【第十一章】 孤城落日
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昼時を大きく回った頃、王都バルトゥールはいつになく仰々しい雰囲気を醸し出していた。
街を囲む城壁を更に大軍が覆い、内部に入るための正門周辺には千を超す兵が列を作っている。
本城にいた全兵力が集結しているのだ。
その様は今にも合戦を始めようとしているのではないかと思わせる程に張り詰め、一向に緩む気配はない。
全ての原因は昼を迎える前に届いた一通の書状にある。
ラブロック・クロンヴァールによる返信にはジェルタール王の打診を全面的に受け入れるという旨が記されており、それが急激に事の運びを加速させ直ちにキアラ総隊長より全軍出動の指令が下されたのだった。
未だジェルタール王の独断を受け入れられないでいるキアラは一人正門の前に立ち、地平線の彼方を見つめている。
かつて共に大戦に望んだクロンヴァール王に対する信頼はすでに判断基準としての役割を果たさない。
捕虜の解放、そして停戦。
それらを受諾する意志を示したとはいえ油断を誘う計略である可能性を捨てきれず、ゆえにキアラは全軍を投入し万が一に備えた。
それでいて信用していないという心の内が透けて見えては相手を刺激しかねないため敢えて門の前には兵を置かず、交換条件に従いクロンヴァール王を迎え入れるつもりであることを示しているのだ。
脇には複数の拠点で捕らえた数十にも及ぶ捕虜が腰を縄で繋がれた状態で両膝を突かされているが、武器を取り上げているため手足の自由までは奪っていない。
無傷での解放。
それもまた条件の一つであり双方に捕虜がいる以上反故にするわけにはいかず、慣例からは外れながらも雑な扱いをしていないことを示す意図でそうしている。
そして残るジェルタール王の指令は一つ。
捕虜の交換が完了したのち、クロンヴァール王一人を本城へと案内することだけだ。
肩書きや立場、責務。
貫くと決めた正義と信じた者に託された道。
何が正しく、どうあるべきか。
キアラは城を出た瞬間にそれらを考えることを止めた。
部隊の配置が終わって以来一言も発さず、動くこともなくただ遠くを見つめている。
その目に映るは押し寄せる敵の姿か、この国の行く末か。
金色の髪を風に靡かせ、迷いを断ち切った瞳が僅かに見開かれた時、決意を体現すべく背に負った長槍に手を伸ばしかけた手が止まった。
まさにその瞬間に山河を越え王都へ大挙するシルクレア軍が見え始めていた。
数日の雨が地を軟化させているため想定された時間をやや上回ってはいるが、数百の兵馬と捕虜を乗せていると思われる十数台の馬車を率いるは白馬に跨る赤髪の戦士の姿だ。
キアラはそれがラブロック・クロンヴァールであると把握すると僅かにざわついた兵達を右腕の動きで黙らせ、ゆっくりとした歩調で単身足を進めていく。
一方のクロンヴァール王は正門の前に広がる荒野を半ばまで駆けると、交戦の意志が無いことを証明するべく弓や魔法による攻撃の射程圏外である位置で全軍を停止させ白馬から下りるとキアラと同じく単身両軍の中心へと歩みを進めた。
二人の距離が徐々に縮まっていく。
そのまま声が届く位置まで近付くと、両者は同時に立ち止まった。
クロンヴァール王は特に警戒心を感じさせない普段通りの凜とした表情で、対するキアラは鋭い眼光を維持しながら視線を交わす長くはない時間を経て、腹の探り合いは御免だとばかりにクロンヴァール王が沈黙を破る。
「要望通り、まずは捕虜の交換を済ませるとしよう」
「分かりました」
キアラは短く答えると、左腕を上げ後方の兵に合図を送る。
すぐさま士官の一人が縄に繋がれた捕虜を連れて前進を始め、次いでクロンヴァール王も同じくアルバートに同じ指示を出した。
双方合わせて数百に及ぶ捕虜が二人の背後にまで到達するとキアラは腰で両手を縛られている部下の姿を順に目で追っていく。
一見して拷問を受けた様子はなく、自責の念からか痛ましい面持ちのラウニッカや空腹が堪えているのであろうルバンナという二人の副隊長も無事でいることに小さく息を吐いた。
キアラはすぐに士官と解放された捕虜を下がらせ、示し合わせることなくクロンヴァール王もアルバートを除いた全ての兵を自軍の元へと向かわせる。
再び荒野の中心で向かい合う両名は改めて視線をぶつけ合い、自身の言葉を待っているのだと察したクロンヴァール王が敢えて誘いに乗ることで今一度静寂を打破した。
「捕虜の交換も済んだ、要求に従い陣は引き払い港の兵も撤退させた。あとはそちらが条件を果たすだけだ」
「それは……出来ません」
迷いも躊躇いもない決意に満ちた眼差しが真っ直ぐにクロンヴァール王を射抜く。
何か狙いがあるのか、それともまだ交渉の予知があるとでも思っているのか。
発言の意図を推し量ることは出来ていなかったがそれでも、クロンヴァール王は鼻で笑った。
「ふっ、そちらが出した条件を受け入れてやったのは我々だ。貴様等がそれを反故にしようとは笑わせる。誰の意志、誰の指示かは知らぬが、それは少々筋が通らぬのではないか雷鳴一閃よ。こちらは強行しても一行に構わないのだぞ」
「私は……私は、王国護衛団の総隊長です。誰が何と言おうと国を、民を、主君を守る義務と使命がある。王の元に敵を案内する武官がどこにいるでしょうか」
「敵、か。なるほど確かに、諸君にとって我々は侵略者に他ならんだろう。が、そうだとして、ならばどうする。今ここで全軍を用いて雌雄を決するか?」
「そのような提案をしているつもりは毛頭ありません」
「ほう」
「クロンヴァール陛下、あなたが汚名を被り身を裂く思いで世界を救おうとしていることは理解しているつもりです。ですがそれでも、誰もがあなたの様に割り切る強さを持っているわけではない」
「何が言いたい」
「あと一年です……あとたったの一年足らずでジェルタール陛下はあなたと添い遂げることが出来るというのに……なぜ今この時期にお二人が敵同士とならなければならないのですか」
キアラの声が震える。
歯痒さともどかしさに唇を噛み締め、爪が食い込む程の力で拳を握っていた。
国民の投票によって国王が決まるサントゥアリオ共和国において、一代の王の任期は九年とされている。
齢二十七を数えるジェルタール王は国王となって既に八年が過ぎており、キアラの言葉の通り王を名乗る期間は一年と残っていない。
両国王は婚約関係にあり、ジェルタール王は退位ののちシルクレア王国に移り王家に婿入りすることが先代シルクレア国王との取り決めにより定められていた。
一年と待たず夫婦になるはずの二人が何故今命を奪う者と奪われる者へと成り代わらなければならないのか。
それもまたキアラが何よりも現実を受け入れられない理由の一つだった。
「その一年を待ってくれなかったのは私ではない。それはこの反吐が出る奸計を実行した天界の神々に向けるべき憤怒であるはずだが?」
「例えそうだとしても、私が道を譲る理由にはなりません。確かにあなたは世界の王であられるのでしょう。だけど……人の道理に外れた今のあなたはまさに人面獣心。ならば私は、時の趨勢を見誤っていようともこの国の民の一人として人道を重んじる。クロンヴァール陛下……私と決闘をしてください」
「…………」
予想外の言葉にクロンヴァール王は僅かに眼を細める。
決意を胸に城下を後にしたキアラに退く道はなく、ただ信念のままに覚悟をぶつけるだけだ。
「私が負けた時には両陛下の望み通りに致しましょう。もしも私が勝った時は……」
「この国を出て行けとでも言うつもりか? この土壇場で条件を追加しようとは厚顔も甚だしい。と、言いたいところだが、お前の言い分も理解は出来る。私がお前の立場であったなら同じことをしただろう」
「それはつまり……」
「その決闘、受けてやろうと言うのだ。私は私の全てを賭して世界を守る道を選んだ、お前はお前の全てを賭して正義感と使命感に身を捧げることを選んだ。ならば時代が選ぶのはどちらの信念か……今この場で答えを得るとしよう」
クロンヴァール王の顔から笑みが消える。
承諾の理由は決してキアラの言葉に感銘を受けたからではなく、様々な要素に自分自身の感情を加味して出した結論によるものでしかない。
例え申し出を拒否したところでキアラが引き下がることはないであろうこと。
そうなると先に述べた通りこの場で無駄な争いが起こる可能性が高く、余計な犠牲を出すだけではなく無意味に時間を浪費してしまうであろうこと。
それらに加え、フェノーラ王国ではフローレシアの戦士を相手に勝負を決することなく撤退を余儀なくされたこともあり己の全てを投げ打って人柱の殲滅を掲げておきながら自身が血を流さずして戦いを終えることがあっていいはずがないという最後の矜持が首を横に振る選択肢を捨て去らせていた。
キアラとはまた違った覚悟は迷いのみならず後悔の可能性への憂慮を断ち切らせる。
クロンヴァール王は腰から鞘ごと剣を取り外すと、視線だけをアルバートに向けた。
「聞いた通りだアルバート。下がり全軍に伝えろ、私がどうなろうとも今後一切の進軍交戦を禁ず。背いた者は斬れ」
「しかし姫様……」
「この期に及んで要らぬ気遣いなど口にするなよ。心配せずとも私の死に場所はここではない、さあ行け」
「……御意」
喉まで出かかった言葉の全てを飲み込み、アルバートはどこか悟った様な表情で承諾の返答を口にすると、そのままゆっくりと自軍の待つ後方へと戻っていく。
一度も振り返ることのない王の背中はよく知るそれとは思えぬ程に弱って見えた。
やがて全軍が停止している位置まで戻ると、すぐにハイクが傍に寄る。
「旦那、なぜ姉御は中に入らねえ」
「姫様は今から総隊長殿と決闘をする、あちらの申し出を受諾した形でね。姫様がどうなろうと進軍及び交戦を禁ずる、背いた者は斬れ。だそうだ」
「おいおいちょっと待てよ。何だってそんな話になる」
「姫様が決めたことだ、もう僕達に言えることは何もないんだよ。これは世界や国を救うための戦いなんかじゃない、謂わば私闘なんだ。きっと姫様は……生涯を戦場で生きたという自尊心を守ろうとしているんだろう。それだけではなく僕達に生き様を示す最後の機会だと思っているんじゃないかな」
「ちっ……こっちの身にもなれってんだ。ユメ公が到着する前なのが唯一の救いだな」
「誰がどこに居たところで何も変わらない段階まで来てしまっているんだろうけど、クリスちゃんが傷心するのを見るのは辛いからね。いずれにせよ、今の僕達に出来るのは見届けることだけだ」
その呟きを最後に一切の会話が無くなる。
今初めて主君の決闘を知ったシルクレア兵、予めキアラに腹積もりを聞いていたサントゥアリオ兵。
両軍が見守る前で繰り広げられた世に名を馳せる戦士同士の戦いは現在解体した自陣から兵糧を運び出す兵の指揮に回されたユメールの合流を待つことなく早期の決着を迎えることになると予測出来た者は一人としておらず、誰もが固唾を飲んで見守っている。
国を背負い、全軍を率いる大将の行く末を占う一世一代の真剣勝負を。
「さあ、これで邪魔をする者は誰も居なくなったぞ」
両者が同時に武器を取る。
クロンヴァール王だけが笑みを浮かべ、どこか戦闘を楽しもうとしているかのような気の高ぶりを明確に醸し出していた。
「今にして思えばお前とサシで勝負するのは初めてだな。過去の演習ではそういう機会はなかった」
「そうですね……それがまさかこのような場で実現するとは、残念でなりません」
「遠慮はいらん、殺す気で来い。少なくとも私はそのつもりでいるぞ」
「勝利の先にしか未来が無いのであれば、私はそのために戦うだけです」
毅然と言い放ち、キアラは両手で持った雷神の槍に雷を充満させる。
そして光を帯びる槍がバチバチと音を立て始めると同時に地面を蹴った。
対するクロンヴァール王もまた、少しの時間差も無く突撃に出ており両者の距離は一瞬にして縮まっていく。
真正面から迫る相手にそれぞれが武器を目一杯に振り抜くと、キアラの突き出された右腕による渾身の突きと振り下ろされたクロンヴァール王の剣が激しい音を立ててぶつかり合った。
二人の動きが止まると同時に武器と武器が接触したことによる金属音のみならず、それを通じてクロンヴァール王の全身を穿つ雷撃が破裂音にも似た独特の雷鳴を轟かせる。
その瞬間、驚きに目を見開いたのはキアラの方だった。
クロンヴァール王の代名詞である魔法剣の能力の一つに剣を媒体に盾となる結界を生成することで武器同士の接触を避けたり近距離での魔法攻撃の直撃を防ぐことが出来る魔法陣がある。
キアラは二段構えの攻撃がまともに通用するなどとは思っておらず、当然ながらそういった対処をしてくるものだと考えていたがクロンヴァール王はどう見ても魔法陣を用いていなかったのだ。
その想定外が次なる行動への移行を遅らせ、逆に先手を打たせてしまう。
ニヤリと不敵な笑みを浮かべるクロンヴァール王は瞬時に剣の角度を変え、防御の術を持たないキアラの胴体へと突きを放った。
応戦する時間的な余裕は無いと咄嗟に判断したキアラは身を翻してそれを躱し、そのまま後方へと飛び退くことで距離を置く。
「…………」
ひとまず射程圏外に出たものの、不可解な初動が頭から離れず安堵ではなく怪訝な表情を浮かべていた。
キアラはクロンヴァール王の身体が毒に蝕まれていることを知らない以上無理もない。
馬を下りる際にアルバートの補助を受けていた姿に違和感こそ抱いてはいたが、それだけで何らかの答えに行き着くはずもなく。
ただ防御しなかったこと、それでいて平然と反撃してきたことへの疑問が解消出来ずに言葉を失うしかなかった。
クロンヴァール王は間違いなくまともに雷撃を受けたはず。
にも関わらずダメージを負った様子など露程も感じさせず今尚直立を維持していることも想定外を上塗りしている。
常人ならば一撃で気を失うレベルの全身全霊の雷撃。
過去にそれを食らって倒れなかったのはかつて帝国騎士団を名乗っていた男の一人であるフレデリック・ユリウスだけだ。
果たしてそれは鍛えてどうにかなるレベルの問題なのか。
不可解でしかない目の前の光景にキアラは言葉を失ったまま不用意な攻撃を躊躇い、対照的にクロンヴァール王は笑みを浮かべたまま独白の様に呟いた。
「クックック、まさに渾身の一撃……さすがは天武七闘士として肩を並べる戦士というだけのことはある。本来ならば立っていることすら困難なのだろう。だが、今の私には通用しないようだな。朽ち果てつつある肉体も存外悪いことばかりではないらしい」
その言葉の通り、強い衝撃こそ感じていてもクロンヴァール王の肉体はもはや痛みを感じていなかった。
キアラは頭の中で繰り返しその言葉の意味を考えるが、やは理解するには至らない。
「これが答えだ! 世界は私を選んだ……今この時だけはな」
大きな声が響くと、クロンヴァール王の剣が白い光を帯び始める。
衰弱してはいても、決して魔法力そのものを失っているわけではない。
エーデルバッハとの戦いでそうだったように魔法力を使おうとすれば全身に激痛が走るため使用出来なかっただけに過ぎず、肉体が耐えきれずに吐血したのもそのためだ。
しかし今こうしているように短い間にも猛毒の浸食は進み、この時ばかりは幸か不幸かそれが良い方向に作用していた。
クロンヴァール王本人も驚く程に体が軽いことを自覚している。
痛みや体の異常の治りが随分と早い。その程度の認識だったが、ここに来てようやく改められた。
そうではなく、既に感じなくなっていただけなのだと。
「戦意喪失にはまだ早いぞ雷鳴一閃。さあ楽しませて見せろ!」
クロンヴァール王は五度、六度と細かく剣を振り斬撃波を繰り出すと、それを追うように素早い動きで再び距離を詰めていく。
様々な角度で迫り来る突きによる直線的な物とは違った白光と化した細い線状の斬撃に対しキアラは動くことが出来ず、その場に留まったままだ。
斬撃を飛ばすという技法はサントゥアリオには存在しない。
国の特色として魔法力を持つ人間が極端に少なく肉体、或いは武器からの放出には極めて不向きな人種なのだ。
同じ理由でどの世代にも魔法使いが少なく、そのため重点的に訓練をしているとはいえその類の攻撃への対応力がどうしても乏しくなってしまう。
回避すればクロンヴァール王は自分の動きに合わせて追撃を掛けてくるはず。
では正面からぶつけ合うべきか。
それとも同じく中距離攻撃で相手の出方を窺うが最善か。
キアラの頭には様々な選択肢が浮かび迷いを抱いていたが、短い時間で決断に踏み切らせたのは『負けるわけにはいかない』という強い意志だった。
すぐに正面に駆け出し、自ら斬撃波の中心へと飛び込んでいく。
突きを一閃繰り出すことで直撃を避け、打ち消す様に走路を開くと既に目と鼻の先にまで近付いているクロンヴァール王に向けて槍の先端から雷撃を放った。
多用な攻撃手段を持つ相手だからこそ後手に回ることを避ける。
それがキアラの選択であり、それこそが唯一の勝機であると信じるしかない。そういう精神状態の中にいた。
クロンヴァール王は剣を盾にし、容易く雷撃を防ぐとそのまま斬り掛かり俊敏な動きで細かな攻撃を重ねる。
なぜ敢えて接近戦を続けようとするのか。
そんな疑問もまた、キアラの迷いを増長していた。
世界一とまで言われるクロンヴァール王の魔法剣には一撃で敵を仕留められる必殺技がいくつも存在する。
それらを使わないのは強大過ぎるがゆえに周囲の兵を巻き込みかねないこと。
城壁の奥に住まう民に余計な不安を与えてしまう可能性があること。
そして元よりこの国の未来そのものであるキアラを殺すつもりがないこと。
そういった理由があってのことだったが、無論キアラにそれを知る由はない。
どうにか致命傷を負わないように槍を振い続けることで精一杯の状態だ。
絶えず立ち位置を変えながら幾度となく武器をぶつけ合う緊迫の場面が続く。
その最中、クロンヴァール王は巧みな計算と誘導によって攻防を重ねる中でキアラに悟られることなく槍を外側に弾く隙を作り出した。
すかさず無防備になった体に突きを放つが、それでもキアラが退くことはない。
一連の攻防が動きの精度や練度、速度に技術といった全ての要素で自身を遙かに上回っていることを痛感させ、剣術や体捌きに差がある以上ただ回避するだけでは危険だと本能が理解させる。
追撃を受け防戦一方になるぐらいならば玉砕覚悟の一手に打って出た方が活路に繋がる可能性は高いはず。
思考を経由しない極限の状況が生んだ瞬間の反応は想定に反することなく二人の距離を更に縮め、双方にとってより危険度の増す接戦へと発展させた。
鋭い突きが肩口を掠めたものの金色の髪を少しばかり舞わせながら強く地を蹴り突進に出るキアラの顔の横を通過する。
一転してがら空きになった肉体を晒すクロンヴァール王の懐へと正面から入り込んだキアラは僅かにも速度を落とすことなく槍を持っていない左手を目一杯に開き、腹部に狙いを定めた。
武器を通しての雷撃が通用しないのならばと、己の腕に雷を充満させ直接肉体に叩き込む狙いである。
それは代名詞である雷神の槍がなくとも雷を操る能力を持って生まれたキアラだからこそ出来る芸当であったが、炸裂する寸前でその渾身の掌底は紙一重で防がれていた。
クロンヴァール王は右腕を体の前に割り込ませ、キアラの手を手首で受け止める。
複数ある予測行動パターンの一つとして想定に含まれていたがゆえに瞬時の対応を可能としていた。
それでも到達地点が腹部から腕に変わったからといって全てを阻止されたというわけではなく、狙い通り直接肉体に雷撃を食らわせることには成功している。
ただ雷撃が通用しないことに武器云々が無関係であることを把握していなかったことが誤算に繋がっているだけだ。
「フッ……まだまだ青いな」
仮に腹への攻撃が成功していたならば、能力によるダメージを与えられずとも打撃という側面が動きを鈍らせる可能性は大いにあった。
しかしそれを阻止されているためクロンヴァール王の次なる行動を制限する要素は何一つとしてなく、自ら懐に飛び込んだことが至近距離での攻撃を回避する術を奪ってしまっていた。
触れ合う二本の腕を離すよりも先にクロンヴァール王は防御した手首返しキアラの腕掴むと、力一杯に引き寄せ体勢を崩し掛けた体の中心へと膝を叩き込んだ。
まともにへその辺りに突き刺さった膝蹴りは鈍い音を立て、呼吸を止める。
思わず呻き声を上げるキアラは悶絶し崩れ落ちそうになるが、どうにか両足に力を込めることで踏ん張りぎりぎりの所で堪え、槍を地面へと突き立てることで続け様に攻撃されることを咄嗟に防いでいた。
槍の先端が地面に触れた瞬間、両者を目映い閃光が包む。
攻撃の手段ではなく目眩ましの意図を持つキアラの技の一つだ。
ほとんど同じタイミングでクロンヴァール王の手が掴んだ腕から離れる。
視界を奪われたこと自体が理由ではなく、それに乗じて攻撃を受ける危険性を考慮し僅かであっても距離を置くべきだという判断の下のことだった。
この機を逃せば形勢逆転への道は無い。
胸中を占める『退けば終わる』という危機感からキアラは迷わず前に出ると、二人を覆う閃光が消えゆくと同時に右腕を突き出した。
【雷神の槍】は円錐型の武器であるがゆえに斬り付けるという攻撃には向かず、必然突きによる攻撃が主流となる。
もしもそうでなければその一閃は勝機に繋がったかもしれない。
キアラ本人にその自覚はなかったが、次の瞬間には目の前で待ち構える【世界の王】という異名を背負った戦士が技術や経験のみならず読みや感性といった要素の全てで自身を上回っていることだけは否応なしに理解させられることとなった。
肩口に伸びた突きはクロンヴァール王の身体に触れることなく静止する。
空中で、まるで何かにぶつかったかの様な感触が手に残るが、キアラは何が起こったのかを把握出来ていない。
ただただ不可解な現象に驚きの表情を浮かべ、その少しの間が遅れて現実を映し出した。
真っ直ぐに伸びた槍の先とクロンヴァール王の体の間にうっすらと円形の小さな魔法陣が浮かんでいる。
それが盾の効果を持つ結界であることは疑いようもなかった。
「結界……いつの間に」
「最初に突きを放った時に剣を利用して作っておいた物だ。発動を遅らせただけに過ぎん」
「時間差で結界を発動させるだなんて……そんなことが」
「実を言えば私にとっても望外なのだがな。思い付きでしかない上に今初めて試行してみたのだが、思いの外上手くいくものだ。こういうことも出来るぞ?」
すかさずクロンヴァール王は魔法力を集めた指を立て、目の前に別の魔法陣を描き始める。
その表情、声音からは既に命の遣り取りをしている緊迫感は消え失せ、どこか戦闘を楽しんでいるようでさえあった。
会話が止むまでの時間で浮かび上がった青い線が描く魔法陣の正体が分からない上に今の攻撃が不発に終わったことでキアラは怯まずに無謀な特攻を続けることが出来ない。
すぐに槍を引き体勢を立て直すべく退避しようとするが、それも僅かな迷いが最短での行動との差を生み、ここでもクロンヴァール王に利する結果を作り出してしまっていた。
クロンヴァール王は遠ざかろうと退くキアラを正面に見据え、完成した魔法陣に手を翳す。
反応した魔法陣は込められた魔法力を変換し、広範囲に及ぶ衝撃波を勢いよく射出した。
そうなっては多少の距離に意味は無く、キアラはまともに全身に浴びる。
腕を交差させ顔と首を防御していたことや万全ではない状態で立て続けに魔法陣を用いたことで本来の威力とは程遠くなっていたため大きな傷は負っていないが、衝撃波が消える頃には四肢や衣服に無数の擦り傷を負っていた。
痛みではなく防戦一方の戦況にキアラの表情が歪む。
打破するために何が必要か。
必死に思考を重ねる脳裏には雷獣の召喚が頭を過ぎっていたが、クロンヴァール王とて明らかに大技を使う気配を見せずにいる。
ならば自分に出来る唯一の手段は……己の命を懸けることだけ。
そんな結論に至ると、再びキアラの目には決意の色が宿る。
「これで最後にしましょう……この国の未来のため、自らの矜持のため、私はあなたを超える!!」
小さく息を吐き、両手で槍を構えて短期決戦に挑む気概を敢えて口にするとキアラは体から光を放ち始めた。
見る見るうちに体積は増していく金色の輝きはすぐに全身を包み込んでいく。
自らに雷を充満させることで肉体を刺激し活性化による身体能力の向上、及び感覚の鋭利化を可能にするキアラの奥の手が今、発動に至った。
体力、魔法力の消耗が激しく長くは保たない上に効力が切れた後は著しく戦闘能力が低下するため一対一の状況で、尚かつ後がない状態でしか使わないと決めている最後の奥義だ。
「ほう……」
見るからに雰囲気が変わったキアラの異様な姿を前にしながらも、クロンヴァール王はやはり笑みを浮かべる。
真の強敵と相対した時と同じ気の高ぶりを抱き、改めて最後の戦いに相応しい相手であると認識したことにより達成感に近い感情が湧き上がっていた。
目映い雷光を発した状態のままキアラは三度クロンヴァール王へと向かっていく。
前進する速度も武器を振う動きの速さも格段に上がっており、迎え撃とうと武器を構えるクロンヴァール王は一転して連続で繰り出される槍を防ぐことが精一杯という攻防を強いられた。
前後左右に幾度となく振り回される槍を小さな動きで躱し、剣で防ぎながら致命的な一撃を食らわないよう立ち位置を変えていく。
キアラ自身も増強した俊敏さは絶対的な差を埋めたに過ぎず、優位に立ってはいても勝機を得るまでには至っていないことを実感していた。
限られた時間が必然的に攻め一辺倒で押し通さざるを得ない状況下へと追いやり、迷うぐらいならばと通用するか否かを度外視しての連続攻撃へと打って出る。
何度目になるかという武器同士の接触する音が響くと、超人的な速度に付いていくのが精一杯である距離感を嫌ったクロンヴァール王が剣、そして足や体の動きによる陽動を複数挟んで後方にステップし三歩ほどの距離を置くと、キアラは敢えて即座にその距離を詰めず左手の先から雷を撃ち出した。
光の筋が顔面に向かって伸びる。
クロンヴァール王は反射的に首を振り直撃を避けるが、この距離で続け様に撃ち出されてはダメージこそ小さくともいよいよ攻撃に転じることが出来なくなってしまうと考えすぐに正面へと戻した視線は真っ白に染まっていた。
掌から放った雷は謂わば囮に近く、天より降り注ぐ雷【轟鳴の霹靂】こそがキアラの狙いだったのだ。
頭上から落ちた雷はまともに直撃し、クロンヴァール王は一瞬動きを止め足下をふらつかせる。
四肢や体からは煙が立ち上り、痛みは無くとも全身を駆け巡った衝撃により体の自由が失われる感覚に見舞われ倒れ込みそうになるのを剣を地面に突くことでどうにか堪えている状態だ。
見るからに弱っている姿を前に、とどめの一撃への準備を完了させつつあるキアラは人知れず冷や汗を流している。
この技もまた、完全に決まった上で倒れずに耐えたのは過去にフレデリック・ユリウス以外にはいない。
それでも今ならば勝負を決することが出来るはず。
仮に反撃されても相打ちという結果ならば上出来だ。
そんな決意の下、キアラは改めて槍を構える。
寸前まで体に充満させていた雷を全て集め、まさに雷神の名に相応しい金色の長槍と化した過去最大の濃度にまで達している槍を絶え間なく迸らせながら。
「覚悟!」
迷いと躊躇を捨て、そう離れていない距離からキアラは真っ直ぐに突っ込んでいく。
棒立ちになり、かつてない程の隙を見せていたクロンヴァール王はあまりにも膨大な気配に失いかけていた気を取り戻し、瞬時に臨戦態勢を取った。
「奥の手を隠しているのが貴様だけだと思うな! それ一つで討てるほど墜ちてはおらんぞ!」
大きく目を見開き、キアラと同じく大きな声で思いの限りを叫ぶとクロンヴァール王も剣を構える。
今度こそ食らえば無事では済まない威力であることは間違いない。
それは二人にとって共通の認識であったが、クロンヴァール王は動くことなく待ち構える。
回避に動く様子も、何らかの魔法を使おうとする気配もない。
それだけが唯一不審に思える点ではあったがキアラにも既に他の選択肢はなく、そのまま体の中心に向かって渾身の突きを放った。
クロンヴァール王は剣を縦に構え、剣身でそれを受け止める。
本来ならばその瞬間には勝負が決しているはずだった。
しかし、非情にも現実は全ての希望を覆す。
動きを止める両者の目に凡そ光と呼べる物は映っていない。
残る全ての力を集約したキアラの槍を覆う雷は、跡形もなく消えていた。
「っ!?」
その光景に頭が追い付かず、キアラはただ愕然とする。
それは宝剣に組み込まれた術式にクロンヴァール王の魔法力が反応して発動する【瞬間の無力化】と名付けた他の何よりも使用頻度の少ない秘術だ。
手や杖から継続的に射出される魔法に対しては効果がないが、充満する雷が槍から発生させたものではなく自身で生み出し槍を覆っただけのであることで効力をしていた。
雷神の槍、持って生まれた能力、いずれであってもキアラの雷を用いた戦術は常に魔法力を消費し続ける。
それゆえにどれだけ優勢を維持していようともどこかで一撃必殺によって勝負を決めに行かなければならない。
それが一度魔法陣を完成させてしまえば持続的に魔法力を消費せずにすむクロンヴァール王との決定的な違いであり、双方が世界最高峰の戦士である中にも存在した埋めがたい差でもあった。
余力がほとんど無いキアラに同じ量の雷を生み出すことは出来ず、これ以上なく接近していながらも次の一手はもはや存在しない。
そこで一瞬ながら動きが止まるのは格上との戦闘経験の少なさ、言い換えれば修羅場に身を置いた経験の少なさにある。ユリウスやクリストフとの戦いがその最たる例だ。
どれだけ万全とは程遠くともクロンヴァール王はその隙を見逃すことはない。
キアラが槍を引くのに合わせて大幅な一歩を踏み出すと、槍を握る右手を真下から蹴り上げた。
指の付け根付近に強い衝撃を受けると、長く自らを雷で覆うことによる反動によって握力が低下している手からはいとも簡単に槍は離れ回転しながら側方へ飛んでいく。
これは二年程前、この国で行われた合同演習の際にキアラ自身が漏らした欠点だった。
「遅い!」
キアラは咄嗟に両手を合わせ、どうにか反撃しようとするも雷が効かないここまでの戦いが迷いを生み、動作を遅らせているせいで到底間に合わず。
残る力を振り絞ろうとするよりも先に顔面へ伸びてくるクロンヴァール王の右手が視界を塞いでいた。
キアラは狙いの分からないままに首を傾け辛うじてそれを躱すが、髪を掠めて通過するなり角度を変える右腕に襟元を掴まれ力一杯後ろに引き倒される。
そして気付かぬうちに後ろに回っていたクロンヴァール王の右足に引っ掛けられる様に、首元に掛かる力と足下を掬われることによってその場に俯せに倒れ込んだ。
胸を打ち付け鈍い声を漏らすと、直後に背中を踏み付けられることで動きを封じられ、それに留まらず顔の真横に勢いよく剣が突き刺さる。
キアラに抗う術はない。
完全なる決着の時だった。
「私が万全の状態だったならば……或いはもう少し良い勝負になったかもしれんな。発展途上ではあるが、お前は強い。だがこの勝負は終わりだ」
頭上から聞こえる非情通告にも似た言葉。
キアラはすぐに敗北を受け入れることが出来ず抵抗しようと腕に力を入れるが、無意味な行為だと悟り脱力するまでにそう時間が掛かることはなかった。
そうなって尚、地を見つめる顔は屈辱と己に対する怒りに歪み、両腕は悔しさと情けなさで震えている。
「乗り越えろ、そして強くなれ。私とお前の実力差などあってないようなものだ。相手が悪かった、などと宣うつもりはない。ただ今ばかりは、時と場合がお前の味方をしなかっただけの話だ。約束通り……」
王の元に案内してもらうぞ。
そう続けようとした言葉が不意に途切れる。
クロンヴァール王のみならず、二人の頭に聞き覚えのある声が響いたことがそうさせていた。
耳にではなく直接脳に届いているような感覚を受ける手法に思い当たる節は一つしかない。
その声は二人にだけではなく、この場にいる全ての兵士に、そしてこの国にいる全ての民にも届いていたことを知るのは間もなくしてのことだった。