【第十三章】 まだ見ぬはずの何か
少しずつ頭がフラフラする感覚も収まり、視界の乱れも収まって来た。
それでいて自分自身で何が起きたのか、何が起きているのかが分からず戸惑いは拭えない。
体調不良というわけではない……と思う。
かといって天界の空気が合わないというわけでもないはず。
今いるこの場所がどこに存在しているのかなんて分からないけど、なるほど確かに天高くに位置しているのなら空気の薄さというか、酸素濃度云々が影響している可能性はゼロではないのだろう。
所謂高山病の様な、環境の変化に体が追い付いていない。そういう可能性だ。
客観的に、そして現実的に考えればむしろその線の方が濃いのかもしれない。
だけど感覚で分かる。
これはそういう類のものではない。
明らかに不可解なことが自分の体に起きていると、根拠の無い確証が間違いなく己の中に存在していた。
「坊や大丈夫~?」
「コウちゃん、水をどうぞ~」
「ほら弟、飲めっ」
急によろめき、直立も困難な状況に陥ったものだから皆も未だ心配そうに僕を囲んでいる。
ウェハスールさんが取り出した瓶入りの水をエルが栓を開けて手渡してくれたのでひとまず三口、四口と流し込んだ。
「ふぅ……」
おかげで息も整い、かなり楽になった。
シロも心配そうな表情を……しているのかはちょっと分からないけど、少なくとも不安そうに見上げているし、レイラも律儀にずっと肩を支え続けてくれている。
考えるのは後だ、いい加減情けない姿を見せていられない。
「もう大丈夫です、本当に。ご心配おかけしました」
「それならよいのですが……王子、先程のお言葉の真意は」
「正直、自分でもよく分かりません。ただどういうわけかそういう光景が、記憶なのか予感なのか頭に浮かんで……途端に視界が揺れてきて」
「体調がどうこというわけではない、ということですか~?」
「そうだと思います。これも自覚と自分の判断でしかありませんが……」
「同じ質問になるのですけど、王子はこの天界に来たご経験は?」
「ない、と少なくとも自分では思っています。とはいえそれでは説明が付かないことも事実なのですが、現状考えたところで原因が分かるとも思えないですし時間の浪費も避けなければいけないので考えるのは後回しにして今は……」
先に進みましょう。
と言いかけた時、別の声がそれを遮った。
「おい皆! あれ見ろ!!」
叫んだのはキースさんだ。
指差す先、遥か遠方には見通しい景色の中に浮かぶ異物が確かに見えていた。
二、三百メートル向こうからこちらに向かって飛んでくる黒い何か。
まだ距離があるのでそれが何なのかまでははっきりしないが、馬だとか牛だとかそういう生物に翼が生えている黒い猛獣であることだけは分かる。
そしてそれは、先程脳裏に過ぎった正体不明の記憶、或いは予知に分類する何かと全く同じ光景だった。
「本当に……来た」
「弟の言った通りだ……どうなってんの?」
ナディア、エルも驚きの声を漏らしているが、それは僕とて同じ。
そんな中でも守護星の面々だけは即座に戦闘モードに切り替えていた。
「動揺なさるな女王閣下。確かに珍妙な生物を引き連れてはいるが、大した脅威とは思えん。隊長、仕留めますか」
一人前に出たエーデルバッハさんはすぐに右手を飛んでくる誰かへと向ける。
この人の門は氷を生み出し武器とする物で、ゆえに遠距離攻撃も可能だ。
しかしその問答無用の先制攻撃は背後からの一声で制止される。
言わずもがな彼女に指示が出来る人間、彼女が指示を聞く人間は実質一人しかいない。
「待てオルガ」
「は」
「この短時間で現れたということは天門の監視を担うサラマンダーの配下だろう。捕らえて奴の元に案内させる。お前の言う通りサラマンダーを含め我々の脅威にはなり得ない。ひとまずは待機でいい」
「了解しました」
エーデルバッハさんは素直に腕を下げた。
それよりも、今会話の中で凄いことを言いませんでした?
「サラマンダーって……神の一人、ですよね」
「はい。ですが神の名を冠する者の中ではシルフィードと並んで最弱の部類です。どう転んでも我々の障害にはならないかと存じます」
「……まじですか」
「何年も前の話ではありますが、過去に一騎打ちをし特に苦労することもなく蹴散らした経験がありますゆえ。配下も数は多くなく、纏めて向かってきたとしても私一人でどうにでもなるレベルかと」
「レイラすげええ!」
「ふん、当然だろう。お前とは強さの質が違う」
「なんでお前が偉そうにするんだバーカバーカ」
「ガキが……」
なぜそこで喧嘩が始まる。
思いつつも、問題無いと言われたところで敵襲には変わりないので油断や安心という概念など持てるはずもない僕は目を逸らすことが出来ない。
ウェハスールさんが『こーら、いい加減にしなさい』とエルを抑えてくれているので場違いな内輪揉めはそっちに任せるとして、僕はただ謎の飛行物体が近付いて来るのをただ待った。
やがて声が届くまで近付いて来た何者かは、翼の生えた黒いバッファローみたいな生物に乗った若い男だ。
見た目は二十代半ばぐらいだろうか。
身長程の長さがある赤い棒を持ち、同じく赤いズボンと袖の無い白い戦装束を着たいかにも好戦的な表情や態度を隠そうともしない何者かはその場で待ち構える僕達の前に現れるなり大きな声で挑発的な台詞を吐きながら空飛ぶ牛から飛び降りる。
レイラの言葉のおかげか、純粋に経験則や練度の差か、もはや危機感を維持しているのは僕だけで一同は既に余裕綽々といった心持ちであるらしく、今や武器を構える様子も無ければ敵と見なして煽りや挑発をするでもなくただ男の言葉を待っていた。
「ウン百年ぶりに侵入者が来るかもしれねえってんで楽しみにしていたんだが、女だらけじゃ……げっ、ヘ、紅き狼!?」
意気揚々と、露骨にこちらを見下し侮っている様な態度だった男が突然愕然とした表情で後退っっていく。
指を刺されているのは他ならぬレイラだ。
「「ヘルクロウ??」」
僕以外の全員が声を揃えていた。
こちらの戦力を推し量った結果、ではなくただレイラを見ただけで戦意を失い、あからさまに恐怖しているのだ。
そりゃあ不思議に思うのも当然だろう。
「確か……どこかの神の部下だか配下だかで、天界最強の戦士と呼ばれている人物……でしたか」
いつどこで聞いた話なのか。
これもそのワードを聞いた途端、まるで古い記憶のしおりに触れたかの様に自然と頭に覚えのある言葉として頭に浮かんできた。
もうほんと何なのこれ……自分の記憶がどうかも定かじゃないから気持ち悪いんだけど。
「まさかご存知だとは思いませんでした。さすがは御主人様でございます」
レイラも無表情の中に驚きの色を見せている。
ナディア以外の全員が『何それ初耳なんだけど』みたいな顔をしていた。
「ご存知というか、これも謎の記憶のおかげなんですけどね。見聞きした情報を思い出す様に頭に浮かびはするけど、いつどこで知ったのかなんて全く分からないし、そもそもその言葉の意味がふわっと出て来ただけでそれがレイラを差す物だとは知らなかったし」
部下であり仲間である守護星や家族であるウェハスールさん達が知らないということは最近そう呼ばれる様になったという話ではないのだろう。
そもそもナディアとレイラのみが天界の出身であるということは聞いているけど、いつ地上に引っ越してきたのかまでは知らないわけで。
それ以前にそう呼ばれていた事実をナディア以外に知る者が居ないのも納得という感じである。
「その辺りの話はまたのちほど」
その一言を残し、レイラは男に近付いて行く。
相手も武器を持っているというのに、欠片の警戒心も無く、ゆっくりと。
「選べ、ここで死ぬか貴様の主の元に案内するか」
「も、勿論降参するさ……案内しろってんなら任せてくれよ姉さん方。このバーレ、命を捨ててまで戦うなんてガラじゃねえんだ」
ははは、と。
乾いた笑いを漏らす男は完全に戦意喪失している。
見ただけで即降参って……何だかもう頼もしいのを通り越している気がしないでもないけど、どうあれ僕達は神の一人であるサラマンダーの部下であるバーレと名乗る男の案内によって最初の目的地へと向かうこととなった。
ぞろぞろと群れとなって歩く最中、僕とナディアにウェハスールさんは地図を広げて諸々の確認を始める。
天門と書かれた印を見るに僕達が今いる場所は最南部らしく、いくつもの町……なのか都市なのかが北に向かって並んでいるといった感じか。
土地名らしきものが九つあって、それぞれに統治者らしき名称が横に記されている。
【天門】
【スマウグ(炎の化身)】 【レイス(死神)】
【グリルス(風の語部)】 【ファータ(白氷の霊姫)】 【アプサラス(水の精霊)】
【フォウルカス(時の番人)】
【メリア(大地の守護者)】 【ケプリ(不死鳥)】
【エデン(天帝)】
簡単に言うとこんな具合で、現在地から北に向かうにつれて横並びの都市がいくつかあり、最後に支配者であるらしい天帝という存在が鎮座する地に辿り着くという風になっているようだ。
全てを記憶しているわけではないが、いつだったかジェスタシアさんに聞いた神々の名前と一致するものが山程あるあたりそれぞれの神が各地を個別に統治しているということらしい。
「で、最終目的地が天帝がいるこの最深部のエデンという場所なんですよね。その上で全ての都市を避けて進むことは出来ず、ここに行くためには各地で神が持つオーブを入手しなければならない、と」
「その通りです。かつては八人の神が八つの土地を治めていて、神々の合議制で方針が決定するという有り方から半数の四という数字になっているのです」
「八つの都市町村にいる八人の神から四つ。当然ながら僕達が必要だからといって簡単に譲ってもらえるわけではない……それがこの旅の全てと言ってもいい問題なわけだね」
「王子の仰る通り、交渉し譲ってもらうもよし、力尽くで奪うもよし、というと扱いであるとは聞いていますが、なにぶん前例も無いので神々にとってどういった存在とされているかは何とも……という具合でしょうか」
「前例が無いんじゃ推察したところでって話だもんねぇ。きっとそれがお城で言ってた派閥云々に繋がるんだろうし」
「そうですね。ただレイス、ケプリ、ファータにいた神は今現在その座を降りるか追放されておりますのでそもそも選択肢に入れることは出来ないというのが悩みの種でして……」
「ということは実質五人の神から四つのオーブになる、と。より危険を少なくオーブを入手しようにも相手を選ぶこともほとんど出来ないのがどう転ぶかってことだね」
「まさしく」
レイス・死神
ケプリ・不死鳥
ファータ・白氷の霊姫
不在と挙げられた神はこの三人。
どうせ意味の分からない記憶がどこかにあるのならその辺も思い出せたりしないかと頭で念じてみるも、何らかのスイッチやトリガーでもあるのか神様がどうこうする様な光景は浮かんでこない。
ただぼんやりと『そんな気がした』のは炎に囲まれたり水に囲まれたり土に囲まれたりする自分かどうかも分からない曖昧過ぎる思い出なのか別の記憶なのかという薄っぺらい感覚だけだった。