【エピローグ】 聖魂愛弔歌
サントゥアリオ共和国西部にある主要都市の一つフルト、その外れには広大な自然に囲まれる静かな地域があった。
どこまでも続く大草原が、長く大きな川が、そして深く綺麗な森が、見渡す限り広がっており周囲に人が住む村や町はなく大国の象徴とも言える美しき大自然のみを風景とした長閑な土地だ。
日が落ちようとし始める頃。
そんな土地の人気の無い静かな森の中を歩く一人の青年がいた。
ゆっくりと、小さな足音を残しながら、奥へ奥へと進んでいく足取りは重く手に持った剣を杖代わりにしてどうにか足を進めている。
身に着けた黒い鎧は至る所がひび割れ、いくつもある穴の奥からは絶えず血が流れ体を伝って足下を赤く染めていた。
男の名はフレデリック・ユリウス。
帝国騎士団三番隊の隊長を務めていた若き戦士だ。
人間と魔族の争いも、サントゥアリオ内部での民族間抗争も終わりを迎えた。
最後の戦いとも言える魔王カルマとの戦闘に人間の、ひいてはこの国側の一員として加わったユリウスは確かに終戦の時を見届けたからこそここにいる。
同じ血を引く人間達がこれ以上争う必要が無い未来を長らく共に戦ってきた団長クリストフが命を以て残し、王国護衛団のトップに立つキアラが信念を以てそれを実現すると誓ったのだ。
意味を同じくして復讐のために、人を殺めるためだけに生きてきたユリウスが修羅の道を進む必要はなくなった。
戦いが終わったことも、壮絶な半生を選んだ最大の理由である妹との再会も、その心から憎しみを薄れさせるには十分な要因となっている自覚は本人にはない。
生きていた妹との別れは済ませた。
最早思い残すことはない。
例えそうでなくとも、この傷ではもう長くない。
今やそんな考えだけが最後の気力となり、肉体を動かしている。
クリストフの遺言を伝えるためにグリーナ戻ると詭弁を並べ立て、どうにか妹やその仲間達を納得させはしたが何度となく体を貫かれたダメージはとうに命を左右するレベルを超え、妹を心配させまいと思う気持ちとこれ以上肉親と死別する経験をさせてなるかという兄としての最後の意地やプライドが戦場で死することを避けさせていたに過ぎなかった。
血を流し過ぎたことで時折視界は霞み、既に痛みという感覚すらない。
それでも足を動かし続けるのは自らの死に場所を求めるため、その時を迎える前に行かなければならない場所があったからだ。
常日頃装着していた鉄仮面は捨て去られ、その奥に隠れていた薄青い瞳からは徐々に生気が失われていく。
この国に争いの歴史をもたらした憎き存在であると言われ忌み嫌われ続けた血が流れる自分が、この国の争いと共に終わるならばそれもいいだろう。
どこか悟ったような気持ちで半死半生のまま一面に緑が広がる森の中を歩くユリウスの足がふと、動きを止めた。
前方から自分の物ではない足音が聞こえたことがそうさせている。
耳を澄ませると複数の誰かが近付いて来ていることが分かった。
「…………」
咄嗟に身を隠すことが出来る状態にないユリウスは警戒すると共にただジッと、その場で立ち止まり人の気配が姿を現わすのを待つことにした。
やがて木々の隙間から出てきたのは四人の男だ。
「何者だ!」
四人組は少し遅れてユリウスに気付くと、そのうちの二人がすぐに武器を構える。
目の前に立つのは手に弓を持った王国護衛団の鎧を身に着けている男が三人。
そして見間違えるはずも忘れるはずもない、大柄で首筋に大きな切り傷の跡が覗く冷たい目をした無表情な男だった。
「ヘロルド……ノーマン」
ほとんど無意識に、ユリウスは男の名前を口にする。
他でもなく自身の人生から全てを奪った存在である王国護衛団元総隊長がそこにいた。
ピクリと眉根を釣り上げたノーマンもまた、続けて腰から剣を抜く。
その横では部下と思しき三人の兵士が弓をユリウスへと向けていた。
「何者だ貴様!」
兵士の一人が声を荒げる。
それでもユリウスの目に映っているのはただ一人だけだ。
「俺を……覚えているか、ヘロルド・ノーマン」
「貴様が誰かなど知らんな。だが、その姿を見れば貴様が何者であるかは分かる」
「くっ……」
吐き捨てる様な言葉に体を動かすことすらままならなかったユリウスの心に憎しみと殺意が再燃する。
ノーマンが見下ろす前で怒りと屈辱に腕を震わせながら剣を地面から離すと、鞘に手を掛けた。
「ノーマン隊長、どうしますか」
「殺せ。長く城を離れてはおけぬ、死に損ないに構っている暇などない」
「はっ」
三人の兵士が矢を引く腕に力を込める。
対するユリウスもそれを合図に強く地を蹴った。
四人へと突撃しようとする瞬間には一斉に矢が放たれたが、左肩に一本を受けながらも残りの二本を躱すとユリウスは弓兵三人を素早く斬り伏せる。
そして勢いを殺すことなく奥にいる最後の一人へと飛び掛かった。
「それだけの傷でまだ死に抗おうとするか……忌々しい化け物めが!」
ノーマンは鋭い突きを受け止めると、剣同士がぶつかり合うことで静止した両腕を押し返しながら憎々しげにユリウスを睨み付ける。
その目に明確な怨恨を浮かべ、それでいて死ぬ間際の人間とは思えぬ殺気にただならぬ畏怖を感じていた。
「化け物か……二度目だな、お前にそう言われるのは」
「……何?」
「俺を覚えていないのなら分からずとも無理もない。だが、俺は違うぞ……ヘロルド・ノーマン。村を……家を……母を……全てを焼き払われて以来、お前を殺す日を夢に見なかった夜はない! 七年前、お前の首にその傷をつけたのはこの俺だ!!」
絶叫と共に剣を弾くとユリウスは最後の力を振り絞り、渾身の突きを放つ。
押し負け僅かに体勢を崩したノーマンに至近距離からの攻撃を躱す術はなく、その一撃は真っ直ぐに心臓を貫いた。
「ぐ……あ……」
苦しみの形相から声が漏れる。
すぐにノーマンの全身から力が抜けていき、ユリウスが剣を抜き去ると同時に絶命した肉体が崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……はぁ……どうやら、限界も近いようだな」
その死に様を目に、ユリウスも膝から崩れ落ちる。
何よりも願った敵討ちを成し遂げた虚無感も相俟って残された最後の力は一縷と無く消えてしまっていた。
それでもユリウスは肩に刺さった矢を抜き放り捨てると今一度剣を支えにしながら歩き始める。
目当ての場所までの距離はそう遠くない。
しかし、どうにか到着するまでは持つはずだと片足を引き摺り、より多くの血で道標を残しながら森の中を進み、やっとの思いで辿り着いた目的地は希望を打ち砕くかのように、更なる絶望を与える光景に成り代わっていた。
目の前には轟々と燃え盛る炎が木々を越える高さにまで舞い上がっている。
最早生きて未来に進むことは出来ない。
カルマとの戦いを終えた時点で行く末を察したユリウスはせめてこの世でただ一人心を許した部下と共に眠ることを望み、この地を目指した。
かつて一人の修道女と出会い、命を落としたルイーザ・アリフレートが眠る森の中に建つ教会だ。
遠目から見た時点で気付けていないはずがなかった。
ノーマンと遭遇した時に想像していないわけがなかった。
しかしそれでも、現実に目の当たりにした教会を覆い尽くす緑に囲まれた風景に似付かわしくない真っ赤な炎は大きな失望を生み、ユリウスは燃え盛る建物を前に無言のまま立ち尽くすことしか出来ない。
無意識に手放した剣が地面に弾む。
ただじっと停止したまま言葉を失う少しの時間を経て、ユリウスは導かれるようにバチバチと音を立て視界を赤くに染める教会に向かって歩き始めた。
再び足を引き摺りながら燃え盛る建物に近付いていくと、火に覆われた扉に手を伸ばす。
そのまま中に入ると、炎上する教会内部には修道服で身を包んだ一人の女の姿があった。
いつかと同じく、祭壇の前で跪き手を組んでいるシスター・マーシャと名乗る女だ。
「あら……このような場所に人が訪れるとは珍しいこともあるものですね。貴方も祈りを捧げにここへ?」
左右に並ぶ長椅子は破壊され、壁の上に見えるステンドグラスも多くが割れている荒れ果てた教会の中で、それでもマーシャはゆっくりと立ち上がりかつてと似た台詞を口にしながら振り返る。
その表情は優しく慈愛に満ちたものであったが口元からは鮮血が滴り、体にはいくつもの傷を負っていた。
「何が……あった」
ユリウスは祭壇に向かって進んでいく。
炎に囲まれる中で祈りを捧げていたマーシャは何も答えず、同じくユリウスのいる出入り口のある方向へと歩き始めた。
「……ヘロルド・ノーマンの仕業だろう」
問う前から分かり切っていた答えを口にすると、マーシャの口元が僅かに歪む。
全てを察したユリウスの気力はそこで尽き、膝から崩れ落ちた。
受け身も取らずに倒れ込む姿を見たマーシャは慌てて駆け寄り、上半身を抱き起こす。
「しっかりしてください! どうしてここに来たのです、私の命など貴方の手で奪うまでもないと分かるはずでしょう」
ユリウスが現れる理由が他に思い当たらないマーシャはすぐに血塗れの体へ回復魔法をかけるが、その手はそっと押し返されてしまう。
続けて聞こえてきたのは、力無く零れた落胆の言葉だった。
「俺は結局……生きる場所のみならず死ぬ場所すらも奴に奪われるのだな。どこまでも……救われない人生なことだ」
「何を言っているのです、生きていればいつかきっと報われる日が訪れる。早くお逃げなさい、ここはじき焼け落ちてしまいます」
「自分の体のことぐらいは分かっているつもりだ。残念だが、お前が何を言おうとそのいつかを迎えることはない……妹が生きていることを知り、ここまでの道中にヘロルド・ノーマンをこの手で殺すことも出来た……思い残すことなどないがな」
「なんてことを……」
「俺は間もなく死ぬ……最後ぐらいはあいつの横でと思ったのだが、これも報いというものか」
「あいつというのは……ルイーザという少女のことですか?」
「復讐に狂った俺を慕い、傍にいようとしたのはルイーザぐらいのものだった……全てが終わった今、後を追えるのならそれもいいだろう。それよりもガキ共はどうした」
マーシャが行く当てのない子供を保護していることをユリウスは知っている。
しかし当然ながら周囲に他の人影はない。
今際の際に投げ掛けられた疑問に対し、マーシャはただ首を振る。
そして反応を待つことなく優しくユリウスの頭に手を添え、折り畳んだ自身の膝に乗せたかと思うと直後には歌声を響かせ始めた。
いつか聞いた優しくも綺麗な声が徐々に崩れ始めている建物が生む騒音を掻き消す様に辺りを包んだが、その鎮魂歌らしき歌はすぐに中断させられる。
一連の行動に理解が追い付かないユリウスが衣服を掴んで止めさせていた。
「一体なんのつもりだ……」
「上手く歌えないかもしれませんが、許してくださいね」
マーシャは微笑を浮かべ、ユリウスを見下ろしている。
温かく穏やかな表情とは裏腹に両の目からは涙が流れていた。
「ふざけている暇があるならばさっさと逃げろ……お前は死ぬほどの傷ではあるまい」
「それは出来ません……子供達を死なせてしまった私が、どうして自分一人生き存えることが許されましょう。せめて貴方の魂が安らかに眠れるように、神のお導きを得られるように、歌わせてください。それが……あの子達を守ることが出来なかった私の……あの日貴方を救えなかった私の……紛いなりにもシスターを名乗ってきた私の……最後の仕事です。私も貴方も……きっと生きる時代を少し間違えただけ。さあ、安らかに眠りなさい……もう戦う必要も血を流す必要もないのです。次に貴方の魂が世に降り立つ時には……きっと貴方を愛する者の傍で」
震える声が止むと、その頬を伝った涙がユリウスの頬で弾む。
そして最後にもう一度優しい笑みを向けると、マーシャは再び歌い始めた。
とうとう体の自由が失われ指一本として動かすことが出来なくなったユリウスに止めさせる方法はなく、ぼやける視界には目の前にあるその笑顔すら映っていない。
憎しみも後悔も全て忘れ、死を迎えることがすなわち解放であると思わされるような清々しい心持ちで唯一機能を維持している耳から聞こえる歌声が心を浄化してく感覚に身を委ねていた。
ユリウスが死を受け入れ目を閉じてからも、肉体が限界を迎え急激な眠気に襲われる中でも、マーシャは口を閉ざすことなく歌い続ける。
ユリウスが全ての動きを失い、その生を終えてなお木々が燃える音にも崩壊する壁や柱が立てる大きな音にも負けない美しい声が二人を包み込んだまま反響を続ける。
教会が焼け落ち、二人の体が炎に包まれる最後の瞬間まで、その歌声は鳴り響き続けた。