【第十章】 一騎当千
「あーあー、こりゃ千じゃきかねえぜ? とうとうアタシ達もここで終わりか?」
一つ息を吐き、アネットはどこかわざとらしい自嘲混じりの声で静寂を破った。
どこを見渡しても地平線を覆い隠す程の魔物の大群が行く手を塞いでいる。
八対千。
どれだけ世界有数の強者が揃っていたところで、それは最早戦術や戦略によってどうにかなる問題ではなかった。
しかしそれでも、誰にとっても危機的状況に違いない中にあってそれを感じさせる固い表情をしているのはセミリアとキアラしかいない。
多くの者が焦りや恐れが戦況を左右することはないと、培った経験上や揺らぎない己の信条によって自然とそうすることを身に着けているからだ。
「諦めが早い乳お化けです。たかだか千ぐらいどうってことないです、一人百匹ぐらいどうにでもなるです」
やれやれと首を振り、隣に居るユメールが鼻で笑う。
今にも一斉に襲い掛かってきそうな魔族達の雰囲気を感じ取りながらも、どこかこちらの出方を窺っているように見えるのは恐らくこれだけ大規模な転送魔法を発動した張本人が現れるのを待っているのではないかと、八人全員が予感していた。
それに該当する者として真っ先に思い浮かべるのは当然のこと大魔王の姿だ。
「どういう計算をすれば一人百体で済むんだっつー話だが、誰が諦めるもんかよ。大魔王に会う前にくたばるなんざ惨めな末路はごめんだ。そうだろセリムス」
「私に聞くなっての。アンタが死のうが生きようが知ったこっちゃないわ」
「ったく、どこまでも冷てー野郎だぜ。アタシが死んでもおめえが死んでも相棒は悲しむぜ? それでもいいのか?」
「誰が野郎よ! 私は死ぬつもりはないし、あいつは帰ったら一発ブン殴る。今考えることなんてそれだけでいいわ」
アネットの方を見ようともせず、サミュエルは二本のククリ刀をじゃらんと擦り合わせる。
来るなら来い。
その頭には闘争心へと成り代わったそんな思いだけが充満していた。
クロンヴァールの指示である三組に分散するという戦法は容易ではない状況となってしまっている。
ただ一人他人と力を合わせる気がないサミュエルを例外として、誰もが抱く一つの不安要素はたった一言で薙ぎ払われた。
「お前達は手を出さなくて良い」
声の主クロンヴァールは誰を見るでもなく、愛馬ファルコンの上で目の前の敵を眺めている。
その言葉が何を意味するのか、予想し難い疑問を最初に口にしたのはアネットだった。
「そりゃ一体どういう意味だい」
「私一人で十分だ、と言っている。雑魚共を相手に余計な体力を使う必要はない」
「ああ?」
今ひとつ要領を得ない説明に若干苛立つアネットだったが、嫌味をくれてやろうと開きかけた口は勝手知ったる忠臣達が割って入られたことで声にはならない。
「姫様、まさかあれを使う気ではあるまいな。後の展開を考慮するならばわしの魔法を使うべきではないのか? 全てとはいかずとも、この名にかけて半数は消し去ってやろうぞ」
「後の展開を考えればこそお前の魔法力は温存しておくべきだろう。こいつらを片付ければ終わりであるわけもない。私は剣があれば戦えるが、お前の魔法力はそうなった時に換えが利かん」
「そうだとしてもお姉様の消耗が激しいことに違いはないです。本当に大丈夫ですか? です」
「案ずるなクリス。こうなっては勿体ぶっている場合ではない、多少の消耗は致し方あるまい」
「やいコラ、内輪で納得してねえでいい加減何をするつもりか説明しろってんだ」
「お前達は黙って見ていればいい、ということだ二代目。こいつらは私が片付けてやる。ただし、その後は大して役に立たんかもしれんがな。何せ私の持つ最強最大の技だ、魔法力の消耗が尋常ではない」
再び「ああ?」と、顔を顰めるアネットに意図して聞こえる様に舌打ちをするサミュエルを無視し、クロンヴァールは白馬の上で空を見上げる。
「巻き添えを食いたくなければジッとしていろ」
そしてそれだけを言い残すと、同時に魔法力を帯び光り輝く剣を持つ左腕を天に向かって突き出した。
刹那、上空に巨大な魔法陣が浮かび上がる。
辺り一帯を丸々照らす様に、大きな円に囲まれた白く光る五芒星がはっきりと形成されていた。
セミリアやサミュエル、アネットにキアラといった異国の面々は魔物達の動向に注意しつつも正体不明の魔法陣を見上げる。
千を超える魔族の軍勢もまた、魔法陣に反応し『敵を包囲し主の到着を待て』『攻撃の意志を見せた場合は速やかに敵を殲滅せよ』という命令に忠実に従い、一斉に攻撃態勢を取っていた。
敵を迎え撃つために、或いは術の発動を阻ませぬために、クロンヴァールを除く七人は即座に武器を構える。
しかし、その傍では既に発動の詠唱が完了していた。
「遅いわ下衆共、この私の前に立ちはだかったことを後悔しながら逝け! 天下乱戒!」
天高くへと向けられた突き抜ける様な大きな声が辺りに反響し、同時に浮かび上がる魔法陣の輝きが増す。
そして次の瞬間、その魔法陣から赤く輝く魔法力の弾丸が流星の如く幾千と降り注いだ。
個々の威力からして常人ならざる規模を持つ砲弾ほどの大きさの魔法力の塊は爆音を轟かせながら次々に着弾していく。
対処しようと様々な行動に出るものの、雨霰と絶え間なく飛び来るその攻撃を防ぐことも躱すことも出来ず、魔物の軍勢はまともに直撃を受け続々と絶命し消滅していった。
暫時の後。
魔法陣が消えると轟音は止み、その長いとは言えない時間で全ての魔物が姿を消した結果、所々に白煙が立ち上る静かな荒野の風景だけが残される。
クロンヴァールの操る魔法剣、その最強の技を初めて目にする者達は一様に言葉を失い、事の顛末を見守ることしか出来なかった。
「ったく、てめえも大概のバケモンだな。こっちはこっちで町一つぐらい軽く消し去るぜこりゃ」
唖然や呆然、或いは震撼から感服まで多様な心証を抱く面々にあって、静寂を破ったのはアネットだ。
率直な感想がどこか皮肉にも聞こえるのは、そのあまりにも強大な力に対し少なからず警戒心に似たものを感じているせいだった。
「まさか本当に一つの魔法で全ての魔物を倒してしまうとは……おかげで窮地を脱することは出来ましたが、確かにあれだけの術では消耗も激しいはず。クロンヴァール陛下、お体の方は大丈夫なのですか?」
「問題ない、とは言い切れんが弱音を吐いている場合でもない。本音を言えば大魔王に見舞ってやりたかったが、むざむざ万全のまま勝負を挑ませてはくれないということだ」
続いたキアラに言葉を返すと、クロンヴァールは辺りを見渡した。
全ての敵は消え、四方のどこにも新たに魔物が現れる様子はない。
「未だ大魔王は現れず、ですか。やはり誘導だったということなのでしょうか」
難しい顔をするクロンヴァールの考えを察したジェインは馬を寄せる。
代わりに答えたのはセラムだ。
「陽動のためだけに町一つを消し去り千以上の軍勢を送り込むとも思えぬが、本城からの知らせが無いとなるとどちらとも断定することは出来ん。次なる方針の決定も簡単ではない」
「あのレベルの転送魔法はそこらの雑魚に扱えるもんでもねえ。大魔王じゃなくとも幹部クラスが出てくることは間違いないとアタシは思うがね」
この世で唯一大魔王ゴアと戦いを繰り広げた過去を持つアネットにはその経験からまずこれで終わりだということはないはずだと思えてならない。
他の魔王や四天王が存在しなかった百年前の戦いでも似たように刺客を放っては疲弊させ、ダメージを負った状態になってから現れることの方が多かったのだ。
根拠などありはしないが、一連の強襲が大魔王の所行であるとするならば必ず現れるはずだという確信めいたものさえあった。
そして、それが思い違いではないことは自身も含めた全ての視線が上空へと向けられたことが証明していた。
アネットの言葉の終わりとほとんど同じタイミングで、キアラ以外の七人にとっては見覚えのある黒い霧の様な何かが発生したかと思うと、見上げる先で徐々に体積を増していく。
「アネット様……あれは」
「そういうこった。やっとお出ましだとよ、悠長にしやがって胸クソわりい」
「ロス」
「ああ」
八人全てが今一度武器を構える。
セミリアとアネットの会話の後ろではセラムに目配せをしたクロンヴァールがその目をキアラに向けていた。
即座にそれが何を意味するかを理解したキアラがこくりと頷いた時、宙に漂う黒い霧から尋常ならざる気配が噴出し始める。
それはその中心から人影が姿を現わそうとしていることを誰もが感じ取った瞬間のことだった。
空へ向かって二筋の光りが伸びる。
セラムの魔法、そしてキアラの雷撃による先制攻撃だ。
不意打ちであれば、或いは姿を現わす瞬間ならば、ダメージを与えられる可能性があるのではないか。
正面から攻撃を仕掛けても通用しないのは痛感している。試せるものは何だって試してみなければ勝機が見出せるはずもない。
そんなクロンヴァールの考えを二人は目線一つで理解していた。
「ちっ……」
「効果無し、か」
それぞれが見守る中、指示を下したクロンヴァールの舌打ちとアネットの忌まわしげな声が重なる。
無情にも二つの攻撃は対象に届くことなく、黒い霧に包まれ掻き消されるといういつか見た光景だけを残していた。
大魔王の駆使する暗黒魔術の一つ、カオスフィールドという名の絶対防御だ。
「そう死に急ぐものではない。潔く最後の時を受け入れずとも滅び行く未来が変わることなどありはせぬ」
低く、威圧的な声がビリビリと緊張感を伝う。
未だ武器を構えたまま出方を探る八人の前で、魔法攻撃を消失させた霧の中から現れた一人の男が頭上から冷たい目を向けていた。
湾曲した二本の角を持つ、長く青い髪をした風貌や格好全てから高貴さを感じさせる大柄な魔族だ。
淵界の帝王であり魔族の長である男、大魔王ゴアが降臨していた。
「我が配下を容易く一掃とは、脆弱な人間が持つ不可解な強さとはいつの世も不思議なものだ」
ゴアは何を仕掛けるでもなく、依然空中に佇んでいる。
すぐにアネットが馬から飛び降り、攻撃の際にそうしていたセラムとキアラの前に出た。
この場の惨劇に対する憤りや私怨も含め、積もり積もったあらゆる感情が冷静さを保つことへの限界を迎えさせつつあった。
大魔王へと剣を向けると、殺気に満ちた目で挑発を投げ掛ける。
「オラ、サッサと降りてこいよ。百年前やこの間みたく逃げ帰るばかりじゃ何も終わりゃしねえぜ?」
「要らぬ心配をするな勇者よ。今日こそは長き宿怨を晴らし争いの歴史に終わりを告げる、そのために余はここにいるのだ」
射抜くような視線を返し、ゴアはゆるりと地面へと降り立った。
目と鼻の先に大魔王が立っている。
それはこの時代を生きる人間にとって、前代未聞の出来事だと言えた。
アネット、セラム、キアラがそうしているようにセミリアやサミュエルも馬から飛び降り戦闘態勢を取る。
ユメールとジェインだけがクロンヴァールの命令なく動くことを避け、その指示を待っていた。
「クリス、お前も降りておけ。AJは先に残った馬を退避させろ」
すぐに下知が飛ぶ。
騎乗での戦闘に不向きなユメールを馬から下ろし、後のことを考えてジェインを一旦この場から遠ざける。そういう指示だ。
二人はすぐに従い、ジェインは七頭の馬を引き連れて後方へ駆けていく。
七人が壁になっているとはいえ、大魔王が群れから離れたジェインを標的することは大いに考えられることだ。
その場合に備えてそれを阻止することを第一に考えるアネットとサミュエルを除く五人だったが、予想に反して大魔王はジェインには目もくれず右腕を顔の前まで持ち上げ魔力を溜め始める。
「お前さんも馬を下りていいのか姫騎士さんよ」
何を仕掛けてくるつもりかと目を凝らしつつ、先頭に立つアネットはすぐ後ろにいるクロンヴァールへと疑問をぶつけた。
姫騎士の二つ名を持つクロンヴァールが騎乗での戦いを得意とすることは想像するに容易い。そこにどんな意図があるのか、今の時代に強者とされる者達の風評のみで判断するしかないアネットには知る由もなかった。
「確かに騎乗での戦いこそが私の最も得意とする分野だが、奴の能力と相対するには相性が良いとは言えぬだろう」
「そういうもんかね」
一言呟いて、アネットは再びゴアへと剣を向けた。
「黙って見送るとは、らしくねえじゃねえか。後ろから襲うっつー姑息な戦法こそがてめえの常套手段だったはずだろう」
「邪魔な人間共を始末する、余の目的はそれだけだ。馬など追ってどうなる」
「今回は操って駒にする人間もいねえぜ? てめえ一人でやるってのか? それもまた、てめえらしくもねえな」
「全てを蹂躙するために必要なのは圧倒的な力を措いて他に無し……人間の駒など使い捨ての道具でしかない。篤と見るがいい人間共よ……貴様等が相手にしてきた半端物とは違う、我が最強の配下の力を!」
吠え猛り、ゴアは魔力を帯びた右手で地面を突いた。
その動作が意味するのは魔族特有の術式や詠唱を必要としない召還魔法の発動だ。
開いた手が地面に触れると、その地点を中心に六芒星が顕現する。
すぐに姿を現わしたのは巨大なドラゴンだった。
大蛇の様な長く巨大な体と二本の足に蝙蝠に似た翼を持つ、双頭の真っ赤なドラゴンがその二つの頭部で八人を見下ろしている。
魔族の間では魔界龍、或いは淵界龍と呼ばれている魔界の門番。
そして淵帝ゴアの最強の配下でもあるおどろおどろしい凶悪生物、【双頭の獄龍】が異常なまでの存在感を漂わせながら両者の間で蠢いていた。