【第九章】 エピソード オブ セミリア・クルイード
修正 台詞部分以外の「」を『』に統一
~ flashback scene ~
サントゥアリオ共和国、サントゥアリオ本城から南の方向に大きく外れた森の中には小さな村があった。
木々に囲まれ、辺境であることから外部の人間が立ち入ることはほとんどなく、三十にも満たない住人達は人知れず平和に暮らしている。
この村に名前は存在しない。
その理由はただ一つ。
国に認知されておらず、その存在を知る者がいないからだ。
それゆえに村人達はこの場所に暮らすことが出来ている。
もしもこの国の民達に存在が知られたならば村人達は済む場所を追われることになることを村人の誰もが理解していた。
この村に住む者の全てがサントゥアリオ王国に生まれた民の末裔ではなく、この村に住む者のほぼ全てが本来は別の国に生まれた民族の血を引いている。
その国の名はバルカザール帝国。
世界にただ二つしかない亡国の一つであり、他の国からは消滅した国として知られているバルカザール帝国はかつて冥王龍と呼ばれる伝説のドラゴンによって国土もろとも消し去られたという悲惨な過去があった。
その後サントゥアリオ王国に移り住んだ帝国の生き残りの者達にまともな人権が与えられたことは歴史上ただの一度もない。
奴隷として、或いは娼婦としてのみサントゥアリオの地で暮らすことを許され、その非道はやがて争いを生んだ。
二度の戦争を経てサントゥアリオ共和国と名を変えた王国にあってもバルカザール帝国の末裔であるピオネロ民族は差別と迫害の対象であることが変わることはなく、ある一つの地域でのみ生活を許されている状態が今なお続いている。
この村に暮らしているのはその末裔ばかりであり、今も恨みを忘れていない大多数の同族が暮らす土地から離れただ静かに生きることを望んだ者達だった。
町に出て生きる糧を手に入れることも出来ず、農作物や川で取れる魚で自給自足の生活を続けている。
そんな村人の中に、唯一ピオネロ民族以外の血を持った兄妹がいた。
薄い青色の瞳を持つその兄妹はピオネロ民族の母とサントゥアリオ王国の民の末裔であるガナドル民族の父を持っている。
その瞳は本来ピオネロ民族にもガナドル民族にも受け入れられるはずのない存在であることの証明。
しかし、この村ではそれでも受け入れられる。
住民の誰もが歴史を顧みず、復讐心を持たず、ただ人として生を全うすることを望んでいるのだ。
これはその兄妹の妹にあたる一人の少女の幼き記憶であり全てを失った日の記憶。
名はアイミス・ヴェルミリオ。
のちにセミリア・クルイードと名を変え、勇者として名を馳せる少女である。
○
少女が薄く目を開くと、いつもの低い天井が目に入った。
継ぎ目の粗い壁の隙間からは太陽の光が差し込んでいる。
隣にも、隣のベッドにも人の姿はなく家には自分一人しか居ないのだということにすぐに気付いた。
その少女アイミスは体を起こすと、少しの寂しさと不満を胸に銀色の髪を軽く解くと慌ただしく家を飛び出していく。
外は良い天気だ。
十一の家屋と約三十の住人がいるだけの小さく、名もない村は今日も長閑な時の流れの中にいることが分かる。
家の外に出ると、何人かの女性が畑仕事をしているのが目に入った。
その中に母の姿を見つけると、アイミスは真っ直ぐに駆け寄っていく。
「母上っ」
「あらアイミス、おはよう。朝ご飯は食べた?」
母は屈んでいた姿勢を正すと、アイミスに微笑みかける。
銀色の髪が日光にきらりと輝く、綺麗な母だった。
母から受け継いだ銀色の髪をアイミスは誇らしく思っている。兄は父の血が濃かったのか黒い髪だ。
母に抱き付こうとしたアイミスはギリギリそれを自重し、唇を尖らせる。
いつも母と兄は先に起きて仕事をしていて、一人だけ起こしてもらえず家に残されていることが子供扱いをされているみたいで不満だった。
何度言っても子供は寝ないと育たない、なんてことを言われるばかりだ。
村には自分より年下の人間が居ないこともありアイミスにはその理屈はいまいち分からない。
「母上、おはようではないぞ。今日も起こしてくれなかったではないか」
「そう拗ねないの。母さんはね、アイミスに仕事を手伝って貰うよりもぐっすり寝て元気に育ってくれた方が嬉しいんだから」
「一人だけ寝坊をしなくても元気に育っているつもりだ。ただでさえ母上は足が悪いのだ、力仕事は私や兄上に任せておけばよい」
「あらあら、頼もしいわね。それじゃあ一緒にやりましょうか」
そう言って母は手袋を外しアイミスの頭を撫でた。
それだけで寝起きに抱いた不満も忘れて心が弾んでしまう。
食べずにいた朝食のことまで頭から抜けたまま頑張って母の役に立とうと決めた時、辺りに兄の姿が見えないことに気が付いた。
「そういえば、兄上はどこに?」
「ご飯を食べてすぐに森に行ったわ。なんでも昨日イノシシを見掛けたから捕まえに行くんだって。ほんと、いくつになっても怖い物知らずなんだから」
「兄上なら大丈夫さ。なんといっても兄上はこの村で一番強いのだ」
心配そうな、それでいて呆れた様な顔で四方を囲む森の一点を眺めて言った母にアイミスは力強く答える。
アイミスには四つ歳の離れた兄がいた。
強く、勇敢な兄。
それがアイミスが兄を語る上で一番に出てくる人間像だった。
村の大人でも取れないような獣を一人で捕ってくることが度々ある。
ごく稀に現れる魔物を退治したこともある。
母が言うにはこの村の人達は血統柄戦うのが得意であるらしく、兄もそれを強く受け継いでいるのかもしれないとのことだ。
戦闘民族? とかと聞いた覚えがあるが、幼いアイミスには意味がよく分からない。
「今日は久々に肉が食べられるかもしれないな」
「アイミスはお肉の方が好き?」
「肉も魚もどっちも好きだ。でも、肉を食べないと強くなれないって兄上が言っていたからな」
「アイミスは女の子なんだから強くならなくてもいいのに。お兄ちゃんの真似ばっかりしてたら熊さんみたいな子になっちゃうわよ?」
「兄上に負けてばかりでいるのは私のプライドが許さん」
「もう、変なところで意地っ張りなんだから」
そんな親子の時間はやがて野菜を掘り返して、籠に詰めてという朝の日課へと変わっていった。
この村の住人は生きる為に必要なもの全てを自給自足で補っている。
村人同士が分け合い、協力し合うことで生活が成り立っているのだ。
町に出たところで何かを売ってもらえることはなく、それどころか捕まえられて売り飛ばされることすらある。忌み嫌われた血が流れる者の宿命が自然とそうさせた。
女は家事や畑仕事を、男は川に行って魚を捕ったり森で木を集めたりというのが主な仕事である。
女、子供、老人を除くと村に居る大人の男はたったの七人。
力仕事や魔物に遭遇する可能性のある森での仕事を入れ替わりでこなしている。
それがこの村に生きる者達の毎日だった。
「今日はこれぐらいでいいわね」
籠二つが一杯になった頃、必死になって土を掘り起こしているアイミスの隣で母が汗を拭った。
一日にどれだけの量があればいいのかが分かっておらず、ただ母より多く野菜を取り出すことしか考えていなかったアイミスもそこでようやく手を止めた。
「では家まで運べばいいのだな?」
「ええ、お昼ご飯の前に他のおうちに配ればいいから家まで運んだら先にお洗濯をしにいくわ」
「分かった。では私が運ぶ」
「無理して二ついっぺんに持ったら重たいわよ?」
「このぐらいなら大丈夫さ。母上は洗濯の用意をしておいてくれ」
アイミスは両の腕を使って野菜の詰まった籠を抱え上げる。
確かに結構な重量ではあったが、家まで運ぶぐらいなら問題ない重さだ。
「用意をするにも一緒にうちに戻らないといけないでしょ。それに、両手が塞がったままじゃ扉も開けられないでしょう?」
「大丈夫だ、扉ぐらい蹴れば開く。手が使えない時は取り敢えず蹴れって兄上も言っていた」
「はぁ……それは家に入る時のための訓示じゃないし、そうじゃなくても女の子が取り敢えず蹴っちゃ駄目。もう少しわんぱく以外のことも見習って欲しものだわ」
「よく分からんが、元気を出せ母上。川に行く前からそれでは体が持たないぞ」
「はいはい……じゃあ行きましょうか」
呆れる母を先導するようにアイミスは先に歩き出した。
この日も村には平和に時間が流れている。そんな朝の一時だった。
その後少しして、アイミスは母と二人で森の中を歩いていた。
近くの川で洗濯物をするためだ。
洗濯する衣服などをアイミスが運び、母は木製の洗濯桶を持っている。
母は足が悪く、どうしても歩行速度が遅い。
忙しくしている母の負担を少しでも減らそうと重い物は代わりに持つというのが兄妹の中でのルールであった。
アイミスは父親の顔を覚えていない。
生まれてすぐに事故で死んだと聞いたことがあったが、それ以来父の話をしたことはなかった。
なんとなく母や兄がその話をするのを嫌がっているのだろうなということを察し、ならば自分が口にすることで嫌な思いをさせるのは良いことではないと子供心に感じていたからだ。
今この時を幸せに暮らしているならそれ以上のことは望まない。
出来る限り母や他の村人達が悲しい思いをせず、今のまま平和に過ごしていけるのならばそれでいい。
それが心優しいアイミス・ヴェルミリオという少女が抱くただ一つの願い事だった。
しばらくして並んで川に向かっている時間も終わり、二人は再び村へと戻る。
朝食を抜いていることや途中からは魚を追い掛けていたこともあってアイミスは空腹だ。
そんな状態で森を抜けると真っ先に目に飛び込んできたのは朝から一度も見ていなかった兄と、その傍らに横たわる巨大なイノシシの姿だった。
周囲には村の女性や子供達が集まっている。
アイミスも洗濯物を抱えたままその輪に駆け込んだ。
「兄上っ」
「よおアイミス。どうだこれ、みんなで腹一杯肉を食べてもまだ余るぐらいの大物だぞ」
兄はパシパシとイノシシを叩いて自慢げに言った。
周りに居る人達も挙って兄を称賛する声を上げている。
「これを一人で捕ってきたのか?」
「当然だろ」
「やぱり兄上は凄いのだなー。熊より大きいぞ? 危なくはなかったのか?」
「こいつら突進するしか脳がないからな。大したことないさ」
その何でもないような口振りがアイミスには心底格好良く思えた。
自分よりも何倍も大きなイノシシを倒してしまうこともそうだが、それをロープ一本で引っ張って帰ってくるだけのことでも到底真似出来る気がしない。
尊敬の眼差しで兄とイノシシを交互に見ていると、遅れて母が現れた。
自分と同様にこの獣を見て目を丸くしている。
「よくこんなの捕って帰ってきたわねぇ」
「どうだ母さん、凄いだろ」
「凄いとは思うけど……大丈夫なの? 怪我とかしてない?」
「大丈夫だってば、母さんもアイミスも心配性なんだから」
「そりゃ心配もするわよ。二人とも無茶はしないでねって言っても全然聞いてくれないんだもの」
「こんなの無茶のうちに入らないって。アイミス、おじさん呼んで来いよ。捌いてもらってお裾分けしに行こうぜ」
「わかった!」
アイミスは元気良く返事をして、再び森の方へと駆けていく。
隣の家に住むおじさんは森で薪を調達している。
なぜそうなのかは知らないが、捕ってきた獣を捌くのはいつもおじさんがやってくれていた。
肉屋でもやっていたことがあるのかと思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。
ではなぜ肉を捌く担当なのだろうか? 大人だから? 不思議なものだ。
人知れずそんなことを考えながら遠ざかっていく小さな背中を、なぜ洗濯物が入った桶を持ったまま行くのだろうかという微笑ましい疑問を抱きながら村人達は見送った。
〇
夜になった。
ヴェルミリオ家には蝋燭の明かりが小さく灯っている。
発光石を入手することが出来ないこの村の住人の夜は早い。
アイミスは既にベッドに入っており、隣のベッドには丁度兄が入ったところだった。
あとは母がアイミスと同じベッドに入れば明かりを消し、眠りに就くだけだ。
夕食を終えてしばらく経つが、欲張って肉を食べ過ぎたせいでアイミスはまだお腹が張っていた。
久しぶりのご馳走はそれほどに美味であったし、何よりもあの大きなイノシシの姿を思い出すだけで気が高ぶってくる。
「やはり兄上は強いのだな。あんな大きな獲物を簡単に捕ってくるなんて」
「当たり前だろ。母さんもアイミスも俺が守ってやるから安心して弱いままでいるんだな」
「いいや、私も頑張って強くなる。いつか兄上にも勝ってみせる」
「無理無理、女に剣術なんて出来っこないんだ。目や反射神経が良いのは認めるけど、どうしたって腕力がなさ過ぎる」
「そんなことはない、私だって兄上の妹なのだ。頑張れば筋肉も付くさ」
「稽古に付き合ってやってもすぐ拗ねて止めるくせに一丁前なこと言うなっての」
「別に拗ねてなどいない。そうだ、明日も森に行くなら私も連れて行ってくれ」
「そんなことは一度でも俺より先に起きてから言うんだな」
「むー……」
起こして欲しくても起こしてもらえないアイミスは唇を尖らせる。
まだ十一歳のアイミスはどうしても早起きが苦手だ。
夜更かしをしているわけではないのに、どうしてだろう?
ほとんど真っ黒な天井を見上げながらそんなことを考えていると、戸締まりを終えた母が戻ってくる。
そのままベッドに入ってくるのかと思いきや、二つのベッドの間で屈んで二人の頭を撫でた。
「二人ともあんまり物騒なことを言わないの。兵士さんじゃないんだから、無理して今から修行なんてしなくてもいいじゃない。遊びのつもりでやっていたらいつか危ない目に遭うわよ」
「遊びなんかじゃないし、俺は魔物だって王国の奴らだって怖くないね」
「そういうことはね、命を失うかもしれないってことの意味を分かるようになってから言いなさい」
「そんなの分かってるさ。だけど、生きるためには戦わないといけないことだってある」
「いいえ、分かってない。命を懸けるっていうのはね、自分が死んじゃうかもしれないことに対する覚悟だけじゃなくて死んじゃった時に残された人がどう思うかまでを分かってそうすることを言うの」
普段は優しい母が珍しく真剣な表情をしている。
怒っている風ではなかったが、自分達を心配して言っていることだけは理解したアイミスは取り敢えず母に便乗することにした。そうしようと思った理由はなんとなくだ。
「兄上が死んだら私も母上も悲しむぞ?」
「そう。それでも戦わないといけないと思った時がその覚悟を発揮するときなの。ただ自分が強いってことを見せつけるために危ないことをするのは全然違うわ」
「んー……分かったよ」
兄はいまいち納得していない様子にも見えたが、それでも母の言うことを聞くことにしたようだ。
自分も兄も母と口論などしたことはない。
それをすることがどれだけ嫌な気持ちになるかを分かっていたし、母を悲しませることほど愚かなことはないと思っているからだ。
その気持ちは兄も同じで、だから母が怒ること悲しむことはしない。
兄妹喧嘩をして余計な心配を掛けたくないがために自分が我が儘や生意気を言っても本気で怒ったりはしない。
アイミスはそんな兄が母と同じぐらい大好きだった。そんな兄を見ると自然と嬉しい気持ちになる。
「あはは、兄上が怒られたー」
「笑うな泣き虫のくせに」
アイミスの無邪気な笑顔は隣のベッドから飛んできた枕が隠してしまう。
そんな二人を見てようやく母も笑った。
大好きな母だからこそ、何があっても自分達が守ってみせる。
その気持ちが二人の強さを求める意志の原動力なのだ。
○
アイミスは夢を見ていた。
たった一人でボートに乗っている。
どういうわけか川ではなく、溶岩の上に浮いていてとても熱い。
それでいてオールも何もないせいでただ灼熱の上で恐怖しながら揺られていることしか出来ず、四方は地平線まで赤一面だった。
怖い。
熱い。
ただその二つの言葉をひたすら繰り返す。
夢ではないかと思う気持ちがないではないが、それでも恐怖に耐えきれず目からは涙がこぼれ落ちていた。
不意にボートが揺れる。
しゃがみ込んでどうにかバランスを取ろうとしたものの、どんどん揺れが大きくなっていった。
とうとうバランスを取れなくなり、体勢を崩して今にも溶岩へ落ちそうになったその時、アイミスは目を覚ました。
「ん……兄上?」
薄く目を開くと、兄が自分の体を揺すっていた。
寝汗でびっしょりだったアイミスは夢だったことに気付いてホッとすると同時に、もう朝になっていて昨日の話を覚えていた兄が自分を起こしてくれたのかと思った。
しかし、その認識は兄のただならぬ形相からすぐに誤りだと気付く。
「起きたか? アイミス、母さんを起こせ。なんだか外の様子がおかしい」
「おかしいとはどういうことだ兄上。というか、随分と暑いな」
「ああ、見ての通り不自然に明るいしここまで蒸し暑いのも変だ。俺が見てくるからお前は何かあったらすぐに母さんと逃げられるようにしておいてくれ」
アイミスは扉の方に目を向ける。
蝋燭を消して真っ暗なはずの室内は、外からの灯りで妙に赤っぽい明るさが入り込んできていた。
まず太陽の光ではない。そう考えると確かに異常な光景だった。
頼んだぞ。と、アイミスに告げると兄は脇に置いてあった木の棒を手に取り扉の方へと向かう。
アイミスはすぐに母を起こし、まだぼんやりしている母に事情を説明しようとしたその時、勢いよく扉が開いた。
勢い任せに打ち破ろうとしたかの様な大きな音を立てて開いた扉は兄が外に出るためにそうしたのではなく、隣の家に住むおじさんが外から入ってきたことが原因だった。
「何をしているんだヴェルミリオさん! 早く逃げろ!」
男はまだベッドに居る自分達の方へと叫ぶ。
扉が開いたことで目に入った外の景色は、本当に真っ赤だった。
「おい……なんだんだよこれ、何がどうなってんだおじさん!」
その光景を見た兄は声を荒げる。
そこでようやくアイミスもこの明るさ、蒸し暑さの原因は炎だったのだと気付いた。
「王国護衛団の奴等が襲撃してきた。もう村は火の海だ、だからお前達も早く逃げろ!」
「アイミス、母さん、何ボーッとしてんだ! 逃げるぞ!」
兄の怒声でふと我に返る。
恐怖で目の焦点が合っていない母をどうにかしなければと思っていると、兄が戻ってくる。そして有無を言わさず母の肩を担いだ。
「母さんは俺が連れて行く。外に出るぞ」
「わ、分かった。母上、しっかりしてくれ! 早く逃げないと死んでしまう」
ようやく母がベッドから降りる。
動揺したままの母だったが、自分の足で歩いているところを見ると逃げる必要があることは理解してくれたようだった。
しかし、例えそうだとしても母は足が悪く自分と違って走って逃げることが出来ない。
兄に支えられたままではどうしても時間が掛かる。
アイミスは少しでも安全な方法を探すべく、先に外に出ることにした。
そこに広がっていたのは、まさしく地獄だった。
家という家が、周囲の木々が、全て炎上し火柱を上げている。
自分達の家も今まさに屋根や壁から全体へと火が燃え移っているところだった。
それだけではない。
目の前には先に外に出たはずの隣のおじさんが倒れている。
その体には矢が刺さっており、その体までもが炎に包まれていてピクリとも動かない。
「どうして……どうしてこんなことに……」
アイミスは絶望し、立ち尽くしてしまった。
しかし、その時聞こえた『サクッ、サクッ』という音がそれすらをもさせてはくれない。
音の正体は矢が地面や家屋に刺さる音だった。
村の西部を少し行ったところには小さな丘がある。
すぐにその丘の上から火の付いた矢が何本も何本も飛んできているのだと理解した。
「何してんだアイミス! さっさと走れ、森の中に逃げ込めばどうにかなる!」
後ろから兄の声がした。
ようやく二人も家から出て来たようだ。
「一人で逃げられるわけがなかろう! 兄上や母上と一緒に逃げる!」
「こっからは俺が母さんを背負っていく。それなら走れるんだ、お前が先導してくれれば後を追う。こうやって話してる時間も惜しいんだ!」
「分かった。絶対に付いてくるのだぞ」
そう言って、アイミスは駆け出した。
全力で走っては母を背負っている兄には追いつけない。
少しスピードを抑えつつ、それでも燃え盛る森の入り口まで来た時、背後から兄の声が聞こえてきた。
「母さん!」
何が起きたというのか。
それを考えるだけでも怖くて足が震える。
足を止め、アイミスが怖々と振り返った先にあったのは兄がおぶっていたはずの母が俯せに倒れている姿だった。
その背中には矢が刺さっている。今まさにその体が燃え上がろうとしていた。
「母上っ!」
アイミスは慌てて駆け寄る。
兄と同じようにしして必死に母の体を包もうとする火を消した。
「くそっ、消えろっ、消えろっ!」
「母上……母上っ……」
涙が止まらない。
なぜ母がこんな目に遭わなければいけない。
私達が何をしたというんだ。
誰が答えを知っているのかも分からない疑問を何度も何度も心で繰り返しながら必死に燃える衣服をはたき続けた。
辺り一帯が炎に埋もれていく中、どうにか全身に広がる前に母の体から火が消える。
しかしそれでも、母はもう動くことはなかった。
火など無関係に矢に撃たれたことが既に致命傷を与えていたらしく、倒れたままの背中からはおびただしい程に血が流れている。
目を開くこともせず、名前を呼んでくれることもなく、横たわったまま動かなくなった母の傍らで、二人はただ膝を突き母の亡骸を見下ろす以外に何も出来なかった。
「ぐすっ……母上……母上ぇぇ……」
「なんで……なんでこんなことに……なんで母さんが……」
初めて見る兄の涙に、アイミスの泣き顔がさらに歪んだ。
辛く、悲しい以外に感じることが出来ないアイミスとは違い兄の目には悲しみの中に憤りと憎しみが宿っているように見える。
だが、例えそうだったとしても、もう他の事を考えることは出来なかった。
今なお逃げなければいけない状況であることさえも既に頭にはない。
動くことが出来ずただ絶望すること幾許か、二人で涙を流しながら母の傍から動けずにいると、突然女性の声が響いた。
「あなた達、何をやっているの! 早く逃げなさい!」
アイミスは反射的に声のする方を見る。
若い女性が炎の合間を縫ってこちらに駆け寄ってくるところだった。
見知らぬ顔だ。この村の住人ではない。
随分と上等な衣服を身に着け、腰には短剣が刺さっているという貴族や将官のような格好をしている。
女性はすぐ傍までくると、目線を合わせるために屈んだ状態でもう一度同じことを言った。
「何をしてるの! じっとしていたら死んでしまうの! 逃げないと死んでしまうのよ!」
その形相に驚いたアイミスだったが、言葉を返すよりも先に何を思ったのか兄が女性の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「お前……共和国側の人間だろ……何が逃げろだ、お前達がこうしたんじゃないのか! お前達が母さんを殺したんだろうが!」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……私には、私の力では止めることが出来なかった。私を恨んでもいい、憎いなら命を奪われても文句は言わない……だけど今は逃げて。死んだら全てが終わってしまうの。あの丘の上に部隊がいる、矢を撃つのは止めたみたいだけどいずれ隠れている人間が居ないか探しにくる。見つかったら確実に殺されてしまうの、だからお願い……今は逃げて、生き延びて……」
女性は大粒の涙を流していた。
幼いアイミスには何がどうなっているのか理解することが出来ない。
それは兄も同じだったらしく『くそっ』と憎々しげに漏らすとその手を離した。
しかし次の瞬間には女性の腰にある短剣を奪って一目散に走り出し、この場から遠ざかっていく。
「待ちなさい!」
「兄上っ!」
ほとんど同時に声が出ていた。
その背中に二人の声が届くことはなく、兄は立ち止まることも振り返ることもせずにそのまま小さくなっていく。
向かう先はまさに丘がある方向だ。
まさか……報復するつもりか。
その考えに至ると同時にアイミスの頭は再び恐怖でいっぱいになる。
目の前で母が死んだ。
その上、兄まで同じ事になってしまったら……。
そう考えると怖くて仕方がない。
どうにかして止めなければと兄を追い掛けるべく立ち上がるが、女性がその腕を掴んだ。
「行っては駄目!」
「でも……兄上が」
「私が迂闊だった……だけどお兄さんは私が連れ戻す、だからあなたは逃げなさい」
戸惑うアイミスは兄を追うことも女性に従ってこの場を去ることも出来ない。
そんなアイミスを、女性は力強く抱きしめた。
「どうにか負の連鎖を止めようと今までやってきたけど……私にはこの村の人達を助けてあげることが出来なかった。その上ここであなた達二人まで死なせてしまったら、私は死んでも死にきれない。あの男は執念深い、ここから逃げ出したことが知られればいつまでも追い掛けてくる。いつか同じ目に遭うことになる。あなた達には何の罪も無い、だけど……今のこの国にはあなた達が生きる場所が無い……だから、今は逃げて」
「でも……どこに逃げればいいというのだ……母上も兄上も居ないのだ、私一人でどうやって……」
「お兄さんは私がなんとかする。それから、あなたにこれを預ける」
女性は首もとから記章を取り外し、アイミスに握らせた。
「ここから南東に真っ直ぐいけば港がある。そこの船を管理している船長さんにこれを見せなさい。私の名前はリンフィールド、その名前とこの記章を見せれば船に乗せてくれるわ。とにかく今は遠くに身を置いて、生きていく方法を探して」
「…………」
アイミスはまだ躊躇っていた。
母を置いて、兄と別れて、この場から離れてもいいのかと葛藤している。
「行きなさい!」
見かねた女性の大声に小さく悲鳴を上げる。
ふと、今まで忘れていた真っ赤に染まる村が目に入った。
ここに居れば死んでしまう。
逃げないと殺されてしまう。
その現実を心が取り戻した時、アイミスは黙って駆け出した。
港があるという方向に、ただひたすらに走り続けた。
真っ直ぐに、脇目も振らずに全力で走った。
また火や矢が襲ってくるのではないかという恐怖で振り向くことも出来ず、体力が尽き喉が渇き過ぎて唾液を飲み込むだけでも痛みが伴う様な状態になっても足を止めずに走り続けた。
暗い森の中を夜通し、一度も足を止めることなく駆け抜けた。
不眠不休のせいで頭が痛い。
飲まず食わずだったせいでお腹も痛い。
視界が悪いせいで何度も木の枝に引っ掛かり、腕も体も傷だらけだった。
足元が見えないせいで何度も躓いて転び、靴も脱げて無くなってしまったせいで足はボロボロだった。
それでも、アイミスは走り続けた。
日が昇り、朝になっても一心不乱に足を動かし続けた。
意識も朦朧としている。
走っているつもりでも体がそれをさせてくれず、ただヨロヨロと足を擦り動かしているだけの状態になっても前に進み続けた。
そうして、ようやく港に辿り着いた頃には昼を迎えていた。
海が見えたことでようやく目的地に到着したことを知ったアイミスは、休む間もなく人の姿を探す。
港を少し歩くと、ふと喋り声が聞こえた。
既にどこが痛いのかも分からない体を引き摺りながらその方向へ歩くと、二人の男がいるのが目に入る。
休憩でもしているのか、口に煙草を咥えて談笑しているようだ。
二人の男はアイミスが声を掛けるよりも先にその存在に気付いた。
「なんだこのガキは?」
「おいおい、こいつボロボロじゃねえか。魔物にでも襲われたか?」
「せっかくの昼休みに迷惑なガキだ。取り敢えず船長んところに連れて……いや、待て」
「ん? どうしたんだ?」
「目を見てみろよ、こいつピオネロの血を引いてるみたいだぜ」
「こりゃ驚いた。なんだって蛮族の末裔がこんな所に」
「なんだっていいさ。城に報告して売り飛ばすってのはどうだ?」
「そりゃいい」
男達はアイミスを無視してそんな会話をしている。
それでもアイミスは精一杯の声で二人の会話を遮った。
「せ、船長は……どの人ですか?」
「ああ? 船長だぁ? お前が船長に何の用だ、知り合いとでも言うのか?」
アイミスに答える気力もない。
男達は顔を見合わせ、
「取り敢えず連れて行くか?」
「そうだな。売り飛ばすにしても船長の口利きがあった方が高く売れそうだ」
男の一人に、まるで物のように片手で抱え上げられ、アイミスは傍に建っていた小さな建物の中へと連れて行かれた。
中にはひげ面の太った男が一人居るだけだ。
「船長~、このガキそこで拾ったんだけどよ、青い眼してやがるんだよ」
「ピオネロのガキなんぞここに連れてくるな。飯が不味くならぁ」
「いや、それがよー、船長に用があるみてえなんだよ」
「俺に? ったく……おい小童、俺が船長だ。お前は誰だ。俺に何の用だ」
「これを……」
アイミスは村でリンフィールドと名乗る女性から受け取った記章を差し出した。
差別的な目を向けるばかりの男達が怖くて仕方がなかったが、ここで駄目ならどのみち自分はこのまま死んでしまうだろう。
他に頼るものもない今、それが出来るかどうかは別にして逃げ出すわけにはいかない。
船長と思しき男は、受け取ったそれを見ると目を見開いた。
「こいつは……リンフィールド様の? ガキ、なんでお前がこれを持っている」
盗んだのかと言っているも同じ口調だった。
それでもアイミスはめげず、ありのままの事実を説明した。
「村が国の兵士に襲われて……家も燃えて、母も死んで……リンフィールドという人が助けてくれた。これをあなたに見せれば船に乗せてくれるからって……それでどこか遠くに逃げなさいって……だから……」
夜通し流し続け、枯れたのかと思っていた涙が再び零れ落ちる。
絶命した母、どうなったかも分からない兄の後ろ姿、炎に包まれた村、それら全てが未だ鮮明に脳裏に浮かんだ。
船長はそんなアイミスを見て、面倒臭そうに溜息を吐いて記章を返した。
「リンフィールド様の意志なら船には乗せてやる。だが、今日出る船の行き先はグランフェルトだ、文句は言わせん。乗せていって、向こうで降ろす、ただそれだけだ。その後のことは何も知らん。寝床と飯ぐらいは用意してやる」
「ありがとう……ございます」
その言葉を最後にアイミスはその場に倒れ込み、気を失った。
疲れ果てた体を少しでも癒そうという自己防衛本能が働いたのか、こんな状況にも関わらず小さな寝息を立てていた。
「おい、船に放り込む前に治療をしてやれ。あと食い物もな」
傷だらけの体で死んだ様に眠るアイミスの横で船長はそんなことを言った。
こうしてアイミスはサントゥアリオ共和国を離れることとなる。
右も左も分からないグランフェルト王国をしばらく放浪したのち、エルワーズ・ノスルクという老人と出会った。
大切なものを守る強さが欲しいと願ったアイミスはノスルクの下で厳しい鍛錬を重ね、その中で勇者という存在を知り、平和のため弱き者のために戦う勇者に感銘を受け、数年後には自分がそう呼ばれるまでに成長した。
二度とあの悲劇を味わわぬ為に他国の人間と会う時は瞳の色を隠し、サントゥアリオ共和国の人間に素性が知られないために名をも変えた。
ノスルクから聞いた初代勇者のクルイードという名を貰い、【AIMES】と書いてアイミスという自らの名前の真ん中に、決して忘れることのないように恩人の名前であるリンフィールドという女性のイニシャルを入れて【AIRIMES】とし、それを逆さまに読んだ。
セミリア・クルイードという名の女勇者の誕生だった。




