【第十一章】 命運の分かれ道
地平線を埋め尽くす程の、とまではいかないが、それでも何十頭の馬が横に広がり視線の先を埋めていた。
当然ながら馬が勝手に走っているはずもなく、それぞれにしっかりと人が跨っている。
何の目的で現れた誰なのか。
そんなことは考えるまでもない、予想を大きく超える早さでやってきた僕達を狩ろうとする一群の到来だ。
世界の王。
ウェハスールさんがそう表現した人物が目の前にいる。
空いた片眼を閉じて覗く遠眼鏡の先、馬の群れの先頭を走る真っ赤な髪と高貴さの塊とさえ思わせる真っ白な衣服が見間違いの可能性を一掃し、それを証明していた。
距離にして一キロあるかどうかという具合だろうか。
見通しが良すぎるせいで近くに感じるだけでもう少し離れているのかもしれないがそういう問題ではない。
流石に早過ぎるだろう。
ハイクさんと別れてまだ二、三時間しか経っていないはずだ。
なのになぜそれだけの時間でここまで距離を詰められる。
そうか……あの人達はこちらと違ってアイテムで入国も出来るし、町と町を移動することが可能なのか。
曰く、今は大半の国でアイテムによる出入国は一時的に禁止され実行した誰かがいた場合すぐにクロンヴァールさんに知らせが行くことになっている。
というか、それ以前に少し前に聞いた話によるとマリアーニさん達はこの国に来て一度もエレマージリングの類を売ってもらえなかったのだとか。
元々小国での流通が少ない貴重度が高めのアイテムだというのは結構前に聞いたけど、それとは無関係にやんわり誤魔化され何軒回っても断られたというのだから何らかの圧力があるということなのだろう。
僕がそうした様に外から入ってくることは出来ても逃げるためには使えないということだ。
こんなことならグランフェルトで調達しておけばよかった……あのアイテムを苦手とする個人的極まりない感情から頭を過ぎりもしなかった僕の頭が足りてなかったとしか言い様がない。
「エル、馬の操縦は?」
反省も自己嫌悪も全部後回しだ、今はこの瞬間のことだけを考えなければ。
そう切り替えるなり遠眼鏡を下ろし、僕の肩に手を置きのし掛かるようにしてどうにか自分も後方に何があるのかを見ようと必死になっていたエルを態勢を変えることで背中から下ろして三人へと向き直る。
「で、出来るけど……」
「じゃあお願い。マリアーニさんも出来るだけ前方に詰めてエルの傍にいるようにして下さい。追い付かれてどうしようもなくなった場合は二人で飛んで逃げる方向で」
「え……でも、それじゃあ……姉さん」
本当にそれで良いのかと、返事に迷った挙げ句エルはウェハスールさんに助けを求める。
しかし、さしものウェハスールさんも今となってはにこやかな笑みを浮かべておらず、真剣味のある表情でコクリと頷くだけだった。
それ以外に追い付かれた場合の対処法が無い以上どれだけ嫌々であっても納得せざるを得ない、それだけの状況だ。
すぐに僕は地図広げる。
進行方向とはややずれているが、どんな小さな情報も見過ごすまいと必死に思考を働かせながら眼球を泳がせる中でたった一つ僕達に残された可能性がそこには記されていた。
「エル、この峡谷に向かって。今すぐ進路を変えればまだギリギリ間に合うから。地図を見る限り川になっているということはなさそうだし、そう広くもない。あれだけの数なら狭いこの道に入ってしまえば相手の足も多少は鈍るはず。時間と距離を稼ごうと思うならもうここしかない」
「わ、わかった……」
さすがのエルも気の抜けた言動をしている場合ではないと分かってくれているらしく、額に汗を滲ませながら力強く頷いた。
それでも天然で勘違いしている可能性も否めないので念を押しておこう。
「今まで向かってたのはこの方向だからね。だからこっちに四十五度ぐらい角度を変えて……」
「そ、それぐらい分かってるわよ! 弟のくせに馬鹿にしすぎ!」
「うん、じゃあ頼んだよ。さあマリアーニさんも前に」
「は、はい……」
差し出した自分の手に乗せられた女性らしいか細い手を引き、荷台の最前部に誘導する。
僅かに伝わってくる小さな震えがどれだけ冷静に振る舞っていても不安や恐怖と戦っているのだと理解させた。
正確な年齢は知らないが、どう転んでも若い女性なのだ。
自分の命を狙って一軍隊が追い掛けてくるわ世界中が敵に回りつつあるわという状況で平気なわけがない。
とにかくもっと早く、もっと急げと何度も何度も心で繰り返しながら後方の様子を絶えず伺いながら逃げること十分足らず。
祈りも虚しく徐々に迫り来るクロンヴァールさん率いる追っ手の軍勢は遠眼鏡など必要としない距離にまで迫っていた。
最初から分かっていたことではあるが、馬車引いているのとないのではどうしたって速度に違いが出てしまう。
その埋めようのない機動力の差がもたらした最も絶望的な現実は件の渓谷に差し掛かる直前で追い付かれてしまっていることだ。
両脇に聳える大きな崖に挟まれた細い道は目の前にまで近付いている。
しかし、このままではそこに入り込むことで相手の動きを鈍らせようという狙いが無意味になってしまう可能性が高い。
二、三百メートル程にまで詰められているこの状態では僕達が峡谷に到達出来るかどうかというタイミングで追い付かれてしまうからだ。
向こうにしてみれば射程圏内である以上そうなると細い道に逃げ込む前に弓なり魔法なりで攻撃されてしまえばこちらも逃げることに集中していられる状態ではなくなってしまうし、そもそもそこまで近付かれてはもう足を鈍らせるとかいう問題じゃなくなる。
あと少し、あと少し時間があればギリギリどうにかなったかもしれないのに……なぜこうも無情で救いのない展開ばかりが続くのか。
いや、そうじゃない。
そんなたらればの仮定に縋っている時点で救いなんて無い。
祈ろうと嘆こうと何も変わらない。
それは嫌という程この世界で思い知らされてきたことだ。
変えるために何が必要か、何をすべきか。
それを追求すること、その諦めない意志、それだけが何かを変えてきたはずだろう。
ならば今ここで出来ることは何か。
そう考えた時、状況が変わってないので当然ながら必然的に手段は限定される。
「ウェ……じゃなくて、姉さん」
遠眼鏡を置き、すぐ後ろにいたウェハスールさんの名を呼ぶ。
が、本題に入るより先に却下されていた。
「駄~目。いい加減にしなさいコウちゃん」
「…………」
もう何を考えてるかバレちゃってるのか……早すぎるよ。
いや、例えそうだとしても森から出る時以上に悠長に他の案を考えている時間などない。
そもそもシルクレアの連中を呼び寄せてしまったこと自体、僕が招いたことだ。
囮や足止め、そんなことのために僕がいるのではないとマリアーニさんは言ったが、僕が危険を呼び込んでいてはそれこそ何のために来たのか分かりゃしない。
「僕が入り口付近で時間を稼ぎます。姉さんは渓谷に突入次第すぐに崖を破壊して道を塞いで下さい。魔法使いなら出来ますよね?」
「コウちゃん~、お姉さんの言うことを聞きなさい。本気で怒りますよ~」
「後で好きなだけ怒ってくださって結構なので、今は姉さんが言うことを聞いて下さい。最後まで精一杯頑張った、そんな言葉だけの結果なんていらない。もう目の前で人が死ぬのは見たくないんです。このまま行けば先にあの細くなっている道に入ることは出来るでしょうけど、距離からしてその前に攻撃される可能性が高い。僕がそれを食い止めれば道を塞ぐ時間ぐらいは稼げます」
サントゥアリオでの戦争の時、山程の人が死ぬ様を目の当たりにした。
惨く、辛く、嘆かわしく、当事者じゃない時でも後悔や絶望、失望が溢れ出て仕方がなかった。
歴史や宗教が起因の戦争なら異世界かどうかは関係ないのかもしれない。でもこれは仕組まれ、殺し合いを強いられているだけの無益な争いでしかないんだ。
人間と魔族の抗争とも違う。
民族間の対立とも違う。
そんなものを、受け入れられるはずがない。
「信じていますからね、姉さん」
高く広範囲に渡って広がる崖に挟まれた細い道までは百メートル足らず。
対して後ろを走るシルクレアの軍勢との距離も二百メートルとない。
辛うじて先に到達することは出来そうだがそうは問屋が卸さず、こちらの狙いを察してか数人が杖や弓を構えているのが目に入ると同時に僕は一方的に言い残して馬車の後部から飛び降りた。
すぐに僕の名を呼ぶ声が聞こえてくるが、直後に放たれた魔法の弾やら数本の矢を防ぐのに必死で振り返る余裕なんてゼロ以下だ。
フォルティスと、久しく口にする詠唱の言葉を呟くと例によって掌から僕を守る目には見えない透明の盾というかバリアというか、制作者であるノスルクさんが絶対防御とまで言ってのける特殊な指輪の能力が発動する。
目の前で魔法が爆発したり矢が弾かれたりと、無事でいられるだろうという目算があってなお恐怖を拭いきれない景色が広がるが、そんな心の内とは裏腹に計算通り襲い来る攻撃は何一つとして僕に触れてはいない。
それが理由なのか、はたまた行く手を阻もうと一人立ち塞がった僕の行動がそうさせたのか、十数メートルの位置で無数の馬の列が急ブレーキを掛け一斉に足を止めた。
ほとんど同じタイミングで背後から立て続けに爆発音と破壊音が繰り返し聞こえてくる。
地面を揺らす程の振動と崩壊を重ねる岩が落下する音、どうやらウェハスールさんが上手くやってくれたようだ。
「ちっ、悪運の強い……」
その光景を前に、先頭にいるクロンヴァールさんは忌々しそうに表情を歪めている。
僕にとっても久々に相見える相手である、真っ赤な髪がこれ以上にない代名詞といえる強さも美しさも世界一と言われている最強最大の国シルクレア王国の若き女王だ。
その評判に違わぬ整った顔立ちは白い衣服や短いスカート、腰に差した剣も相俟って凛々しさが留まることを知らない風貌はセミリアさんと並んで同じ人間とは思えぬ別次元の美麗さを否応なしに感じさせられる。強い過去との違いを挙げれば少し髪が伸びているぐらいだろう。
それはさておき『悪運が強い』とはどういう意味だろうか。
あと一歩のところで逃げ延びられたことに対してとは考え難いが、ならば一体何を指している?
盾で攻撃を防いだことに特にリアクションは無い。前に一度見せてしまっているが、だからといって詳しく説明してはいないのだが……そこに疑問を抱く気配もない。
ならば何を指すか。それは、たった今ここで起きたことを思い返してみるとすぐに見つかった。
そういえば……部下の人達は明確に殺傷能力を持った攻撃を仕掛けてきたのに、そこにクロンヴァールによるものはなかった。
先頭を走っていた以上簡単にそれが出来るはずなのに、誰よりもその能力に長けているはずなのに。
「…………」
まさかとは思うが、例の毒の影響だろうか。
自分にそれが出来ない状況であることに対しての悪運が強いという言葉だったと、そういうことなのか。
そんなことを直接確認してみることなど出来るはずもなく、無言のまま立ち尽くすしかない状態でいるとクロンヴァールさんは馬から飛び降り、そこでようやく僕を見た。
「相変わらず、おかしな場所に現れる男だなお前は。牢の中も然り、ドラゴンの背中然り……分かっているのか? この場に一人残ったことの意味を、私の前に立ちはだかることの意味を」
ギロリと、殺気に満ちた恐ろしい目が全身を穿つ。
いつかも見た、それだけで死を覚悟してしまうような恐怖に全身が包まれていることを自覚させられる。
「一応聞いておこう、なぜ私の邪魔をする」
一歩、また一歩と大股で僕に近付いてくるクロンヴァールさんとの距離は既に数メートル程度になっている。
すぐ後ろに立つハイクさんは何も言わず、ジッと僕を見ていた。
「そんなの、決まってるじゃないですか。僕にはあなたのやり方が正しいとは思えないから、ただそれだけです」
「フッ、またお得意の理想論か」
「元々はスーパー現実主義者だったんですけどねえ、こんなことばかりしているうちにすっかり変わってしまいましたよ」
それはもしかしたら、あまりにも救いのない現実から目を逸らそうとしているだけの一種の自己防衛本能なのかもしれない。
だけどそれでも、現実かどうかも分からない異世界でそんなものを貫いている方が余程非現実じゃないか。
誰かを助けたいという気持ち、無意味な争いを終わらせたいという思いが早々に切り捨てるべき絵空事だというならば、僕は世間知らずの夢想家で結構だ。
「今更お前のその考え方や主張をどうこう言うつもりはない。が、白璧微瑕とでも言うのか、その甘ささえなければそれこそ望みのままの人生を歩めただろうにと思うと惜しい気がしないでもない」
「…………」
「こう見えても私はお前を買っている。前にも言ったことがあったが、今一度チャンスをやろう。私の下に付け、それがお前の頭脳や才覚を生かす何にも勝る環境だ。望む地位をやる、好きなだけ報酬もくれてやる。条件は一つだ、世界の未来を守るという大義のために私に従いその力を使え。この世界全てを救うことが出来るのだ、お前の言う不要な犠牲を防げるのだ、悪い話ではないだろう。ここで死ぬことに比べると、論ずるまでもなくな」
「お断りします。こんな状況で甘言に釣られるほど馬鹿じゃない、僕は誰かを切り捨てて解決という方法に納得なんて出来ない、お金や名誉のためにやってるんじゃない。何よりも、首を縦に振ったところであなたの言う人生が実現するとは思えません。間違ってもここでその言葉に流されるような人間を……僕なら信頼しない」
「それがお前の答えだというのならば話は終わりだ。望み通り、ここで果てろ」
クロンヴァールさんは冷たい目で僕を見下ろしたかと思うと腰から剣を抜いた。
右手の指輪に意識を向けつつ瞬時に構えを取ってはみたが、胸の辺りまで持ち上げた右腕をその状態を維持することは出来ず、大きな溜息と共に力無く垂れ下がる。
どう考えを巡らせてみても、頑張ってどうにかしようという希望に繋がる行く末なんて浮かんでこない。
さすがに……どうにかしようとしてどうにかなるはずもない、か。
「どうした、それだけの啖呵を切ったからには悪足掻きの策でも用意しているのではないのか? それとも、それが既にお前の術中か? 他の者は手を出さん、この私に楯突いてただで済むとは思っていまい」
「策なんてありませんよ。こうする以外に方法が無かっただけです。小賢しい頭一つで僕如きにどうにか出来る相手じゃないでしょう。あなた達の足を止めた、それで僕の目的は果たされた。一度見逃してもらった僕がまたこうして追い詰められたわけですから、覚悟はしています。見苦しく足掻く程生半可な気持ちでやってきたわけでもない、許して下さいと頭を下げて命乞いをする筋合いもない。願わくば……この死を以て命の尊さに気付いてくれればとは思いますけど」
「極限で見せる潔さもまた美学、か。生憎と青臭い訴えに耳を貸すほど暇ではない、抵抗しようとしまいとお前の行く末は変わらぬがな」
カツカツと目の前まで近付いてきたクロンヴァールさんは僕を見下ろす。
そして。
残念だよ、と。
小さく呟いたかと思うと、真っ直ぐに突き出された左手の剣で躊躇うことなく僕のへその辺りを貫いた。
腹を殴られた様な衝撃と共に体内に冷たい金属の温度が伝わると、遅れて視界が体を通過する鋭利な刃物を認識し手足から力が抜けていく。
直後に皮膚が裂け、肉を切られた痛みが全身を駆け巡り、刺された部分が痛むのではなく頭が痛み以外の感覚を捨てたかの如く激痛に悶え苦しみ絶叫しようとする感情だけが頭の中を埋め尽くしていった。
声を出さないように必死に耐えようとする以外に自らの意志を反映させられる部位はなく、いつの間にか膝を突いていたことに気付くと同時に刺された箇所と溢れ出る血に染まる下半身が温もりを感じ始める。
踏ん張ることも出来ずに両手でお腹を押さえた状態のままを地面に体を打ち付けると、とうとう指一本として自由が効かなくなったらしく今度は痛みを含めた全ての感覚が無くなっていくのが分かった。
「お前には借りもある、敢えてとどめは刺さぬ。とはいえ、生きていられる傷でもないだろうが……その先は自分自身の命運に委ねることだ」
頭上で聞こえてくるそんな言葉を最後に腹部に温もりを、全身には寒気を感じながら、徐々に意識は薄れていった。