【第二十三章】 最後の敵
「一体どういうことだこりゃ……」
周囲に起きた異変に対し、誰もが抱く疑問を真っ先に口にしたのはジャックだった。
僕達の身に何かをされた様子はない。
目に見えた範疇で理解出来たのはエスクロと邪神アステカが目の前に現れたかと思うと、全身から一瞬の光りを放ちそのまま消えてしまったということぐらいだ。
問題は消えたのがその二人だけではないという点にある。
今僕の傍にはセミリアさん、サミュエルさん、ジャックにユリウスという男とシェルムちゃん、シオンさんを足した六人しかいない。
それすなわちクロンヴァールさん、セラムさん、ユメールさん、キアラさん、そして帝国騎士団のクリストフ、ブラックという男がこの場から消えているということだ。
目の前にはカルマが変わらず立っている。
直前の言葉を踏まえるならば、エスクロやアステカが連れ去り分散して戦おうとしていると考えるのが自然だろう。
「エスクロの奴め、楽をしようと図ったな」
そんな考察を肯定するが如くカルマは呆れた様に、或いは馬鹿にした様に鼻で笑う。
戦士風の出で立ちにマントを纏った、シェルムちゃんと同じ緑の頭髪を持つ魔王の一人である青年だ。
魔族と人間との細かな違いを除けば唯一異常にして異様なのは背中に見える何か。
ここに現れた時から変わらずイソギンチャクの触手の様な気持ちの悪い何かが十数本、うねうねとカルマの背で蠢いていた。
その言葉で大凡を把握したのか、僕とシェルムちゃん以外の誰もが武器を構える。
憶測と印象で言えばサミュエルさんとユリウスという男は何が起きていようと関係ないし考えるだけ無駄だとでも思っていそうな雰囲気をありありと醸し出しているが、そんな短絡的な思考も今この状況においては間違っていると断ずる意味が見出せないのが事態の深刻さを表していると言ってもいいだろう。
僕達はカルマと戦う以外の道はない。どれだけ理屈を並べても、それは変わらないのだ。
「シェルムちゃん……ごめんね、お父さんを助けてあげられなくて」
どんな理屈を並べたところでそれが嘆かわしくて仕方がない。そう思うあまり、ほとんど無自覚に僕はすぐ後ろにいるシェルムちゃんへ自戒混じりの謝罪を述べていた。
大魔王は死に、消滅してしまった。
そしてきっと、兄の一人であるカルマを救うことは出来ないだろう。
いくら平和脳な僕でも、それは分かっているつもりだ。
今こうして帝国騎士団や魔王軍の面々と肩を並べることが出来ている。
それはつまり、呉越同舟という状況であることが前提であるとはいえ、二つの諍いを一時的であれ止めることが出来たという証明だ。
僕やセミリアさんが目指したことが無意味でも、不可能でもなかったと多少なりとも口にすることが許されるだけの結果とも言える。
だが、このカルマという男はそうはいかない。議論や交渉の余地なく、はっきりとそれを理解させられてしまっていた。
不意に、ぎゅっとシェルムちゃんが僕の腕に抱き付いてくる。
一瞬だけ視線を落とすと目に涙を浮かべながらも強い意志を感じさせる表情でカルマを見ている姿があって、その瞳は並々ならぬ覚悟と決意を感じさせた。
「ううん、コーヘイはわたしとシオンを守ってくれたもん。全部……お兄ちゃんが招いたことだよ」
そう言うとシェルムちゃんは指で目元を拭い、そっと手を放し二歩三歩と前に出る。
すぐにその横にシオンさんが並ぶと、カルマに向かって問い掛けた。
「お兄ちゃんは……さっき言ってた計画を諦めて帰る気はないんだよね」
「何度も言わせるな。今日この場で勇者とその一味を滅することでようやく俺の時代が始まりを迎えるのだ。そのために百年の時を過ごし、そのためにこれ以上ない力を蓄えた。退く理由など何一つとしてない」
「そのためならば淵帝様やメゾア様を切り捨て、命を奪っても構わないと本気でお思いなのですか……」
シオンさんは最早軽蔑と敵意を隠そうともしていない。
それでもカルマは顔色一つ変えず、どこか煩わしそうにすら感じる口調で言葉を返すだけだ。
「何を言い出すかと思えば、随分と人間に感化されたようだなシオン。兄はともかく父を殺したのは俺ではない。父も母も人間との戦い勝手に負け、命を失っただけのこと。例えそうでなくとも死者に対する情など魔族には不要なものだ。死んだのは其奴らが脆弱だっただけでしかない。父であれ兄であれ、俺の配下に雑魚は要らぬ」
「…………」
「…………」
「お前達も同じだ、俺の前に立つということは俺に従えぬという意思表示と見なす。最後に問おう、黙って命令を聞く気はないのだな?」
「そんなこと出来るわけない! パパやメゾアを平気で殺しちゃうようなお兄ちゃんと一緒にいたって……誰も幸せになれないよ!」
シェルムちゃんの悲痛な声が辺りに響く。
口出しするべきか、襲ってきた場合に備えておくべきか。
生涯慣れることなどないであろう戦場の空気と緊迫感が増し続けるピリピリとした雰囲気に鼓動が徐々に早まるのを感じつつ、胸が痛むその心の声に僕の焦りに似た感情は治まるタイミングを失っていた。
後者に関してはまず間違いなく周りの人達が対処してくれるだろう。
ならば僕がやるべきことは何か。そんなことを必死に考えている間にカルマは大きく息を吐くと目だけではなく声色をも冷たいものへと変え、そして告げた。
「残念だよシェルム、お前もドネスと同様魔族の本能が欠落しているようだ。精々あの世で父上や兄上と仲良くやるといい」
背中の触手が二本、こちらに向かって伸びてくる。
その瞬間に認識出来たのはそれだけだった。
あまりにも唐突でいて速度もある不意打ちに対し視界から得る情報で何が起きているのかを理解しようとした結果、咄嗟に動く余裕も前にいる二人に呼び掛けることも出来ない。
真っ直ぐに向かってくる二本の触手はシェルムちゃんとシオンさんを狙っている。
シオンさんは瞬時に小さく悲鳴を上げたシェルムちゃんを庇うように前に出たが、それと同時に現れた二つの人影が横から二人を守っていた。
僕のすぐ後ろにいたはずのセミリアさんとジャックが毎度ながらの高速移動で先頭に移動し、剣を盾代わりにして触手を受け止めている。
それだけではなく、両サイドではサミュエルさんとユリウスがカルマに突進しているのが見えた。
「なぜ……貴女方がわたくし達を?」
構えを取っていたシオンさんが戸惑い混じりの声を上げる。
その発言からして僕が到着するまでの間に僕以外の人間と意志を共有するまでには至っていないことが明らかとなったも同然だ。
それを説明、説得するのはどう考えても僕の役目だ。
そういう状況ではなかったと分かっていながらも失態を悔やんだのも束の間、僕が口を開くよりも先にセミリアさんが言葉を返していた。
「……コウヘイの意志は私の意志だ。コウヘイがお前達を信じたのだろう、ならば私はそれに準ずる。それだけのことだ」
視線をカルマに固定したまま、真剣味を帯びた声が僕の位置まで届いてくる。
すぐにジャックとシオンさんが続いた。
「そういうこった、少なくともアタシ達はそいつのお人好しにゃ慣れっこなんでな。だが、お前さん達がその信頼を裏切った時にゃ覚悟してもらわなきゃならねえぜ?」
「今になってそうする理由などありません。わたくしとてコウヘイを信用したからといって人間全てを信じるつもりなど毛頭ありませんが、貴女方がコウヘイの味方であるという一点のみを個人的な感情を捨て置く理由としておきましょう」
「そりゃ結構。とはいえ、野郎を説得するっつー方法はさすがに諦めてもらうぜ。どう考えてもアタシ達全員が死ぬか野郎を殺すか以外に終着点はねぇよ」
「それも百も承知。今の攻撃は間違いなくシェルム様の命を奪おうというもの……わたくし達の間にすら既に戦う以外の道はない。シェルム様……」
「うん、わたしも……分かってる。お兄ちゃんを止める方法がそれしかないってことも、そうしないとみんな死んじゃうってことも。もうどうしたらいいか分からないなんて言ってちゃ駄目ってことも、分かってる。立ち向かうって決めたから……わたしはここに来たんだもん」
「はっ、かつては泣きベソかいてたちびっ子が随分勇ましくなったもんだな」
「うるさいっ! コーヘイの友達だからって調子に乗んな人間っ!」
「おーおー、威勢のいいことで」
そんな会話は逸れた話をしている場合かと指摘したくもなるものだったが、それよりも向こう側で攻防を繰り広げているサミュエルさんとユリウスのことが気になってそれどころではない。
二人揃って恐ろしいまでの身のこなしと卓抜した剣術でカルマの攻撃を受けることなく接近しようとしてはいるが、十数本の触手に邪魔をされ一定の距離から近付くことが出来ずにどうにか耐えているといった具合をずっと維持している。
誰も彼もが体から血を流し傷を負っている状態で、カルマ達が現れる前には大魔王と戦っていたのだから相応に消耗や披露もあるだろう。
それでいてまだあれだけの動きが出来るのだからどこまでも怪物じみた人達だ。
「…………」
無意識に息を飲み、痛いほどに手を握る腕に力が入る。
とにかく命に関わる怪我だけはしないでくれと願いながら見守る中、このままではカルマを攻撃することは出来ないと判断したのか二人は徐々に後退し、やがて僕達の立つ位置まで下がってきた。
それに伴ってカルマが触手による攻撃を止めると、二人も切れた息を整える。サミュエルさんだけではなくユリウスまでもが憎々しげに舌打ちを溢していた。
「見た目のダサさとは裏腹に厄介なもんだな。剣でも斬れねえってのは一体どういう能力なんだ」
すぐにジャックがシオンさんに問う。
僕の立ち位置では横顔しか見えていないが、シオンさんは浮かない顔をするだけだ。
「分かりません……長らく仕えていましたが、あのようなものはわたくしも初めて見た」
「フン、役に立たない女。コイツ等も纏めてヤっちゃった方がよっぽど勝ち目も増すんじゃないの」
横から口を挟んだサミュエルさんはシオンさんを横目で見ると鼻で笑うなり辛辣に吐き捨てる。
この人の場合、事情なんて無関係に共闘の二文字を嫌う性格であるだけに理屈で説き伏せるのが難しく、心配の種という意味では他の問題と大差ないレベルにあると言えた。
その言葉にカチンときたのか、シオンさんの視線もそちらに向く。
「負け犬は吠えるしか能がないとはよく言ったものですわね。いつ何時も頭の悪い挑発ばかり口にして、愚かしい人間ですこと」
「あ゛あ゛?」
「おいセリムス、内輪で啀み合ってる場合か。状況を考えろ状況を」
「なに寝惚てんのか知らないけど、アンタ達も、そっちの黒いのもガキも虫女も私の仲間なんかじゃないっての」
「それならそれでいいが、何かしら戦略ってもんを考えねえとヤバそうだって話だ。あれじゃ簡単に近付くことも出来やしねぇ。兄貴よ、おめえの能力でも斬れないのかい」
そこでジャックがユリウスに視線を向ける。
マーシャさんの教会で会った時と同じく顔の上半分に鉄仮面を装着しているため表情から感情を読み取ることは出来ないが、お腹から血を流しているあたり他の三人よりも余裕が無さそうに見えた。
「無理なようだな。斬れない理由が性質ではなく純粋な強度であるならば俺の能力は大した影響を及ぼさない」
「ならば……これで」
シオンさんはパチンと両手を合わせた。
かと思うと、開いた掌をカルマへと向ける。
すると突如としてカルマの周囲に炎が現れ、全身を覆っていった。
魔法なのかそれ以外の能力なのかは定かではないが、体積を増したもの凄い量の炎が逃げ場無く燃え盛っていく。
しかし、活路を見出そうと放たれた常人であれば即座に死に至るだけの炎は僕達の見守る前ですぐさま消えて無くなってしまった。
中心に立つカルマに特に変化はない。
それだけではなく、体を守るように伸びた触手が吸収したのだと目に見えて分かった。
「この手も……まるで通用しませんか」
「だったらこうだ!」
シオンさんがぼそりと呟くと同時に、ジャックがその場で突きを打つ。
筒状に変化した斬撃波が正面からカルマに向かって飛んでいったが、今度は目に見える形ではっきりと一本の触手がそれを吸い込むように吸収してしまった。
「これも駄目、ですか」
今度はセミリアさんが失望の声を漏らす。
「わけの分からねぇもんぶら下げやがって……」
ジャックも苛立った様子で誰に対してでもない感想をぼそりと呟いたが、カルマの声がそれを遮った。
戦いが始まってから一歩も動いておらず、それでいて余裕ぶっているように見えて一片の隙も感じさせない佇まいに見えるのは背中のあれがそうさせるのだろうか。
「この俺を相手に下らぬ小細工が通用すると思うな勇者共よ。これは淵界最強の捕食植物ベジェクト、お前達に死と絶望を与える俺のもう一つの力だ」
カルマは顔の前で拳を握り、百年計画とやらを口にしていた時と同じ野心と殺意に満ちた目を向ける。
それを聞いて何かに思い至ったのか、シオンさんがハッと目を見開いた。
「捕食植物……まさか、ドネス様の」
「その通りだ、あいつが偶然入手した希少種の種を譲らせた。それを自らに埋め込み、暗黒闘気を餌に肉体の一部として成長させたのだ」
淵界云々は僕の知識では想像のしようもないが、捕食植物という言葉は聞けばどういった物かぐらいは想像出来る。
肉体に埋め込み、自らの一部としたということがどれだけ恐ろしいことなのか。それは絶句し、言葉を失うばかりの周りの反応を見れば一目瞭然だった。
「こうなりゃ数の差は無意味と考えるべきだろうな。おい魔族の姉ちゃんよ、お前は取り敢えずそっちの二人を守れ。傾向も対策もやってみなきゃ考えようがねえ。相棒、いつも通り頼むぜ」
「うん、こっちのことは気にしなくていいから自分が無事でいることを第一に考えてね。セミリアさんも、サミュエルさんも、ユリウスさんも」
ジャックに託された役目。
それは見守るだけではなく、どうにか突破口を開く手掛かりを得ること。それが僕がここに居る最低限の意味だ。
「ああ、必ずや勝ってこの戦いを終わらせる。必ずだ」
「フン、馬鹿の一つ覚えみたいに毎度毎度……」
力強いセミリアさんの返事にあからさまに煩わしく思っていそうなサミュエルさんが続く。
そして何も言わなかったユリウスとジャックを含めた四人の視線が同じ方向に向けられると、間髪入れずに何の合図も無く一斉にカルマへと突進していった。
それを迎え撃つのはカルマ本人ではなく、十二、三本にもなる緑色の触手だ。
四人は植物と言いながらも剣で斬れない強度と長さ、柔軟かつ不規則な動きを持つ触手の数々を素早い身のこなしと剣捌きで防ぎ、躱し、少しずつカルマに近付いていく。
五メートル程の距離で攻防を繰り広げる中、真っ先に抜け出したのはセミリアさんだった。
二本を外側に弾き、一本を躱して触手の攻撃から逃れると距離を詰めるべく速度を上げてカルマへと迫る。
その足が止まったのは、その時既にセミリアさんへと照準を定めていた右腕から黒い球体が発射される瞬間だった。
「ベジェクトだけが武器だとでも思ったか愚か者めが!」
そう叫んだカルマの全身は薄く黒い光りに覆われている。
掌から放たれたのは球状の何かは、この世界で何度も見てきた所謂魔法攻撃と同じソフトボールぐらいの大きさの黒い固まりだ。
僕の知るセミリアさんはいくら至近距離だからといって真っ直ぐに向かってくる魔法を簡単に食らってしまうような人ではない。
そんな予測の通りセミリアさんは容易くその球体を躱したが、直後に大きな声が響いた。
「まだだクルイード!!」
声の主はジャックだ。
その言葉が何を意味するのか。
僕に理解出来たのはカルマの魔法がセミリアさんの傍を通り過ぎ、地面に触れるのと同時だった。
着弾と同時に黒い弾は爆発し、手榴弾の如く小さな破片を無数に撒き散らしたのだ。
ジャックの声に反応し反射的に振り返ったセミリアさんだったが、今度は近距離であることが時間差を埋めることを難しくさせ散弾の全てを躱すことが出来ず肩口と鎧に守られていない脇腹を掠めてしまう。
「アイミスっ!」
僕が名を呼ぶよりも先に膝を突くセミリアさんへとユリウスが駆け寄っていく。
アイミス。
他に知る者が居るはずのないその名前を、なぜ彼が口にしているのだろうか。
不可解な疑問の答えを探す暇はなく、セミリアさんを追う視線の先ではカルマが両の手を翳していた。
立て続けに二発、ユリウスがセミリアさんの肩を抱き距離を置くべく退避したからか今度は両手から放たれた黒い球体がジャックとサミュエルさんに迫る。
例え破裂し二段構えの攻撃を受けると分かっていても直撃を受けるわけにはいかず、やはり二人も触手を相手にしながらその攻撃を避けるという対応に出た。
近距離からの散弾であることに加えセミリアさんと違って触手にまで気を配らなければならない状況で全てを躱すことは出来ず、ジャックは左腕と右太腿の辺りに、サミュエルさんは左のふくらはぎと右肩にそれぞれ直撃とまではいかないレベルの傷を負わされていた。
更にはそこでカルマの攻撃が止むはずもなく、傷口から血を流し表情を歪める二人に向かって触手が一斉に襲い掛かっていく。
見るからに絶体絶命の危機に追いやられる中、ジャックは細かく素早い動きと恐らくは例のリフトスラッシュで、サミュエルさんは二本の刀でどうにか包囲網を脱し、それぞれが元居た僕の居る場所とは別方向に距離を置いていた。
「…………」
見ていることしか出来ない自分が情けなくて、口を開くこともせずに痛い程の力で唇を噛み締める。
辛うじて命に関わるような怪我を避けてはいるが、外から見ている限りまるで突破口が見えてこない。
カルマには何のダメージもなく、それどころかまともに近付くことすら出来ていない。
それでいてカルマは接近しなくても四人を攻撃出来るという絶望的な状況ははっきりと、このままではまずいという感想を植え付けた。
均等に割ったとしても一人三本四本の触手を相手にしながらカルマ本人の攻撃にまで気を配らないといけないのだ。こちら側の攻撃どころの話ではない。
「シオン……シオンも手伝ってあげて」
同じく攻防を見守っていた二人にあって、隣に立つシェルムちゃんが静寂を破る。
「ですが、それではシェルム様をお守りすることが……」
「安全とか、怪我しないことだけ考えてたってもう駄目だよ……あの人間達が死んじゃったらもうお兄ちゃんには勝てないもん」
「シェルム様……」
「もしもこちらに攻撃の手が及ぶことがあっても僕が死ぬ気で守ります。僕からもどうかお願いします」
思わず、口を挟んでいた。
確かにシェルムちゃんの言う通り、安全を第一に考える戦法ではもう持たない。長引けば長引くだけ不利になっていくことはここまでの戦いを見れば火を見るよりも明らかだ。
だからといって命懸けの戦いであることを理由に誰かが命を落とすなんてことは絶対に受け入れられない。
世間知らずな僕の現実味の無い考えと言われればそれまでだけど、それでも諦める理由になんてなるはずがないのだ。
ならば勝つこと、誰も死なないこと、それらを実現する可能性が増す方法として今考えられるのは恐ろしく強いシオンさんが戦いに加わること。
それは僕だけではなくシェルムちゃんとて同じことを考えたからこその発言なのだろう。
二人分の思いが通じたのかシオンさんは黙考の後、決意じみた表情で小さく首を縦に振った。
「分かりました……コウヘイ、シェルム様のことは貴方に任せます」
そう言うと、シオンさんは返事を待たずに離れていく。
向かう先は当然のことカルマの居る方向だ。
走っているわけではなく、どういう原理なのか僅かに宙に浮いた状態でスーッと前進し見る見る内に近付いていく後ろ姿は魔界で見た綺麗で蠱惑的なものとはやはり違っていて、怪我やドレスの傷みを見れば体がまともな状態ではないことは明らかだ。
それなのに自分達の代わりに戦ってくれと言わなければならない辛さは当然あるけれど、あの男に負ければここにいる七人だけではなく大勢が死ぬことになりかねない。
或いはこの国の人々が。
或いはこの国以外の人々が。
だからこそ今戦っている五人に、そしてどこかに連れて行かれたクロンヴァールさんやキアラさん達に命運を託し、彼女達もまたそれを背負っているのだ。
僕に出来るのは祈ること、考えること、そして口にした通り死ぬ気でシェルムちゃんを守ること。
役に立たないなりにそれだけは何があってもやり遂げてやる。
肩を並べることは出来ずとも命懸けのそんな決意を胸に再び目の前の戦いを見守る。
シオンさんが向かっていくよりも先に仕掛けたのはサミュエルさんだ。
単騎突撃では不味いと判断したのか、すぐにジャックもそれに続く。
結果的にという形ではあるが、左右からの同時攻撃だ。
しかし本来ならば一対複数の戦いにおいて確実に有利に働くその戦術は、この場に限ってはそうなってはくれない。
数で上回り、自由自在に動く触手が全てを覆してしまうからだ。
少なくともジャックは考えるまでもなく理解しているははず。
恐らくは戦略や相性といった概念を持たないサミュエルさんが突撃してしまったがゆえに、みすみすターゲットにされてしまわないようにやむを得ず合わせて動いたのだろう。
とはいえ、これでは先程の繰り返しになるのは目に見えている。いや、頭数が半分になっているだけより悪い状況になると言ってもいい。
どうにか何か違った手を考えなければと精一杯頭を働かせる中、その一手を繰り出したのはシオンさんだった。
「殺戮蜂!」
遠ざかる後ろ姿からそんな声が聞こえたかと思うと、どこからともなく異様な生物が姿を現わした。
シオンさんの両手が向く先でカルマを囲むように飛んでいる何かの正体は蜂だ。
それもただの蜂ではなく雀ぐらいの大きさがある、おぞましくもあり恐ろしくもある蜂がここから見る限り八匹。
かつての主要都市での戦いの報告にはなかったが、蟲姫という異名の通りああいった虫を操って戦うのがシオンさんの力なのだろうか。
見た目は若く綺麗な女性であってもあのエスクロやライオンの化け物と同じく天武七闘士と同等の強さを持つ魔王軍四天王の一人なのだ。
敵ではなく味方となった今、四人の大きな手助けになるはず。
出来る限り全員の動向を見ることを意識しながら、願望混じりに祈る僕の前で最初に直接攻撃に出たのは件の蜂達だ。
尾の部分からサイズに比例した大きな針を一斉に発射し、八方からカルマを狙う。
あれだけの大きさの蜂のあれだけの大きさの針を生身で受ければただでは済まないことは僕にだって分かるが、一縷の望みに繋がるかと思われた人ならざる者ならではの攻撃手段が生んだのは絶望的な光景だ。
最初にシオンさんが出した炎やジャックの斬撃波と同じく全ての針が八方に伸びた触手に吸収されていく。
あれでは魔法の類、というよりも物理的な攻撃以外の手段に対しては無敵ということになるんじゃないのか。
そんな考えに陥るとより一層勝って戦いを終えるビジョンが霞んでいった。
しかしそれでも、ジャックとサミュエルさんは足を止めずに接近していく。
それだけではない。むしろ先程までよりもカルマとの距離を詰めているぐらいだ。
「そうか……」
今、ようやく分かった。
シオンさんの蜂による攻撃は直接傷を負わせようというものではない。
迎撃させ、襲い来る触手を減らすことで二人をサポートしたのだ。
これならどうにかなるかもしれない。
一転して僅かな希望が生まれたような錯覚を起こす中、半分以下になった触手の攻撃をかいくぐったジャックが先に抜け出した。
俊敏な動きでカルマの眼前に迫ると迷い無く斬り掛かる。
迎え撃つカルマが素手であるならば、あの黒い魔法にさえ気をつければ対抗の術はないはず。
そこに続いた展開はそれこそが錯覚だったと言わざるを得ない、予想外であり全てを覆すものだった。
カルマは構えを取ると、右腕を真っ直ぐに突き出しジャックへ向ける。
その手にはいつからそこにあったのか、見覚えのない武器が握られていた。
レイピアに分類されるのであろう、細く長いフェンシングに使う物に似た鋭利な針状の剣だ。
心臓を狙った突きは防具を着けていないジャックにとって致命的な一撃になり得ることは疑いようもない事実。
当の本人が誰よりもそれを分かっているからこそ、ジャックはすぐに攻撃から防御へと切り替える。
ぎりぎりのタイミングで体の前に剣を割り込ませ突きを防いではいたが、体勢を立て直す間もなく止まった動きはすぐに格好の的へとなってしまっていた。
その間にもシオンさんの蜂は次々に触手によって逆に刺し殺され数を減らしていき、残ったうちの二本が背後からジャックに迫る。
それは間違いなく視界の外からの攻撃だったが、しゃがみ込むことで突き刺されるのを避けると器用にも地面を転がることで素早く距離を置きレイピアの射程外に逃れると共に体勢を立て直していた。
察知能力に長けるジャックだからこそ可能な芸当に心臓が止まるかと思う程の緊張感から解放され胸を撫で下ろしたのも束の間、無謀な特攻だと理解してなお止まることを知らない女性が一人居ることに遅れて思い至る。
思考が追い付いた頃には既に手遅れで、静止の声を発する暇も無くジャックと入れ替わる様にサミュエルさんがカルマに迫っていた。
予想外の武器にも、一対一となってしまったことにも何一つ躊躇いの色を見せることなく、一直線に向かって行くと右手の大きなククリ刀を振り上げる。
大きく振りかぶったことで重量による速度の差が生まれたのか、先に目標に到達したのは僅かに遅れて突き出されたカルマの武器だった。
にも関わらずジャックとは対照的にサミュエルさんは防御したり距離を置くといった対応を取ることなく、少し体を反らしただけで迷い無く右腕を振り下ろす。
レイピアは肩口を切り裂いて通過し、直後にククリ刀がカルマを襲ったが捨て身の一撃はすんでの所で躱され衣服を切り裂いたものの傷を負わせるには至らず、鈍い音を立てて地面を叩いていた。
例え自分が刺されても相手の首を刎ねればいい。
僕にとっては受け入れ難いそういった構えで戦いに臨んでいることは以前聞いたことがある。
それはすなわち、サミュエルさんはあのまま無茶な攻撃を続けてしまう可能性が高いということ。
止めなければという気持ちはあれど、僕どころか周りにいるジャック達にすらそんな猶予はどこにもない。
だからといってただ見ていることなど出来ず、意味を成さずとも捨て身どころか差し違えるつもりの攻撃に待ったを掛けようと大声を上げようとした僕だったが、その時、思い掛けず武器を構えるサミュエルさんの動きが止まった。
どこか不自然にも見える突然の踏み留まる動作は、真っ赤な血飛沫が舞ったのを見てようやく何がそうさせたのかを理解させる。
触手の一本が地面から伸び、サミュエルさんの鎖骨の辺りを掠めたのだ。
反射的に踏み留まり体を反らしたところを見るにサミュエルさんにとっても完全に想定外の角度からの反撃であり、地面から飛び出してくるという予測不能なその攻撃を可能にしたのは背中から生えていることで出所が死角となっているせいであることが分かる。
それでも突き刺されるのを避けた反射神経は流石としか言い様がないが、一歩後退したサミュエルさんに対し今度はカルマの方が前方に飛び出し、間合いを詰めた。
右手には三人の勇者に傷を負わせたあの黒い魔法の固まりを発生させている。
あれだけの至近距離からでは今度こそ避けるのが難しい状況なのに加え、仮に躱せたとしても先程の様に破裂し全身を襲うことが分かっているのだ。
どちらに転んでも絶体絶命。
そんな危機的な光景を打破したのは、またしても想像の斜め上を行く理解不能な出来事だった。
その瞬間僕に理解出来たのはカルマの足下から何かが飛び出したということ以外に何もない。
そして、その何かが見るもおぞましい生物であることに気付いてようやくそれがシオンさんの仕業であることを把握した。
カルマとサミュエルさんの間に現れたのは巨大なムカデだ。
かつて退治した経験のある大ムカデほどの大きさはないが、それでも軽く鰐ぐらいはある異常なサイズのムカデが飛び出し、鋭利な口角でカルマに噛み付こうと迫る。
生み出したのか呼び出したのかは定かではないが、シオンさんが両手を地面に当てていることからも彼女の能力と見て間違いないだろう。
しかし、それは素人目に見る限り絶妙なタイミングの不意打ちに思えたが、先の剣捌きもさることながら魔族の長というだけあって触手や魔法のみならず純粋な戦闘能力も高いらしく、カルマもサミュエルさんと同じ様に驚異的な反射神経でムカデの牙を避けていた。
それでも間一髪での回避はカルマにとっても紙一重であったことを自覚させたのか、怒りに満ちた血走った目がシオンさんに向けられる。
だがそれも反応としては一手遅く、体の向きが完全に変わると同時に次なる一手がその身を襲っていた。
続けて地面から飛び出したのは鋭い針を持つ巨大なサソリの尾だ。
ムカデの半身とは違い、今度はカルマの背後に現れた薄気味の悪い尾は先端にある針でカルマを斬り付ける。
前後からの同時攻撃ということ、怒りを露わにした状態で攻撃対象を変えたタイミングであったことでカルマは反応しきれず、咄嗟に振り返ったものの完全に回避することは出来ずその針は顔面を掠めた。
左の頬に一筋の傷が刻まれ、血が滴る。
ムカデ、サソリの尾は共に姿を消し、巨大な虫の半身が、或いは尾だけが地面から飛び出すという異様な光景は既に無くなっていた。
「貴様如きが……この俺に何をした!!」
ここに来て初めて自身の血が流れたせいか、カルマは激昂し吠え猛る。
ほとんど同時に、攻撃の手を逃れたものの一人だけ安全圏に退避することなく傍で態勢を立て直しているサミュエルさんには目もくれずシオンさんへと突進した。
炎を出したり、蜂に始まり様々な虫を操ることで幾度となく攻撃を仕掛けてきたシオンさんだが、離れている僕やシェルムちゃんを除けば唯一武器を持っていない。
接近戦に出られては不味いのではないかと、刹那抱いた不安と心配はまたしても予測出来るはずのない理解不能な現象が言葉や行動で示すことに歯止めを掛けていた。
それは分身と表現する他にない、もう何度目になろうかという言葉を失い目を疑うことを強要されている気にさえさせられる程の超常現象だった。
どういうわけかシオンさんが十人に増え、カルマを包囲している。
現実に起きている出来事としてそう説明する他にない。
そういう魔法であると言われると全てが解決する世界とはいえ、これまでに僕が身近で接してきた人達は基本的に魔法を使わない人ばかりだったのでどうにも目新しいことを見せられる度に頭を追い付かせないといけないのだから難儀なものだ。
驚き、戸惑い、そして魔法の類なのだと理解する。
びっくりすること自体には慣れ始めてきたとはいえ、その段階を踏まずに受け入れるようにならなければ心臓に悪いし、どうしたって対処に遅れが生じてしまう。
それは日本人である以上仕方のないことだとは思うけど、生死を左右する問題であるだけにそれでは済まない問題でもあるのだ。
「低次元な小細工は通じぬと言ったはずだ!」
カルマは怒声が響せると、なぜか十人に増えたシオンさんの中のある一人に向かって真っ直ぐに突進し始めた。
それも元居た立ち位置にいるシオンさんではなく、別のシオンさんにだ。
あれがただの幻覚なのか、物理的な接触が可能な分身体なのかは僕には分からないが、この時点で陽動だとか同時攻撃といった戦術は実行する前に打破されていると言っても過言ではない。
カルマはそのままシオンさんの一人に向かってレイピアで突きを放つ。
明らかに焦りの表情を浮かべたシオンさんは地面を滑るように後退することで突きを躱し、そのまま真上に浮き上がることで攻撃の手を逃れるがカルマの背丈を越えようとした時、触手の一本が片方の足首に巻き付き浮上を止めた。
「王に楯突く者は誰一人として生かしておかぬと知れ!」
憎しみすら感じられる大きな声を上げると、カルマは触手で捕えたシオンさんを勢いよく叩き付ける。
分身は消え去り、背中から落ちたシオンさんは鈍い音と苦しげな声を残し土埃を舞わせながら地面を転がった。
「シオン!」
「シェルムちゃん落ち着いて! 気持ちは分かるけど、僕達が行ったら他の人の危険も増してしまう」
シェルムちゃんが駆け寄ろうと走り出しかけるが、僕は慌てて腕を掴みその足を止めさせる。
すると、素直に立ち止まったシェルムちゃんは逆に僕の腕を力強く引っぱり、目線を合わさせさせるように屈ませた。
「コーヘイ、ちょっと聞いて」
すぐに耳元に口を寄せたかと思うと、なぜか小声で僕の名を呼ぶ。
そして何を伝えようとしているのかと問い返すよりも先に、こう続けた。
「お兄ちゃんの背中のあれをやっつける方法があるの。だから協力して」