【第十六章】 芽生えた恋心
小さな村の小さな宿屋の一室で今後の方針を固めた一行はしばしの時間を引き続き個室で過ごすこととなった。
唯一ユノ王国とは無縁の少年が別行動を取り、単独で国を離れることが決まったためだ。
それでいてベッド一つとテーブル、ソファーが置いてあるだけの小さな個室にはナディア・マリアーニ女王とその従者ケイティア・ウェハスールの二人しか居ない。
もう一人の従者エルフィン・カエサルは康平を送り届ける役目を担うことになっており、その経路の偵察に出ている。
そして康平本人はカエサルが戻るまでの時間を利用して血液以外の汚れを取るためたった今浴室へと消えていった。
姿が見えなくなった康平の背を無意識に目で追っていたマリアーニは扉が閉まって尚その方向を見たまま動かないでいる。
どこか惚けている様な表情で、無言のまま固まる主を妙だと思ったのかウェハスールが首を傾げながら顔を覗き込んだ。
「姫様~? どうしたんですか~?」
その声で我に帰ったマリアーニはハッとした反応を見せたが、気まずそうに俯いてしまう。
「その……ケイト」
「はい~?」
「わたくしはどうしてしまったのかしら……先程からどうにもコウヘイ様と目が合うと照れてしまうというか、ドキドキしてしまって」
「あらあら~。姫様、それはひょっとしてひょっとすると恋をしてしまったのでは~?」
「こ、恋? そう言われても自覚もないし、わたくしには分からないのだけど……」
「姫様もお年頃の女の子ですからねぇ、恋の一つや二つ経験して当然と言えば当然でしょう~。今までそういったご経験が無いのであれば戸惑うのも無理はありませんけど、おかしなことではありませんよ~。女性に生まれた者の特権みたいなものですからね~」
「そういう……ものなのかしら」
「姫様のお心をわたしが断言することは出来ませんが、第三者の目線で見ても違和感があるという程のことでもない感じですから~」
普段以上ににこやかなウェハスールの目は優しく、慈愛に満ちていた。
門は目から外されたままだ。例えそうでなくとも従者として主の心を覗き見るようなことは決してしない。
「言ってしまえば世界が敵に回りかねない状況で、それでもコウちゃんは姫様を守りたいとはっきり言いましたからね~。たった一人で、命懸けで姫様を守るためにやって来た。謂わば姫様にとっての白馬の王子様というわけですね~」
「白馬の……王子?」
「ご存じありませんか~? 巷の子供達の間で流行っている童話で、お姫様のピンチに白馬に乗った王子様が駆け付け助けてくれるというお話なんですけど、それがいつしか女の子の憧れの男性像という意味で使われるようになったみたいですね~」
「わたくしにとって……コウヘイ様がそうなっている、と。つまり、本当にこういう気持ちが恋ということになるの……かしら」
「そればっかりはわたしには何とも言えませんね~。状況が状況ですから、それが感謝や尊敬を超えた感情なのかどうかは姫様自身にしか分かりませんから~。ただ、それが恋だと思えたなら後悔しない選択をして欲しいとは思いますけどね~。全てを捧げてもいいと思える男性に、この先の人生を共に歩んで行きたいと思える男性に出会えることは一生のうちにそう多くないですから。そういった経験が無いわたしが偉そうに言えることでもないですけど、皆が無事にこの一件の終わりを迎えることが出来たとしても、コウちゃんは元居た場所に帰ってしまうでしょう。そうでなくとも姫様はいずれ天界にお帰りにならなければならない身ですからね~。目を閉じて、コウちゃんの顔を思い浮かべて、その時を想像してみてください~。今生の別れになってしまうかも、というシチュエーションですよ~」
言われた通り、マリアーニは目を閉じその顔を頭に浮かべる。
そして少しの沈黙を挟み、ありのままの感情を吐露した。
「はっきりとした答えではないのかもしれないけれど……きっと、とても悲しい気持ちになるような感じがする、かしら」
「では次はコウちゃんに迫られた時のことを想像してみてください~。グッと腰を抱き寄せられ、キスをしようと顔を近づけてくるコウちゃんを、今にも触れ合いそうな唇を」
不安げな王の姿が愛らしくてたまらないウェハスールは半ば楽しみ始めていたが、目を閉じたままのマリアーニがそれに気付ける道理はない。
素直にも言葉のままの場面を思い描き、やがて赤面してしまっていた。
「あらあら~」
ウェハスールは口に手を当て、より嬉しそうな笑みを浮かべる。
そこでようやくマリアーニは目を開いた。
「これは本当に本当かもしれませんね~。その感情が本物だと思えたなら、退いちゃ駄目ですよ姫様。女の子の恋は遠慮したら負けですからね~、躊躇っていては他の子に取られちゃうかもしれませんから~」
「簡単に言わないでよケイト……そうは言うけど、わたくしだってどうすればいいのか分からないんだから。もしそうだとして、貴女は思いを伝えるべきだと考えているの?」
「それも何とも言えませんね~。率直に申し上げるならば、コウちゃんの方が姫様に恋しているとは思えません。どちらかというと使命感が勝っているようですし、コウちゃん自身あまりそういうことに感心が無さそうなタイプに見えますしね~。こんな状況では恋であったり愛であったりのことまで考えている余裕が無いだけなのかもしれませんけど、どういう理由であれコウちゃんが姫様を死なせたくないと思っているのは偽りのない本心だということだけはわたしが保証します。物にするためには積極的にならないと難しい、という意味では的外れでもないのでしょうけど」
「積極的……」
マリアーニは消え入りそうな声を漏らすことしか出来ない。
それを実行し、上手くいくように努める自信が一切なかった。
「姫様の気持ちが愛なのか、別の何かなのか、それは姫様にしか断定出来るものではありません。それでも、繰り言になりますが後悔だけはしないでくださいね~。わたし個人の意見を言わせていただけるなら、あの子はとても優しくて、賢くて、見た目によらず男らしい一面も持っている。お姉ちゃんとしては選んで後悔することなはい相手だと思いますよ~」
「でも……どうすればコウヘイ様に思いが伝わるのかも、コウヘイ様に好きになっていただけるのかも分からないのに」
「それはもうアタックとアピールあるのみでしょうね~。一般論で言えば、ですけど。わたしやエルを含め、お互いいつ命を失うかも分からない立場と環境に身を置いていますからね~。のんびり恋愛している暇なんてない、というのもごもっともな考えなのでしょうけど」
「勿論わたくしだって後悔したくはないけれど……冷静に考えると焦って上手くいかなくても後悔することになるんじゃないかしら」
「それもごもっともですね~。少々強引な手段ですし色々と過程を飛ばしてしまうことになってしまいますが、それでも構わないのであれば姫様とコウちゃんが成婚する方法が無いわけでもないですけど~」
「教えてっ」
マリアーニは大きな声を上げて詰め寄ると慌ててウェハスールの右手を握る。
その余裕の無い、懇願するような表情をやはり愛おしく思うウェハスールは優しく微笑みを返し、そっと頭に手を置いた。
出会って以来初めて見せた年相応の女としての顔。
そして今見せた反応こそが断定出来るものではないと言った問いの答えなのではないかと思えば思う程に主の幸せを願う気持ちも増していく。
後悔して欲しくないという進言も、いつ別れを迎えるか分からない状況だからこそ機を逃すべきではないという進言も偽りの無いウェハスールの本音に他ならない。
主の想いを応援し、後押ししたいと思う気持ちは彼女の本心であり、短い付き合いとはいえ康平を弟として大事に思う気持ちもまた確かなものだ。
それでいて明かされた強引な手段は文字通りその本心を重んじるには様々な意味で無理が生じる、お世辞にも褒めることの出来ないとある作戦だったが、当事者の一人である康平に今それを知る術はなかった。