【第二章】 予期せぬ来訪者
それから五分程歩いたのち、僕達はお城に到着した。
賑やかな町並みの一番奥に建つ、いかにも中世ヨーロッパのお城を連想させる広くて大きい立派なお城だ。
もう何度目になるかも分からないぐらい出入りしているし、それどころか一週間ぐらい続けて寝泊まりしていたこともあるので日本では到底お目に掛かれない貴重で感動的な風景にも随分と慣れてしまったらしく、久々だなぁぐらいの感想しか出てこない。
強固そうな門を潜り、草花によって彩られ噴水や銅像が飾られた綺麗な中庭を通り抜け、もう一つ門を潜って城内へと足を進めていく。
赤い絨毯が引かれた廊下には顔見知りの兵士もそうでない兵士も沢山いて、誰も彼もが僕を見るなり共通して「お帰りなさい、宰相殿(時々は元帥閣下になる)!」と、わざわざ立ち止まっては敬礼の姿勢を取るので挨拶を返すのも一苦労である。
それも慣れてしまっているせいで同じく立ち止まってペコリと頭を下げるという反応を無意識に取ってしまうものの、お互いが敬語で丁寧な挨拶を交わし合うというのはどうにもおかしな光景に思えてならない。
僕の方がそうするのは当然だとしても、相手方は大抵僕の倍は生きている人達ばかりだ。
セミリアさんにも同じ態度であるところを見ても分かるように年齢よりも立場や肩書きが物を言うというのはどの世界のどの社会も似たようなものなのだろうが、それでいて『立場上仕方がなく』という風ではなく確かな尊敬の念が感じられるのがせめてもの救いか。
結局はその扱いも身に余るものなんだけど……今更言ってもどうにもならないからもう考えるのやめよう。
「……あ」
視界に入る大半の人達と挨拶をしていたせいで幾度となく足を止めながらもようやく二階に上がる階段に差し掛かろうとした時、廊下の角から見知った顔が曲がってきたのが目に入る。
声を掛けようとほとんど反射的にその方向を見たまま動きを止めると丁度あちらも僕に気付いたらしく、次の瞬間には逆にこっちに向かって駆け寄って来ていた。
パッと表情を輝かせ、僕の名前を大きな声で呼びながら。
「コウヘイ様っ!」
お久しぶりです。
と発する暇もなく、目の前まで来たその人物は勢いを殺すことなく真っ直ぐに僕に向かって飛び込んでくる。
小さな衝撃に驚きながらも咄嗟に抱き留めると、一人の少女が胸元から僕を見上げた。
水色の給仕服の上に白いエプロンを重ね着している格好はすなわちこのお城で働く侍女の一人である、その名もミランダ・アーネットだ。
歳は僕の一つ下でいて少し前に僕よりも先に誕生日を迎えたらしいので今現在は同じ歳ということになる、背が高い方ではない僕よりも少し低いぐらいの小柄な体格に一歳差とは思えない幼さの残る顔立ちに浮かべる笑顔がよく似合う、いつだって元気で頑張り屋さんな印象の可愛らしい女の子で、普段はこの城で使用人をしつつ僕が滞在している間は生活のサポートをしてくれるという日頃から色々とお世話になっている二人の侍女のうちの一人である。
サポート云々を除いても僕自身が姫様の世話係をやっていた時期もあったため侍女の大半は顔見知りなのだが、その中でも一番付き合いが長く一番お世話になっていて一番僕に懐いている? という表現が正しいのかどうかは分からないが、まあ仲の良い使用人と言ってもいいだろう。
「そこそこ久しぶりだね、ミラ」
というように、セミリアさん以外では唯一日本に帰ってからも水晶とリングを通して会話する機会があった人物だということもあって当初から呼び方も変わってしまっているし、敬語も使わなくなっていたりする。
敢えて弁明するなら別に僕が馴れ馴れしくなったというわけではなく、どちらも彼女の側からそうして欲しいと重ね重ねの申し出があった結果だ。
言ってしまえば敬語の件は初対面の日にも指摘されたことだが、まあ僕が懇願に負けたというか、あまりの押しにやんわり誤魔化し続けることが出来なくなったというか、そういう理由である。
別に僕の方が年上なので敬語なんてそもそも使う必要もないだろうし、呼称にしても断固として拒絶する理由もないので全然いいんだけどね。ただ幼馴染み以外で同世代の女子とそこまで近しい関係になることが普段ないから距離感に慎重なだけで。
「コウヘイ様、勇者様、お帰りなさいませ。それから……ここ最近はお訪ね出来なくて御免なさい」
そんなミラは二、三秒ほど抱き付いたままでいた体を離すと、とても申し訳なさそうな表情を浮かべる。
別に僕のサポート役だからといって異世界に帰ってまで相手をしにくる義務もないし、そんな顔をしなくてもいいのに。
という意味を込めて、最後に会った頃には若干癖になりつつあったせいか自然と頭に手が伸びチャームポイント(ということに勝手にしている)であるつむじの辺りのお団子をポンポンと撫でてしまう僕だった。
「気にしないで。みんな大変だったって聞いてるし、お城も忙しかったんでしょ?」
「はい……色んな国の人が代わる代わる訪ねて来ていたもので」
「僕が今回こっちに来たのも同じ理由だから仕方がないよ。僕達はこれから国王代理と話をしなくちゃならないから、また時間が出来た時にね」
「はい、その時は是非お相手をさせてください。勇者様もお引き留めしてごめんなさい」
「気にするなミランダ。兵士の出入りも多く大変だろうが、お主も頑張るのだぞ」
そう言ったセミリアさんにペコリと九十度のお辞儀が返ってきた所でミラと別れると僕達は改めて階段を上り、ジャックが待っているであろう玉座の間へと向かう。
ネックレス時代は僕の首に引っ掛かっていないと移動も出来ず、この城で言葉を発することすらしなかったジャックが今や代理とはいえ国の代表として僕を出迎えるのだから感慨深いものだ。
ちょっとは性格的に落ち着いたり、お酒を控えるようになったり、あとは服装にも気を遣ってくれるようになってたりするんだろうか。
そんなことを考えながら階段を登りきると、意外というか予想外というか、少し廊下を歩いた先にあるはずの玉座の間に行くまでもなく階段の脇にジャックが立っていた。
ジャック。
フルネームはジャクリーヌ・アネット。
歳は百年前と変わらず二十四歳、中世的で整った綺麗な顔立ちと両サイドをコーンロウにして真ん中はストレートヘアをオールバックにしているという頭髪がいつ見ても印象的な、禁呪によって意志を持ったネックレスに姿を変えることで百年の時を超えて蘇った伝説の二代目女勇者である。
腰にはキラキラと宝玉が光る派手な鞘に収まった剣、同じぐらい派手なスネの辺りまでの丈がある明るいエメラルドのズボン、そして上半身はスポーツブラの様な形状で下着や水着同然の面積しかない露出の多い格好をしており、胸部では僕が見た誰よりも大きな胸がこれでもかと自己主張をしているという格好は直前に抱いた疑問を全て吹き飛ばすものだった。
「やっと来たか相棒~、久しぶりじゃねえかコノヤロー!」
目が合うなり、ジャックは両手を広げて駆け寄ってくる。
これは向こうが使い始めた表現ではあるが、僕にとっても今だってジャックは『相棒』だ。
再会の挨拶ということならば抱擁ぐらいのことは彼女らしさの一つかと素直に受け止め、ハグを交わした、のだが。
ポンポンと背中を叩かれたかと思うと、間髪入れずに両手で顔を挟まれ、それを認識した時には顔と顔が数センチまで近付いていた。
さすがに人前であろうとなかろうと挨拶がてらにキスをされても困ると、反射的にその顔を受け止め無理矢理に阻止する。
「ちょっと、再会の挨拶でそこまでしないでしょ」
それでも力尽くで顔を押し出してくるので体を反らすことで距離を置くと、ようやく諦めたのかジャックも前屈みになる体勢を直立へと戻した。
隣ではセミリアさんも「アネット様……」と、呆れ顔だ。
「んだよ、つれねーな。アタシだけ除け者だったんだ、キスの一つや二つケチるもんじゃねえ」
「別に除け者になんてしてないし、ケチるとかそういう問題じゃないと思うけど……なんにせよ、久しぶり。時間は経っちゃったけどちゃんと誤解が解けてよかったね、そうは言ってられないぐらいに大変な状況みたいだけど」
「大変なんてもんじゃねえよ。アタシは相談役ぐらいに落ち着いてのんびり余生を過ごすつもりだったってのに、宰相にされちまったかと思えばいきなり国王代理だぜ? ガラじゃねえって言ってる場合でもなくなっちまったしよ。正直言やぁ王が逝ったばかりってのもあってお前さんにゃ心配掛けたくなかったし、当初は国の方が落ち着いたら報告しようと思ってたんだが、いい加減手に負えずってな具合でな」
ぽりぽりと、人差し指で頭を掻きつつジャックはバツが悪そうな表情を浮かべる。
「それって、サントゥアリオからの援軍要請の件……だよね」
「それも勿論あるが、今朝あの赤髪の王からも手紙が届いてな。サントゥアリオと同じく兵力を提供しろとよ。ま、この国の力をアテにしてるわけじゃねえだろうが……」
「要するに……どちらに付くかをはっきりさせようとしている、と」
「ああ、サントゥアリオに侵攻を開始しているとくればまたあの国は戦場になる。そもそも他所の国であれ国王が殺されるのを見て見ぬふりもできまいよ。だからといって下手を打ちゃこっちまで標的になりかねないとなりゃ、どうするにせよアタシは国を離れるワケにはいかねえ。それでお前さんの知恵と力を借りようかと二人で話し合って決めたんだが……」
「「……だが?」」
「ちぃと話が変わってきそうだ」
そこでなぜか、ジャックの表情が曇る。
セミリアさんと声を揃えたことからも分かる通り、そういう話で僕が呼ばれたはずなのに何がそうさせるのかは全く想像も付かない。
「話が変わるって、なんで?」
「クルイードと入れ違いに城を訪ねてきた奴がいてな。アタシ自身は一度見ただけでしかねえが、それなりの立場を持つ奴だったんでひとまず迎え入れた。そこまではいいんだけどよ、まずはこっちで話を聞くって言ってんのに頑として首を振るばかりでだんまりを決め込んでやがる。もうお手上げさ」
「お手上げと言いますがアネット様、ではその人物はどういう理由で訪ねてきたのです」
「目的は一つ、なんだとよ」
そう言ったジャックの視線が僕に向く。
それはすなわち、そういうことなのか?
「目的って……もしかして、僕?」
「ご名答、だ。お前さんに会えるまでは帰るつもりはないとさ」
「そう言うからには僕が知ってる人だよね? 全然思い当たる節がないんだけど」
双方から援軍の要請があったという口振りからすればシルクレアとサントゥアリオからの使者というわけではないだろう。
となると、率直に言ってわざわざ僕を訪ねて来る人物に心当たりがない。
唯一思い浮かんだのがコルト君だったが、サントゥアリオの人間である上に彼は脳内通信という特殊な能力を持っているので『僕に会わせて貰えるまで帰るつもりはない』なんてことを言う前にそっちで会話した方が早いので違う気がする。
というか、あの子はそういうことを言えなさそうなタイプだし、そもそもジャックとは同じ陣営にいたわけだから一度会っただけという言葉にも当て嵌まらない。
「兎にも角にも会えば分かるさ。何のつもりかは知らねえが、行くとしようぜ」
では本当に誰なんだろうか。
精一杯この世界での記憶を掘り起こす僕だったが、その前にジャックに背を押されたため考えるのをやめて足を進めることに。
少し歩いて国王が国王として誰かと相対する時に使う部屋である玉座の間に到着すると、派手な扉を開いて中へと入っていく。
広い室内に見える人影は一つ、正面に見える無人の玉座の傍にポツンと立っている女性が一人だけだ。
後ろ姿しか見えなかったその誰かは扉の開く音で僕達の存在に気付いたのか、すぐに体をこちらに向ける。
背が高く細身で、長めの黒い髪をポニーテールにしていて、袖の短い白いシャツに膝まである黒いズボン、そして以前は着けていなかったはずの青い腰布を巻いている女性だ。
以前はと、過去との比較を述べてはいるが、正直に言えばその風貌だけでは僕はすぐに思い出すことは出来なかっただろう。
なぜならジャックの言う通り、僕にとっても一度会っただけの人物であることに加え、半日ほど共に旅をした関係でこそあれどただの一言も会話をした経験が無いからだ。
それでいて一つだけ、忘れるはずのないインパクトだけが当初と変わらず残っていて、そのおかげで瞬時に名前を思い出すに至ったと言ってもいい。
記憶に引っ掛かったのは左腕の肘から先に装着された真っ赤な甲冑と、繋がった手の甲の部分に猛獣の爪の様な形の刃がクロー型になって光っているという物騒な印象しかない武器だ。
ほとんどそれだけが特徴として記憶に残っていると言っても過言ではない、ユノ王国の護衛戦士スカットレイラ・キャミィさんという女性である。
歳は僕やセミリアさんよりも上でジャックよりも下に見えるので二十歳前後だろうか、いかにも寡黙そうな印象の通りクールビューティーとでもいうのか言葉少なで表情の変化も乏しく、それでいて王には従順な態度を見せていたというのが僕の頭に残る彼女に関する記憶の全てであり、だからこそ何故この人が僕に会いに来るのは対面してなおサッパリ分からない。
お久しぶりです。と、気軽に挨拶する間柄でもないと少なくとも僕は思っているだけに正しい第一声のチョイスに迷い目が合った一瞬の間を無言のまま迎えてしまう中、先に声を発したのはキャミィさんだった。
なぜか片側の膝と拳を床に当て、跪く様な格好で。
「ご無沙汰しております、コウヘイ様。貴方に会うことが出来て良かった」
声色こそ過去に聞いたのと同じ抑揚がなく感情が計り知れない平坦な物であったが、何が彼女をそうさせるのかが分からず僕達は戸惑うことしか出来ない。
「おいおい、穏やかじゃねえな。何だってんだ一体」
「アネット様の仰る通りだ。コウヘイに用があることは聞いたが、突然どうしたというのだ」
「そうですよキャミィさん。どういう理由があるのかはまだ分かりませんけど、とにかく顔を上げてください」
口々に声を掛けるだけではなく、慌てて駆け寄り立ち上がらせるために腕を持ち上げようとしてみるが、非力な僕では意地でもそうさせまいと込められた力をどうにかすることが出来ない。
コウヘイ様と呼ばれることにすら違和感があるというのに……本当に何がどうなっているんだ。
「それは出来ません……貴方様が私の願いを聞き入れてくれるまではこの場から動く気はありません」
「…………」
「…………」
「…………」
あまりにも頑なな態度に僕達は顔を見合わせることしか出来ない。
こうなれば説得も意味を成さないだろう。
そうなると、ひとまずは話を聞いてみる以外に方法はあるまい。元々誰であってもそうすることになっていただろうけど……それにしたってただごとじゃなさそうだ。
「とにかくですね、ちゃんと話は聞きますので立ち上がってください。そのままでは会話も出来ないですから」
言うと、少しの間を置いてようやくキャミィさんが立ち上がる。
そしてほとんど僕だけを見ながら、本題を切り出した。
「このように訪ねてくる筋合いも、頼み事をする程の関係でもないことは重々承知。ですがそれでも、私にはもう貴方様以外に頼れる者がいません。どうか我が主を……守っていただきたいのです」
「主というと……マリアーニさんですよね?」
マリアーニさんというのはキャミィさんの国、すわわちユノ王国の若き女王である。
フルネームは確かナディア・マリアーニといって、このキャミィさんも含めサミットの時に共に旅をした一人だ。
「その通りです。我が主は今現在も命を狙われ逃亡を続けている、しかしこのままではいずれ捕まってしまうのです。それだけは阻止しなければならない、それが貴方様を訪ねた理由です」
「おいちょっと待てよ姉ちゃん、ユノ王国が攻撃を受けているなんて話は入ってきちゃいねえぜ?」
「我が主は既に国を離れています、それは当然かと」
「そりゃつまり、国を捨てて逃げたってことか? いくら人柱だとはいえ、一国の王がそうしたとは思いたくねえがな」
「そうではありません。知っての通りユノ王国は軍隊を持たぬ国、残ればいずれ命を奪いに来るラブロック・クロンヴァールの侵攻により国民に被害が及んでしまう可能性が大いにある。それをさせないための苦渋の決断に過ぎません。そして大前提として……ナディア様は人柱ではありません」
「「なんだって!?」」
今度は僕以外の二人の声が揃う。
それが事実なら色んな意味で情報の信憑性が狂ってくる話だ。当然の反応だろう。
「確かに、アタシ自身も死んだうちの国王とサントゥアリオのハンサム、シルクレアの神父しか刻印を確認したって話は聞いてねえ……が、だからといって鵜呑みにゃ出来ねえと思うがね。命惜しさの狂言じゃねえって保証はあんのかい」
「今ここで証明することは出来ません。ですが、それに関しては事実であると断言出来ます……この命に懸けて」
「だがそれでは色々とおかしいだろう。確かに私達がマリアーニ王もが人柱であると思っていた理由は神の宣告による情報だけだ。だが、他の三名が人柱であることが判明している中で一人だけ偽りだなどということがあり得るとも思えん。何よりも、今の話が事実であるならば何故マリアーニ王はそれを主張しなかったのだ」
「人柱ではないにも関わらず五名の中に名を連ねていたことにも、それを公表しないことにも複雑な事情と理由があるのです……私の口から申し上げることは出来ないのですが」
「おいおい、この状況で何を隠そうとしてやがる。頼み事しに来ておいて言えませんじゃあ誠意も何も感じられねえと判断されても仕方ねえってことだぜ?」
「そう思われても無理はありません……しかし、私にはそれを口にする権利がないのです」
「あの、二つほど聞いてもいいですか?」
どこか責める様なジャックの口振りや悔しげに唇を噛むキャミィさんの姿が不憫に思えて、そこでようやく口を挟むに至る。
確かに疑問だらけの説明と状況ではあるが、そんな中で明かせないというからには僕達がどういう言葉で追い詰めてもキャミィさんが口を割ることはないだろう。
「私にお答え出来ることならば、なんなりと」
それに対し、キャミィさんはやはり僕に対してだけは一貫して下手に出る態度を崩そうとせずに即答する。
「その理由というのは命を狙われ、追われている状況でも明かせないほど重要なことなんですか?」
「いえ……正直に申し上げるならば、こうなってしまうぐらいならば最初に明かしておくべきだったと我が主も後手に回ったことを悔いております。ですがそれも既に手遅れ、今となってはラブロック・クロンヴァールとの交渉にも意味はない」
「どうしてでしょう?」
「ラブロック・クロンヴァールは手段を問わず人柱を一掃する意志を表明しており、実際にそれを行動に移すまでの段階に来ています。例え世界の先導者と呼ばれるあの女とて即決即断で人柱を始末し世界の破滅を阻止すればいいと判断したわけじゃないでしょう。苦悩し、あらん限りの知恵を振り絞り、限界まで他の解決法を模索した上での決断……それでいて自国の人間の命を奪ってまでそれを正当化しようとするには相応の覚悟が必要だったはず。世界を守るために汚名を着て、悪魔に魂を売るつもりで引き返す道を絶ったあの王を説得することは簡単ではない。であれば捕えられ問答無用で殺される可能性がある以上こちらにどんな事情があろうとも直接交渉する選択はあり得ないのです」
「なるほど……ではもう一つ、なぜ一度会っただけの僕にそれを頼もうと考えたんですか? 勿論マリアーニさんの指示だとは思うんですけど、僕にはどうにもそれが分からなくて……僕なんかよりもキャミィさんの方が力があるでしょうし、あなたがマリアーニさんの傍を離れている時間こそ危険が増すことに繋がっているのでは?」
「私はナディア様の指示でここに居るのではありません。これは私個人の意志であり、あくまで私自身が貴方様に助けを求めに来たに過ぎません。そしてもう一つ、私は……私は、もう主の下に戻ることは出来ないのです」
「戻れないって……どうしてまた」
「それも……お答え出来ません。ただ私には他にやるべきことがある、とだけ」
「オイオイ、いい加減都合が良すぎるんじゃねえのか? あれもこれも言えませんって姉ちゃんよぉ、そんな態度でどこの誰がお願いを聞いてやろうって気になるってんだい」
「無礼であることも理不尽な要望を口にしていることも百も承知! ですが私には……他に頼れる者がおらぬのです! どうかこの無理難題を聞き入れてはいただけないでしょうか!」
ジャックの指摘に対しキャミィさんは似合わぬ大きな声で悲痛な叫びを上げ、今一度膝を突く。
再び跪く体勢を取るのかと思いきや、今度は片方だけではなく両の膝と手、そして額を床に密着させていた。
一人の戦士としても、一人の女性としてもあまりに相応しくない格好はすなわち、所謂土下座と呼ばれるポーズだ。
「キャミィさん……」
唐突かつ予想外の行動と悲愴感漂う女性の姿に立ち上がらせようと寄り添うことも、やめてくださいと抗議することも出来ず、ただキャミィさんを見下ろしたまま立ち尽くしてしまう。
それは僕のみではなく、横に居る二人も困惑の色を浮かべるばかりだ。
確かに何も明かせない、だけど助けてくれ、では無茶苦茶な言い分だと言える。
語られた数少ない情報だってどこまでが真実かなんて分からない。
頼れるのが僕だけだというのも、どう考えたっておかしいだろう。
だけどそれでも、縋る思いでここに来たことぐらいは否応なしに伝わってくるし、どういうつもりで僕達に近付いたのだとしても真剣にマリアーニさんのことを考えていることだけはその必死さからも十二分に感じ取れる。
そして何よりも、彼女の意図がどうであっても僕自身がマリアーニさんに命を救われた恩があることも紛れもない事実だ。
ならば僕には、助けて下さいと土下座までする目の前の女性を追い返すことなんて……出来ない。
床に頭を付けるキャミィさんの姿は意識せずとも結論を導き出させ、それは一つの決断に直結すると同時に僕の中に覚悟を生む。
「セミリアさん、ジャック、二人に……お願いがあります」
サントゥアリオの時と同じく、僕はこの理不尽な戦いを止めるために命を懸けよう。