【第七章】 エピソード オブ ラブロック・クロンヴァール
※10/5 漢字の間違いを修正
12/23 台詞部分以外の「」を『』に統一。
~ flashback scene ~
五年の時を遡る。
世界一の大きさを誇るシルクレア城にあって、最も高い位置であるベルクフリートの最上部には城外に広がる大きな町を見渡している一人の女の姿があった。
綺麗な赤い頭髪と美しくも凛々しい顔立ちを持ち、白を基調とした衣服に赤く短いスカートという格好が一層その美しさを増長させ、両手足の肘、膝から先に装着した鎧や腰に指した剣、王家の紋が入った黒いマントが凛々しさを風格へと昇華させている。
ラブロック・クロンヴァール。
のちに大国の王となるシルクレア王家の次女であり、近い将来世界一の強さ美しさの持ち主であると謳われることになる王女の二十一歳の姿であった。
クロンヴァール王女は何をするわけでもなく、腕を組み黙ったまま街を見下ろしている。
監視兵に席を外させ、こうして大きな城と大きな町、更ににその向こうに続く広大な大地を高い場所から眺めることは長らく続けている日課であった。
偉大なる祖国を、多くの民を、そして国の象徴たるこの城を、自らが先導して魔の手から守る。
そういった気持ちを沸き立たせることが王家の一人としての自覚や騎士として、戦士としてのモチベーションを薄れさせずにいてくれる。
まだまだ強くならなければならないし、若い自分が人の上に立つには周囲を納得させるだけの意志の強さも必要だ。
まだまだ。
まだまだそのどちらも自分で満足できる程の域にはない。
戦いで命を落とした兵士達や守りきれなかった民達に報いる為にも、絶対的な強さと正義を持っていなければならないのだ。
「よし」
そんな意志を胸に短く己を鼓舞する一言だけを口にして、ふわりとマントをなびかせながら踵を返しクロンヴァール王女は城内に戻ることにした。
そのまま梯子を下り、城内を通って裏庭に向かう。
兵士を集めての号令も午前中の鍛錬も既に完了しており、日々の習慣の最後は愛馬の世話で締めくくられるのだ。
「待たせたな、ファルコン」
使用人に用意させている餌を片手にクロンヴァール王女は自分用の厩舎で自分を待っている大きな白馬の名を呼び頭を撫でた。
持っていた乾草を専用の位置にバサバサとバケツごとひっくり返すと、愛馬がそれを食べるのを眺める。
雨の日以外は裏庭で放し飼いをしているファルコンと名付けたこの白馬はクロンヴァールにとっては相棒と呼べる存在だった。
幾多の戦場を共にし、時には自分を守るべく駆け回る一頭の馬とその主には一般的な兵士と馬のそれを大きく超える信頼関係がある。
クロンヴァール王女は愛馬の食事が終わるのを待ち、ブラシと櫛で身体や毛の手入れをしてやった。
一通りの手入れが終わると、まるで感謝の意を示すかのように白馬は頭をクロンヴァールの身体にすりつける。
「昼から行くところがある。散歩は少し待ってくれるか」
その頭をもう一度撫でて言うと、白馬は足を折りその場に腰を下ろす。
それまで待っているよと、身体を使って言っているかの様な姿だった。
○
中庭を離れると、クロンヴァール王女は来た道を通らず渡り廊下を使って城内に戻る事にした。
出掛ける前に一度部屋に戻り、羽織っているマントを置きに行くためだ。
私用で町へ出る時、民衆を悪戯に刺激しないためにマントを外すことにしている。
当然のことマント一つの有無など関係無しに一目で王女だと認識されてしまうことに違いはないが、見知った町人と話をする機会もあるだろう。
公私を見た目で分けることでそういった時間を少しでも作ることが出来ればという王女としての自覚がそういった考えに至らせている。
同じ理由で護衛の兵士も連れて歩くこともしないのだが、それに関しては強さにおいて護衛の意味を持つ者が部下に居ないという理由が大きい。
ではなぜ渡り廊下を通る事にしたかというと、そこには複雑な事情があった。
本来自分の部屋に戻るために城内を通ることを避ける必要は無い。
それは中庭に来る途中、母親が城内を出歩いているという話を小耳に挟んだからだ。
実の母であり王妃であるその人物。クロンヴァール王女は母が好きではなかった。
我が子である王女や王子、城内に居る兵士や使用人の行動に口を出すのが好きな母はいつだって自分の考えを押しつけてばかりなのだ。
王家の者として。
城に住まう者として。
そんな理由で、それがどういう関係があるのかと言いたくなるような細事にまで、言動の一々に口うるさく指示や指摘をする。
最近になってそんな傾向が強くなり、国王でありクロンヴァール王女にとっては父でもある夫の制止も中々聞き入れず、有無を言わさない度合いが増してさえいるぐらいだ。
何が原因かまでは知らないが、少し前に姉であるミルキア・クロンヴァールと口論をしたという話も聞いた。
そんな理由でクロンヴァール王女は出来るだけ母と顔を合わせたくないのだった。
やがて遠回りを経て城内に戻ると、階段の手前の広間に見知った顔が二つ並んでいるのが目に入る。
戦士として、と前置きした上では唯一自分よりも上の地位にいる男であり【世界一の魔法使い】であったり【王室相談役】【兵士団総帥】であったりと様々な肩書きを持つ歴戦の勇士、ロスキー・セラム。
そして部下の中では自身に一番に近い役職である副兵士長のカインだった。
三十代のおっさん二人が人目に付く場所で何をやっているのやらと思うと少し笑えてくるクロンヴァール王女であったが二人、特に子供の頃には武術を教わっていたこともあるセラムとは親しい間柄だったこともあって二人の方へ寄っていくことにした。
「おや、これはこれは兵士長。どこかにお出掛けになっていたんですか?」
クロンヴァール王女が声を掛けるよりも先に二人が王女の姿に気が付いた。
副兵士長のカインがいつもの通り、人当たりの良い顔と口調で声を掛ける。
三十代前半にして副兵士長になったカインは、二十一歳にして兵士長を務めるクロンヴァール王女と共に歴代最も若いトップ2と言われている。
剣の腕は確かに一流だが、それよりも人に慕われやすい人柄もその地位に足る人間だと他ならぬクロンヴァール王女も認めている人物だ。
「出掛けていたのではない、これから出掛けるところなのだ。それよりも、お前達は何をしている。中年の男が二人でコソコソと」
からかう様にわざとらしく呆れ顔を浮かべるクロンヴァール王女に言葉を返したのはロスキー・セラムだ。
魔法使いの割に肩幅の広い大柄な体格と威厳のある髭の生えた厳つい顔をしているセラムは【三代目大賢者】という二つ名を背負い、王家の人間からも絶大な信頼を得ている国内外に名前を知らしめる世界でもトップクラスの精鋭である。
「別にコソコソしているわけではないわ。人聞きの悪いことを言うでない」
「そうですよ兵士長。それに、僕はまだ三十代前半です」
「そういうことにしておいてやるか。ロス、カインには妻子が居ることを忘れてやるなよ?」
「なんの忠告だ馬鹿もんが。丁度そんな話をされておったところだ」
「ほう、どんな話だ? 私にも聞かせて欲しいものだな」
ニヤリと笑うクロンヴァール王女に対し横にいるカインはポケットから小さな箱を取り出し、それを差し出した。
ロスキー・セラムをからかうなどという暴挙を働けるのは世界広しといえどこのラブロック・クロンヴァールぐらいのものである。
「これをセラム総帥見てもらっていたところなんですよ」
カインが箱を空けると、中には小さな髪飾りが入っていた。
花の形をした金属製のキラキラとした髪飾りだ。
「家族への贈り物か? なかなかどうして、良い夫をしているようじゃないか」
「娘へのプレゼントなんですよ。もうすぐ五歳になるもので」
「そうだったのか。生まれてすぐに見せて貰ったっきりだったが、あの娘がもう五歳とは私も歳を取るはずだ」
「まだ二十そこらの兵士長の言葉ではないと思いますが、そんなわけで……」
「ロスに自慢していたというわけだな」
「自慢というか、意見を聞いていただけですけどね」
「はっはっは、単身王都で暮らしている実質独り身のロスに娘へのプレゼントの助言を求めても仕方あるまい。そういうことなら私にしておけ」
クロンヴァール王女はセラムの肩をバシバシと叩きながら快活に笑う。
セラムは『余計なお世話だ』と返す代わりに拳で頭を小突いた。
そんな二人にカインは苦笑しつつ、
「では是非兵士長のご意見も伺いたいものですね」
「五歳の女の子にしては少し派手な気もするが、悪くないチョイスだと思うぞ。大事にしてもらえるとよいな」
「そう言っていただけると悩んだ甲斐もあったというものです」
「さすがは私だろう。知ったからには私からも花束の一つぐらいは送ってやるかな、後で手配させておくから遣いの使用人に日付とリクエストをしておいてくれ」
「なんだか催促してしまったみたいで申し訳ないですね」
「気にすることはない。いつも父親を忙しくさせている詫びだとでも伝えてくれ」
「ではお言葉に甘えさせていただくことにします」
にこりとするカインにクロンヴァール王女は『ああ』と満足げに答え、二人に背を向けたところでセラムに伝えようと思っていたことがあったと思い出した。
「では私は行く。ロス、夕方の鍛錬に付き合う約束を忘れてくれるなよ?」
「それは構わんが、どこへ行く姫よ。私用か?」
「教会に行こうと思ってな。ここ数日ローレンスに会っていないし、お祈りを疎かにするとまた小言を貰い兼ねんからな」
「そうか。気を付けて行くのだぞ」
「猊下によろしくお伝え下さい、兵士長」
二人の言葉に軽く手を上げて返事とし、クロンヴァール王女はその場を後にする。
「娘が生まれた頃はまだまだ子供らしさもあったのに、随分と立派になられたものですね我らが姫様は。父親の目線的にはどうです? セラムさん」
「誰が父親か。陛下に失礼であろう」
「悪い意味で言っているわけではありませんよ。彼女にとっては陛下もセラムさんも猊下も父でもあり師でもある存在でしょう。人の上に立つ者としての在り方を陛下から、戦士としての心技体の全てをセラムさんから、一人の人間としての道義をローレンス神父から、それぞれ学び身に着けながら育ってきたわけですから」
「だとよいが、その自負があるがゆえに自らの判断が正しいと思い込んだり退くことを知らん節がある。強さではわしを追い越さんばかりの成長ぶりだが、内面はまだまだ若いわ」
「厳しい師匠ですねぇ。あれだけ美人の娘がいればそれだけで父親は満足してしまうものですよ」
そんな二人の会話は当然その後ろ姿に届いてはいなかった。
〇
町に出たクロンヴァール王女は真っ直ぐに教会へと向かった。
人通りの多い大通りはいつにも増して賑わっている。
魔王軍との小競り合いこそ続いているものの、兵力の充実している国にあって城下とその近隣の町や村は特に平穏を維持しているし、地方の町村も駐兵の派遣や駐在のシステムの確立、情報伝達の効率化によって被害は常に最小限に抑えてきた。
魔王軍とて本腰を入れて攻めてきているわけではないだろうが、それでも十分に対抗出来る兵力、戦力を持つ名実ともに世界最大にして最強の国。それがこのシルクレア王国なのだ。
そして、そんな国の王女であり軍のトップに立つのがラブロック・クロンヴァールの立ち位置である。
国も、自分個人も誰にも負けない。負けるはずがない。
そんな自負と自覚が道行く人々や賑わう店の列をクロンヴァール王女を少し誇らしくさせるのだった。
すれ違う民衆や店頭の主人達に度々声を掛けられながら通りを歩き、やがて町の中心に位置する教会に辿り着くとクロンヴァール王女は勢いよく両開きの扉を開いた。
扉の向こうにある広い聖堂にあった唯一の人影は折っていた膝を伸ばし、十字架に向かって組んでいた手を解いてゆっくりと振り返る。
左右に並ぶ長い椅子の列。
その中央を歩いて来る祭服を着た長髪の男は静かな堂内に響くクロンヴァール王女の声に呆れた様子で諫めた。
「久しぶりだな、ローレンス!」
「ラブ、神聖な教会の中で大きな声を出してはいけないといつも言っていますよ? 扉も乱暴に開けてはいけません」
「乱暴と言われるほど力は入れていないぞ。久しぶりに会ったというのにお前は小言ばかりだ」
叱責などどこ吹く風、クロンヴァール王女はただただ唇を尖らせる。
他の誰にも見せることのない、拗ねた様な表情と口調だ。
二十を超えたばかりの若き王女と歳は四十と少しである世界に名の知れ渡る大司祭という立場の大きく異なる二人の関係は、クロンヴァール王女が幼少の頃から遊び相手、話し相手として慕っている親子の様な、歳の離れた仲の良い兄妹のような、そんな心安い間柄なのだ。
「久しぶりとそれとは話が別です。さあ、中に入るなら扉を閉めて。ハーバルティーでも煎れましょう。せっかく来てくれたのです、ゆっくりしていってっくれるのでしょう?」
「ああ、ご馳走になろう。でもその前にお祈りをしないとな」
「そうですね。では一緒に神へご守護とお導きをお願いしましょう」
二人は聖堂を進み、正面の十字架の前に跪く。
ローレンス司祭が再び手を組み目を閉じると、クロンヴァール王女もそれに倣った。
とりわけ信仰心があるわけでもなく、ただ幼い頃からローレンス司祭がそうしている姿を見ているうちにいつしか同じ様にすることが習慣になっていたというだけの理由でしかない。
ローレンス司祭の傍で過ごす時間の使い方として、彼にとって大切な時間を邪魔しないようにと思い至ったのが始まりだった。
それを知るローレンス司祭もクロンヴァール王女を咎めることはない。
祈る理由は人それぞれで、祈る資格など存在しない。教会を訪れる者全てが神に導かれし迷える子羊である。それがローレンスの考えなのだ。
目を閉じたまま微かな吐息だけが耳に入る静かな空間で肩を並べることしばらく、ローレンス司祭が立ち上がったところでお祈りの時間も終わりを迎え、クロンヴァール王女は奥にある部屋に通されると二人掛けのテーブルの前に腰を下ろした。
目の前にはティーカップが二つ並び、ローレンス司祭がポットからハーバルティーを注ぐと甘みのある香りが鼻腔をくすぐる。
「調子はどうですか? 随分と忙しくしているようですね」
クロンヴァール王女がカップに口を付けるのを待って、ローレンス司祭が世間話を切り出した。
「こう見えても兵士長だ、忙しいのは仕方がない。辛いと思ったことは無いし、遣り甲斐もある。私には誰にも負けない戦士になってこの国を守るという役目がある」
「貴女にはきっとそれが出来ますよ、ラブ。でも、だからといって何もかも一人で背負い込むことはよくありません。人というのは頼ること、頼られることで成長するものです」
「そういうものなのか? 私にはいまいち分からんが」
「そういうものです。貴女には国王陛下や総帥様という頼るべき相手であり手本とするべき人が居るでしょう。傍に居てくれる者に恵まれているというのは誰にでも当て嵌まるものではないのです。そのことに感謝し、いずれ貴女が他の誰かにそう思われるようになって欲しいと思いますよ」
「心配はいらないさ。部下はみんな私に付いてきてくれるからな」
得意気に笑うクロンヴァール王女にローレンス司祭は僅かに苦笑し、一度カップに口を付けた。
カップを置くと、いつもの様に優しい表情と諭すような口調で話を続ける。
「ラブ、貴女はセラム総帥から用事を、例えば別の町にいる大臣に手紙を届けて欲しいと言われたらどうしますか?」
「届けるに決まっているだろう。当たり前のことだ」
「それは国の戦士としての地位が貴女よりも高い総帥に言われたから仕方なくそうするということですか?」
「何を言っているローレンス。そんな理由で私が動くと思っているのか? ロスは私の師であり同志でもあるのだぞ。あいつが私に頼むということは私である必要があるということだ、例えいつか私が上の地位になったとしても答えは変わらない」
「そういうことですよ、ラブ」
「ローレンス……いい加減長い付き合いなんだ、そんな説明では私が理解出来ないことをそろそろ理解してくれ」
「ふふふ、そう呆れるものではありませんよ。考えること、理解しようとすることもまた人を成長させるものですからね。何が言いたいかというと、貴女が総帥様に対してそうであるからといって貴女の部下の方々も同じであるとは限らない、ということです。貴女を慕い、貴女を尊敬して付いてくる者も大勢いるでしょう。しかし全員がそうであるとは限らないことも事実なのです。兵士長として王女として、貴女が人の上に立つ定めにあるのであれば肩書きでも地位でもなくその行動と信頼関係を以て他の者に道を示さなければならない。それが貴女が求められている事なのですよ、ラブ」
「ふむ、つまりは私に付いてくれば大丈夫だと思わせるような人間になればいいのだな?」
「そういうことにしておきましょう。貴女はまだ若い、いずれ真の意味を理解出来るようになりますよ」
「随分と意味深なことを言うじゃないか。曖昧なまま濁されては私も気持ちが悪いぞ」
「言われたから理解した、というほど簡単なものではないということです。近い将来、貴女が成長する過程できっと理解出来るようになる。今は信頼し、信頼される関係を少しでも多く作れる人間になりなさい。その絆は何にも勝る武器になります」
「よく分からんが、勇気と強さで兵士達や民を安心させてやればいいんだろう? 部下も民もローレンスも私が守ってやるから安心しろ」
「ふふ、それは頼もしい言葉です。ですが、人の上に立つということはその決断一つが多かれ少なかれ誰かの未来を左右するということです。守るべきものや立ち向かうべき相手を間違わないように常に冷静になって、しっかりと考えてから行動するようにしてくださいね。焦りや逸り、怒りに憎悪、それらは時として判断を狂わせてしまうものです。いつか後悔しないためにも貴女が選ぶ道を間違えてしまわないよう祈っていますよ」
「ああ、祈っていてくれ。ローレンスが祈ってくれるなら私が心配することは何もない」
それは心から信頼しているがゆえに出る言葉だった。
いつだってローレンス司祭との時間は小言を貰ったり勉強でもしている気になる会話ばかりだったが、そんな時間も重ねた日々がもたらす安心できる空間に他ならない。
だからこそ『いつか分かる時が来る』と言われればその通りなのだろうとクロンヴァール王女は思う。
翻って、今この時点でそれほど理解出来ていなくとも別段気に留めず、そのまま話を進めてしまうことも普段と変わらない。
それがクロンヴァール王女にとってのローレンス司祭と過ごす時間であり、言い換えればそれは王女でもなく兵士長でもない自分でいられる数少ない時間でもあった。
そんな二人の時間にあって、今聞いたその言葉をもう少ししっかりと聞いておけばよかったと悔やむことになるのは出会ってから初めてのことだったかもしれない。
わずか二日後のことだった。
○
翌日。
日課である午前中の自己研鑽を終えたクロンヴァール王女は晴れない気分で汗を拭った。
どこかを痛めたわけでも、何か問題が起きたわけでもない。
しかし到底気持ちの良い汗ではなかったことを改めて感じながら鍛錬室を出て本棟へと向かう。
全ては鍛錬室に向かう前に姉であるミルキア・クロンヴァールに会ったことが原因だった。
ひょこひょこと城内を歩いていたミルキアは目が合うなり頬を膨らませて寄ってきたかと思うと、
「聞いてよラブちゃん~」
と、怒っていても普段と変わらない甘ったるい声でしがみついてきたのである。
珍しく聞く姉の愚痴の中身は昨日少し耳にした母親との口論に関することだった。
聞けばミルキアに想い人が居ることに対してああだこうだと文句を言ってきたことが原因であるらしく、それが何とも言えない陰鬱な気分にさせた。
姉に恋人だったか、それに近い関係だかの相手が居ることは少し前に聞かされていたが、とうとう人間関係にまで口出しをするのかと想うと母親に対するうんざりする気持ちが増すばかりだ。
それも、あの気立てが良く温厚な姉が口論になるまでに食い下がるぐらいなのだからまた思うがままに暴言を吐き、謂われのない非難を口にしたのだろう。
どこまでも身勝手な母親だ。
口癖の様に品位だ気位だと言うくせにただみっともないばかりなのに加え、娘を思っての行動だとは少しも思えないのだから救いがない。
「やれやれ……」
つまらないことは気にするだけ損だ。
出来るだけ母に近付かないようにしつつ、姉には後で適度にフォローしておけばいい。
クロンヴァール王女は無理矢理そう切り替えて本棟への扉を開いた。
その僅か数秒後。
まるで普段と異なるその心の内が予兆であったかの様に、城内に警鐘が鳴り響いた。
カンカンカンカン!
と、緊急事態を告げる鐘の音があちらこちらから聞こえてくる。
すぐに一人の兵士が自分の元へ駆け寄ってきた。
「兵士長!」
「何事だ!」
「敵襲です! 南西より魔王軍の軍勢が関所を突破し本城へ向かっているとの報告! その数およそ百余り、一刻もせぬうちに城下へ辿り着くことが予測されるとのことです!」
「すぐに兵士を町の四方へ配置させろ。城内に護衛の部隊を残し、南西には本隊を置く。残る三ヶ所を手薄にさせないように割り振れ。何があっても民に被害を出すなと全軍に通達、カインとロスは本隊に合流するように伝えろ」
「しかし兵士長、カイン副兵士長とセラム総帥はついさっき城を出たばかりでして……」
「なんだと? 私は聞いていないぞ、何の理由があって城を出たのだ!」
「それが、町で無銭飲食をした男が兵士を振り切って逃走したとのことで」
「ケチな食い逃げ犯に構っている場合か! すぐに呼び戻せ!」
「ですが……これは王妃様のご命令でして」
言いにくそうにする兵士の姿に、またあの女の勝手かとクロンヴァール王女は苛立った。
「構うな、兵士長は私だ! 現場の指揮は私が執る。これは命令だ、すぐに二人を呼び戻せ。異論は聞かん」
「ぎ、御意っ」
クロンヴァール王女の恐ろしいまでの眼力に負け、兵士は走り去った。
「とうとう奴等も本格的に攻め入る気になったか」
舌打ちを一つ挟んで、クロンヴァール王女も町を守るべく城を出る。
魔王が来るか、他の幹部が来るか……誰がどれだけの数で襲ってこようとも、私が蹴散らしてやる。
そう、心に誓って。
〇
次の日、夜が明けて間もなく。
クロンヴァール王女が身嗜みを整えて部屋を出ると部下の若い兵士が一人、立ち入りを許可されている境界線である王族専用のフロアに繋がる階段の下で待っていた。
兵士はその姿を確認すると敬礼し、ハキハキとした口調で挨拶を口にする。
「おはようございます、クロンヴァール兵士長」
「ああ、何か報告か?」
「はっ。起床次第顔を見せるようにと国王陛下より言伝を預かっております」
「分かった。ではカインに私の代わりに朝礼を進めるよう伝えてくれ」
「ふ、副兵士長……ですか」
「そう言っている。何か問題があるのか?」
「副兵士長は本日からしばらく休暇を取ると聞いているのですが……兵士長はご存じでありませんでしたでしょうか」
困惑した様子の兵士だったが、その言葉の通りクロンヴァール王女にそのような報告は届いていない。
副兵士長は昨日の魔王軍襲撃時には城の警護を任せていた。
負傷したということはあり得ないし、かといってカインが自分に無断で休暇を取るとようなことをするわけもなく。
何か急な事情があるのだろう。後でセラムにでも聞いてみれば解決する。
気にはなったがそう思い直し、クロンヴァール王女は兵士を下がらせることにした。
「いや、問題ない。ではロスに同じ事を伝えてくれ」
「承知しました。それでは失礼します」
兵士は一礼して去っていく。
その姿が見えなくなるとクロンヴァール王女も変更した目的地へと足を進めることにした。
カインの事は後でいい。今は父の部屋へ向かうのが優先だ。
まず間違いなく昨日の魔王軍による襲撃についての報告を聞こうというのだろう。
結局事後処理に時間が掛かったこともあって昨日のうちに国王への報告は出来なかった。
その事後処理も半壊した関所へ行き、修繕や後始末の指揮を執っていたせいで遅くなっただけのことでしかなく、そこに居た兵士数名が負傷したとはいえそれ以上の被害はない。
町を襲ってきた百余りの魔物とそれを率いていた幹部を名乗る魔族は全滅させ、民衆に怪我人の一人も出していない。
自分に加えてロスキー・セラムが居たのだ。あのレベルの敵に遅れを取るはずもないとはいえ、しっかりと町を、民を守ることが出来た。
一切の報告がされていないということはないだろうが、改めて良い報告が出来そうだ。
そんな少しの誇らしさを心に、クロンヴァール王女は父の部屋へ向かった。
「父上、私です」
扉の前に立つ二人の警備兵の敬礼と挨拶に答え、部屋の扉をノックした。
「入れ」
と、中から声がしたのを確認して扉を開けると着替えを済ませ椅子に座っている父が真っすぐに自身を見ている。
アンドリュー・クロンヴァール。
黒くオールバックの髪に整った顎髭という厳つい風貌をしており、齢五十にしてその大きな身体からは威厳や貫禄のある風格が滲み出ている。頭部には王の証である王冠が乗っていた。
この人物こそがラブロック・クロンヴァールの実父であり、尊敬出来る数少ない一人でもある大国シルクレアの国王であった。
「ラブ、座りなさい」
アンドリュー王は扉が閉まるなり、静かにそう告げた。
娘ラブロックは父の態度が想像していたものとは違うことを少なからず疑問に感じる。
怒っているというわけではないのだろうが、どこか神妙というか悲しげにしている様にも見える空気感と雰囲気を纏っていた。
「父上、何かあったのですか?」
言われるまま、同じ様に腰を下ろして問うとアンドリュー王は口をへの字に結んで一度目を瞑り、予想だにしない語りを始めた。
「ラブよ、お前は良くできた娘だ。ワシにとって誇りであると自信を持って言える」
「……父上?」
「いずれ王位を継ぐのはお前だ。しかし、どれだけの強さを身に着けようとも、若くして軍のトップに立っていようとも、お前はまだ若い。人として、戦士として、そして王女として、学ぶことは山程ある。成長しなければならない部分も海ほどある。それを忘れて欲しくはないとワシは思う。正義を貫くために辛い思いや悲しい思いをすることもあるだろう。それを乗り越える精神力も必要になるだろう。その学び、成長しようとする上で一番してはいけないことはなんだと思う?」
「…………」
クロンヴァール王女は質問の意図が分からず、返す言葉を失っていた。
一体何の話をしているのだろうか。
考えるクロンヴァール王女の答えを待たずにアンドリュー王は続ける。
「それは過信だ。どれだけの強さを持っていようとも、どんな地位にいようとも、己の器を過信してはならぬ。器を超えた能力や肩書き、或いは志、使命感、正義感は時として成長の邪魔になり、判断を誤らせる」
「父上、私には父上が何を仰りたいのか分かりません」
煮え切らない態度に思わず本音が漏れると、アンドリュー王はゆっくりと立ち上がった。
「そうだな、少し城を出るとしよう。ついてきなさい」
やはり返事を待たずに歩き出す父だったがそんな態度を問い詰めるわけにもいかず、結局クロンヴァール王女一つ間を置いてそれに続くことにした。
国王として何か自分に伝えたいことがあるのだということは分かるが、それが何であるのかが見えてこない。
それでも普段と違う様子であることは疑いようがない以上、何かそうするだけの事情があることは間違いなさそうだ。
どこに行こうとしているのかは分からないものの『ついて来れば分かる』そう語っているかの様な父の大きな背中を、クロンヴァール王女は一歩下がって追い掛けることにした。
そのまま部屋を出て城の外に出たかと思うと、アンドリュー王は馬車に乗り込んだ。
どうやら予め手配していたらしく、王族専用の馬車にはすでに御者の姿がある。
大きな馬車に二人向かい合って座ると、馬車はすぐに走り出した。
道中、車内に一切の会話はなく重苦しい空気が充満しているだけだ。
窓の外を眺める父の横顔は、やはり物悲しげなものだった。
会話の無い馬車はしばらく走り続け、一つ町を過ぎてしばらくしたところでようやく停止する。
父に続いて馬車を降りたクロンヴァール王女は目の前の光景に言葉を失った。
そこは小さな村だった。
否。
村だったであろう景色が、そこにあった。
二十に満たない家屋は全てが倒壊し、人の姿は一つもない。
この数年のうちに村が壊滅したなどという報告は聞いたことがない。では目の前のこれは一体なんだというのか。
父アンドリューは静かに語り始める。
「ここはリューファという村だ。ここに来たことは?」
「……通りすがりではありますが、何度かは」
「この村がこうなってしまったのは……昨日のことだ、ラブ」
「なんですって!? どういうことです父上。私はその様な話は聞いていない」
「聞いていないのも無理はなかろう。お前は魔王軍との戦闘と、その後の処理で帰りが遅かった。それは仕方のないことだ。だが、どうしてワシがお前をここに連れてきたか分かるか?」
「それは……私が防ぐべきことであったと、そういうことでしょう。しかし、原因も事情も私には伝わっていない。この村やこの村の民を守ろうにも私にはどうしようも……」
「ラブ、さっき部屋で言ったことを思い出すのだ。己が器を見誤ってはならない、と。あの時言ったのはそういう意味なのだ」
「…………」
「お前が何もかもを一人で守れる気でいるのであればそれは正しいことではない。少なくとも今のお前にそこまでの器はないとワシは思っておる。単純な戦闘力でという意味ではなく、だ」
「なぜ……そう思われるのですか。それではこの村がこうなったのは私が原因だと言っているように聞こえる!」
クロンヴァール王女は思わず声を荒げた。
未だ父の言わんとしていることは要領を得ない。
それでいてどこか責めるような口振りや己の未熟さを指摘される意味が分からない。
それでもアンドリュー王は声色を変えず、静かに冷静に、そして少し悲しそうに、真実を告げた。
「この村を滅ぼしたのはボドロ・ブランキーという男だ」
「ボドロ……ブランキー」
「そう。出来る限り早急に身柄を確保捕するように命令を出していた巷では狂人と呼ばれる男だ。覚えがあるだろう? この村のこの現状はお前が独断でカインやロスを呼び戻した結果なのだ」
「そんな…………あれは母上の命令だとばかり……」
「強く進言してきたことを否定はせぬ。だがそれは昨日よりも前の話でしかない。お前の母親にカインやロスを動かせるわけもないだろう。その後調査をさせ、決断と命令をしたのは他でもないワシだ。それほどにあの男は危険な人物だったのだ」
ボドロ・ブランキーは気性が荒く暴力的な男で周囲の者からは狂人とさえ言われていた。
捕まる前日にも酒場で一方的に他の客に因縁をつけ暴力を振るったらしい。
それだけではなく駆け付けた兵士数名を負傷させ逃げたのだ。
その場に居た客や兵士の証言では刃物を持っており、このままではいずれ取り返しの付かない事件を引き起こすだろう。
だからこそ早いうちに捕らえなければならないと判断した。
その最中。
昨日の昼頃、無銭飲食をして逃げたという通報があったためセラム総帥に捕らえるように指令を下した。
追尾していた兵士の報告でこの村の周辺に逃げ込んだことを知り、志願して同行したカイン副兵士長とセラム総帥が兵を引き連れてブランキーを追ったのだ。
「それを……私が呼び戻してしまったと? そのせいでこの村が……」
クロンヴァール王女の声は震えていた。
今ようやく、目の前の光景が自らの命令が招いたのだという事実を理解した。
しかし、現実は遙かに残酷なものだった。
「町を出てすぐに城へ帰還することになったロスはすぐに別の部隊にここに向かうよう指示を出した。だが、既に手遅れだったのだ。到着する頃には全ての家屋は破壊され、村人は一人残らず殺されていた。兵士がブランキーを発見した時、奴は小さな女の子の亡骸を手にただ立ち尽くし、狂った様に高笑いをしていたそうだ」
「………………」
「ラブ、勘違いしてはならん。ワシはお前を苦しめるために言っているのではない。だが、もう一つ伝えなければならないことがある」
「なん……でしょうか……」
クロンヴァール王女は精一杯声を絞り出した。
これ以上聞きたくない。そんな気持ちが胸を締め付けている。
後悔、そして己を愚かしく思う気持ちで呼吸すらままならない。
それでもアンドリュー王は話を続ける。
全ては未来を託すべき娘が乗り越えなければならないものだと思うがゆえのことだった。
「なぜカイン副兵士長が同行することを志願したと思う。それはここがカインの生まれ育った村だったからだ。そして、その女の子というのが……カインの娘だったそうだ」
「っっっ!?」
「その判断がお前の身勝手だと言うつもりはない、ロスも同じ意見だ。天秤に掛けるのが村一つと下手をすれば城下全てでは時に苦渋の決断も必要になるだろう。お前なりに城下の人間を守るという正義があったということも理解している。だが、間違っても冷静な判断であったとは言えぬことも事実。残る兵士で守りを固めることも出来たはずだ。魔王軍は驚異であるが、常に全軍を動員せねば戦いにならない程に軟弱な我が国ではないはずだろう。我らの住む町がこの国の全てではない。断片的な情報で感情的な判断を下し城下の者以外を後回しにした結果がこうなったことも紛れもない事実なのだ。目の前の命一つ救えぬ者に戦士を名乗る資格はないのかもしれん。だが、目の前の一つの命しか目に入らない者に人の上に立つことは出来ないのだということをお前に知っておいて欲しい」
「………………」
「お前は約束してくれた、いずれわしの後を継いで王になると。それまでは戦士として前線に立ち、ワシを、民を、国を守ってやると。その約束を守るべくお前は立派になった。誰よりも強くなった。しかし、お前の命令一つでその全てを左右する可能性があることを分かって欲しい。ワシもいる、ロスもいる。お前の助けになろうと思う人間は大勢いるのだ。お前には兵士や民の命や人生を左右する立場にあるということを学びながら大人になっていって欲しいとワシは思う。今この光景を見て自責の念に駆られろというのではない。いつか目の前の二つの命のうちどちらか一つしか選べないような状況を強いられることもあるかもしれないのだ。だからこそいつだって後悔の無い選択をして欲しいと、そう思ったからこそお前をここに連れてきた」
「………………」
クロンヴァール王女は何も言えなかった。
自分の誤った判断が村を一つ潰し、村人を殺し、そして腹心の家族をも死なせてしまった。
かつてこれほど後悔したことはない。
震えるほどの力で握った手からは爪が食い込み血が流れていた。
全ては己が未熟だったから招いた事だ。
全ては自分の弱さが生んだ犠牲だ。
父のために、民のために、国のために。
誰よりも強く、誰よりも多くの物を守れる人間になろうと一心不乱に走ってきた道の上で、初めて立ち止まりしゃがみ込んでしまいたくなっていた。
「ラブ、自分を責めてはいかんぞ。どれだけ強く、どれだけ有能な王でも全ての人間を救うことは出来ないのだ。その中で少しでも多くの者を守ろうとするお前の意志が間違っているなどと誰にも言わせはしない。守れなかった者の亡骸を踏み越えてでも進まなければならない、それが人の上に立つということだ。さあ、城に戻るとしよう」
アンドリュー王は娘の頭に手を置き、馬車へと戻っていく。
それでも、クロンヴァール王女はしばらく動くことが出来ず、虚ろな表情で俯いたままただ立ち尽くしていた。
○
そして次の日。
クロンヴァール王女は朝の仕事を済ませると、愛馬に跨り町を離れた。
行き先は昨日父と行ったリューファ村だ。
己を戒めるために、二度と同じ事を繰り返さないために、今一度あの光景を目に焼き付けておこうと思った。そういう理由だ。
クロンヴァール王女が馬から降り、破壊され木片の山と化した家屋の残骸がいくつも並ぶ村の中を進んでいくと、ふと一つの人影が目に入る。
人が住む家だった山の一つ。その前に胡座を掻いて座っている人影の正面には大小二つの十字架が立てられていた。
例え後ろ姿であれど見間違うはずもない。
クロンヴァール王女にとって最も近しい部下、カイン副兵士長だった。
近付いていくと、その二つの十字架の前に供え物があるのが目に入る。
大きい方の十字架には花束が、小さい方の十字架には……いつか見せてもらった花の形をしたキラキラと光る金属製の髪飾りが置いてあった。
クロンヴァール王女は居たたまれない気持ちのままカインのすぐ後まで来たが、カインは一度として振り返ることはなく、ただ二つの十字架を見つめている。
誰かが居ることは分かっているはずだが、今のカインにとってはどうでもいいことなのかもしれない。
そしてそう思わせているのは他でもない自分だ。
許して貰えるとも思っていない。許して貰おうとも思っていない。
それでも、クロンヴァール王女はその背中に語りかけた。
「カイン……私には謝罪の言葉を口にする資格はないし、言い訳もしない。全ては私が招いたことだ」
兵士長。と。
カインは背後に居るクロンヴァール王女の言葉を遮った。
振り返ることなく、いつもの温厚な人柄を表す様な声と口調で。
クロンヴァール王女は予想に反して言葉が返ってきたことにまず驚いている。
責められた方がどれだけ楽か。無視された方がどれだけ楽だろうか。
お前の苦しみが少しでも和らぐのなら好きなだけ罵り、恨んでくれとすら思うのに、カインが口にしたのは全く別のことだった。
「兵士長……僕をその名前で呼ばないでください。今日限り……僕はその名前を捨てる」
「名前を……捨てる?」
「僕達家族はこの村では仲良し一家だっていつも言われていたんです。カイン一家はいつも一緒。カイン一家はいつも幸せそう。そんなことをよく言われました」
「………………」
「僕がカインと呼ばれていたら向こうで妻や娘が寂しがってしまいますからね。僕のカインという名前だけでも妻子と共に居られるように、カイン一家はいつでも一緒だと娘が思える様に、その名前は妻と娘に預けます。いつか僕が向こうに行く日まで。だから、今日から僕はアルバート……ただのアルバートです」
「そうか……ではアルバート。もう一度言う、全ては私が招いたことだ。私が無能で、無力なせいだ。私は二度と同じ過ちを繰り返さない。もっと強くなって、平和を乱す奴は全て蹴散らしてやる。民の安住を妨げようとするやつは全て排除してやる。それを今ここでお前に誓う。だが、もしもその前にお前が今抱いている憎しみをぶつける相手が必要になった時は真っ直ぐに私の所へ来い。私のこの首を……いつでもお前にやる」
「…………」
アルバートは何も言わなかった。
ただ胡座を掻いて座ったまま二つの十字架を見つめ、振り返ることもなくその後ろ姿を見せている。
少しの沈黙を挟んでクロンヴァール王女はただ一言を残し、そのまま背を向けその場を後にした。
この出来事をきっかけにラブロック・クロンヴァールは更に鍛錬を重ね、戦闘技術と意志を貫く強さを培い、平和を乱す全てを敵とし敵の全てを排除することを誓う。
のちに王となり、世界一の戦士と呼ばれることになる姫騎士の原点だった。




