【プロローグ】 曇り空の下で
夜も更け、静けさに包まれた曇り空が月を隠す大地の下。
ユノ王国ナディア・マリアーニ女王は炊いた火を前に腰を下ろし、淀んだ夜空を見上げていた。
脇には側近であるケイティア・ウェハスール、エルフィン・カエサルが控えている。
シルクレア王国の追っ手から逃れるため迂回を繰り返しながら目的地を目指した一行は目立つ夜間の移動を避け、この数日と同じく屋外に馬車を止め一夜を過ごすことを決めた。
出来る限り多くの死角がある岩場で暖を取り、予め購入していた魚や肉を焼いて遅めの夕食を取っている最中のことであった。
「はぁ……」
串に刺さった魚を手にしたまま動きは止まり、思わず小さな溜息が漏れる。
マリアーニ王が思い浮かべるのは二人の男女の顔だ。
ついこの日の昼まで行動を共にしていた康平という少年。
そしてもう一人は突如として自分の前から姿を消した、誰よりも付き合いの長いもう一人の側近の女戦士である。
「姫様、やっぱり心配ですか~?」
隣に座るウェハスールはグラスに注いだ水を差しだし、にこりと笑った。
頭を働かせることで一行を導き、それでいて高い魔法力を持つリーダーとしての役目を担う魔法使いだ。
「心配じゃないわけがないでしょう……話が上手くいっていたならとっくに戻っていてもおかしくないというのに」
対するマリアーニ王は更に表情を沈ませ、ギュッと串を持つ両手に力を込めた。
単身あのフローレシア王国に乗り込む。
それは世間一般では誰もが口にすることすらない程の危険を伴い、また無意味かつ無謀な行為に他ならない。
例え唯一の同盟国の長たるユノ王の遣いであることが証明出来たとしても、無事に帰って来られる保証など微塵もないのだ。
協力要請という実現可能かどうかも定かではない用件が何の問題も無く通るとも思えず、返答の善し悪しは無関係にただ行き来するだけのことならば夕暮れには帰っているはずであることが不安を増長させていた。
「うふふ、すっかり恋する乙女ですね~」
「もう、からかわないでよケイト」
やや赤面しながらもマリアーニ王に否定の言葉はない。
むしろ離れたことでその気持ちがより増していることを自覚しているぐらいだった。
「心配しなくても無事で戻って来てくれますよ~。コウちゃんにはわたしの弟ですからね~、やるときはやる子に決まってます」
「そう、よね……でも、王子はいつだって無茶をされるから」
また一段階表情が曇りかけた時、横から暢気な声がその空気を打ち破る。
もう一人の側近である少女、エルフィン・カエサルだ。
「ありゃ? 姫、食べないの? だったらあたしが貰ってあげるよ?」
首を傾げるカエサルは主の顔を不思議そうに覗き込む。
食べることと食材を火に掛けることに夢中で二人の会話は特に聞いていなかった。
「こらエル、どこの世界に主君の食事を横取りする従者がいるの。わたしのを分けて上げるからそれで我慢しなさい」
すかさずウェハスールが諫める。
叱責されることに慣れているカエサルは特に気にする様子もなく「わーい♪」と嬉しそうに肉の塊を受け取るだけだ。
その姿に二人は顔を見合わせて微笑を浮かべる。
いつだって難しいことを考える気がなく、それでいてひたすらに前向きで明るい性格を持つ無邪気な妹分の存在はいつだって心の緩和をもたらしてくれていた。
「姉さんの言う通りだよ姫、弟のことなら心配いらないって。あいつは会った時から約束したことは守る奴だったもん。何たってあたしの弟だからねっ」
得意げに笑うカエサルに一言「そうよね」と返し、ようやくマリアーニ王は丸焼きの魚に口を付ける。
数年もの間、若くして複雑な立場と役目を守り続ける中で得た数少ない信頼の置ける存在がこの逼迫した状況で一人増えた何とも不思議な縁をこうまで大事に思える自身の感情はかつて無い心の揺さぶりを生み、どこか胸を締め付けるような感覚を伝えた。
同時に、傍に戻り顔を見たいと願うもう一人の、幼少より共に過ごした側近の姿が脳裏に浮かぶ。
「王子のことも勿論なのだけど、レイラのことも心配で……本当に、どこに行ってしまったのかしら」
マリアーニ王は今一度夜空を見上げる。
真っ先に反応したのはカエサルだ。
王子という単語に引っ掛かりを覚えかけるも後に続いた名前が一瞬で消し去っていた。
「ほんと、レイラはどこ行っちゃったんだろうね。帰ってきたら説教だよ、姉さんの」
「きっとどこかで姫様のために必死になっているのでしょう。レイラちゃんも、コウちゃんも姫様のために命懸けで頑張っているんですから、わたし達に出来ることは信じて待つことと、自分達のやるべきことを精一杯やることですよ~。港までは半日と掛からないはずですけど、恐らく先回りしているシルクレア軍との交戦は避けられないでしょう。エルも、正念場だから気を抜いちゃ駄目よ~」
「まっかせといて。姫の邪魔をする奴は纏めてぶっ飛ばしてやるんだから!」
カエサルはぴょんと飛び起き、胸を張る。
大声を諫めるウェハスール、その言葉の意味を噛み締めるマリアーニ王、見上げる二人の瞳にも覚悟と決意が宿る。
目的地まではあと僅か。
待ち受けるは争いか希望の道か、それぞれがそれぞれの想いを胸に静かな夜は更けていった。