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勇者が仲間になりたそうにこちらを見ている  作者: まる
【勇者が仲間になりたそうにこちらを見ている⑥ ~混血の戦士~】
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【第十章 その④】 都市奪還七番勝負・再 継承



 クリスティア・ユメールは凜とした表情で目の前にある城郭都市とうっすらと感じ取れるその周囲を覆う魔法陣を見つめた。

 白十字軍(ホワイト・クロス)第三分隊が主要都市セコに到着したのは昼を少し回った頃だった。

 部隊の準備にはほとんど参加せず、その間主であるラブロック・クロンヴァールに寄り添って過ごしていたユメールは完了の報告を受けるとすぐに本城を離れた。

 祖国シルクレアでは糸使いとして【天元美麗蜘蛛(アルケニー)】という二つ名で知られる腕利きの女戦士であり、女王の側近の一人としての強さや知名度はかのロスキー・セラムやもう一人の専属護衛戦士であるダニエル・ハイクと並んで抜きん出たものを持っている。

 それがクリスティア・ユメールという若き女戦士だ。

 しかし、国外における風評という意味ではその限りではない。

 理由は一つ。

 先述の二人とは違い、個としての強さを示す功績を残すことがほとんどないからだ。

 ハイクと同じく兵士団の高位を与えられることを固辞し、女王を支え、その傍らで戦うことを選んだものの、そんな肩書きなど無関係に主君の傍に居続けることに幸福を見出すばかりのユメールは戦士としての名声に興味を示すことはなく、他者と強さを競い合おうという願望を持つこともない。

 そんな中で久しく見せた戦士としての顔。

 その心にあるのはただラブロック・クロンヴァールの期待に応えることが自らの使命であるという確固たる信念だけだ。

 味方である兵士全てが離れた位置でその様子を見守っている。

 他の多くの部隊長と同じく、敵が一人である以上連携や援護は必要ではない。己が敵を倒せばそれで済む話だ。

 そんな判断の下での指示だった。

 強さを求める理由も、負けられない理由もラブロック・クロンヴァールの存在を除いて他にはない。

 それゆえにクリスティア・ユメールの信念は揺るぐことなく、どんな敵が相手であろうと臆することを知らないのだ。

「お姉様に寂しい思いをさせてはイカンです、サッサと終わらせて帰らなければ、です。いや、待てよ……です? 敢えて離れている時間を長引かせることによってクリスへの愛をより強く再認識させるという手も……」

 ユメールは一転してへらへらとしただらしのない笑顔を浮かべ、身をよじり始める。

 そのままブツブツと淫らな妄想をしながらくねくねと上半身を動かし、一人問答を続けることしばらく。

 ハッと、今ようやく自らの置かれている状況を思い出したかの様に我に返ると、二度三度首を振って表情を引き締めた。

 それによってずれた折り畳んで頭に巻いている髪を持ち上げるための白いバンダナの位置を戻し、腰から取り出した指抜きのグローブを両の手に装着すると目の前の魔法陣の中へと足を踏み入れる。

 すぐに結界が反応し、転送魔法の発動による光りの塊が浮かび上がった。

 その中から現れたのは一人の青年だ。

 ユメールと同じく鎧を身に着けていない戦装束姿の右腕に砲筒を填め込んだ細い目をした若い男が馬に跨った状態でユメールをジッと見つめていた。

 ユメールはその男の正体にすぐに気が付いた。

 連合軍として一番初めにこの国に来た時に港を襲撃した二人組のうちの一人。

 帝国騎士団五番隊副隊長、ハイアント・ブラックと名乗っていた男だ。

「その風貌……確か糸使いの女とやらでやんすか。違っていたところで関係ねえ。例えお前が誰であっても、五百人が相手だろうと千人が相手だろうと負けるわけにはいかねえ。悪いがここで死んでもらうよい」

 男は鋭い目で睨み付ける。

 それ以来顔を合わしていないことに加え、当時自分達側の人間は誰一人として名乗っていないとはいえ『お前が誰かなんて知らない』と言われたことと大差ないその口振りにユメールはカチンときた。

「馬鹿め、です。五百人や千人の心配なんぞしなくてもお前はクリス一人にすら勝てやしねえ、ですっ」

 むっとした表情で言葉を返す間にブラックは馬から飛び降りる。

 馬が安全圏まで離れていったのを視界の端で確認すると、そこでようやく二人は向かい合った。

「おいらにはゲルトラウト隊長の意志を継ぐ義務がある。例えこの国で生まれた人間じゃなかったとしても、本来の立場に反した生き方であっても、これが己で決めた己の道……団長の野望が叶うまで見届けなけりゃならねえんだよい、何があってもな」

 ゲルトラウト隊長。

 その名前もまた、ユメールにとっては聞き覚えのあるものだった。

 帝国騎士団の幹部の一人であるその男が冥王龍ボルガとの戦いで命を落としたという報告を耳にしたばかりだ。忘れるはずもない。

「生憎ですが、受け継いだ意志の重さも進むと決めた道の険しさも、こちとら負けちゃいないです。世界を背負う王に添うと決めた日から楽な道や正しい道なんぞ眼中から消し去った。ラブロック・クロンヴァールが辿った軌跡こそが道となり、ラブロック・クロンヴァールが進む先にこそ道がある。それがこの時代の在るべき姿です。お前達にどんな主張があろうと、その道に不要な物を排除するのがクリスの役目ですっ」

 鋭い眼差しと確固たる決意をぶつけ合った両者の言葉が途切れた瞬間、二人は同時に構えを取る。

 二人の距離は十メートル弱。

 中距離攻撃を仕掛けるためには仕込みが必要なユメールが先手を取れる道理はなく、その結果簡単に先制攻撃を許していた。

 ブラックは右腕の砲筒をユメールに向けると、三発の魔法弾を続け様に放つ。

 独自に攻撃に必要な魔法力を蓄えるという特殊な力を持っているブラックの武器から放たれた攻撃は手数重視である分だけ破壊力は抑えられていたが、生身の人間が食らえばただで済む程度であるはずもなく。

 真っ直ぐに飛んでいった三つの魔法力の塊は次々と標的であるユメールの付近へと着弾し大きな爆発を起こしていった。

 ブラックは反撃を封じる意味も含め、すぐに二の矢を放とうとしたが頭を過ぎった違和感が攻撃の手を止める。

 その目に映った直前のユメールの姿にどこか引っ掛かるものがあった。

 攻撃を回避しようとする動きも、防御のために何か手を打つ素振りも一切なかった。それでいて、不敵な笑みを浮かべていたのはどういうことだ。

 そんな疑念が嫌な予感へと繋がり、無闇に攻撃を続けるという戦法に歯止めを掛けていた。

 ブラックは砲筒を向けたまま爆発によって俟った砂煙が晴れていくのを待つ。

 徐々に元通りになっていく視界、その先に見えたのは小さくへこんだ地面、そしてその中心に居たはずの敵が消えた無人の風景だった。

「せっかちな奴め、です。早い男はロクなもんじゃねえぞです」

 ユメールはブラックを見下ろし、挑発的な笑みを浮かべた。

 数メートル上空に浮いた状態で。そして、無傷のままで。

「チッ……どうにも厄介な能力を持っているようでやんすね」

 ブラックはその姿を見上げ、憎々しげに表情を歪める。

 糸使いという情報しか持っていないブラックが宙に浮くという芸当が糸によって可能になっていることに気付けるはずがなかった。

 ユメールは両手に填めたグローブによって全ての指から糸を繰り出すことが出来る。

 その糸に魔力を加えることで唯一無二の三つの特性を持つ最強の武器へと成り代わる。それがユメールの戦闘能力の高さの象徴であり糸使いとしての神髄であった。

 一つは視覚では捉えにくい透明の糸へと姿を変えるという特異性。

 一つは魔法力が続く限り糸の長さを自在に変えられるという特殊性。

 そして一つは地面や壁、或いは何もない空間であっても、その糸を随意の位置に打ち付けることが出来るという異常性である。

 ユメールが宙に浮いている様に見えるのはそれら三つの特性によるものだ。

 上空に打ち付けた糸の先端を自身が立っている位置まで垂らし、井戸に用いられる滑車の如く輪になった状態の先端に足を掛けて長さを調節することで体ごと糸を引き上げ真上に回避することを可能にしている。

 先の天鳳の攻撃から主を守った際に用いた技法であり、その時との違いは重量のある天鳳の体を持ち上げるためにセラムの魔法による補助を受けていたということぐらいだ。

 透明化した糸はブラックの目には映っておらず、それゆえにユメールの右手が糸を掴んでいることにも気付いていない。その目にはただ空中に立っているかの様に姿に映っていた。

「妙な能力を持ってるのはお互い様です。なんでやがりますか、そのヘンテコな武器は」

 ブラックを見下ろす状態を維持したまま、ユメールは視線を右腕の砲筒へ向ける。

 過去に目にした時には煙幕を放っていたことを覚えていないはずもない。

 ただの砲筒であれば腕に装着する意味があるとは思えず、何か特殊な能力を持った武器に違いないという憶測が嫌でも働いた。

「こいつは【豪炎破動(バーナード・キャノン)】だ。おいらの(ゲート)は誰にも負けねえ……」

「……門?」

「これから死ぬてめえが知る必要はねえよい!」

 叫ぶ様な声と同時にブラックは正面に向けたままだった右腕を頭上のユメールへと向け、再び魔法弾を放った。

 光り輝く小さな球体が勢いよく向かっていく。

 理屈が分からなくとも空中では動きも鈍るだろうという狙いの一撃は目論見通りユメールの次なる行動を簡単に予測通りの方向へと誘った。

 ユメールは右手で掴んでいる糸を離し、地面へと着地することで攻撃を回避する。

 それを待っていたかの様に、その足が地面に着くよりも先にブラックは突進していた。

 右手の砲筒からは長さ一メートル程の刃が覗いている。

 威力の異なる二種類の魔法弾、煙幕、そして火炎放射。

 それらに続く五つの能力を持つ武器の中で主に近接戦闘に用いる直接攻撃の手段であった。

 ユメールが地に足を着けた瞬間には既にブラックは目の前に迫っている。

 高さがあったことが災いし、着地の際に膝を曲げる体勢になったユメールに己を斬り付けるべく襲い来る剣に対処するための猶予は無い。

 しかしそれでも、ユメールは再びニヤリと笑うだけだった。

「なっ!?」

 ブラックは驚愕の声を上げる。

 迷い無く振り下ろされた右腕は眼前の敵に届くことはなく、どういうわけか十数センチの距離を残してピタリと動きを止めていた。

 言葉や文字で表すならば、それはユメールが自らの体の前に張っていた複数の糸の中の一つに引っ掛かることで起きた現象に他ならない。

 しかし、視覚に映らない糸の存在を知らないブラックにそんな防御方法を予測出来るはずがなかった。

 右腕に残る何かに引っ掛かった様な感覚。

 そして一瞬目に入ったきらりと光る一筋の何か。

 それらによってブラックはようやくユメールの糸によるものなのだと頭で理解する。

「これが……糸使いの戦い方ってわけでやんすか」

「ここはもう天元美麗蜘蛛(アルケニー)の巣の中、お前に逃れる術はないということです」

 その言葉を耳にしたことで初めてブラックは右腕のみならず左足の自由も効かなくなっていることに気が付いた。

 だがそれでも。

 このままではまずい。

 そう思う気持ちと、いつまでも嘲笑われるばかりでいられるかという敵愾心が一瞬歪んだ表情をすぐに元に戻していた。

「馬鹿が……直接触れるだけが攻撃手段じゃねえよい」

「はあ?」

 いっそこのまま縛って連れて帰ってやろうかと考えていたユメールは心底理解出来ないといった顔を浮かべる。

 その油断とも言える心構えがブラックの武器を帯びる魔法力に気付くのを僅かに遅らせた。

「食らいやがれっ」

 刹那、両者の目の前が真っ赤に染まる。

 豪炎破動(バーナード・キャノン)から放たれた火炎放射が視界を埋め尽くしていた。

 静止した砲筒の先端はユメールに向いてはいなかったが、ブラックの狙いが虚仮威しに炎を噴き出すためのものであるはずもなく、広範囲に及ぶ火炎が確かにその体を捉える。

 ユメールはすぐにブラックの腕に引っ掛かっている糸、足を縛る糸の両方を緩め、後方に数度飛び退くことで距離を置いた。

 同時に左足が自由を取り戻したブラックも僅かに後退し、再び両者は数メートルの距離を置いて向かい合うかたちとなった。

 袖の無い戦装束を着ていることで露わになっているユメールの左腕には大きな火傷の跡が残っている。

「まさかそんな手を隠していたとはな、です。この自慢の肌になんてことをしやがりますですか。肌の手入れには定評のあるクリスなんだぞ、ですっ。主にお姉様だけに!」

 ユメールは不満顔を向け、回復魔法を左腕に当てる。

 重度ではなかったものの、ヒリヒリと痛む腕には確かなダメージが残されていた。

 戦士としての、そして糸使いとしての戦闘能力の高さは敵にとって予測不可能な仕掛けと多彩な技による対応力に依存している部分が大きい。

 心理や行動の読み合い、駆け引きといった頭脳戦の要素には疎く、例え豪炎破動(バーナード・キャノン)に火炎放射の能力がなくともブラックが炎系統の呪文を扱えた場合に同じ危険があったことには今尚気付いていなかった。

「ワケの分からねえことを……」

 そう言って、ブラックは三度(みたび)右腕を構えた。

 その姿に対しユメールは目を細め、不機嫌な顔を向ける。

「懲りない奴め、です。そんな的当てみたいな攻撃なんぞ当たらんといい加減学習しやがれです」

「帝国騎士団の邪魔をする奴は生かしちゃおかねえ。何も、この場でそれに該当するのはお前一人じゃないんだぜ?」

 吐き捨てる様に言うと、ブラックはユメールに向けていた砲筒を真横にずらした。

 その照準の先に居るのは背後に控えている兵士の一団だ。

「一発で五十や百は蹴散らせる威力だ……てめえら全員ここで死ぬんだよい!」

 ほとんど絶叫に近い大きな声と、それをも掻き消してしまう程の爆音が鳴り響く。

 豪炎破動が持つ能力の中では最大の攻撃力を誇る一撃性に特化した魔法弾が確かにその砲筒から発射されていた。

 しかし、その攻撃が向かう先は白十字軍第三分隊ではない。

 放出の瞬間、意図せずしてブラックの右腕はほとんど真上に向きを変えており、魔法力の塊はその軌道に沿って遙か上空へと消えていく。

 攻撃を放った本人が自らの体に何が起きたのかを自覚したのは魔法弾が見えなくなると同時に再び右腕の自由が効かなくなっていることに気付いてからのことだった。

「糸、だと……いつの間に」

 ブラックは屈辱に歪んだ表情でユメールを睨み付ける。

 その言葉の通り、ブラックの右腕はユメールの糸によって持ち上げられ、あらぬ方向へと向いてしまっていた。

 どのタイミングで仕込まれていたというのか。

 一度その状態から脱してからというもの、近付いてもいなければそんなことが出来る隙もなかったはずだ。

 ブラックの脳内には理解不能な出来事に対する疑問が次々に浮かぶ。

 距離を置いた際に確かに解かれたはずの糸。

 そう思い込ませることこそがユメールの仕込みの最終形であった。

 直接攻撃を防いだ際に既にブラックの腕に絡み付いていたその糸は、その瞬間とは違い極限まで緩められていること、長さに制限が無いこと、その両方の要素によって腕に感じる負荷を消し去っている。

 それに気付いていなかっただけでユメールの左手中指から伸びに伸びたその糸は二人の中間付近、その上空数メートルのある一点を経由してブラックの腕へと繋がったままだったのだ。

 糸によって腕を釣り上げるという仕掛けその物は両者が後退したことで自然と中間に位置するかたちとなった自身が初手を上空に回避するために空中に打ち付けた糸を使うことで仕込みに苦労することなく、また、ブラックに対してそれと分かる動作を見せずに難なくやってのけていた。

 不可視の糸。そして、長さに制限の無い糸。

 ユメールは両手十本の指から伸びる糸に魔法力を注ぐことでそれらを可能にしている。

 翻って、それは魔法力を操る能力に長けている者であればそこに帯びる魔法力を感知することで精度の差はあれど目に見えずともその存在を把握することが出来るということだ。

 一連の攻防全てにおいて、魔法力を持っていないブラックだからこそ生まれる相性の悪さを露呈し、その結果が苦戦続きの展開に繋がっている状況であると言えた。

「けっ。偉そうに言うが、てめえも馬鹿の一つ覚え戦法じゃねえかよい」

 忌々しく思う心の内を隠そうともせず、ブラックは左手で腰からナイフと取り出すと右腕の周囲に向けて乱暴に振り回した。

 固い何かを斬り付けた感触を得ると、同時に右腕を縛られている窮屈な感覚が消える。

 切り離されたことで初めてその目に映る糸は銀色の、やけに頑丈に見える物だった。

「馬鹿はお前だけです。一芸を極めることの意味を理解出来ないなら、お前はただのボンクラということです」

 ブラックを睨み返すユメールの表情からも緩みが消えた。その心には一片の油断も無く、既に戦いの終わりを見据えていた。

「……何が言いたい」

「果たして、あの時封じた部位は腕だけだったかな? ってことです」

「…………」

 すぐにその意味を理解したブラックは無言のまま視線を逸らすことなく、それを確認すべく足に力を込める。

 しかし、左足はぴくりとも動かなかった。

「当然そっちもそのまま繋いであるに決まってるです。その糸は三本の束、ちんけな刃物じゃ切れやしない。そして、その糸は既にクリスの手を離れているです。例えクリスを攻撃したところで逃げられはしない……そこから動かずにクリスを殺せるなら話は別だがな、です」

「ちっ……」

 予想外の事態に思わず舌打ちが漏れる。

 それでもブラックは豪炎破動から剣を出現させ、今や目には見えていなくとも左足首に何重にも巻き付けられていることをはっきりと自覚するまでにがっちりと固まったまま上げることすら出来ない状態の自身の足下へと振り下ろした。

 感覚に頼った目算によるその一振りは正確に糸を捉えたが、それでもガシンと鈍い音を立てて静止した剣が行動の自由を取り戻させてはくれはしない。

 ユメールの操る糸の名は鋼の糸だ。

 ブラックの腕力と重量のない剣では複数を束ねた状態の鉄製の糸を切断することは出来ず、ただ為す術無しという答えだけを脳裏に刻んで思考する意味を奪い去る。

「これでチェックメイトだな、です。フフン、実はクリスは一度この台詞を言ってみたかったです。実際のチェスではいつもアルフォンスとAJにやられるばかりで口には出来んからな、ですっ」

 早々に集中力を欠いたユメールは腕を組み、頷きながらなぜか勝ち誇った口調で独り言の様な言葉を漏らす。

 対して、ブラックの頭は劣勢かつ絶望的な状況への焦りと己への憤りで満ちていた。

 くそう……くそう……くそう。

 声には出さず、心の中で何度も同じ言葉を繰り返す。

 何をやってんだ、と。

 こんなところで負けている場合かよと。

 問い質す様な自問を幾度となく重ねた。

 死んで本望だと抗い、一矢でも報いようとすることを選ぶか。

 無様にも逃げ延び、生き存えてでも逆襲の機会を求めるのか。

 選ぶべきはどちらだろうかと、必死に答えを探した。

 それは言い換えれば、最後までゲルトラウトの生き様を継承するのか。それともゲルトラウトに託された役目を全うするために泥水を啜るのか。

 その選択を迫られていることと同じであり、それはブラックにとっては死んでも間違うことは出来ない二者択一だった。

 亡き兄貴分への忠義を貫くならばどちらが正しい道なのか。

 自問と葛藤を初めて数秒足らず。ブラックは結論を下す。

 ゲルトラウトが生きていたならば、何があっても引かず恐れず最後まで戦う意志だけを持ち続けようとしていただろう。

 しかしゲルトラウト亡き今、その最後の言葉はどんなものであったか。

 それを思い出した時、ブラックの覚悟は決まった。

 まだやらなければならないことがある。

 団長の野望、そして騎士団の未来。

 そのために戦うこと、それを見届けることを託されたはずなのだ。ならば、今ここで死ぬわけにはいかない。

 それがブラックの答えだった。

 もはや糸から脱するための方法を模索する時間的余裕などない。

 魔法弾や火炎放射を試してみたところで失敗に終われば今得た選択肢すら失ってしまう。

 闘争心を失ったブラックのそんな分析は視野を狭め、状況判断を放棄し可能性を追うこともせず、確実に逃げ切るためにそれ以外の全てを頭から払い除けていた。

 何が何でも生きて砦へと帰らばければならない。

 半ば強迫観念と化した思考がいとも簡単に普段の冷静さを消し去ってしまう。

 ブラックは砲筒を構えると、間髪入れずに一発の魔法弾を放った。

 動きに反応して我に返ったユメールもすぐに身構えるが、次の瞬間その視界は白一色に埋め尽くされていった。

 ユメールはそれがいつか見た煙幕弾であることを瞬時に理解する。同時に、甲高い口笛が鳴り響くのが聞こえた。

 馬を呼び寄せるためのものだということはすぐに把握出来たが、馬を呼び寄せたからといって状況が変わるとも思えず。

 加えて煙幕の中で攻防を繰り広げることにメリットは無いと判断したユメールは不意打ちに備えつつ、煙が晴れるのをただ待った。

 その瞬間、次なる仕込みとブラックを捕縛する算段を付ける。

 そう決めていつでも動ける様に体勢を変えたが、次に聞こえてきたのは馬が駆けていく足音だった。

 凄まじい速度で遠ざかっていく足音を耳にしながらも、何が起きているのかが分からないユメールは頭に疑問符を浮かべる他ない。

 気や気配の察知が不得手であるがゆえに、煙幕に包まれたブラックの行動とその狙いや結果を予測することなど出来なかった。

 動きを止めたまま煙の奥を注視すること十数秒。

 原型を取り戻していく風景の中心からはあるはずの敵の姿が消えていた。

 ブラックの姿も、ブラックが呼び寄せたはずの馬の姿もそこには無い。

 唯一残っているのは地面に固定されたままの左足首、ただそれだけだった。

「自分の足を切り落としてでも逃げることを選ぶですか……」

 視線の先、左側前方には遠ざかっていく馬の姿が見える。

 予想外の結末と後味の悪い後悔にユメールの表情は僅かに歪んでいた。

 そしてその覚悟に心の中で驚倒と畏怖を感じながら、自己への戒めとするべく既に追い掛ける意味を失うまでに小さくなっている後ろ姿を見えなくなるまで目に焼き付けたのち、ユメールは部隊と合流し都市内部へと突入することを決めた。


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