幸せの配達人
ボクが届けるのは、幸せ。
それを届けるのが、ボクの幸せ。
耳が痛くなるほど蝉の声が響く中、ボクは汗を拭きながら、村でたった一つの県道の右端を歩く。
次の家は、五軒先。
一軒、二軒、三軒……。
あれ、五って三の次だっけ、四の次だっけ。
思い出した時には、今何軒目に居るのか忘れてしまっていた。
ボクはまた、最初の家に戻って、家を数え直す。
一軒、二軒、三軒…。
ボクがその役目を引き受けたのは、もう何年も前の話だ。
『チエオクレ』(多分、これがボクのあだ名なんだろう)と呼ばれ、二十歳になっても村の中で働き口のなかったボクに、突然その仕事が降ってきた。
呼ばれて村役場に行くと、かっちりした服を着てぴかぴか光る長靴を履いたちょび髭のおじさんが、難しい言葉を沢山並べた上で、ボクにその役を命じたんだ。
おじさんの言ってることはほとんどわからなかったけれど、村役場の人が、後で簡単に仕事の内容を教えてくれた。
おかあさんもとても喜んでくれた。だから、ボクはその仕事を引き受けることにした。
以来、ボクはそれをずっと届け続けている。
くる日も、翌日も、その次の日も、
村役場でそれを受け取り、
村の中の、いろんな集落の、いろんな家の、いろんな人へ。
それは、小さな、本。
片手に収まるほどに小さな、青表紙にあて先人の名前だけが書いてある、本。
それが、ボクが届ける、全て。
「オトドケモノです」
ボクから本を受け取った人は、誰もがみんな喜び、笑う。
「おい、とうとう俺にも届いたぜ、青本!」
「ホントだ、『幸せの青い本』だ!」
「今日はお祝いね!」
「兄ちゃん、おめでとう!」
そして、みんなボクの手を握り、笑顔でこう言うのだ。
『アリガトウ』、と。
ボクが配達に訪れた家では、決まって数日中にお祝いの会が開かれ、そこでは『本のあて先人』がめいっぱい着飾って、招かれた客や近所の人にたくさん祝福される。
時々、配達しただけなのになぜかボクもそこに呼ばれ、いろんな人にまた『アリガトウ』を言われ、『本のあて先人』に握手を求められて面食らうんだ。
そして、また数日中に、『本のあて先人』は、村に一つだけのバス停からどこかに旅立っていく。村人総出で見送られ、みんなからたくさんの『おめでとう』を浴びながら、顔いっぱいの笑顔と一緒に。
ボクは、この仕事が好きだ。誇りに思っている。
ボクに与えられた、唯一の仕事。
みんなに喜こんでもらえる、稀有な仕事。
ただの配達人と言われればそれまでだ。でも、この本は普通の本とは違う、幸せがつまっている。
みんなに幸せを届ける、それがボクの仕事。
だから、ボクはうれしい。
そういう仕事ができて、とても、うれしい。
ボクは漢字が読めない。だから、本に書いてあることは分からない。
表紙に書いてある文字だって、漢字は読めない。本の中はもっと漢字が多くて、一度読もうとしたけれど、途中で頭が痛くなってやめた。
配達に廻る時、ボクは必ず、村役場の人があて先をヒラガナに直してくれたリストを持っていく。それと、村の地図。何度見ても覚えられないから、これを忘れたらボクは家に帰ることもできない。
その二つと、青い本の束を持って、今日もボクは、配達に出る。
その日の最後の配達は、村はずれの、小さな家だった。
大きな家だったら、何度か配達に行ったことがあるから覚えている。でも、ここへ来るのは、多分初めてだ。
夕焼け色に染まる茅葺屋根の大戸口の前で、本のあて名を確認する。
「ナカニシさーん、ナカニシトオルさーん」
玄関戸口の前で、あて先人を呼ぶ。しばらくして、ボクのおかあさんと同じくらいの歳の女の人が出てきた。きっと、ナカニシトオルさんのおかあさんだろう。
「オトドケモノです」
いつもと同じように、同じ台詞を吐きながら、同じ笑顔で、ボクは青い本を差し出す。
そして、少し前に覚えた、(意味は分からないけれど)『ちょっと気の効いた一言』を添えた。この言葉を聞いた人は、ますます笑顔になるから。
「オメデトウゴザイマス」
その女の人は、差し出された本を見て、さっと顔色を変えた。
喜んでいる……ようには見えない。むしろそれは、おかあさんが風邪をひいたときに見せるような───。
聞こえなかったのかな。
ボクは、女の人の笑顔が見たくて、もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「オメデトウ、ゴザイマス!」
と。
ぱぁん!
ボクの頬が乾いた音を立てた。突然、女の人が平手で打ったからだ。
「イタイです!」
ボクは頬を押さえて泣きそうになる。
正直、痛くはない。
ボクの体は大きく、女の人は小さい。ただ、叩かれたことがとても心に響いて、
それが痛い。
「めでたくなんかあるもんかい!」
女の人は、泣いていた。ぽろぽろと涙をこぼして。
「具合ワルイですか? お腹イタイですか?」
ボクは精一杯の言葉で、女の人を気遣うが、
「帰っとくれ! とっとと帰っとくれ!」
女の人は鋭くそう言うと、すぐに玄関の中に入って乱暴に戸を閉めてしまった。
ボクは玄関の軒先でぼうと立ち尽くす。
何か悪かったろうか。失礼だったろうか。
『幸せの青い本』を渡したのに。
なんであの女の人は笑わないんだろうか。
それからしばらくして、その家の若い男の人(多分ナカニシトオルさんだ)が、
いつもと同じように村人に見送られ、いつもと同じバス停から旅立っていった。
でも、あの時見た女の人は、そこには居なかった。
「ナカニシの奥さんは、息子の見送りにも来ないのかしら」
「ひどい人だねぇ」
みんなが口々にそう言っていたけれど、ボクにはその意味がよくわからない。
ただ、なんとなく、あの女の人の悲しげな顔を思い出して。
少し、胸が、痛い。
「はい、これは君へ」
村役場の人にぽんと渡されたそれは、青い本。
表紙には、ヒラガナでボクの名前が書いてある。
「これ、ボクの?」
「そうだよ、来週月曜日、荷物を纏めて、役場に来なさい」
そうか。
ボクも、旅立つんだ。
この村から、どこかへ。
青い本を届けたみんなと、同じ場所へ。
「おかあさんに知らせなきゃ」
「そうだね、知らせてあげなさい、きっと喜んでくれるよ」
その日の配達が終わった後、ボクは家に帰って、まず、おかあさんに言った。
「見て! ボクにも青い本がきたよ! オメデトウゴザイマス!」
みんなと同じように、おかあさんは喜んでくれる。
その笑顔を見たくて、ボクはわくわくしながら本を見せた。
「あぁ…!」
おかあさんは、喜ばなかった。代わりに、大粒の涙を流して、そこにへたり込んでしまった。
「おかあさん、どうしたの? 青い本だよ、幸せの青い本だよ?」
ボクは一生懸命おかあさんの背中をぽんぽんと叩くけれど、
「とうとう……とうとう、こんな子にまで……」
おかあさんはうわ言のようにそう呟いて、ただ泣くばかり。
「どうしたの、おかあさん。具合ワルイですか? お腹イタイですか?」
「そうじゃ……そうじゃないんだよ、大丈夫、大丈夫……」
おかあさんはそう繰り返すけれど、あまり調子がよさそうには見えない。
そのまま、すぐに床に入ってしまった。
結局、ボクの家ではお祝いの会は開かれなかった。
しばらく、会う人会う人みんなに「オメデトウ」と言われた。それには「アリガトウ」と答えるのだということを、誰かに教えてもらった。
おかあさんは、ずっと調子が悪いままだった。心配した近所の人が、食事や洗濯などの手伝いに来てくれたので、生活には困らなかったけれど。
ボクが出発する日も、おかあさんは寝たままだった。
揺れるバスの中から、小さくなっていく見送りの村人の顔を見ながら、ボクは、随分数が少なくなったな、と、そんなことを考えていた───。
ボクが村に戻ったのは一年ほど後のことだった。
ボクはいろんな場所につれていかれて、荷物を運んだり、洗濯したりした。
ボクのあだ名は、『ヤクタタズ』に変わった。
ボクが何か失敗するたびに、『エライヒト』に蹴られたり、殴られたりした。最初のうちは痛くて泣いていたけれど、泣くとますます酷く殴られるから、そのうち、ボクは黙ることを覚えた。黙っていれば、たくさん殴られることはなくなった。
しばらくすると、一緒に暮らしていた人がだんだん少なくなっていった。
そのうち人数は数えるほどになり、『エライヒト』がムズカシイ顔をして、残った全員でまた別の、人が多い場所に移動して、そしてその繰り返し。
何度移動したのかわからなくなったころ、唐突に、ボクは村に戻るよう言われた。
『マケタカラ』と言われたけど、意味はよくわからない。
しばらく後に、その場所には誰も居なくなったと聞いた。みんながどこに行ったのかは知らない。聞いても教えてもらえなかった。
村に戻ると、おかあさんは飛び上がって喜んだ。それだけで、ボクは嬉しくなった。
しばらくして、ボクはまた仕事をもらった。本を届ける、あの仕事。
ただ、今度の本は青だけじゃなかった。緑色の本がたくさん混じっていて、青い本はほんの少ししかなかった。
ボクは気にしなかった。また配達ができる。ボクの仕事でみんなが喜んでくれる。それだけで、嬉しかった。
蝉の声の下、ボクはまた、幸せの配達を始めた。
これで元通り、全部元通り──。
でも、すぐに、ボクは自分が『幸せの配達人』じゃなくなっていることに気付いた。
緑色の本を渡し、『オメデトウゴザイマス!』と笑顔で言う。
すると、本を渡した人は、わっと泣き崩れるか、あるいはものすごい勢いで怒り出す。
「この死神め! お前があいつを連れていったんだ!」
「なんでお前だけが帰ってきて、息子は帰ってこないんだ!?」
「返せ! あの子を返せ!」
時々、酷く殴られることがあった。口の中が切れて血が出たり、頬が青く腫れることもあった。殴られるのは慣れていたけれど、泣きながら手を上げる人を見るのは初めてで、ボクはどうしていいかわからなかった。
一方で、青い本を渡した家族は、涙を流して喜んだ。
「帰ってくる! あの子が帰ってくるよ!」
多分、青い本にはイイコトが、緑色の本にはワルイコトが書いてあるんだろう。
青い本は、『幸せの青い本』のままなんだ。
ボクは漢字が読めないからわからないけれど───。
日が経つごとに、配達物に緑色の本が増えていった。青い本は、もう何日かに一冊しか配達物に混じらなくなった。
ボクは、だんだん暗い気持ちになっていった。だって、緑色の本を配っても誰も喜ばない。それどころか、ボクが殴られる回数がどんどん増えていくから。
配達中にも、後ろから突然、殴られたり、蹴られたりした。ボクはもう泣かなかった。泣くともっと酷いことになるのがわかったから。
ボクにはまた新しいあだ名がついた。『ウサバラシ』。意味はよくわからない。
青い本を配りたい、みんなに幸せを届けたい、村役場の人にそう言ったことがある。
その人は困ったような顔をして、「そうなるといいね」とだけ言った。
そして、相変わらず、青い本は減り続け、緑色の本は増え続けている。
その日の最後の配達は、村はずれの、小さな家だった。
ここへ来るのは二度目だ。
夕焼け色に染まる茅葺屋根のお宅の前で、本のあて名を確認する。
「ナカニシさーん、ナカニシタエさーん」
玄関戸口の前で、あて先人の苗字を呼ぶ。
前の家で殴られた右の頬が痛む。鼻血は止まったけれど、多分、流れた跡が残っているだろう。
しばらくして、あの女の人が出てきた。きっと、この人がナカニシタエさん。ナカニシトオルさんのおかあさん。
「……オトドケモノです」
前と同じように、同じ台詞を吐きながら、しかしボクは暗い顔で本を差し出した。
緑色の、本。
この人も、きっと泣く。もしかしたらまたボクは殴られてしまうのかもしれない。
もう、どうでもよかった。泣くなら泣けばいい。ボクを殴りたいなら殴ればいい。多分、それが今のボクの役目なんだ。
ナカニシタエさんは、黙って本を受け取った。
そしてボクに目を移し、腫れた頬をしげしげと見上げる。
最後に、一つ、深いため息。
「……お疲れ様。大変でしょう、お茶でも飲んでいきなさい」
そう言って、ボクを縁側に案内した。
ちょうど淹れかけだったらしいお茶と、湯のみと、お茶菓子。
それが何故か二つづつ。家にはタエさんしか居ないようなのに。
「どうぞ」
差し出されたお茶を見て、なんだか悲しくなった。タエさんは、黙ってそんなボクを見つめていた。
そうして、お茶から立ち上る湯気が見えなくなった頃。
「───ボクが帰って来るのは、イケナイコトですか?」
「……」
「ボクは『チエオクレ』で『ヤクタタズ』だから、他の人と別だったです」
「……」
「ボクが帰ってきて、他のみんなが帰ってこないのは、多分イケナイコトです」
「……」
「だから、ボクは今、『ウサバラシ』です」
タエさんは、黙ってボクの話を聞いてくれた。
何も言わず、ボクを責めたり殴ったりせず。
決して笑顔ではないけれど、優しい表情で。
ただ黙って聞いてくれた。
おかあさんにも話したことがないくらい、ボクは自分が見てきたことを話した。
食べるものがなくなって草や虫を食べたこと、
毎日毎日、沢山の人が倒れて動かなくなったこと、
その人たちのことを思うと、何故だか悲しい気分になること、
なぜボクがそこに居たのか、結局わからなかったこと。
「多分、ボクが帰ってくるのは、イケナイコトです」
そう繰り返したボクを、タエさんは、じっと見つめた。
そして、ぽつりと、
「イケナイコト、じゃないよ」
と言った。
それだけ、だった。タエさんは、他には何も言わなかった。
夕焼け空を見上げながら、そのまま、縁側に二人。
寂しげなヒグラシの声の中、ボクとタエさんはぼうと座ったまま。
「──ボク、帰らなきゃ」
辺りが暗くなって、静かに虫の声が響きだす頃、ボクはそう言った。
「そうだね、もうお帰り」
タエさんは少し微笑んで、縁側に座ったままボクを送り出した。
門を出る時に振り返ると、タエさんは少しだけ手を振ってくれた。
帰り道、星空を見上げながら、思う。
ボクが届けるのは、幸せ。
それを届けるのが、ボクの幸せ。
───だった。
───今は───?