元がおぼつかなくなって、そのままリリアは森の中でほろほろと泣き、しゃくりあげる。
「っ、ふ、ぇ……」
次から次へと落ちる涙は止まらなくて、目元をごしごしと擦っても収まらない。
彼が大好きなのに。落胆された。怒られた。ショックだった。
(あぁ、目が腫れるようなことがあったら、メイに隠せなくなる)
彼女には心配かけたないのに――――――と、思ったところで、ぼやけた視界の目の前に白くて四角い何かが現れた。
「え……?」
目を瞬いてよく見てみると、それは白いハンカチだ。
目の前に、白いハンカチが、誰かの手によって差し出されているのだ。
その手をたどっていって見上げれば、護衛騎士のゼンが無表情で立っていた。
「ぜ、ん?」
「はい」
「っ、あ……!」
リリアははっと我に返った。
(そうだわ。一人じゃなかった……! ゼンはいつだって後ろについているんだったわ!)
気づくと同時に、急速に涙が引っ込んでいった。
ゼンがいつもいつも静かすぎて、もう完全に存在を忘れていた。
しかも周囲に気を張る余裕もなかったから、ハンカチが差し出されるまでまったく全然気づかなかった。それでもさすがに気配が無さ過ぎではないか。隠密でもしていたのか。
リリアは親しくもない男に泣くところを見られた恥ずかしさに、頬を真っ赤に染め上げる。
無言のままに出されているハンカチは引っ込む様子がなかった。
少し迷ったけれど、結局流されて手を出して受け取ってしまった。
本当にワンポイントの刺繍さえない真っ白なだけのハンカチがなんだか彼らしい。
「あ、有り難う」
「いえ」
驚きで涙は引っ込んだけれど、目元や頬はまだ濡れていた。
リリアはハンカチで抑えながら、じとりとゼンを睨む。
「……貴方、存在感なさすぎではない?」
「ただの護衛ですから。存在を主張する必要はありません」
「私の護衛騎士でしょう? ただの護衛なんて言わないで。全然違うわ」
ゼンはただの護衛ではなく、騎士。
つまりそれだけの実力と功績をあげて、騎士の称号を与えられているということ。
公爵家の妻になるリリアには公爵家と敵対する一派に狙われる可能性も大きく、優秀な護衛は必要なのだ。
「はぁ……馬鹿馬鹿しいって思うでしょう。正式な婚約者なのだから堂々としていればいいのに、不安で、怖くて、こんなふうにめそめそしているなんて」
「まぁ、そうですね」
「はっきり言わないで! 慰めなさいよ!」
「やり方が解りません」
「っ、もう! ゼンはもう少し乙女心を勉強なさい!」
ハンカチをずずいと差し出す慰め方しか出来ないなんて、あまりにも無粋すぎる。
でも優しい言葉ひとつかけられない寡黙な騎士の予想外の登場で、どうしてかリリアの苛々はいつの間にか引っ込んでいたのだった。
* * * *
食堂での騒動から、二週間。
―――リリアは、熱を出していた。
ベッドに横なってうなされているリリアは、熱い息をいくつも吐きだす。
うまく頭が働かなくてぼんやりと天井をただ眺めていた。
そこを侍女のメイが、心配そうな顔で覗き込んでくる。
「お医者様によると、睡眠不足と、精神的疲労。それに栄養失調ぎみでもあるようですわ」
「そう……」
「確かに最近お食事もあまり進んでらっしゃらない様でしたものね。倒れられる程ということは、もしかしてお昼も、食堂で召し上がってらっしゃらなかったのですか?」
「……ごめんなさい」
「っ、いえ……お謝りにならないで下さいませ。むしろリリア様の健康管理も私の仕事のうちですのに、申し訳ないですわ。……何か食べられそうなメニューがありましたら仰ってくださいね。何でもご用意しますから」
「えぇ、ありがとうメイ」
「いいえ。……ゆっくりお休みください。失礼いたします」
気を使わずに眠れるようにとメイが退室したあと、リリアは長いため息を吐き出した。
(寝不足と、栄養失調か。―――まぁ、原因は分かってるけれど)
あの二週間前の食堂での騒動以来、エドワードはシンシアへ対する恋愛感情を誰にも隠すことをしなくなった。
今までは態度だけだったのだが、友人たちに声にだして「シンシアの愛らしさ」などを語っているらしい。
彼いわく、「運命の人」なのだそうだ。
そんなふうに仲睦まじいシンシアとの様子を見たり聞いたりする度に、リリアの心はすり減っていく。
毎日毎日、日を追うごとに気分の浮き沈みが激しくなって。
苛々と悲しいのがないまぜになって、最近はもう上手く寝付くことが出来なくなっていた。
おまけに食欲も落ちてしまった。
食堂も、あの二人が仲良くしている姿を見たくなくて遠のいてしまって、結局この十日ほどずっと昼食は抜く形になっているのだ。
(あぁ、考えれば考えるほどに熱があがる気がするわ。とにかく寝て、治さないと)
しかしその熱を出した日の夕方。
身体を起こして水を飲んでいたリリアに、メイは眉を下げて客の来訪を伝えてきた。
「リリア様。エドワード様がお見舞いにいらしています。どうされますか?」
「え……?」