♭(半音さがる)
死についての表現があります。暗いです。苦手な方はきをつけてください。そしてここにあるのはあくまで、作者の世界です。他の世界の概念や考えなどを否定するきはさらさらありません。
「マイナス思考ってね、疑うってことなの」
微笑みながら彼女は言った。
「例えば、私が今からここを飛び降りようとしたとする。そのときあなたは昨日見たお笑い番組を思い出して笑うの。それを見て私は思うわ。あぁ、この人は私に死んでほしかったんだわって。それってあなたの事疑ってるってことでしょう?」
「もう少し、ましな例えはなかったのかい?」
僕は彼女の微笑みから目が離せない。
「あら、素敵だと思うのだけれど」
そう言って、屋上のフェンスの向こうで彼女は空を仰ぐ。
「だって、そんな状況でお笑い番組の事思い出す人間なんてそうそういないし、何より僕の家に、テレビはない」
そして、ゆっくりと両手を広げた。まるで今すぐ飛び立たんと言わんばかりに。
「もう、いやなの」
僕の瞳は相変わらず彼女を捉えたまま。
「だれかを疑うのは。いやなの、誰かを傷つけるのは。いやなの、いや、いやいやいやいやいや、私は、私は、私」
そして彼女の耳に僕の声は届かない。
「違うね、君は、自分が傷つくのが嫌なんだ。思い通りにならないこの世界で」
「一人は怖い、いや。独りぼっちはもう嫌なの。誰かいてくれなきゃ。なにも満たされない。誰にも満たされない」
彼女に届くのは、彼女自身の声だけ。
「人は欲張りになるわ。だから満たされない。そんなの嫌、いやなの」
彼女が捉えるのは彼女自身だけ。
「なら、終わりにすればいいと思うよ」
近道なら、そこにある。
ほら、1,2,3 ゆっくりと彼女は飛び立っていった。
僕の瞳はそれでも彼女をとらえ続ける。
♭
人間の本質はもともとは善であるという考え方と悪であるという考え方がある。
答えがどちらなのか私たちは知らない。し、そんなのどうだっていい。
ただ、昔から思い通りにならないことはきらいだった。
頭の中に自分なりの道筋を立てる。
けれど他の誰かのせいでその道筋が崩れる。そういうことが大嫌いだった。
そうなると、その邪魔をした相手を疎く思う。相手に何の罪もないのに。そう考えると、人間は善ではないのかな、とは思う。
けれど。
そもそも善とは何なのか?それこそその概念そのものが人間から生み出されたものなのだから善悪なんて簡単にひっくり返る。
今の日本で人を殺したら悪、戦場で敵を殺したら善?本当、なんてしっかりとしない世界なのだろう。
だから、私は、この世界という枠組みから外れることにした。
自分を殺すことにしたのだ。
「自分を殺すって言ってもね、自殺は嫌なの」
夕日の入りこむ教室で僕と同じ顔をした少女はつぶやく。
「だって、かっこ悪いじゃない?事故とかそんなのもいや」
同じ顔として17年も生きてきたのだから彼女の顔がわからないということはないのだけれど逆光のせいで真っ黒に塗りつぶされた彼女を見ていると目の前にいるのがだれなのかが分からなくなりそうな感覚に陥る。
「じゃぁ、どうするんだい?」
「存在を消すの」
彼女は感情のない声で呟いた。
しかし、表情は笑っている。
相変わらず顔は見えないのだが、それでも僕はなぜか彼女が笑っているのがわかった。
「例えばね、事実上死んだとする。でも、その人の事を覚えている人がいる。親だとしても恋人だとしても、それこそ有名人や昔の偉人だとしても。存在していたかわからないような歴史上の人物でさえ記憶の中にあればそれは生きていることになるわ。かっこいい言い方をすれば心の中では生きている、ね。逆に誰にも知られず1人で生きている誰かがいるとすればそれは生きていると言えるのかしら?」
淡々と自分の考えを述べる彼女の声に僕はただただ声を傾ける。
彼女は自分の概念というものをしっかりと持っているから反論したところで無意味だし、何より死という概念そのものが曖昧なのだから、彼女の考えも一理あると思う。
いつか読んだ恋愛小説にも
「私の事、忘れないでね」
というような台詞があった。
細かく言うと違うのだろうけど大きく言うとそういうことなのだろう。
けれど。
「もし、君の考えで君が死のうというのなら」
僕はそっとつぶやいた。
彼女は僕を見ない。
僕も、彼女をみない。
否、見えなかった。
「存在を消すというのは簡単なことではない。それこそ、催眠術や魔法で人の記憶を操るか、関わった人間すべてを消すか、しかないんじゃないのかい?」
まだつづきます。