【第六章】 ドラゴンバレー
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ある意味自然災害とも言える落石による進路封鎖状態を脱した僕達はそのまましばらく崖道を進んいく。
少しして見えてきたのは決して大きいとも丈夫そうとも言えない吊り橋だった。
一応は太いロープや分厚い木の板が使われているようだが、古くなっているのか全体的に素材が黒ずんでいてどうにも良からぬ不安が頭を過ぎる。
崖の遙か下方に見えていた川もいつの間にか姿を消し、その原因が単純に川が途切れているからなのか、明らかに当初より増した高さのせいで見えなくなっているだけなのかは不明という状況が一層これから吊り橋を渡ることに対する勘弁して欲しい具合を増長させてしまっていた。
向こう側まではそこそこの距離がある。
橋は崖と崖を繋いでいて、いつの間にかほとんど峡谷のようになっていることも僕の抱く不安と無関係ではあるまい。
ドラゴンバレー。
そんな名前の谷があって、ドラゴンの巣窟となっているという話を聞いたばかりなのだ。
ドラゴンってそんなゲームやアニメじゃあるまいし。
なんて現実逃避にはもはや何の意味も無い。
否定しようにもすでにサントゥアリオで直接目の当たりにしてしまっているのだから今更そんなことを言ったところで気休めにもならないし、むしろ虚しくなるだけだ。
確かに当時は末恐ろしく思う気持ちしかなかったし、普通に死ぬだけの危険を覚悟したりもしたけど、その後あれとは比にならないレベルの絶望的恐怖感を味わっているので少しは耐性や免疫力がついていることを願うばかりである。
そんなことを願っている暇があるならそもそも出会さないことを願えという話なんだけど……というか、久々の表現を用いるならば例え怖さを克服出来たところで無事で済むかどうかには何一つ影響を及ぼさない気がするのでむしろすぐに逃げようと思えるだけ逆に怖がっている方がいいのかもしれない。
「着いた~!」
色々とネガティブな方向にばかり考えがいってしまっているせいでテンションが下がりつつある中、急にカノンが足を止めた。
なぜか吊り橋のちょうど真ん中辺りで、達成感に溢れた笑顔で僕を振り返っている。
そもそもここを渡るにあたっての一番の不安要素はカノンが持っている剣なのでそそくさと渡ってしまいたかったのに、こんなど真ん中で立ち止まらないで欲しいんだけど……。
「カノン、喜ぶのは渡りきってからにしようね」
「渡りきっちゃ駄目だぞ?」
「え……どういうこと?」
きょとんとされる意味は悲しきかな僕には全く分からない。
そんな当然の疑問に対して返ってきたのは、むしろ聞かなければよかったとさえ思える最悪な理由だった。
「おれが住んでるのはこの下なんだ」
「あ、そういうこと。でもそれじゃあまだ到着はしてないよね? 下までどうやって降りるのかは分からないけど、この高さならまだそこそこは歩かないといけないんじゃないの?」
というか、別問題としてそろそろカノンを送り届けた後に一人で帰れる自信がないぞ……。
「大丈夫だ。飛び降りればすぐだからな」
「………………は?」
飛び降りる? ここから?
「え、ちょっと待って」
「どうしたんだ?」
「飛び降りるって、まさかとは思うけど……ここから?」
「そうだぞ?」
「いやいやいや……それは無理があるって。確実に死ぬから、何十メートルじゃ足りない高さなんだよ?」
「別に平気だぞ? 帰ってきた時はいつも飛び降りてるからな。出る時はさすがに送ってもらわないと無理だけど」
「えぇぇ……いつもやってるの」
冗談だと言ってくれ。
お願いだから、絶対怒らないから。
「じゃあ行こうっ」
そんな心の訴えは通じることなく、カノンはむしろ楽しそうだ。
「うん、行ってらっしゃい」
「なんでっ! コウヘイも来るんだろ!」
「無理無理。絶・対・無理! 百歩譲ってカノンは大丈夫なんだとしても僕がやったら確実に死ぬから。大体飛び降りた後どうなるのこれ? そのまま着地出来るわけないよね?」
「そのままは無理だけど、テキトーに地面に着く前にその辺の壁とか木とか掴んで衝撃を殺せばいいだけだろ?」
「だけって……そんなの普通の人間に出来るわけないからね? よしんば下が水だったりマットが引いてあったとしても死ぬからね?」
「そんなので死なないって、コウヘイは大袈裟だなぁ」
あははと、カノンは笑う。
馬鹿にしている風でもなく、呆れている風でもなく、純粋に『おかしな事を言うなぁ』的な笑顔だった。
「そこで笑えるのが凄いよ……仮に慣れてるとしてもさ、失敗したらどうしようとか考えないの?」
「たまに失敗するぞ? 地面に叩き付けられて結構痛いんだ」
痛いで済むかぁぁぁぁぁ!!
と、全力で叫びたいのをグッと堪え、
「とにかく、悪いんだけどどう足掻いても僕には出来ないから見送りはここまでということで……」
「嫌だ! コウヘイと一緒に行く! ちゃんと母上に紹介してからじゃないとお別れしちゃ駄目だっ」
「そう言われてもね、これはさすがに無理があるというか」
「ん~……分かった!」
例え泣かれようが叫ばれようがここから飛び降りることは絶対にしないし出来ない。
そんな決意が伝わったのか、カノンは少し考える素振りを見せたかと思うとどこか納得した様に力強く頷いた。
どうにか引き下がってもらえたようだ。
なんて勘違いも甚だしい安堵を抱いてしまった瞬間、僕の体が微妙に浮く。
どういうわけか、お姫様抱っこの要領でカノンに抱き上げられていた。
「カノン……何してるの?」
「コウヘイが飛び降りれないからおれが連れてってあげるんだ」
「え、ちょっと待って!? 何するつもりなの!?」
嫌な予感しかしない。
それどころか一瞬にして最悪の未来が脳内を埋め尽くしていた。
「だからおれが連れて行ってあげるんだってば。失敗してもコウヘイが痛くないようにするから任せとけっ」
にこやかにそんなことを言ったかと思うと、カノンは全力で待ったを掛ける僕の抗議もお構いなしに橋から飛び降りた。
高さにして二、三百メートル。
カノンの腕に抱えられた状態での紐無しバンジーに、ただ僕は死を覚悟することしか出来ない。
どうやら本気の恐怖を感じた時、人は泣いたり絶叫したりすることはないらしい。
もの凄い早さで落下していく中、加えて抱えられているせいで自力でどうにかしようと動くことすら出来ず、意識を失うんじゃないかという恐怖に耐えつつ、どうせ死ぬなら意識を失っていた方がまだ幸せなんじゃないかとどこか頭の片隅に冷静な考えが浮かんだりしながらカノンの小さな体に必死にしがみつき、全力で目を閉じながら悪夢のような時間が終わるのを待った。
「今度こそ着いたぞ~」
例の衝撃を殺す過程の影響なのか、一瞬ふわりと体が上下した感覚を残した直後にドスンという衝撃が全身を伝った。
すぐに聞こえてきたカノンの暢気な声に恐る恐る目を開くと、自然の欠片も無い深く薄暗い崖に挟まれた峡谷に確かに着地……というよりも、むしろ着陸していた。
「着いたぞコウヘイ……って、どうしたんだ?」
そこでようやく、僕はカノンの腕から解放される。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った。ていうか……はぁ、いっそ死を受け入れたよ……今度こそ真剣に」
シェルムちゃんにズタボロにされた時よりも、烏天狗に刺された時よりもよっぽど死ぬかと思ったよ!
「よく分からんけど、大丈夫か?」
「大丈夫じゃ……ない」
両手足に力が入らず立つことすらままならない。
息も切れているし、口もカラカラだし、心臓がバクバクしている上に微妙に浮遊感が残っていて気持ち悪い。
それでも、流石に今の姿が情けなさ過ぎることに気付いてどうにか立ち上がると、特に効果も無い深呼吸をして無理矢理落ち着いたことにしておいた。
同時に真上を見上げると、細く細くなっている吊り橋らしき線が見える。
本当にあそこから飛び降りたのか……というか、平然としているカノンは絶対おかしいってば!
「すぐそこを曲がったらおれの住んでるところだ。母上もそこにいるからなっ」
「すぐ……そこ?」
カノンが指差す先には勿論何も無い。
確かに少し向こうは角になっているが、そもそも崖に挟まれた狭い空間がある以外には何も存在せず、人が住めるような環境でもなければそのための建物らしき物だってありはしない。
説明下手なカノンの言うことだから何かしら直接見ないと理解出来ないような事情や環境があるのだろう。なんて考えながら再び手を引かれるまま峡谷を進み、やがて角を曲がる。
進行方向が変わったと同時に目に入ったものが抱かせる率直な感想は、『あ、やっぱり僕はここで死ぬんだ』という絶望感オンリーな光景だった。
ドラゴンバレー。
その言葉を、そう呼ばれている理由を、もう少し気にしておけばよかっただなんて後悔は後の祭り。
そこには狭い通路の様な道とは打って変わった広い空間があって、そこに佇んでいたのは全身が真っ白で恐ろしく巨大なドラゴンだった。
「…………」
驚愕や絶望を声にすることすら出来ず、ただ無言で立ち尽くすほかない。
先程味わった恐怖に耐え抜いたことで精神的に疲弊しきっているせいか、逃げ出そうとか抵抗しようという気すら起きず、頭ではなく心が勝手に諦めてしまっていた。
以前サントゥアリオの森で襲ってきたドラゴンとは比べものにならない、象の十倍ぐらいの大きさのドラゴンが巨体を伏せた状態で僕とカノンを見下ろしている。
足が竦むとはこういう状態を言うのか、引き戻して幅の狭い道に戻れば少なくとも追ってこられることはないはずだという思考は働いているものの、本当に体が動いてくれない。
「母上!」
唖然として固まっている横で元気な声が響いた。
かと思うと、カノンは僕の手を離してドラゴンへと寄っていくなり前足辺りに抱き付く様に飛び付いている。
「…………………………はい?」
今なんと仰いました?
ドラゴンに抱き付くカノン、そして母上という言葉。
目の前の現実に頭が追い付かず、固まることしか出来ない僕の前でその疑問の答えはごく自然に展開されていく。
「母上ただいま!」
『しばらくぶりだなカノン。知らせが無いから心配していたのだが、人間界はどうだったのだ』
喋った!
ドラゴンが喋った!
「最悪だった!」
『そんなことだろうと思ってはいたが、どうあれ無事に戻って何よりだ。だが、そこに居る人間は一体何者だ』
「コウヘイだ!」
そこでカノンは振り返ると、とてとてと僕の方に戻ってくるなり手を取って、そのまま白いドラゴンの方へと引っ張っていく。
やめて。
その恐ろしい生物に近付けないで。怖いから。
なんて心の声は勿論声にはならず、どこか上機嫌なカノンはなぜか母上と呼ぶドラゴンに対し、あれこれと今日に至るまでの体験談を語り始めた。
あちこちを旅しているうちに出会った何とかって国の何とかって奴らの仲間になった、とか。
そこで嫌な思いばかりして最後は喧嘩して追い出された、とか。
それから何年かは帰る方法が分からず各地を転々としていたこと。
そして食べるものが無くて倒れているところで僕に出会い、助けてもらっただとか送ってくれただとかそういう説明だ。
相変わらず当事者でもあり事前にある程度同じ話を聞いている僕ですらどうにも分かりづらい説明であったが、主にその何とかって人達がいかに嫌な連中だったに加えていかに僕が良い奴なのかを熱弁しているので口を挟むことも出来ず。
ただドラゴンと目が合わないことを願いながら突っ立っているだけの時間が過ぎていった。
『そうだったのか。コウヘイ、といったね』
カノンの話がようやく終わりを迎えると、密かな願いも通じずドラゴンが体勢はそのままに僕を見る。
その親しげな雰囲気を見るに食べられてしまう的なことはないと信じたいところだが……。
「は、はい……康平です」
『そう怯えないでおくれ、誓って君に危害を加えるつもりはない。我が名は妃龍、クイーンズ・ドラゴンなどと呼ばれることも多いが、このドラゴンバレーの主でありドラゴン族の長である。カノンに代わって礼を言わせて欲しい、この子を助けてくれて感謝する』
「いえ……お礼だなんてとんでもないです」
「コウヘイはな、自分が食べるのを我慢してまでおれにご飯を食べさせてくれたんだ。おれがいっぱい食べるからお金も全部使わせちゃって無くなっちゃったのに。だから帰ったら俺が肉をご馳走するって約束したんだ。母上、おれ肉捕ってくる!」
思い出した様に言うと、カノンは返事を待たずに駆け出していった。
本能の赴くままの言動には慣れ始めていたけど、今ばかりは自重して欲しい。いやほんと肉は要らないから……このドラゴンさんと二人にしないでくれるかな。
『ふっ、相変わらず騒がしい子だ』
遠ざかっていくカノンの背を見て固まる僕の上で、そんな声が聞こえる。
ほとんど事情は分からないままだけど、何となくこの妃龍さん? が怖い方ではないような気はし始めていた。二人になった瞬間どう転ぶかは全く予想も付かないんだけど。
『コウヘイよ、改めて礼を言う。手の掛かる子だったろう』
そんな僕の不安は杞憂に終わったようで、妃龍さんはどこか穏やかな声音でそんなことを言った。
それは種族さえ違っていなければ確かに親子の愛情が窺える様な言葉であるように感じられる。
失礼に思われて機嫌を損ねたくはないのでどうにか恐る恐るであることを悟られない様に態度を改め、僕は言葉を返した。ポーカーフェイスなタイプに生んでくれた母に今ばかりは感謝したい。
「行き掛かり上放っておけなかった面もありましたし、そこまで言われる程のことはしていないと思うので何度も感謝されると恐縮してしまいますよ」
『頑なに他者を受け付けようとしないあの子があれだけ懐くのだから君はきっと心優しい人間なのだろう』
「それは大袈裟な表現な気もしますが……」
『おかしな話だ。人間のあの子がドラゴンである私を母と呼ぶのだから』
「それは、まあ……勿論何か事情があってのことでしょうし、何も知らない僕がおかしいと言えることではないと思いますけど、色々と不思議な子だなとは思っていましたし少々驚きに頭が追い付かない状態であることは否定出来ませんね、さすがに」
『随分と前の話になる。ある人間の女がここに迷い込んだことがあった。どこかから逃げてきたようだが、詳しいことは分からずじまいだった。病に冒されていると言っていた通りその時にはすでに衰弱していて私達に助けを求めたものの傷を癒してやる前に絶命してしまった。女が残した言葉から分かったのは抱えていた赤子が三歳であることと、名前がカノンということだけだった。私達は積極的に人間に関わろうとは思わない。しかし、なぜか息絶える姿を見て情が湧いた。罪無き赤子を見殺しにしてもいいものだろうかと思い、せめて死んでしまわないようにしてやった。当然ながら私達に人間を育てる術などありはしない。ただ食べるものを与え、言葉を教え、力を与えただけだ。時が流れ物心が付いてからもあの子はここで暮らした。ドラゴンである我々を仲間と呼び、私を母だと信じて疑わずに育っていった。そうなった経緯や事情を話して聞かせた後もそれは変わらなかった。それゆえに他の人間を知らず、人との接し方も知らない。あれはそういう子だ』
「なるほど……」
カノンが年相応とは言えない言動を取ったり人と接することを嫌がる理由を今ようやく理解した。
ようするに、物心付く前からこの人達(人じゃないけど)に育てられた、と。そういうことのようだ。
『だからこそ本来の人間としての生き方を学ばせるために他の人間と共に生活させることにした。カノンという名前だけではままならぬだろうとこの大きな山の名前を取ってバルディゴと名乗るように教えた。結果はこうして上手くいかなかったようだが、一度で上手くいくとも思っていない。どうにか大人になるまでにはと思っていたせいか、人間の寿命が短いことを理由に少し無理を強いてしまったのかもしれないと考えなかったわけでもないが……どうあれ君には世話になった。大したもてなしも出来ないが、ゆっくりしていくといい』
「いえ、それがそういうわけにも行かなくて……」
『どういうことかな?』
「僕は今ちょっとした事情があって抗争の渦中にいるんです。その中で魔王軍に拉致されてしまいまして、どうにか戻ってこれたんですけど早く仲間達のところに帰らないといけなくて……僕が居ない間にも仲間達や同じ陣営にいる人達はみんなはまだ戦っていますし、とても迷惑や心配を掛けてしまっていて」
『そうであったか、君に寄り道をさせたのはあの子だ。責任を持って君の望む場所に送り届けさせよう。人間の方法よりは何倍も早く帰れるはずだ』
「いいんですか? お言葉に甘えていいなら、それはとても助かります」
いつの間にか、恐怖という感情が無くなりつつあることに気付いた。
それは事情を聞いて妃龍さんをカノンの親として認識しようとしていることもそうだし、あちらが対等に話をしようとしてくれているからなのだろう。
『君はそんな中でも倒れているカノンを見捨てずに送り届けてくれた。そのぐらいはさせてもらわねば仮にもあの子に親と呼ばれる者として面目が立たないというものだ。すぐに発つならそうさせよう』
「いえ、カノンが戻ってきてからにします。黙って居なくなってしまうときっと悲しむと思うので」
『どこまでも優しい子だ。私個人からの礼として血でも分けてやりたいところだが、幸いにも呪いを受けていない君には不要なものか』
「血……ですか?」
というか、それが呪われてないこととどういう関係があるんだろう。
『その様子では知らぬようだ。昨今の人間にとってはそういうものとなってしまっているのか』
「どうでしょう、僕が無知なだけである可能性の方が高い気もしますけど」
『古くから龍の血というのは多くの者が追い求める貴重なものであった。どんな魔法や薬草よりも強い解呪の作用があるからだ。特に私の血ともなれば大抵の呪いは消し去ることが出来るだろう。君自身の体に必要なくとも欲するならば分け与えることは厭わないが、どうかね』
「いえ、あなたに痛みが伴うようなお礼を気軽にいただくわけにもいかないので」
呪いと言われてもよく分からないけど、呪い師とかいう敵もいるので貰っていった方がいいのだろうか。
と、一瞬迷ったが、その価値を知らない僕が気安く血を下さいというわけにもいかないし、グロい話だが液体として貰ってもそれを液体のまま持って帰る手段もないので遠慮しておくことにした。
そもそも送ってもらえるだけで望外の恩恵を受けているのでこれ以上お礼なんて受け取れないということをやんわり伝えようとするも、その前に話が切り替わってしまう。
『では、私の龍鱗を授けよう』
「……りゅうりん?」
『我々ドラゴンの身体一つに一枚しか存在しない特殊な鱗のことだ。我らはそれを身に備えているだけで、他の生物にとっては体内に取り込むことで強力な効果耐性を得ることが出来る』
「効果耐性、ですか」
意味はよく分からない。が、なんとなく凄いことなんだろうなということは理解した。
『特殊な魔法の影響を軽減することが出来る体質をそのように呼ぶ。操られたり眠らされたりといった攻撃魔法や回復魔法以外の魔法に対して効力を発揮するものだ。本来人間には備わっているものでもなければ鍛錬で身に付くものでもない。血と同じく私の龍鱗ならば他の何よりも大きな効果を得ることが出来るだろう。これはドラゴンである私が見せることの出来る最大限の誠意だ。どうか要らぬとは言わないで欲しい』
「でも、それをいただいてしまうとあなたの効果耐性? というが失われてしまうのでは?」
『心配には及ばない。元よりドラゴンの身体は余程強大なものでもない限り魔法を受け付けぬ。龍鱗の有無に関わらずこの血によってその類の魔法に対しても他のどんな生物よりも強い耐性を生まれながらに持っている』
遠回しに遠慮したつもりだったが、そう言われては要りませんと言えるはずもない。
最大限の誠意だと先に言われてしまった以上は断ることこそが逆に失礼に当たってしまうのは僕にも分かるし、いよいよ血も含め得体が知れない物を貰うことを回避しようとする道は封じられたらしい。
すぐに『手を出しなさい』と言われ、その通りに差し出した手に落とされたのは文字通り白い鱗だった。
大きめの飴玉ぐらいのサイズの薄い鱗だ。
妃龍さんはこれを飲み込めと言うが、どう考えても頭も体もすんなりとそれを受け入れてはくれない。
いやぁ……これを飲めと、そう仰るのですか。普通に怖いんですけど。
当然ながらそんな感想を抱くものの、いつまでも手のひらに乗っかったそれを眺めたまま固まっていることで不安や拒絶感を抱いていることを悟られてしまっては別の意味で身の危険を生みかねないので腹を括るしかない。
ふぅ、と一つ息を吐き、意を決して口の中に放り込む。
食道から胃に掛けて飲み込んだ鱗がどこを通っているのかが分かってしまうサイズの固形物の丸飲みに若干苦しんだが、どうにか腹に収まった。
特に体に異変は感じられない。
龍の鱗を食べるという僕のスペックの限界値を軽々超える度胸を発揮したのだ。
間違ってもそれ相応の見返りなんて求めないので純粋に「特に何もありませんでした」という結果だけを欲して止まない僕だった。
その後は雑談というか報告というか、カノンとの旅の話などを聞かれたりしつつ少しした頃にそのカノンが戻ってきたことで会話が途切れる。
いくらドラゴンさんとはいえ一応は親御さんなのだ。一緒にお風呂に入った話は当然伏せておいた。
確実に僕が去った後にバレそうだけど、日本で女子中学生の親を相手に男子高校生がそんなことを言えば間違いなく張り倒されるので当然の防衛本能である。
自分よりも百倍大きなドラゴンに張り倒されようものなら確実に死んでしまうので許してください。
そんな誰に対してかも分からない言い訳はさておき、いい加減驚き飽きたというか驚き慣れたというか、そんな状態に陥っていると勝手に思い込んでいた僕だったが、てくてくとこちらに歩いてくるカノンの姿に僕はもう驚くための言葉もなかった。
カノンは肩に担ぐ様に片手で太く長い丸太を持っていて、その先の方には熊ぐらいのサイズがある猪が突き刺さっている。
「コウヘイ! 肉捕ってきたぞ!」
「うん……ありがとうね」
よもや肉を『取ってくる』というのが『捕ってくる』という意味だったとは思いもよらず、そんな大きさの猪を狩ってくること自体もそうだが、それを丸太に刺して片手で持って帰ってくることにも今日だけで何度目になろうかという驚きを通り越してドン引きするしかない感じだ。
僕だって同じことばかり言いたくはないけど……ほんとどうなってんのって、その小さな体は。ドラゴンに育てられたらそういう風になるものなの?
「母上、火!」
ドスンと、カノンは丸太を地面に突き刺したかと思うと妃龍さんを見上げる。
すると妃龍さんはボワン! という音と共に口から火を吹き、一瞬にして串刺し状態の猪を丸焼きにしてしまった。
そういう方法でやるなら先に説明しておいてくださいよ……普通にビクってなったよ!
と、心の中でだけツッコみつつ、楽しそうな顔をしてほとんど鉈の様な大きな刃物でケバブ用の肉の塊みたいになっている焼けた猪を切り分けては積極的に僕に食べさせてくるカノンと並んで地面に座り僕にとっては遅めの昼食の時間を過ごす。
食の細い僕の胃袋はすぐに満腹になり、結局はカノンが何キロじゃ済まない量の肉をほとんど平らげてしまうのだからもうこの場で驚くのはやめにしよう。そろそろ身が持たない。
食事の最中は終始無邪気な表情で、寄り添いながら甘えてくるカノンは上機嫌だったが妃龍さんからあれこれと質問をされているうちに若干拗ねてしまっていた。
要するに数年前にここを離れてからのことを説明させられているからなわけだけど、例の意地悪な人達に追い出されてから帰る方法が分からず数年も放浪していたという事実や喧嘩したりしていたことに対して叱責が入ってしまったのである。
「母上が誰かの手下になれって言ったんだ」
『そういう意味ではない。お前は人間界というものを知らない、それゆえに誰かの傍でそれを学びながら生きてみなさいと言ったのだ。付いていく人間を間違えれば生き方を間違える、だからこそ信頼するに足る誰かを見つけ、共に居たいと思える者と暮らしていくこと、それをしようとすること、それらを自分なりに成し遂げてみなさいという意味だと何度も説明しただろう』
「じゃあコウヘイと一緒がいい! おれはコウヘイの物になる!」
「カノン、女の子がそういうこと言っちゃ駄目だってば」
しばらく黙って聞いていたが、不意に自分の名前が出てきたので咄嗟に口を挟んでいた。
言う前から予想していたとはいえ、案の定カノンは首を傾げるだけだ。
「どうしてだ?」
「もっと自分を大切にしないと駄目だよってこと。カノンと僕は……まあ、付き合いは短いけど友達みたいなものだと思ってる」
「うん」
「だから僕の物になるとか、来る途中でも言ってたけど手下になるとか、そういうのは駄目だよ。それに、慕ってくれるのは嬉しいけど最初に言った通り僕はちょっとやらないといけないことがあるからすぐに戻らないといけないんだ。さっき言った通り普段はグランフェルト王国に居ることが多いから、いつか遊びにおいで」
「じゃあ、コウヘイがやらないといけないことが終わったら会いに行ってもいいか?」
「うん、勿論」
確実に居ないことの方が多いけど。
と言ってしまうと話が拗れそうなので敢えてここでは口にしないでおこう。
『カノン、名残惜しく思う気持ちは分かるがコウヘイを引き留め続けるわけにもいかない。その日を楽しみにしておきなさい』
「分かった! じゃあおっさん呼んでくる!」
「……おっさん?」
「船の時に言った、自分のこと『おれ』って言う近所のおっさんだ」
「ああ、なるほど」
例のカノンに悪影響を与えた人か。
この子が強そうと言うぐらいだから余程の屈強な人なんだろうなぁ、と思いながら駆け出していくその背を見送る。
やがて戻ってきたカノンが連れてきたのは、妃龍さんの半分ぐらいの大きさの緑色のドラゴンだった。
「…………」
『カノンの口振りでは分からないのも無理はないが、このドラゴンバレーにカノン以外の人間は暮らしていない』
近所のおっさんもドラゴンなのかよ!
と思う心の内が表情に出ていたのか、妃龍さんがそんなフォローをしてくれていた。
驚くのは止めると決めたばかりなのに、全然普通に余裕で無理でした。
そりゃそうだ。
おっさんかそうでないのかどころか、雄なのか雌なのかも見た目から全く判別不可能なのだ。
おっさんをつれてくる、と言われてこれが連れられてくるだなんて予想の範疇に含まれているはずがない。
「コウヘイ、これあげる!」
ほとんど固まったまま、ギロリと見下ろされたのをきっかけにおっさんのドラゴンに恐る恐る会釈を返していると、カノンが僕の手を取った。
何かを握らされた感触がして視線を下ろしてみると、右手には手のひらサイズのハンドベルが持たされている。
金色に光り輝く、とても綺麗なベルだ。
「これは?」
「ドラゴンベルっていってな、どれだけ離れててもこの辺にいるドラゴンの耳には届く音を出すんだ。もしコウヘイが困ったことがあったら鳴らしてくれればおれが飛んでいくから持ってて欲しいんだ」
『カノン、それを渡してしまってもいいのだな。お前にとってそれだけの恩義がある、と』
「うん、これがあればコウヘイのところにいつでも駆け付けられるからな」
そんな親子の遣り取りを聞くに、とても貴重な物なのだろう。
鶴の恩返しならぬ龍の恩返しにしては肉に鱗にベルにと受け取り過ぎな気もするが、気軽に受け取ってしまっていいんですか? という意味を込めて妃龍さんを見てみるも、
『心配せずともカノンがそれでいいと言うならば口を挟むつもりはない。君はそれだけカノンにとって大事な人間となったということ、それは私にとっても良いことだ』
と、言うだけだった。
「ありがとうカノン。大事に持っておくよ」
そう言えば、シオンさんに貰った手鏡の存在忘れてたな。
「じゃあそろそろ行くね。妃龍さんの前で僕が言うことじゃないかもしれないけど、あんまり簡単に喧嘩とかしないようにね。あとは元気でいて」
「うんっ、ほんとにありがとな!」
元気一杯の返事と共にカノンに抱き付かれ、別れの挨拶を終える。
そして。
『乗れ』
と言われるがままに緑色のドラゴンの背に乗ると、手を振るカノンに同じく手を振り返しているうちに羽ばたくドラゴンは浮き上がり、やがて空高く舞っていくのだった。