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作家吾妻の事件簿

Kより愛をこめて

作者: 真波馨

たまには、暗号もどきの作品に挑戦してみたい。


「被害者は東条昌彦とうじょうまさひこ、六十二歳。市内の邸宅にて、妻の章子あきこさんと二人暮らしでした。今朝の八時頃です。いつもならば、階下に降り章子さんと朝食を摂る時間だったようですが、定刻を一時間以上過ぎても昌彦氏はなかなか姿を見せない。心配になった章子さんは、手伝いの者とともに、二階にある彼の寝室に向かった。鍵がかかっていたためドアをノックするも、返事はない。慌てて手伝いとともにマスターキーを取りに行き、寝室の鍵を開けた。そして、こと切れた被害者を発見、通報するに至ったという次第です」

 いつも通りの落ち着いた声で現状報告を進めているのは、K県警捜査一課の小暮こぐれ警部。白髪頭を丁寧に撫でつけた物腰柔らかな彼は、ダークスーツに白い手袋をつけ、ティーセットの乗ったトレイなんかを持たせたらさぞかし絵になるような人物だ。そんな彼の隣では、艶めいた黒髪を背中まで伸ばした女性が後部座席に背を向けたまま凛とした声で追加報告を始めていた。

「死亡推定時刻は、昨夜の二十二時から今日の夜中二時にかけて。刃渡り十五センチの刃物で、背後から腰辺りを一突き。刺されてからしばらくは意識があったようで、部屋の中を這ったような痕跡が残されていました。死因は、出血性ショック死です。なお、被害者には持病があったようですが、今回の死因との関連性はないとのことでした。以上が、検視結果と鑑識からの報告です」

「凶器となった刃物については」

 車の後部座席から飛んだバリトンボイスに、手帳のページを素早く捲る音がする。

「どこにでも売られているようなありふれた包丁でした。指紋も検出されていません。犯人を特定するような特別な痕跡は残っていなかったとのことです」

「部屋をわざわざ密室にしたのにもかかわらず、凶器は残されていたわけか。それで、今回もその密室の解明が課題になっているのだと」

 座席で長い足を窮屈そうに組み腕を頭に回す男に、運転席から「いえ、それが」と困惑したような声が返ってきた。

「今回は、密室の解明依頼をお願いするわけではないのです」

「ということは、単純に犯人捜しですか。それだけならば、わざわざ私を呼ぶ必要性も感じられませんが」

「ええ。犯人捜しの依頼でもありません」

 赤信号にかかり、緩やかに停車した車の後部座席から、男は軽く身を起こした。毛先は気まぐれにあちこちに跳ね、ろくに整えてもいないであろうぼさぼさの頭髪。男にしては長めに伸びた前髪の間から、切れ長の鋭い眼が覗いた。

「では、私はなぜ警部の運転する車に乗せられ、被害者宅に向かっているのですか。犯人捜しでもない、いつもの如く密室の解明依頼というわけでもない。つまり、事件はすでに解決しているということではないのですか」

「ええ。あながち間違いではないのですが」

 首をぐるりと回し、何か言いあぐねているような横顔を見せた小暮警部に、男は「はっきりしませんね」と眉根を寄せる。すると、助手席に座っていた女性が、不意に男の方を振り向いた。アーモンド形の目は微かにつり上がり、艶めく黒髪も相まって上品な黒猫を連想させる。

「今回の事件は、容疑者もすでに逮捕され、自供も取れています。部屋から見つかった物的証拠からも、その人物が犯人であるということはほぼほぼ明白です」

 形の良い小ぶりな唇の動きを見ながら、男は怪訝な表情を浮かべた。

「じゃあ、俺は一体何をしに――」

「今回、我々が先生に依頼願いたいのは、現場に残されていた、被害者からのものと思われるダイイングメッセージの解読です」

 先生、と呼ばれた男は、骨ばった指で顎を撫でながら、再び後部座席のシートに身を預ける。その薄い唇が、なるほどな、と小さく動く。そして、唇の端が軽く持ち上げられた。事態を面白がるような微かな笑みを浮かべた男に、黒猫のような女性が取ってつけたように呟く。

「推理作家である、吾妻あずま先生向けの事件かと思います」



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 東条昌彦は、二十代で最初に勤めた仕事先を辞し、単身でアメリカに渡った。そこで、かねてからの夢であった事業立ち上げに奮闘する。五年以上の歳月をかけ、小規模ながらもとあるメーカー会社の社長に就任。その後、徐々に社員を増やしつつ会社の運営を順調に続ける一方で、章子との運命的な出会いを果たし、二人は結ばれる。齢六十二となり、社長の座を部下に譲るそのときまで、しかし決して順風満帆というわけでもなかった。経営に試行錯誤し、一時は倒産の危機にまで陥ったという。それでもなお、章子の献身的な支えと誠実で仕事熱心な社員に応えるべく、「身を粉にして」という表現が過言ではないほどに、昌彦氏は働き続けた。社を辞した後は、故郷である日本に舞い戻り、小さいながらも立派な一軒家を建て、愛する妻静かな老後を迎えるところだった。その矢先の、何とも不幸な事件だったのだ。

「逮捕されたのは、章子さんとともに遺体の第一発見者となっていた、手伝いの後藤健三ごとうけんぞう、五十七歳。何でも、昌彦氏との間にトラブルを抱えていたようで、計画的に昌彦氏を殺害する機会を窺っていたようです。現場を密室にしたのも、犯行が露見するのを少しでも遅らせるためだったと。ただ、被害者を刺した瞬間はかなり動揺していたようで、凶器を回収しなかったのは単純に慌てていたためだっだようです。密室の方法、ですか。先生に解き明かしてもらうまでもありませんでした。推理小説の参考書に載っているような、ひどく古典的な手法をそのまま用いたにすぎませんでしたよ。我々としては、事件の解決に手間取らなかっただけ助かったとも言えますがね」

「後藤が被害者との間に抱えていたトラブル、というのは」

 吾妻鑑あずまかがみの問いに、艶やかな黒髪を揺らしながら振り向いた鈴坂万喜子すずさかまきこ刑事が「金銭トラブルです」と淡々と答えた。

「後藤は、闇金をはじめ、数か所に計五百万円ほどの借金を抱えていました。その借金を返すため、昌彦氏に借金をしていたようです。しかし、昌彦氏の忠告にも耳を傾けず、後藤は自転車操業で債務を増やし続けました。昌彦氏は、そんな彼に痺れを切らし、貸した金を返済するよう催促していたようです」

「借金の返済に困り、元社長を殺害、か。随分とわかりやすい事件だな」

「ええ。事件自体の解明には、それほど手をかける必要もないみたいです。ただ、どうしてもひとつ、我々には解き切ることのできない謎が残されてしまいました」

「それが、昌彦氏の残したダイイングメッセージ、ってわけか」

 赤と白の、目にも鮮やかなバラの花道の続く庭を突き抜け、立派な木造の玄関にたどり着いた。ライオンが輪っかを咥えているような形のドアノブは、その輪っかを叩くことがチャイム代わりになっているのだろう。洒落た造りだった。

「昌彦氏は、後藤に刺された後、しばらくの間は息があったようですね。当の本人は“動揺していて、まさかまだ息があったとは思ってもいなかった”と供述しています。あるいは、後藤にダイイングメッセージの存在を気づかれないよう、わざとこと切れたふりをしていたのかもしれません。現場となった寝室には、床一面にトランプのカードが散らばっており、被害者の手元にはそのうち三枚のカードが寄せられていました」

「トランプのカード、ですか」

「ええ。昌彦氏は、最近手品に凝っていたようで、たびたび新しいネタを覚えては章子さんに披露していたらしいです。誰かを喜ばせるのが好きな人だったと、章子さんが涙ながらに話してくれました」

 沈痛な面持ちで話を続ける小暮警部に続き玄関の扉をくぐると、シャンデリアがぶら下がり、中央に横幅のゆったりとした吹き抜けの階段がでんと構えるエントランスに迎えられた。階段の両側には、映画のセットかといわんばかりに、それぞれ槍と剣を手にした鎧が鎮座している。外観は小ぢんまりとしているように見えたのだが、その意外な広さに吾妻は場違いにも口笛を吹いた。そんな彼を別段咎めるでもなく、警部が「それでは、現場はこちらになります」と階段を手で示した。

 吾妻が通されたのは、吹き抜けの階段を上がった二階、右手に逸れ、最も奥まった場所にある被害者の寝室だった。遺体は無論回収済みだが、それ以外は鑑識の現場検証が行われたときのままの状態が保存されていた。

「被害者がばらまいたであろうトランプのセットは、章子さんによるとベッドの横のテーブルに置かれていたものだろうということです。そこが定位置だったようですね。テーブルまで這っていき、カードセットを手にしたと同時に、ベッドの横に倒れこんだ。カードは、その拍子に床に散らばったようです。その散らばったカードの中から、被害者は三枚のカードを選び取っていました」

 部屋の中央辺りから、壁際にあるベッドまで赤黒い血痕が伸びていた。引きずったような擦れた跡は、被害者の絶命寸前までの軌跡を表しているようだった。

「被害者は、床にうつ伏せに倒れていました。頭の上あたりに、問題のカードが残されていましてね」

 昌彦氏が倒れていたであろう位置に、人型を象ったロープが残されていた。床を見下ろし、警部が難しい顔で腕を組んでいる。彼の視線の先にあったのは、横に三枚並んだ、トランプの「K」と「Q」のカードだった。左側にハートとダイヤのKが二枚、右側にダイヤのQのカードである。KとQ枚の間には、KからQに向かった矢印のように見える血痕が残されていた。



挿絵(By みてみん)



「KからQ――この、KとQというのは、何かの例えなのでしょうかね」

「例え、ですか。このKとQに当てはまるような、事件に関わる人物でもいるのですか」

 白髪頭を掻きながら、警部は「いえ」とかぶりを振る。

「逮捕された後藤は、このメッセージを見て“金庫の隠し場所だ”などと言っているのですが」

 床にしゃがみ込んだ鈴坂刑事の、細く白い指先が謎めいた暗号を指した。突如浮かんだ「金庫」というワードに、吾妻は「ほう」と興味深げな声を上げる。

「つまり、後藤は故人が密かに隠し持っていた金目当てに殺人を犯した、ってことか」

「以前、被害者が金庫の存在を奥さんに仄めかしている会話の一部を、後藤は耳にしていたようなんです。しかし、章子さんを話を聞いても具体的な場所は何も知らないと。後藤が事件当夜に被害者の寝室を訪れたのは、おそらく金庫の在り処を訊き出そうとしたのでしょう」

「章子さんに話を伺ったところ、“金庫の在り処を開けるのには、どうやら鍵が必要らしい。しかし、その鍵のある場所さえもわからない”とのことです。後藤の言った通り、このメッセージは金庫に関するなんらかの手がかりを示しているのではないかと、我々も踏んでいるところなのですが」

 しかし、肝心の意味が解けないとあっては――お手上げ、というジェスチャーなのか、警部は両手を小さく上げて肩を竦める。三枚のカードをしばらく無言で眺めていた吾妻は、「奥さんは、章子さんといいましたか。彼女に話を訊きたいですね」と、薄手のロングコートの裾を翻し現場を後にした。



「では、章子さんご自身には、このカードの並びなどについては何の心当たりもないと」

 小暮警部に問われ、東条章子とうじょうあきこは小さく「はい」と呟いた。ところどころに白いものが混じっているが、豊かで艶のある黒髪をバレッタですっきりとまとめている。ラベンダー色の上品なワンピースを着こなした、楚々とした雰囲気の初老の女性だった。

「ちなみに、ご主人から伺ったという金庫の話を、もう一度お話願えませんか。言い忘れていたことなどありましたら、補足していただきながらで構いませんので」

 やんわりとした警部の言葉に、章子は白いハンカチをきゅっと握りしめながら頷いた。

「一ヶ月ほど前でしょうか。突然、本当に何の前触れもなく、夫が“実は、この屋敷の中に金庫を隠しているんだ”と言い始めたんです。最初は何のことかと思いましたが、“いざというときのためにな。私もこれから先、何が起きるかわからない。金庫の中には、遺書と私の僅かな財産が入っている。もし私に何かあったら、お前がその金庫を見つけるんだ”と。あまりにも真面目な表情だったもので、からかおうにもできなくて、私はただただ無言で話を聞いているだけでした」

「その話しぶりですと、彼には、誰かに命を狙われるとか、あるいは自身の身に何かが起きるという予感のようなものがあったのでしょうか」

「さあ。私は、少なくとも後藤の借金のことについては、何も知りませんでした。今回このようなことになって、まさかあの後藤が、って」

 ハンカチで口元を覆い、嗚咽を漏らす章子。後藤と昌彦氏の仲は、彼女の知らぬ間に、水面下ですっかり冷めきってしまっていたようである。

「そうですか。ちなみに、章子さんは金庫の在り処に心当たりなどは」

「いいえ。とんと見当もつきません。銀行の口座以外に、主人がこの屋敷の中に財産になるようなものを隠していたなんて」

 警部と章子の話を黙って聞いていた吾妻が、「あの」と小さく片手を挙げた。

「失礼ですが、この屋敷自体、かなりの財産になるのではないかと思うのですが。後藤は、ご主人亡き後、屋敷を我が物にしようと今回の殺人計画を企んでいた、という可能性は」

「確かに、この屋敷は小さいながらも立派なものですけど。ですが私は、この屋敷を誰にもお渡しするつもりなどありません。私は自らの命尽きるまで、主人との思い出の詰まったこの家を守り抜く一心です」

 固い口調で言い切った章子に、吾妻は「ご主人も、きっとお喜びでしょうね」と頷くとあっさりと会話を引いた。聴取の続きは、章子の隣に腰を下ろしていた鈴坂刑事にバトンが渡される。

「この、トランプについてなのですが。これ自体に、何か特別な意味があるとか、そういったことはないでしょうか。たとえば、二人の思い出の品ですとか」

 現場に残されたメッセージの写真を穴が開かんばかりにじっと見つめ、章子は小さく首を振る。

「いいえ。おそらく、主人が個人的に購入したものだと思います。大して値の張るものでもないでしょう」

「そうですか。あの、警部」

 写真をテーブルに置いた鈴坂刑事に、小暮警部は「ん」と顔を傾ける。

「私、このメッセージについて、ちょっとした考察というか、推測のようなものがあるのですが。お話してもいいでしょうか」

 彼女の言葉が想定外だったのか、警部は目をぱちくりとさせると「ああ」と気の抜けたような返事をする。猫目をちらりと向けられた吾妻は、「いいんじゃないか。是非とも鈴坂くんの考えをお聞かせ願いたいね」と、ソファに預けていた身体を前に起こし、膝の上で両手を組んだ。

「推測といっても、単純なものですが。この『K』とは、トランプの絵柄を見ての通り、キング、つまり『王様』を表しています。そして、『Q』、つまりクイーンは『女王』です。ではここで、この屋敷の中において、キングの立ち位置にある者を考えます。おそらく、それは屋敷の主でもあった昌彦氏ということになるでしょう。では、クイーンはどうなるか」

 隣の章子をじっと見据え、鈴坂刑事は「言うまでもありません」と涼やかな声で告げる。

「章子さん、おそらくあなたのことではないでしょうか。そして、キングのカードのマークを見てください。ハートとダイヤですね。ダイヤは、トランプの中ではお金、つまり財力を意味しています。ハートは、もちろん愛情でしょう。つまるところ、これはキングである昌彦氏からクイーンであるあなたに向けたメッセージだった。昌彦氏からの、愛情と財産の贈り物があなたに渡される。私が思うに、このメッセージ自体が、昌彦氏からの遺言だった、ということではないのでしょうか」

 鈴坂刑事の話にじっと耳を傾けていた警部が、「鈴坂くん、まさかきみがこのメッセージの意味を解読してくれることになるとは」と、長い息とともに漏らした。テーブルの上の写真を手に取った章子は、「でも」と小さい声を上げる。

「では、主人の言っていた『金庫』の存在は、どうなってしまったのでしょう。やはり、銀行に残ったものと、この屋敷自体が残された財産だと、そう受け取ってもよいのでしょうか」

 戸惑いの表情を浮かべる章子に、鈴坂刑事は目の前に座るぼさぼさ頭の男にすっと視線を移す。

「吾妻先生」

「ん」

「私の推測は、ここまでです。先生だって、この程度の考えならばとっくに思いついているはず。次は先生の考察を伺いたいですね」

「おいおい。そこまで言ったのなら、いっそきみがこのメッセージを解き明かしてみればいい。もうほぼほぼ答えは出ているようなものだろ」

「しかしこのメッセージからは、金庫なる存在の在り処については、少なくとも私には見当がつきません。私の推測はここまでです。それに、折角推理作家の先生に来ていただいたんです。仕事はきちんと全うして帰られるべきなのでは」

 章子が目を丸くして、「あら、あなた警察の方ではなかったのですか」と口元に手を添えている。小暮警部も含め、三人の期待の眼差しを一身に受けた吾妻は、どこか居心地悪そうに姿勢を正すと、こほんとこれ見よがしに咳ばらいをした。

「この写真の大まかな意味については、先ほど鈴坂刑事が説明してくれたのと、同じ推測を俺もしていたところだ。だが、それだけではご主人の言い残した『金庫』の在り処にたどり着けない。ところで、ご主人はここ最近手品にのめりこんでいた、ということでしたが、章子さん」

「はい」

「昌彦氏が挑戦していた手品というのは、このトランプを使ったもの以外には何かあったのですか」

「いいえ。“いつでもどこにでも持ち運びができて簡単だから”と、トランプを使った手品ばかりを練習していたと思います。もちろん、私以外の方に他の手品を披露していたのかもしれませんが」

「なるほど。では、場所を移して、二階の現場へと参りましょうか」

 唐突な吾妻の提案に、三人はぽかんと口を開けている。吾妻は写真を手に取ると、「そこでなければ、わからないこともありますので」と小さく笑んだ。



 昌彦氏の寝室には、特筆すべきものはおよそ見当たらない。遺体があったベッドの反対側に、折り畳み式の窓が一つ。五月初旬の、よく晴れた空から柔らかな陽が降り注いでいる。窓の下には、お洒落なデザインの棚が存在感を放っており、章子によると、アメリカから帰国したときに持って帰ったものなのだという。棚の上にいくつか飾られている写真立ては、いずれも章子とともに周った思い出の地で撮影したものが収まっており、今となってはもう拝むことのできない、昌彦氏の柔和な笑顔がそこにあった。他には、壁にいくつかタペストリーが掛かっているくらいで、至ってシンプルな部屋である。書斎は別にあるということで、およそ睡眠以外の目的で使用することもなかったためだろう。

「昌彦氏は、花が好きだったのですか」

 写真立てのひとつを手に取り、吾妻は章子に問う。人から撮影してもらったものなのだろう。花の冠をつけた章子と、彼女の肩に手を添えた昌彦氏の夫婦が、眩しいほどの笑顔を向けていた。仲睦まじいオシドリ夫婦であったのだろうと、誰が見ても思うような一枚である。

「ええ。その写真の冠は、主人が手作りしてくれたものなんです。その日は、私の誕生日で。“ささやかな、僕からのプレゼント”って。そういえば、初めて出会ったときも、主人は私に、花を送ってくれました」

 目じりに涙を光らせ、章子は声を詰まらせる。吾妻は無言のまま、棚の上の窓をさっと開け放った。レースのカーテンがふわりとなびく。庭に咲き誇るバラの花の香りを乗せた贅沢な風が、部屋に吹き込んでくる。

「“誰かを喜ばせることが好きな人だった”。あなたはそうおっしゃいました――それは、おそらく間違いではないでしょう。そして、彼はきっと誰よりも、あなたを笑顔にさせることが一番の喜びだったのでしょうね」

 初夏の風が、吾妻の黒髪を遊ぶようにふわふわと揺らす。章子の潤んだ目が、微笑を浮かべる男をぼんやりと捉えた。

「鈴坂刑事が言った通り、ハートとダイヤのキングは、それぞれが昌彦氏を表しているのだと思われます。しかし、ではなぜ、あなたを表すクイーンは一枚だけなのでしょうか。おそらくここに、彼の粋な計らいが残されていたのではないかと、私は考えます」

「粋な計らい?」

「ええ。章子さん、この写真はあなたの誕生日のときに撮影したものだとおっしゃいましたね」

 花の冠を頭に乗せた章子の写真を指した吾妻に、被写体である本人はこくりと頷く。

「これは、おそらく四月一日に撮影されたものなのではないですか」

「ええ。確かに、それは私の誕生日である、二年前の四月一日に旅先で撮ってもらったものです。もしかして、写真の裏にあった撮影日を見たのですか」

 おそるおそる問うた章子に、吾妻は「とんでもない。警部やあなたの許可なしに、むやみに現場を荒らすことはしませんから」と大袈裟に肩を上げる。

「では、なぜ」

「花が好きだった、ということでしたら、おそらく彼も、四月一日の誕生花がマーガレットであることはご存じだったはず。そしてその意味が、純潔の女神であるアルテミスに捧げる花ということから『真実の愛』とされていることも」

 写真立てをそっと棚に戻し、吾妻は昌彦氏の最期のメッセージが残った床をじっと見下ろす。

「さらに、四月の誕生石はダイヤモンドですが、それは偶然にも、トランプのスートの中にあるダイヤと一致します。そして、ダイヤモンドはその絶対的な強固さから、永遠の愛を象徴するものとして、恋人への贈り物として選ばれることが多い。ハートのクイーンを加えなくとも、彼はダイヤのクイーン一枚に、あなたへのありったけの想いを込めていたのかもしれません」

 淀みない吾妻の説明に、警部が「まさか、彼が死に際にそこまで考えてこのカードを選んだと?」と、唖然とした顔でカードを見やる。

「おそらく、この偶然の一致については、前々からわかっていたことでしょう。無論、これはあくまで私の推測であって、今となっては死人に口なし、というところでしょうが」

 床に並んだクイーンのカードを手に取り「死ぬ間際なのに、そんなことを」と言い切らぬうちに、章子の頬を涙が伝う。プラスチック製のカードは、彼女の大粒の涙を弾き、床に落とした。

「吾妻先生。では、やはりこのカードの並びからは、金庫の所在については」

「それなら、とっくに目星はついている」

 あっさりと言い放った吾妻に、警部と鈴坂刑事は「どういうことですか」と異口同音に小さな叫びを上げる。

「たったトランプ三枚に、ここまでの意味を残した人です。金庫の在り処についてはトランプと無関係とも思えない」

 言って、吾妻は「失礼」と、先ほど手にした写真立てに再び手を伸ばす。フレーム部分の金具を外すと、コトリという軽い音とともに、棚の上に何かが落ちた。

「先生、それは」

 吾妻の手に握られていたのは、小さな鍵だった。部屋や車の鍵にしては、やや小さすぎるほどの大きさだ。

「これが、金庫の眠る場所を開くための鍵ですよ」

 さあ、行きましょうか――吾妻の掛け声で寝室を後にした一行が向かったのは、一階のエントランスホールである。中世ヨーロッパの時代からタイムスリップしてきたかのような厳つい鎧を前に、吾妻は先ほどの小さな鍵をコートのポケットから取り出した。

「先生、まさかこの鎧が、その金庫の隠し場所というのではないでしょうね」

 目を見張る警部に、吾妻は「そのまさかですよ、と言ったらどうします」と、いたずら小僧のような、事を面白がるような口調である。

「昌彦氏は、章子さんには金庫の存在を示唆しても、後藤氏には決してそれを告げようとはしなかった。彼の手が金庫に及ぶのを、何としてでも避けたいところだったのかもしれません。ところで、後藤氏はこの屋敷の手伝いをしていた、ということですが、章子さん」

 指名を受けた章子は、「え、ええ。そうですが」と困惑した声で応える。

「では、ここで問題です。トランプのキングが昌彦氏、クイーンが章子さん。では、残った後藤氏も何らかのトランプの絵柄に例えてあげたほうが、収まりがいいとは思いませんか」

「ジャック。『J』のカード、ですね」

 鈴坂刑事の呟きに、吾妻は「そう」と軽快に指を鳴らす。

「ジャックのカードは、従者や召使、そして兵士の意味を、表しています。さらに、金に目の眩んでいた後藤氏には、さしずめダイヤのジャックがおあつらえ向きというところでしょうか。そんな彼から大切な金庫を守るとなると、昌彦氏が隠し場所に選んだ兵士の像は」

 どちらにしようかな、の動きで指を左右に動かしていた吾妻は、剣を手に携えた鎧の像を指し、動きを止める。

「ダイヤのジャックに描かれているのは、確か長い剣だったと記憶しているが、俺の記憶が間違いでなければ」

 鎧に手をかけ、力任せに自身の方へと傾ける。「警部、鎧の後ろを確かめてください」という吾妻の言葉に、小暮警部は素早い動きで駆け寄ると腰をかがめて鎧の背後に回り込む。

「先生! 鍵穴です。鎧の背中の部分に、小さな鍵穴が」

 章子の承諾のもと、興奮冷めやらぬ警部と吾妻とで、鎧を慎重に床に倒す。長身の吾妻でもっても、かなりの重量がある鎧像だった。吾妻から鍵を手渡され、鍵穴に慎重に先を差し込む警部。四人が見守る中、カチャリというそっけない音と、錆びた鉄の扉を開けるような耳障りな音とともに、鎧の背中部分に大きな空洞が現れた。

「先生。これ」

 手袋をはめた警部がそろりと取り出したのは、縦幅、横幅ともに三十センチばかりの比較的小さな箱だった。だが、鉄製のそれは見た目以上に重量のあるものらしく、警部は顔を歪めながら金庫と思われるそれを床に下ろした。

「吾妻先生。これ」

 鈴坂刑事が、金庫の扉を示す。テンキーの設置された扉には、アルファベット二十六個の小さなキーが、四列にわたりずらりとならんでいたのだ。

「最後の扉、ってわけか。ま、パスワードのない金庫は金庫とは言わねえか」

「パネルは、四マスありますね。ということは、四文字のアルファベットを入力すれば」

「しかし、ここまできてパスワードとはね。先生、まさかこのパスワードまでお見通し、なんてことは」

 額に浮かんだ汗を拭う警部に、吾妻は無言で首を振る。取っ手に手をかけ、やはりロックがかかっていることを確かめた鈴坂刑事が「万事休す、とはこのことですかね」とため息をつく。

「いや、あながちそうとも言えないかもだぜ――そうではありませんか、章子さん」

 刑事と推理作家の視線を受け、章子は不安げに目を瞬かせる。

「そんな。私は、何も」

「カードのメッセージも、金庫の鍵も、すべてあなたに関する意味、場所を示していました。この扉を開ける四つの文字も、あなたと昌彦氏の思い出の中にあるはずです」

 切れ長の目に、鋭利な光が宿る。その鋭い眼光にじっと見据えられ、章子は意を決したように、おそるおそる金庫の扉に手を伸ばす。その指先が、金庫の扉を開ける、最初のキーにそっと触れた。



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



「吾妻先生」

 小暮警部に呼び止められ、長身の男は後ろを行く二人の刑事を振り返る。

「本当は、先生もわかっていらしたのでしょう。金庫の在り処までああもあっさりと突き止めたあなたが、肝心のパスワードに関しては眼中になかったとは思えません」

 カーキのコートを腕に引っ掛けた警部に、吾妻は小さく肩を竦めてみせる。

「さあ、どうでしょう。トランプのカードに描かれているクイーンが手にしている花がバラの花で、なおかつ、昌彦氏の誕生日である七月十五日の誕生花と同じだったなんて、とんだ偶然でしたね。さすがにその一致は想定外でしたが」

 むせ返るような匂い立つバラの花道を抜け、一行は県警の公用車に乗り込む。後部座席の窓を下ろすと、肌に心地よい皐月の風が吾妻の頬を撫でる。仄かなバラの香りが、彼の高く尖った鼻先を掠めた。

「――あ」

 不意に、助手席から鈴坂刑事が何かを思い出したような声を出す。その声につられた警部が「どうした。何か忘れ物か」と、慌てた様子で車を止める。

「ああ、いえ。そうではなくて。またひとつ、偶然を見つけてしまいまして」

「偶然?」

「私、現場に残されたメッセージを最初に見たとき、あの矢印がマイナス(-)の記号に見えたんです。それで咄嗟に、二枚のKで十三と十三を足した数から、Qの十二を引くっていう式を計算したんですけど」

 吾妻を振り返った鈴坂刑事は、珍しく小さな笑みを見せた。

「この式の答え、十四になるんです。この数字を逆にすると、章子さんの誕生日になりませんか」

 推理作家は小さく鼻を鳴らすと、「考えすぎだろう」と肩を竦める。小暮警部は微笑を浮かべながらハンドルを握ると、「さあ、では行きましょうか」と掛け声を出す。車は緩やかに発進し青空の下を走り始めた。

 バラの花の咲き誇る小さな屋敷の中には、今は亡き王との思い出に静かに浸る女王だけが残されていた。


人は死にますが、今回の焦点はそこではありません。

ダイイングメッセージ、あるいは暗号を主体にした初の試みの作品でしたが……うーん、もっとこう、読者が解読にのめりこむようなものを考えたいですね(汗)

ちなみに、タイトルはアニメルパン三世の『ロシアより愛をこめて』が元ですが、内容はまったく関係ありません。もちろん、本家の007さんとも。

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[一言] 暗号もの、と言われたら解かないわけにはいきません。 と、意気込んだものの撃沈しました。どうやら私には探偵の素質は皆無のようです(笑) 毎度、そつなく事件解決へと導く吾妻さんの天才ぶりには感服…
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