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桜道夜行

作者: 赤城 十一

『ゴメンナサイ。好きって気持ちにはなれないみたい』

 手に持っていた携帯には、そんなメールが届いていた。ため息が自然とこぼれる。吐き出しているはずなのに、何も変わらないのが滑稽だった。

 告白して、フラレタ。それなりに重大なはずなのに、なんていうかよくわからない。気持ちの整理が付いていないせいだろう。

『告って、フラレタ』

 そんなメールを沙希に送った。

 少しだけ肌を震わす風が吹いた。屋上にいるせいか、通学路を歩いている時よりもいくらか強い気がした。あまり人が来ないせいか、埃の匂いが鼻に付いた。

 乱れて目にかかる髪を手櫛で直していると、携帯が震えた。液晶を見ると、沙希からの電話だ。僕はプッシュボタンを押して、耳に当てた。

「もしもし、伊織」

「ああ、どうした、沙希」

「どうしたも、こうしたもないでしょう。メール見たよ」

「ああ、うん。ありがとう」

「バカ」

 沙希はそう言って、鼻で笑った。

「アンタって本当バカだよね。きっと勢いで告白したんでしょう。で、フラレテ、気持ちを持て余しているってとこでしょう。本当、バカ」

 沙希の言葉は罵りなのに、悪い気はしなかった。事実というのも有るし、それだけじゃないのも知っているから。

「本当、どうして、私に相談しないかな。0%くらいだった可能性が30%くらいにはなったのかもしれないのにさ」

 幼い失敗をとがめるような、少しだけ年上目線の呆れた口調。沙希はいつだって、言葉の中にやわらかなぬくもりを隠している。それは心地よい温度で、僕の冷えた部分をあたためてくれる。

「うん。かもな。そうかもしれない。そうだな、きっとそうなんだよな。でも、なんか言っちゃったんだ」

 なぜと言われると、上手く形にできない。

気持ちに輪郭を与えたかっただけかもしれない。確かなのは思いを伝えたかったということ。それだけは確信を持って言える。

「きっと伊織は、怖かったんだろうね」

 静かな海に流れる潮騒のような、小さなけれど消え入らない存在感を持った声音が耳朶を打った。

「アンタ、バカだからさ、気持ちを伝えようと思ったらそれしか目に入らなかったんじゃない。成功や失敗よりも、そっちを大事にしてさ。それが悪いこととは思わないけどさ。でもさ、だから、きっと伊織は怖かったんだよ」

 言葉の一つが一つが見えないカタチになって、胸に流れ混んでくる。それは確かな面立ちを伴って、少しずつ、けれど確実に、質感を持とうとしていた。

「きっと、伊織は気持ちを抱え切れなかったんだよ。ちゃんと受け止めて、好きだって言えなかったんだよ」

「――逃げたってことか」

「うん、そうだね。だから、さっさと吐き出したかったんじゃない。そうすれば、どんな結末にせよ終われるから。ちゃんと伝えたって、告白したんだって満足感も得られるしね」

 教室で彼女が笑っている姿を見るのが好きだった。他の女子より少しだけ高い彼女のソプラノは、耳に心地よかった。彼女と交わす他愛のない会話がとても楽しかった。

 けれど、それだけではなかった。笑っているそばに誰かがいると嫌だった。声が自分に向けられていないのは寂しかった。僕以外の人と話しているのは、辛かった。

 春の日差しに解けていく雪だるまのように、痛みと呼ぶには甘い刺激はじんわりと僕を妬いていった。それに、耐えられなかったという話か。うん、そうかもしれない。結局、僕が弱かっただけだ。

「でも、それが伊織の良いところかもね」

 落ち込んでいると、慰めるようにゆっくりとした口調で、少しだけ微笑むように、沙希が言った。

「アンタはさ、キチンとしすぎなんだよ。あいまいでいるのが難しくて、ちゃんとしたカタチに持っていこうってしすぎる。別にさ、グチャグチャだっていいんだよ。それもまた一つのカタチなんだから。でもだからかな、伊織のその生真面目さはきれいだと思うよ。ちゃんと骨組みが合って、中身が有る、もらったほうも安心するような、そんな気持ちだと思うよ」

 静かに落ちていく。沙希の一言一言が、確かな確信を持って降り注いでいく。それはなにもかもを無視して、心の一番奥に届いていた。笑みが自然と浮かぶような、やわらかなぬくもりを持って。

「好きってことを上手に処理できなかったかもしれないけどさ、でも、アンタの好きはちゃんと届いていたんじゃないかな。まっすぐに、伝えたい想いとして。だから、胸を張っても良いんじゃない。アンタは逃げたけど、きっとけじめをつけてから逃げたと思うから。好きって気持ちは好きってカタチで受け止めてもらえたと思うからさ」

 空に少しだけ近い校舎の屋上。吹きつける風は冷たくて、強い。けれど、その冷ややかさと激しさがどこか心地よい。それはきっと傷ついているからで、別の傷でごまかそうとする様な、そんな自傷で。

いくら傷口を増やしても痛みは消えないと知ってはいても、どうしようもない、そんな時。

沙希はただ癒してくれた。間違っていなかったと、良かったんだと、教えてくれた。生傷が傷跡になるための薬を授けてくれた。

僕は目をつぶる。今告げたい言葉を思い浮かべて。確かなカタチで届くように。

「ありがとう」

 

 沙希は僕のいとこで、年齢は二つ上だ。家はおとなりさんとはいかずとも、歩いていけるので、ボーイッシュで面倒身のいい彼女とは子供の頃からよく遊んだ。僕達は仲が良かった。

 アレは僕が小学校に上がったばかりで、風に桜が舞う、ちょうど今時期の頃だった。

 その当時近所には、人なつこい猫がいた。人間がいると、自分から近づいてきて、指をなめるような愛嬌があって近隣の住人には人気があった。

 僕と沙希もその例にもれず、二人して放課後は猫と遊んでいた。

 きっとこの時なにも起こらず、熱が覚めるように猫との距離が冷めていけば、僕と沙希の間も遠ざかっていただろう。

 結論から言えばそうはならなかったのだけれど。なにかは起きてしまったから。


 猫の紙やすりを思わせるざらついた舌が、僕の手をなめた。痒いような触感は得意ではなかったけれど、なついてくれていることの証だと思えば嫌な気分にはならなかった。

 川からは理科室のような匂いが、漂ってくる。濃い水草の香りだ。まだ春になったばかりのせいか、河原の草花は発育が遅く、それが拍車をかけていた。

 僕と沙希は土手に群生している、色の薄い雑草の上に座り、猫とじゃれていた。

「かわいいね。なんでこんなかわいいんだろうね。ああ、もう、かわいいね」

 沙希は頭をなでながら、顔を喜色の笑みでいっぱいにしている。

 今も昔もショートな髪に、大きめではっきりとした瞳、整った鼻梁に唇、格好は白のジャケットにジーンズだ。美人や、かわいいなどの形容詞が似合うタイプなのだが、雰囲気や言動のせいでなかなかそうは見られないのだが、たまにこうして本来の姿とでも言うのか、少女らしいところが顔を出すときがある。

 僕はその姿が嫌いじゃない。見つけると意味もなく口元に笑みが浮かぶくらいには好きらしい。

「沙希、そろそろ帰る時間だぞ」

 傾いた日は茜色に世界を染めていて、ちょうどこの時期ならば子供が帰るにはちょうどいい時間を指していた。

「えー、もうちょっとだけいようよ!こんなにかわいいんだよ」

「ダメだ。昨日もそう言ってたのに、帰ったのは真っ暗になってからじゃないか。また母さんに怒られるのは嫌だよ」

 さすがに連続で叱られるのはごめんな様で、沙希は眉根をよせて顔をしかめている。

 一分くらい経ってからだろうか、猫を抱き上げその背に顔を埋め目をつぶった。呼吸を数回重ねると、踏ん切がついたのか、小さく、帰ろうかと言った。僕は頷き、帰路についた。

 明日があるのだと、僕らは疑わなかった。疑えなかった。失うことでしか得られることができないというのなら、きっと今までなにも失ってなどいなかったのだろう。それくらい僕らは幼かった。いとけない、ただ遠く、いとけなかった。


 次の日猫と別れた場所に行くと、そこには死体があった。

 所々血だらけで、陥没している箇所もあった。無防備なところを思いきりなんども蹴れば、こうなるかもしれない。倒れようが、鳴声をあげようが、ためらなわければ。一目で殺されたのだとわかるものだった。

 僕はなにも言えなかった。言葉が見つからなかった。

 どうすればいいのかわからず、助けを求めて隣を見ると、沙希は無表情でしゃがんだ。そして、触れるのをためらうかのように指先が亡骸の前で止まった。

「ねえ、私は触ってもいいのかな」

 それは誰かに問うているようでもあり、答えなど求めていないようでもあった。自らの中から模索している真実を見つけるため思わず口にしたような、雰囲気だった。

「この子はさ、勝手に殺されたんだよね。誰かのわがままで、傷つけられたんだよね。痛かったよね。怖かったよね。辛かったよね。この子は私達に裏切られたんだよね」

 自分に近づいてくる人間に、猫は疑うことなどなかっただろう。いつもしているように、そばによってじゃれようとしただろう。僕らにしているように。それ以外の反応なんて知らずに。

 確かに猫は裏切られたのかもしれない。それは間違いじゃない。けれど、だから正しいとは言えない気がした。

「猫はさ、遊んでほしかったんだよ。指をなめたり、お腹をなでてもらいたかったんだよ」

 上手く伝えられる自信はなかった。

「きっと、楽しかったんだよ。嬉しくて、喜んでいた。またなんどもそうしたいって思ったんだよ」

 言葉はつむがれていく。まるで意思を持っているかのように、自然と胸の奥から溢れ出てくる。

 猫は近づいてきたんだ。強制されたわけではなく、自分の意思で。それが悲劇だったのは間違いない。でも、猫は信じていた。

「猫は僕らのことが好きだったんだよ。だから、他の人間のことも信じたんじゃない。――触ってあげなよ。絶対に喜ぶからさ」

 根拠のない淡い願いにどれだけの力があったのかはわからない。どれほどの真実があったかもわからない。けれど、沙希の腕は動いた。まるで幼児の歩みのように緩慢でぎこちなかったけれど、前に進もうと必死にあがいていた。

 沙希の指先が触れたとたん、とまどうように揺れた。

 不確かに肌を濡らす春先の雨のような沈黙が流れた。やがて窮屈な檻を開ける鍵のように、ぬくもりに満ちた声が聞こえた。

「ごめんね。ごめんね。ありがとう」

 沙希はそう言うと、猫の亡骸を抱いた。服に血がついただろう。毛先にこびりついた血液や体の冷たさに哀しみを覚えただろう。昨日と同じで違うその現実に、打ちのめされただろう。けれど、沙希はなにも顔に写さなかった。苦悩も悲痛も怒りも。しかしそれは、無表情というのとは違った。白いキャンパスに筆を幾重にも重ね、結果さまざまな色彩で溢れなにも描くことができなくなったような、そんな顔だった。

 なのに、沙希はとてもやさしい手つきで、猫の頭を撫でた。己が溶けながらも染め上げていく雪化粧のような、痛々しさが溢れていた。

「私、ずっとあなたのことが好きだよ」

 やさしさが余裕から生まれるものだとしたら、壊れるまでにはどれくらいの猶予が有るのだろう。永遠という言葉はきっと存在しない。けれど、沙希の言葉には確かな温度があった。雪が水でも氷でもなく雪でいられるのと同じように、やさしさがやさしさとしてあり続けられる不確かで確かな、あたためるだけのぬくもりがあった。それはずっと変わらないようなそんな気配を携えていて、ただいつまでもあたたかだと思えてしょうがなかった。だから僕は沙希から離れないと誓ったんだ。

 とても貴重で、大切な物だと知っていたから。同時に壊れやすいものだと理解していたから。誰かが見守らなきゃいけないとわかっていたから。

 もっともたいして、役には立たなかったけれど。沙希は今家から出られないでいた。沙希は今ひきこもっている。


 沙希から電話があったのは、真夜中だった。当然のごとく僕は眠っていた。起こしたのは、枕元においてあった携帯だった。寝ぼけ眼でとりあえず出ると、沙希の声が聞こえた。

「あ、ごめんね、こんな遅くに。寝てたよね。ゴメン、ゴメン」

 軽い口調はいつもの物だったけれど、いつもと違って声音に余裕がない様に感じた。

「いいよ、寝ていたけど。おかげさまで目が覚めたからさ。なにかあったの?」

「あ、うん、ちょっとね。まあ、女には色々あるってことだよ」

 歯切れが悪い。まるで、迷っているようだ。

「なにかあったんだろう。僕でよければ聞くよ。溜め込んでいると体に悪いし、気休めかもしれないけど、吐き出すと多少は楽になるぞ」

 息を呑む気配が電話越しから伝わってくる。沈黙が流れていく。雪が降るような音のない、けれど、消え入らない硬質な存在感を携えて。

「なんかさ、辛いんだよね」

 なにがかは言わなかった。僕も聞こうとは思わなかった。何もかもなんだろうと感じたから。

「家に閉じこもるってダメだね。悪いことばかり考えちゃうよ。妄想が広がるって言うのかな」

 苦笑するような気配が電話越しから伝わってくる。笑うことで痛みを和らげようとする、不器用な痛々しさがはっきりと見えた。

「沙希。無理するなよ。取り繕っても、苦しいもんは苦しんだからさ。無理やり、笑わなくてもいいよ」

「――ああ、バレバレですか?」

「ええ、バレバレです。お前は良くも悪くもシンプルだから、わかりやすいんだよ」

「シンプルね。女の子に言うセリフとしては、減点-15かな。普通は素直って伝えるもんだよ」

「素直、ねえ。僕は正直者だから、思ったことをストレートに口にしてしまう質でね。次があるなら、気をつけるよ。まあ、なんだ。――吐き出しちゃえよ」

 悩んでいることはきっと、いくつもあるんだろう。そして、その全てに答えがあるわけじゃないのだろう。だから、言ったとしても僕になにができるわけでもない。それでも、それでもなんだ。

気持ちはいつだって声に出さなきゃ、カタチにならない。汲み取ることはできるけど、正しいかどうかなんてわからない。辛いなら涙を、怒っているなら怒声を、喜んでいるなら笑顔を、伝えたいのなら言葉を。気持ちはいつだって、そうやってカタチになる。

 静寂は風に揺れる草木のような、揺れる不確かさを内包していた。僕は待った。そして、沙希は口を開いた。

「どうすればいいのかな。どうしたいのかな。迷っているのかな。答え見つからないんだよね」

 僕は沙希がどうして、引きこもっているのかは知らない。周りの大人からある程度の情報は聞くことができたけれど、殊更耳にする気はなかった。わかったところでなにもわからない。沙希の理由を僕は本当に理解できるわけでもなく、半端に理解していいものでもない。今僕にできることは沙希の答えを聞くことくらいだ。

「私さ、実はなにも問題なんかないんだよね」

 漏れた言葉はため息のような、どこか疲れた響きと、ようやく吐き出せたような響きが合わさっていたように感じられた。

「いじめなんか、どこにもなかったし。友達だっていないわけじゃないんだ。携帯には心配して、連絡来るしね。お母さんやお父さんも好きだよ。それに、伊織だっているし。だから、きっと問題なんて、ない。でも、なんかダメなんだよね。ここから動けないんだ。恐れて、立ち止まっているのかな」

 苦笑が耳朶を打った。自分でもわからないからこそ仕方なく笑うような、諦めた気配がそこにはあった。

「いじめがないから、友達がいるから、家族や僕と仲がいいから、前に進めないんじゃないか」

 色んなものを持っているからこそ、その重みに囚われ動けない場合もあるんじゃないだろうか。なにもないからではなく、あるがゆえの不自由。

「最近わかったんだけどさ、告白ってなにかを手に入れるためじゃなくて、捨てるためにやるものなのかもしれないね。握った手じゃ、新しく掴むことなんてできやしないんだよ。一回手を、開かなきゃいけないんだよ」

 荷物が邪魔になることなんてあって当たり前なんだ。それがどんなに大事で尊いかなんて関係ない。煩わしい時は煩わしくて当たり前なんだ。でも、そう割り切るのは難しい。無くしてしまうことは、誰だって恐ろしい。手放したから、得られるなんて保証はどこにもない。けれど、変化は訪れる。

「好きだって言うことで、好きじゃなくてもよかった僕を捨てた。あいまいでいることはできなくて、結局終わってしまったけどさ、でもまあ、フッキレルことはできたよ。沙希も変わろうとしているんだろう。ただ、捨てるのが怖いんだろう。多分今は迷う時期なんじゃない。考えて、考えて、考える。そうやって、水をまいているんじゃない。きれいな花を咲かすためにさ」

 僕が告白したように答えなんて物は必ず出る。ただそれまでに時がいるだけで。その時間ももしかしたら必然なのかもしれない。意味のない、光のない日々で迷うからこそ、やがて、答えは見つかるのかもしれない。空っぽだからこそ詰めいることができるように。

「伊織、ありがとう。まだよくわからないけど、なんだか、楽になったよ。ほんの少しだけど、笑っちゃうくらい細いもんだけど、光が、見えた気がするよ」


「こんばんは。どう、元気?」

 あの日の電話から一週間後、夜半過ぎ自室で本を読んでいると、電話が鳴った。沙希からだった。出てみるといつもと調子がわずかに違い、ノイズのような賑わいが耳に届いた。

「沙希、今どこにいるんだ? もしかして、自宅じゃないのか」

「当たり。今、散歩中。風が気持ち良いよ」

 自室の部屋から窓を見ると、穏やかに街路樹が揺れていた。それは頼りない街灯が照らす夜の闇を、少しだけやわらかに彩っていた。

「大丈夫なのか?」

「ねえ、昔いた人なつこい猫のこと覚えている?」

 僕の問いは質問で返された。内容がこの場には関係無い唐突なものだったから、返答が遅れた。

「遅くまで遊んでいて、母さんに怒られたな。そんなことより、外に出てお前平気なのか!」

「あの時、いつもと同じ日々が有ると思っていたのに、なかったあの日。私は、がんばろうって思ったんだよ。大切なモノがいつどうなるかわからないから、無くさないように、無くしても後悔しないようにって。自分なりに一生懸命だったんだ。そしたらね、壊れちゃった」

 過ぎ去ってしまったことのように、沙希は言った。まだ過去になりきれていないのは、明らかなのに。

 沙希は心を吐露していく。それは少しだけ自分と折り合いを付けることができたせいかもしれないし、今は夜で外の空気に、春の気配に、抱かれているおかげなのかもしれない。

春の夜はときおり魔法を使う。人気のない静かな夜は、一人なのだと、誰も傷つける者はいないのだと淡くささやく。潤んだような月の輝きは、花の香りを含んだ春の気配に溶け込み、頬をなぜるあたたかな風と共にキモチを素直にさせてくれる。

「容量っていうのかな。それとも、割合っていうのかな。哀しいけどさ、皆同じように接することなんてできないんだよね。私は、それを認められなかった。だから、逃げたんだ。責められる気がしたんだよ。誰も何も言わないけど、私の心がね、叫ぶんだよ。それでいいのって。その付き合い方で正しいの? いなくなったら後悔しないの? そんな風にさ、人と会う度に考えちゃうんだよ。それが重たくてさ、人から逃げた。会わなければ、問題はないからさ。でもそれじゃ、なんの解決にもならないことはわかっていたんだ」

 静かに語られる心の欠片は、僕の胸に積もっていく。そして、確実に築かれていく。沙希の心が、想いが、確かなカタチとなって届いていた。

「伊織、桜の花はきれいだね。微かに、甘い香りもするよ。大丈夫かって聞かれると、大丈夫とは答えられないけどさ、でも、楽しいよ。こうして、外に出て良かったって思えるよ」

「沙希はさ、不器用だよね。なんでも器用にこなせるから、よけいになんだろうね。もっと、楽に生きればいいのにって思うよ。考えすぎだともね。でも、それが沙希のカタチなんだろうね。骨組みから肉付けまで、ひたすらまっすぐで、驚くほど丁寧で、だから壊れやすい。でも、すごくあったかい36.5度のぬくもりがどこまで染み渡っている。お前のカタチ好きだよ。一回壊れたかもしれないけど、また作ろうよ。一人で不安なら僕も手伝う。今度は支えるよ。例えまた同じカタチになったとしても、もう壊れるようなことはないよ。だから、がんばろう」

「うん、ありがとう。期待している。でもさ、立ち直ることってできるのかな。そこでお終いじゃないのかな。植物は折れても新しい枝を伸ばすけど、でも古い部分は取り残されるよね。雪だってもう一度凍っても氷になるだけで、元には戻らないよね。古い自分とはお別れしてさ、新しい自分を見つけなきゃいけないのかな」

 声は明るく、不安を笑い飛ばすような雰囲気に満ちていた。けれど、どこか空々しく聞こえたのは、気のせいじゃないだろう。

 僕らは傷ついていく。たわいないことかもしれないし、誰もが致命傷を受けるようなものかもしれない。それに傷は癒えたとしても、痕は残る。元通りなんてことはない。でも、元通りなんだと僕は思う。

「痛みを忘れなくても、いいんじゃないかな。きっと何度も何度も、痛い思いをするさ。そのたびに取り替えるように新しい物を探していたら、キリがないよ。ここにいるんだよ、僕らは。なにもかもを残してさ。傷痕も変わっていくんだよ。最初は赤いみみずばれの様なものだったりするけど、時が経つと腫れも引き小さくなる。そしてやがて、体の一部になる。そういう風に新しくなっていくのもありなんじゃないかな」

 痛みを抱えるのとは違う。痛みを忘れずにいるということ。それは痛みから逃げないということだ。辛いことかもしれない。最初から見限って捨て去る方が楽かもしれない。けれど、覚えているからこそ僕らは克服できるんじゃないだろうか。痛みを知っているからこそ、新しい自分を見つけるんじゃなく、創ることができるんじゃないだろうか。

 電話から聞こえるノイズは騒然としていて何の音かよくわからない。世界中の桜が大地に散っていくようなそんな音だと思った。そして聞こえる足音があまりにも小さいから、そのたくさんの花びらの上を歩いているのだと思った。散ってしまった無数の花びらは月の光を受けて淡く輝き祝福するように、ずっとずっと遠くまで沙希の歩む道に続いているのだろうと思った。


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