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「リリア。今日、僕のクラスに転入してきたシンシアさんだ。今校内を案内している所だったんだ」
授業と授業の合間の休み時間。
婚約者の公爵家跡取りであるエドワードに呼び止められたリリアは、そう紹介された彼女を目に入れた瞬間――――ザワリと、全身に悪寒を走らせた。
「…………」
リリアの引きつって震える喉から、変な息が「は」と短く漏れる。
……なぜ自分がこうなっているのか、良く分からない。
でも、とても良くないことが起こる予感がした。
「リリア? 顔色が悪いようだが、大丈夫か?」
「あ……」
顔を屈めて覗きこんで来るエドワードの青い瞳に、少しだけ引き戻された。
心配をかけたくはない。
だからリリアは、笑顔を作って礼をする。
「し、つれいしました……。平気ですわ。――――はじめまして、シンシア様。私はワトソン侯爵家のリリア・ワトソンと申します。エドワード様の婚約者ですの」
「はじめまして、リリア様! エド君に聞いてます。とっても優秀な、自慢の婚約者さんなんだって」
「それほどでもないわ」
「でも主席なのでしょう? 凄いです! さすがエド君の婚約者に選ばれた方ですね」
「……エド君と、呼んでらっしゃるの? 今日転入なさったばかりなのに、ずいぶんと仲良くなられたのねぇ?」
「え?」
冷たい言い方になってしまったと自覚したのは、口に出してからすぐのことだった。
「あ……」
(やってしまったわ。こんな顔だから、いつも気を付けていたのに)
細くて吊り気味な目元が特徴的な容姿は、リリアのコンプレックスなのだ。
しかも背が高めなので大抵の女の子は見下ろす形になってしまう上、髪色は温かみのない色……真っ黒。
少し言葉遣いや仕草を間違えるだけで、冷徹で偉そうな態度に見えてしまう。
案の定、柔らかくウェーブしたいかにも女の子らしい桃色の髪をしたシンシアは、エドワードの隣で怯えたように肩を縮めてしまった。
小柄な彼女のそんな仕草は、小鳥か子兎かの小動物を思い起こさせる。
「すっ、すみません。えっと、その、教室の席がたまたま隣になって、私まだ教科書の準備が出来ていないので見せていただいてたんです。それで……エド君が授業の合間の休憩時間にしてくれるお話しがとても楽しくって。そのままお喋りの流れで呼ぶようになってしまって……もしかして馴れ馴れしかったかなぁ? エド君……」
「いや、まったく構わない。僕もこんなに短期間で気の合う友人が出来るとは思わなかったしな。むしろ嬉しい」
「え、そう? ふふっ。考古魔法哲学なんて、私以外興味ないと思ったのに! 夢中で語れる相手が出来るのなんてとっても嬉しいよ!」
楽しそうにお喋りをする彼らの前で、どうにか笑顔を保っているリリア。
喉の奥の方からは、ざわざわとした嫌な雑音が広がっていっていた。
吐きそうなくらい―――気持ちが悪い。
(私の、婚約者なのに。なれなれしくしないで)
リリアの大好きな、婚約者エドワード。
将来、夫となる人。
公爵家の長男なのに気取らず朗らかで優しい、あったかい人。
リリアの家族は冷え切った仲だから、余計に彼の暖かさが羨ましくて愛おしかった。
彼と家族になって、この温かさの内側に入れて貰える日を夢見て、リリアはずっと公爵家夫人にふさわしい大人となる為に勉強もマナーも他のなにもかも努力してきたのだ。
リリアがいつかあの温かな場所に―――と願って十年以上も頑張ってきたのに。
今、彼と笑い合っているシンシアは、もうそこに入ってしまっている気さえした。
(今日、出会ったばかりのはずなのにどうしてこんなに?)
「ははは! シンシアさんは面白いな!」
「もう! からかわないでよエド君!」
(あぁ、エドワード様がこんなに楽しそうに笑う姿をみたのは、いつ以来かしら)
―――というか、そもそもリリアの記憶にある限り、こんなに柔らかくとろけた笑顔は初めてな気がした。
いつだって優しく笑ってくれているけれど、この顔をリリアは知らない。
今まで自分に向けられていたのは、余所行き用の、作った笑顔だったのだと、突き付けられた。
それに気づくと同時に胸に矢が刺さったみたいなドスンという衝撃のあと、じわじわと血が広がり流れていくように痛んだ。痛くて苦しくて、泣きそうだった。
(私の、好きな人なのに。……っ)
どうしてエドワードは初対面の女の子が腕に触れるのを許すのか。
どうして気安く肩を叩けるのか。
どうして二人で声を大にして笑って、楽しそうにしているのか。
目の前にいるリリアを一切見ないで、他の女の子と。どうして。
(でも、仲良くしないでなんて言ったら、エドワード様は困るわ。ただのクラスメイトに変な勘繰りをするなんて、面倒くさいってきっと思うわ)
リリアはエドワードが好きだ。
きらきらとした明るいところにいる彼は、憧れなのだ。
絶対に嫌われたくなかった。
だからリリアは我がままを言えなくて、ぎゅうっと手のひらを握り込み、いびつな笑顔をつくり続けた。
一緒に大笑いすることは出来なかったから、せめて会話に置いて行かれないようにと必死に彼らの話の合間に頷き「そうなのですね」と相づちを打つ。
予鈴までの十分程度が、とてもとても長く感じた。
「……あぁ、もう予鈴か。なんだか早いな」
「エド君と話してると、ほんとにすぐに時間が過ぎちゃう」
「ははっ。まったくだ。あぁ、じゃあリリア、またな」
「私、まだ女の子の友達がいないので、是非これから仲良くしてくださいねっ」
「えぇ。ぜひ……」
教室に戻るために遠ざかっていく彼らの並ぶ背中を眺めながら、リリアは唇を引き結んだ。
奥歯からギリッと鈍い音が鳴る。
(私は、夫になる人をたてるために、一歩後ろを歩くように気を付けていたわ。そう習ったから。淑女として正解なはず……でもシンシア様は、当たり前に隣を歩くのね)
その位置が、叫び出してしまいそうなくらい羨ましかった。