【第十四章】 同盟崩壊
太陽が空を赤く染めている。
程良く風が流れ、サントゥアリオの広大な大地には夕暮れ時特有の陽気が漂っていた。
排他主義の象徴であるグリーナ地方もそれは変わらず、森や山が大部分を占める隔絶された辺境の地も同じく穏やかな気候に覆われている。
そんなグリーナ地方の深い森の奥にある帝国騎士団本部となる石造りの砦は屋外とは打って変わって重苦しい空気に包まれていた。
王都の襲撃。
そして七つの主要都市を巡る戦い。
その両方において大敗を喫し、帝国騎士団結成以来最大の壊滅的な代償を払うこととなった。
砦に戻ることが出来た団員は五十二名。
最盛期には三百人を超えていた団員の大半が命を落とすか敵に捕らえているかという状況が数や戦力という意味のみならず残る団員達に甚大な精神的ダメージを与えていた。
生き延びた戦士のほとんどが今現在治療を受け少しでも傷を癒そうとしている。
特別大きな傷を負っていないクリストフは一足先に砦に戻っていた幹部勢を晩餐室に集めていた。
常に最前線で武を振ってきた隊長、副隊長の肩書きを持つ戦士達。
かつて一番隊隊長であり団長であるクリストフを始め五番隊までの隊長が合わせて五人、そして二番隊、三番隊、五番隊の副隊長を含めると八人居た最強の武闘派集団の主戦力は今や半数にまで減っている。
都市から戻った二人の隊長と一人の副隊長。
レイヴァースは相当な深手を負い、ブラックに至っては左足の足首から先が無くなってしまっている。
ユリウスは特に大きな傷を負ってはいなかったが、沈痛な様相でただ一言『都市は奴らの手に落ちた』という報告をした。
クリストフの説明に始まり、レイヴァース、ブラック、ユリウスがそれぞれ報告を終えると途端にレイヴァースがユリウスへと食って掛かる。
一見すると普段と変わらぬ光景であったがそこに皮肉や軽蔑の意図はなく、本気の怒りがユリウスへと向けられていた。
治癒魔法を受けて尚体中に傷を残し、至る所に巻いた包帯から血を滲ませているレイヴァースは一人無傷のまま戻ってきたことが我慢ならない。
言葉を返すことなく無視を決め込むユリウスを罵倒し続けるレイヴァースをどうにか止めると、クリストフは静かに切り出した。
「俺の判断が甘かった、と言う他にない。感情に身を任せてしまった俺の落ち度だ。無事、とは言えないのだろうが、お前達が戻ってくれてよかった。しかし……これだけの痛手を負い、魔王軍を戦力に計算出来ないとなればすぐに戦線に復帰出来る状態ではない」
「私は大丈夫です! まだ戦える、最後まで戦場に立ってみせます。このままで終われましょうか!!」
一度は腰を下ろしたレイヴァースはすぐに立ち上がり、テーブルに拳を叩き付ける。
釣られる様にして正面に座っているブラックも立ち上がった。
「おいらも同じだ! 義足も着けさせた、ここまで来て痛いだ苦しいだ言ってられるかよ! まだ死んじゃいねえ……まだ終わっちゃいねえ」
声を荒げる二人の姿にクリストフは深刻な表情のまま目を閉じ、一度大きく息を吐くと対照的に静かに言葉を返した。
「お前達がそうであっても、同志達のダメージも大きい。肉体的なものだけではなく、精神的な部分でもだ。今後どういった方針を取るのか、それを決める上でも残った者全ての状態や意志を確認せねばなるまい。それを踏まえても今日明日のうちに行動しようとすることは得策ではない」
宥める様な言葉に、二人は目を逸らし悔しげに俯くことしか出来ない。
冷静な判断とも言えるクリストフのそれらの判断が何を意味しているのかを理解していないはずがなかった。
戦いを続けるのか否か。ではなく、戦いを続けることが出来るのか否か。
そういう状況であることは疑いようがない程の壊滅的な状態なのだ。
敢えて遠回しな表現を使ったのは自分だけは弱気な姿を見せるべきではないという団長としての最後の矜持。
そして何よりも、どういう決定を下すとしても先にしておかなければならないことがあった。そういう理由だ。
多くの仲間を失い、何処を取っても一方的な敗戦となった二面作戦に絶望を感じている団員は少なくない。
もしも彼らに戦線に復帰する気力が無いと告げられたならばクリストフは無理を強いるつもりはなく、それを受け入れるつもりでいる。
ただそれでも、レイヴァースやブラックと同じく最後の一人になったとしても諦めることも負けを認めることもしないと、そう思って戦ってきた。
今一度歴史を塗り替える。
そのために必要なものは純粋な武力を置いて他にはない。
そんな若き時分から貫いてきた主義主張は団員達の、或いはグリーナに暮らす民達の強い帰属意識によってより血で血を洗う修羅の道を突き進む原動力となっていた。
己が成し遂げると誓った革命。
それは失ったものを取り戻すため。生きた証を残し、未来を手に入れるための戦いだ。
その戦いの中で背負い続けてきた様々な思いは今、初めて突き付けられた現実的な敗北の二文字によって迷いが芽生えつつあった。
この国の民の多くにとって、薄緑色の瞳を持つ者の存在など家畜と大差ない。
この国の民の多くにとって、ピオネロ民族の血を引く者の命などゴミと変わらない。
復讐や敵討ちを掲げ、誇りと意地を示す戦いであると銘打ってはいるが大本を正せば人としての尊厳と生きる権利を得るために結成された組織だった。
運命に抗おうと同志達は立ち上がったのではなかったのか。
生きる場所も、生きる権利も、生きる方法も奪われ、ただ血が絶える時が来るのを待つぐらいならば戦って散るが本望だと武器を取ったのではなかったのか。
減りに減り、組織としての存続が危ぶまれる状況に陥ったことでクリストフの頭には過去の記憶が蘇る。
「まずはカルマを問い質す。俺が誤った選択をしてしまったということも勿論あるが、こうなった原因は奴らにもある。本人から納得のいく説明があるのかどうか、それをはっきりさせねば今後の方針も出すことも出来ない」
クリストフが語気鋭く言い放つその言葉が指すのは当然のこと魔王軍のことだ。
合流して王都を攻めるという計画に同意したにも関わらず、誰一人として現れなかった。
大国の戦力を集め、人間界そのものの戦力を一気に削ぐための環境を整える。
同盟を持ちかけられた際に条件の一つとして持ち出したのは他ならぬ魔王軍側なのだ。
帝国騎士団にとってその同盟は冥王龍を差し出させるためだけではなく、戦力差を埋めることに加え、血統柄欠如している魔法という力を得るという意味がある。
肝心な最終局面を前にした戦いで取引きを反故にし、そのせいで甚大な被害を負った。
それだけではなく、どういうわけか移動に用いていた魔法陣が消えていたため帰還までに長い時間を必要とし、余計な体力と時間を使うことを強いられた。
報告によれば主要都市での戦いには姿を現わしたようだが、それで許容出来る問題ではない。
どういうつもりなのか。
どういう理由があるのか。
それを明らかにしなければ先には進めないと強く憤る気持ちがクリストフの言葉尻には表れていた。
「先程カルマを呼び出した。直接会う気はあるようだが、どういう腹積もりでいるのなど分かったものではない。ふざけた言い訳をしようものならその時は同盟関係も終わりだ。フレデリック、同行してくれるか」
一人離れた位置に座るユリウスに目をやる。
どちらにとっても目的のために互いを利用し合う以上の意味がない同盟関係だ。
どこまで利用するか。どこで切り捨てるか。
それを探っているのが自分達だけではないことぐらい百も承知でいた。
だが。
魔獣神の復活。
そして各大国の戦力を相手取った戦いでの勝利。
少なくともそれら魔王軍の目的が果たされるまでは袂を分かつ理由は無いと思っていた。
クリストフにとっても、この戦争での勝利は最低条件だったのだ。
断定的なことを述べられる段階ではないにせよ、その半ばで共闘という手段を捨てようとしているならばそれは想定外だと言えた。
仮に魔王カルマにそのつもりが無く、何らかのトラブルの結果であったとしてもこれだけの被害状況となった以上は無条件に許容することなど出来ない。
そういった理由もあり直接問い質すことを決めたクリストフだったが、問い掛けた先に居るのはこの場でただ一人その意志に同調する気がない人物だった。
ユリウスは魔王軍との同盟はおろかこの戦争を継続する理由すらも見失っている。
今尚この国に対する恨みは薄れていないが、この先の戦いに加わることはないと密かに決断を下しつつある状態だ。
今この場でそれを告げようとは思っていないユリウスはクリストフを見ようともせずに同行を拒否しようとするが、『断る』と口にしかけた時、一つの声がそれを遮った。
「私が行きます。こんな奴に任せておけません」
レイヴァースがギロリとユリウスを睨み付ける。
クリストフ以上に魔王軍に対する強い怒りを抱き、敗走せざるを得なかった自分への苛立ちやユリウスへの不信感も相俟って感情は乱れ、荒ぶっていた。
「奴らの返答如何では決裂もあり得る。その傷では何かあった場合に……」
「体の痛みなどどうということはありません! 王都で倒れた同志の中には私の部下も多数いたのです。このままではあまりに報われない……納得のいく説明が為されなければ引き下がれませぬ」
「分かった……ではラミアスに同行してもらう。フレデリックとブラックは待機していてくれ」
しばしの黙考を経て、クリストフはレイヴァースの申し出を受け入れる。
そのあまりの剣幕にこうなっては説き伏せることは難しいと悟り、それ以上に自分と同じく仲間を思って震える程の怒りを露わにする姿に我慢を強いることが出来なかった。
ブラックが渋々ながら了承の返事を返すと、ユリウスは無言で立ち上がり晩餐室を後にしようと背を向け歩き出す。
伸ばした手が扉に触れる寸前で背後からの声がその動きを止めた。
「フレデリック」
背中越しに聞こえるクリストフの声に、ユリウスは振り返ることも言葉を返すこともせずに続きを待つ。
「苛立つのは当然だが、今ばかりは勝手な行動は慎んでくれ。くれぐれも暴走はするな」
「わざわざ釘を刺さずともそのつもりはない」
「ならばいい……が、もう一つ。ルイーザは王都に現れなかった、どこで何をしている」
「言ったはずだ、あいつは先に逝った。既に殺されているのだからこの世のどこかに居るはずもないだろう」
首から上だけを後ろに向け、皮肉めいた口調でそう言い残すとユリウスは鉄仮面越しにレイヴァースを睨み付け、そのまま晩餐室を出て行った。
今になって初めてアリフレートの死を知ったクリストフは驚きに目を見開いたかと思うと、行き場のない悲憤の気持ちから悔しげに表情を歪める。
似た様な反応を見せるブラックにとっても、睨まれたレイヴァースにとっても衝撃的な知らせであったことは変わらない。
「ルイーザまでもが……この世を去ったというのか」
扉の向こうに消えていくユリウスの居た方向を見たまま呟いた言葉には嘆き、憤る胸懐がはっきりと表れていた。
握られた拳に込められた力によって震える腕が行き場のない感情を体現している。
「団長……」
レイヴァースの悲愴な声が静かな室内に響く。
明かりが十分ではない薄暗い環境が重苦しい雰囲気を具現化しているかの様な嫌な空気が漂ったが、それに気付いたクリストフが視線を戻したところで二人も表情を引き締め直した。
狂気を取り戻した決意じみた団長の目が喪失しつつある闘争心を呼び戻させた、そんな感覚が二人がそれぞれ口にした『このままでは終われない』という意志を再燃させる。
「すぐに出発するぞ。戻り次第今後の方針を決める必要がある、ブラックは今一度回復魔法を受けておいてくれ。さすがにその足で痛みが残ったままでは厳しいものがあるだろう」
言葉無く頷いたブラックを確認すると、クリストフは晩餐室を後にする。
すぐに残る二人も後に続いた。
冷静さを取り戻したように見えて未だ迷いの残る心。
その狂気、その殺意が何に向けられているのかはクリストフ自身も自覚してはいない。
かつてない騎士団壊滅の危機が意味を同じくして同族の絶滅へと繋がるとするならば、果たしてそれを受け入れる覚悟は結成以来常に心に宿っていた個人の生き死にや大国に戦いを挑むことへの覚悟に含まれていただろうかと、何度も何度も過去の自分へと問い掛けた。
ゲルトラウトの死によって失うものなど何もないと突き進むことを決めたブラック。
救いも希望もない半生からの脱却によって全ての力と時間を同じ瞳を持つ者達の未来と栄光のために使おうと決めたレイヴァース。
命以外の全てを失った過去の絶望から復讐のためだけに生きてきたユリウス。
それぞれが目的のためならば命も惜しまず、恐れるものなど何も無いと戦い続けてきて、戦い続けるつもりでいる。
戦いを続けることで得られる物と失う可能性のある物の天秤が大きく変わってしまったことが自ら作り上げた道標を覆い隠し、その誰とも違う迷いの中にクリストフを誘っていた。
他者に答えを求めることが出来たなら、そうでなくとも対等に語らえる誰かがいたならば、何かが変わっていただろうか。
絶対的な指導者であるがゆえに生じる当惑を胸に、クリストフはカルマの待つ場所へと馬を走らせた。
その迷いがこの後、さらなる悪循環を招いてしまうと知らないままに。
○
砦を離れ真っ直ぐに目的地に向かうことしばらく、二人は半刻と経たずに山の中を駆けていた。
グリーナのすぐ傍にある、クリストフが魔王軍と密会する際に使っている大きな山だ。
お世辞にも馬での移動に適しているとは言えない、道も無く木々生い茂る見通しの悪い山頂までのしばらくの移動を経て到着した先には既に一人の男の姿があった。
一族特有の緑色の長髪と王の風格漂う高貴さと凛々ししさの入り交じった風貌や銀色のマントが異様なまでに様になっており、いつだって変わらない不敵な表情をしているその男こそが魔王軍の頂点に立つ血族の一人、魔王カルマである。
一見するとクリストフとそう変わらない青年であるが、魔族であるカルマは齢百五十を超えている。
寿命の差、種族の違い、理由は数あれ間違っても人間相手に敬意を表することなどないカルマはクリストフとレイヴァースが目の前で馬から飛び降りると同時に嘲笑混じりに皮肉を投げ掛けた。
「一方的に呼び出しておいて随分と遅いご到着なことだ。前回もそうだったと記憶しているが、寿命の短さの割に悠長な生物だな人間というのは」
その小馬鹿にした様な笑みと言葉に対し、正面に立ち向かい合った二人は一切表情を緩めない。
クリストフは鋭い目付きで視線を返し、レイヴァースに至っては嫌悪感を隠そうともしない憎々しげな表情で睨み付けている。
その第一声が皮肉でなかったとしても思い付く限り罵倒したいのを抑え、どうにか無言を保っている状態だった。
道中、『話は俺がする、口出しはするな』とクリストフに命じられていなければ迷わず斬り掛かっているところだ、とレイヴァースはどうにか衝動を抑え込み舌打ちを返すに留める。それほどまでに深い怒りが湧き上がっていた。
「すぐに動ける状態ではなかったのでな。お前達が王都に現れなかったおかげで我々の被害は甚大だ。都市も全てが敵の手に戻った、もはや戦況は覆されたと言っても過言ではない。我々が時間を掛けて築き上げた計画全てが水泡に帰すことになりかねないのだ。納得のいく説明をしてもらおう、カルマ」
皮肉を無視し、同じだけの怒りを抱きながらもクリストフはどうにか冷静に言葉を返す。
カルマはやれやれと、呆れた様に首を振った。
冗談の通じない奴だ。
そう言わんばかりの仕草が二人の神経を逆撫でしたことを自覚しながらも至極普通に、まるで世間話の続きであるが如く何気ない口調を変えることなくそれに答える。
「被害が大きいのはお互い様というものだろう。こちらもバジュラ、マグマという貴重な戦力を失っている。下らぬ遊びに付き合った代償としてはむしろ割に合わないのはこちらだと思うが?」
「……下らぬ遊び、だと?」
その言葉を聞いて初めて魔法陣が無くなっていた理由を理解したクリストフだったが、聞き捨てならない一言が付け加えられたことでそれを追求することへの感心が一瞬にして移り変わる。
「そう、下らぬ遊びだ。人間同士の戦争など俺にとっては何の関係も無い、何の価値も無い。だが、人間共を侮ったがゆえに我が父も、その父も敗れてきたのだ。俺は同じ道を辿るつもりはない。我ら魔族の一時代を築くために必要なものは絶対的な力と策略。そのために同盟を持ち掛けたに過ぎぬ。間違ってもお前達を戦力として必要としていたからではない。邪神を蘇らせ、天鳳を人間共と争わせている間に態勢を整える。あわよくばお前達が殺し合うことで楽をさせてもらえるかもしれぬと少しは期待していたのだが、聞く限りでは敵軍にはほとんど被害は無いのだろう。ならばこれ以上用済みの雑魚に構っている暇などない。お前達の利用価値など、その程度でしかないと知れ」
「安い挑発はやめておけ……首が飛ぶことになるぞ」
クリストフの声が急激に低くなった。
怒りと殺意に満ちた細められた目がカルマを捕らえて離さない。
しかしそれでも、カルマは高らかに笑うだけだった。
「はっはっはっは、挑発や冗談とでも取らなければ遣りきれないか。今のお前達にはお似合いの哀れな負け犬思考だと納得せざるを得ないところだが、残念ながらそのどちらでもない。この国には滅んでもらう、それが我が覇道の第一歩となるのだ」
「それは我々の目的を分かっている上での発言だと思っていいのだな」
魔王軍との協力関係を結んだ際、帝国騎士団側の出した条件は『敵軍の殲滅に協力すること』そして『戦争の先に見るサントゥアリオという国を手に入れるという目的を妨げないこと』という二点だ。
既に一つめの条件を蔑ろにされているばかりではなく、後者をも守るつもりはないと言っているカルマの言っていることはもはや決別宣言と変わらない。
それが理解出来ないはずもなく、それでいてクリストフは侮蔑の言葉をぎりぎりで飲み込んでいた。
帝国騎士団とて王都陥落を成した後には同盟を一方的に破棄し、目的を最優先とするつもりでいたのだ。
いずれそうなることも、相手にもそのつもりがあることも最初から分かっていたことだ。
どちらが先に動いたか。
それだけのことでしかない以上、その言葉は見通しが甘く先見の識が無かったと認める発言に他ならない。
だからこそクリストフはその決別の宣言の意図を問う。
『この戦争から手を引く』という意味なのか、はたまた『帝国騎士団をも敵と見なす』と言っているのか。
いずれにしても納得して引き下がるという選択肢などあるはずもないが、その答えが帝国騎士団にとって今後の行動を、或いはクリストフ個人の今この場における次なる行動を左右することは考えるまでもなかった。
「言ったはずだ、お前達の目的など知ったことではない。始めから消し去る予定だったのだ。この国も、人間共の連合軍も、お前達も……全て纏めてな」
カルマの表情から余裕ぶった笑みが消え、静かな口調と凄惨な笑みへと変わる。
同盟成立時に結んだ取引きには帝国騎士団がこのサントゥアリオ共和国を手に入れるための協力が含まれていたが、それを持ち出す意味が無いことが分からない程クリストフは愚かではない。
両者の間に出た一つの結論が示すのは、もはや問答は不要だということだった。
「それはつまり、我々との敵対宣言と取っていいのだな」
クリストフは背中からノコギリ刀を抜き、その先をカルマへと向ける。
もはや取引きやここに至るまでの過程が駆け引きの材料にならないことは明白だった。
「人間界を滅ぼし、俺がこの世の全てを支配する。お前達よりも遙かに長い時間を掛けて準備を整えたのはその時を迎えるために他ならない。必要な物を手に入れ、不要なものは排除する。それが大望を果たす何よりも重要な要素だ。今のお前達がどちらに該当するか、敢えて説明する必要もないだろう」
その言葉が途切れると同時にカルマの全身に魔力が帯び始めていた。
例えどんな返答であっても即座に攻撃を仕掛けるつもりでいたクリストフだったが、目の前の異様な光景に思い掛けず初動が止まる。
カルマの背中から赤い触手の様な糸状の何かが無数に現れたかと思うと、鞭ほどの太さ長さを持つそれはそれぞれが虫や蛇を連想させる気味の悪い蠢きを見せていた。
背中から生えているのか、背中に埋め込まれているのか、見るからに普通ならざる奇怪な姿が不用意な仕掛けを思い留まらせる。
「ベジェクト。我が魔力で改良した淵界最強の捕食植物だ」
警戒心を露わにする二人の姿を見て、どこか得意げに言ったカルマ自身は腕を組み立ったままで動く気配はない。
しかし次の瞬間、十本ある触手の全てがクリストフに向かって勢いよく伸びた。
クリストフはすぐに刀を振り抜き、同じ数の爆砲を放つことで迎撃を試みるが、接触と同時に爆発を起こすはずの爆砲は触手に触れると同時に全てが消滅する。
なぜ爆発が起きないのか。
なぜ一瞬にして消えて無くなったのか。
それらを考える暇もなく、先端が鋭利に尖り刺胞と化した十の触手がクリストフに襲い掛かっていく。
能力が通用しないと仮定するならば刀一本で目の前に迫る全ての攻撃に対抗する術はなく、それでもクリストフはどうにか対処しようと咄嗟に構えた。
多様な角度からの触手を防ぎ躱しきる方法を思考する時間的余裕はない。
ならば考えるべきは少しでもダメージを少なくすることを優先し、かつ返す刀で本体であるカルマに渾身の一撃を見舞う手段であり、そのためにある程度の傷を負う覚悟を決めること。
砦を出る前の精神状態を引き摺りつつある中でのカルマの言葉の数々に冷静さを欠き、闘争心が勝ってしまっているがゆえにそんな判断をしたクリストフだったが、それを行動に移そうとする瞬間目の前に立ち塞がったのはレイヴァースだった。
二人の力を持ってして無傷でやり過ごすことが困難である状況。
爆砲を滅してしまう赤い触手を直接体に受けることで『刺されることによって負う傷』以外の影響がある可能性に気付いているのはレイヴァースだけだというわけではなかったが、それを承知でカルマを攻撃することを選んだクリストフを黙って見守ることなど出来なかった。
「させるかっ!」
レイヴァースはクリストフの前に飛び出ると、【毒棘刃鞭】に姿を変えた武器を振り抜いた。
鞭状の連結剣は迫り来る触手の三本を弾き返したが、間髪入れずに残る七本が真っ直ぐにその体を貫いていく。
躱そうとする素振りもなく、悔いる様子もなく、レイヴァースは甘んじてそれを受け入れていた。
最初からそのつもりであったかのように。
両手を大きく広げ、体全てを使ってクリストフを守ろうとするかのように。
「ラミアスっ!」
ノコギリ刀を振りかざしたまま背後から部下の名を呼ぶ声が辺りに響く。
共に砦に戻ったままの格好で出て来てしまったせいで鎧を身に着けていない迂闊さが災いしたのだと、目の前の部下の姿を見て初めて気が付いた。
呼び掛けも虚しく七本の触手全てがレイヴァースを貫通している。
左右の太腿に一本ずつ。
左腕に一本。
腹に二本。
そして右肩と胸に一本ずつ。
情け容赦なく、血飛沫を上げて突き刺さった触手が倒れることすらも許さず見るからに全身から力が抜けたレイヴァースの動きを止めていた。
苦しげな声を漏らし、右手に握っていたフラムベルグが手を離れたところで乱暴に触手が抜き取られる。
力無く崩れ落ちるレイヴァースをクリストフが慌てて受け止めたのを見て、カルマはもう一度高らかに笑った。
「人間など所詮はその程度だ。戦力にもならん愚か者共に変わりはないが、邪神復活への貢献に免じてこの場は見逃してやる。国を出るなり隠れるなりすることをお勧めするとだけ言っておくとしよう」
言葉の最後にもう一度高らかな笑い声を二人に向け、そのままカルマは姿を消した。
立っていることも出来ずに倒れ込んだレイヴァースと、それを後ろから受け止めたクリストフだけが自然に囲まれた静かな山の中に残される。
「ラミアス、大丈夫か! すぐに連れ帰る、死ぬことは絶対に許さんぞ」
クリストフは腕に抱くレイヴァースの傷を見渡し、状態を確認していった。
幸いにして心臓を始め致命傷になる箇所からは逸れている。一つ一つの傷が深くダメージは大きいが、レイヴァース自身の意識がはっきりしていることがそれを証明していた。
「死ぬほどの傷ではありません……体の痛みなど戦場に散った同志達の無念に比べればどうということはない」
「だが……その傷ではすぐに戦いに戻ることは出来ない」
アネットとの戦いを終えた段階で既にそのレベルの傷を負っていたのだ。そこに今ここで受けた深手を加えれば戦闘が可能な状態ではないことは明らかだと言えた。
それでも、レイヴァースが痛みや傷を理由に引き下がることはない。
「何度も申しているはずです……敵を殺す矛としての役割を果たせぬならば、貴方様の盾になればよいだけのこと。例え死しても、それが我が本望です」
「もう喋るな。何と言おうと治療を受けさせる、しばらくは大人しくしていろ。やや乱暴になるかもしれんが、急ぐためだ。少し我慢してくれ」
そう言うと、クリストフはレイヴァースを抱き上げ、二本の武器を拾って一頭の馬に飛び乗るとグリーナに戻るべく全速で山を駆け下りていった。