第17話
「エルザ、あなたはとても聞き上手な女性ですね。…また会っていただけますか?」
「はい!もちろんです。」
「良かった…」
別れ際にそう言って微笑んだ彼の顔が頭から離れなくて、床に就いてから大分たつというのになかなか寝付けなかった。
お母様は初めて会ったその日に彼と2人きりにする事に反対だったようで、『大丈夫?』としきりに聞いてきたが、とても楽しかった。と答えると安心したようだった。
「それにしても、もしも私がダニエルを嫌いで、呼び捨ての事を両親に言っていたら両親は怒って婚約を取り消したかもしれないのに。それを初対面で言っちゃうなんて…」
途中まで呟いて、気がついた。
「もしもダニエルが嫌いで?…今そう言ったのよね私。ってことは…」
考えて急に耳元が熱くなるのをかんじた。
その後のことはよく覚えていない。
その日から私は毎日がたまらなく楽しくなった。あんなに嫌いだった勉強も何か一つ知る度に彼に近づけると思うと嬉しくてたまらない。そのうち褒められることが多くなると私自身の心が『学ぶこと』を好きになっていることに気がついた。
もっと勉強したい。そんな気持ちが日々大きくなっていく。
「お父様…私、高等教育を受けようかしら…」
そして、その大きな気持ちが自分の心の中だけに収まりきらなくなって、なんでも無いことのように口から外に出て行ってしまった。
「なんだと?」
しまった。つい、うっかり…
「あ、これは…その…」
何を言ってるの、私ったら!こんなこと言ったら…
「エルザ!何を考えている!?高等学校だと!?」
「あなた、落ち着いてください。」
ほら、こうなった。もう、どうしてあんなこと言っちゃったのかしら…
「落ち着けるものか!女のお前が高等学校に行くだと?ふざけるな。せっかく縁談もほぼ決まっているというのに。いいか、エルザ。もしお前が高等学校に行くとしたら、縁談は白紙になるだろう。それでも良いのか?」
何も言えなかった。そうだ。高等教育過程に行くとしたら3年間寮に入らなきゃいけないんだ…ダニエル様との縁談はなくなってしまうかもしれない…それは…
「分かったな、エルザ。2度とそんな事を言うんじゃ無い。明日ダニエル殿がうちに来ることになっている。それまでお前は部屋を一歩も出るな。」
「え?明日!?」
「そうだ。学校の方に戻るから挨拶に来るそうだ。良いか?ダニエル殿と結婚するか、高等教育過程に行って婚期を逃すか、よく考えなさい。…まぁ、答えは一つに決まっているがな。」
女の結婚適齢期は17歳くらいまで。でも、高等教育過程を卒業するのが18歳。行き遅れる可能性は高い。それに…私、ダニエル様と一緒にいたいんだもの。
私が18歳の頃には彼は21歳。官吏の仕事をする人がそんな年まで独身だなんて、そんなに聞かない。
やっぱり、結婚…しなくちゃダメよね。
いままでもきっとこうやって悩んだ女の子が沢山いたんだろうな。そうして、勉学の道を歩むことをやめたんだ。
これで、いいのよね。…そう、これでいいんだ。
翌日、挨拶に来た彼は私の家族とともに昼食をとり、それから私に用があるといって少し残る事になった。
「これです。」
「本?」
「この間の話や頂いたお手紙で、あなたは外国にとても興味があるように思ったので…この世界の多くの国についてまとめられています。とても面白いと思います。…受け取っていただけますか?」
「すてき!もちろんです。」
「良かった。」
「少し見てみても良いですか?」
なんて素敵なプレゼントだろう。本の中にはカラフルなイラストで様々な国々の衣服や、特徴的な風景、年中行事や特異なしきたりなどが沢山書かれていて、私にとってそれはまるで見たことのない宝石がいっぱいにつまった物に思えた。
そして、胸にぽっかりと穴があいた気がして手を当ててみると、そこに水滴がぽつんぽつんと落ちてきた。
「涙?…どうしたのかしら、私。」
「エルザ?どうしました?」
「ご、ごめんなさい。ダニエル。分からないの、何故か分からないけど涙が止まらない…」
彼はあきらかに慌てていた。
違うの。貴方が何かしたわけじゃないの。
そう伝えたいのに、次から次へと涙が溢れてくるせいで、本に落ちないように、急いで拭くのに精一杯。
「エルザ…そんなに目をこすらないで。美しい瞳が傷付いてしまいます。」
「でっ、でもそうしないと本が濡れてしまいますもの。」
「エルザ…では、涙が収まるまで私が持っていましょう。」
「嫌です。ダニエルから頂いた本ですから、私ずっと持っています。」
自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。ただただ混乱していて、どうして涙が出るのかも、どうしたら涙が収まるのかも何も分からなかった。
その時、私の頬にダニエルの柔らかな髪が当たったと思ったらあっという間に私の視界は真っ暗になった。
抱きしめられている、と気づいたのはしばらく後のことだった。
「どうぞ、私の服で涙を拭いてください。あなたが落ち着くまで、ずっと、こうしていますから。こうすれば、本はもったまま涙を拭けます。」
彼は私を抱きしめつつ、ずっと背をさすっていてくれた。
「さぁ、ゆっくりで良いですから、何があったのか教えてください。」
優しく響く彼の声に抗う事は考えなかった。上手く伝えられてはいなかったと思うけれど、自分の考えを全て話していた。
「エルザがそんな事まで考えてくれていたとは…一人で悩ませてしまって、辛かったでしょう。」
「そんな…ただ私、このまま黙ってあなたと結婚したら、きっといつか立派な貴方の隣に立って生きていく自信が無くなってしまう気がして、でも貴方を諦めるのは嫌で…でもこの、貴方にふさわしくないままで、嫌われてしまうのも怖くて…ごめんなさい」
もしかして、私今とても恥ずかしい事を口にしているのでは、と今更ながらに気がついて、ダニエルの顔を伺ってみると何故か彼の口角があがっていた。
「おかしい…ですよね、私…」
「いえ、エルザ誤解です。貴方が苦しんでいる時に不謹慎でしたが、私は少し嬉しく感じてしまいまして。貴方が僕のことをそんなに考えていてくれたのかと思うと、ね」
「え?」
「貴方に出会えて、私はなんて幸せ者でしょうか。貴方の思いを聞いてからこんな事を言うのはずるいかもしれません。でも、きっかけは政略的な物でしたが、私は貴方を愛しています。もう、僕の隣には貴方以外の女性は考えられない。」
今、彼はなんと言ったかしら。
「だから、安心してください。僕は貴方をいつまでも、待っています。私の父も、もちろん貴方のお父上も私が説得します。貴方はやりたいことをやりたいようにやってください。」
「ダニエル…」
「その代わり、私の所に戻って来てくださると、私の妻になってくださると、誓っていただけますか?」
「はい。私で良いのなら、喜んで。」
「よかった。」
彼は、もう一度私を抱きしめた。驚いて止まったはずの涙も、再び溢れた。
確認なんてしなくても、私も、彼も、お互いに幸せに包まれていた。
しかし、私がこの誓いを守ることは、無かったのだ。
その証拠にエルザ・ローレンスは今後宮の住人となっている。




