【第八章】 エピソード オブ マーシャ・リンフィールド
これは大国サントゥアリオが王国から共和国へと名を変えて十三年が過ぎたばかりの頃に起きたとある惨劇の記憶。
多くの者の運命を左右することとなる、悲劇の追憶である。
約七年前。
サントゥアリオ共和国は新体制一年目を終えて少しの時が過ぎたばかりだった。
国を統べるは共和国三代目国王パトリオット・ジェルタール。
世に異例の王と呼ばれ、二十歳にして就任二年目を迎える若き王である。
先代国王が任期である九年を待たず狂人エリオット・クリストフによって暗殺される事件が国中を震撼させて間もなく。
国民投票によってその先代の息子であり、王国護衛団の兵士として前線で騎馬隊を率いる稀代の美男子として高い知名度があったパトリオット・ジェルタールに白羽の矢が立てられた。
就任時実に十九歳という新国王が王の器であるかを知る者はいない。
国民の大多数が知名度の高さと他に候補がいなかったという理由で選んだに過ぎず、体制を立て直し不安定な国勢を正すべく早急な人選を求められたがゆえの結果でしかないことは誰の目にも明らかだと言えた。
それでも優秀な臣下の支えや強大な軍隊の働きによってどうにか王としての役割を果たし、帝国騎士団を名乗る旧サントゥアリオ帝国の残党による蛮行に対しても徹底した管理、統制によって目立った被害を出させることなく、先代国王を襲った悲劇が民へ与えた不安も徐々に薄れつつある程度にまで社会情勢を立て直すに至る。
そんなサントゥアリオ新体制も一年と少しが過ぎたある日。
国家の象徴である広く大きなサントゥアリオ本城の中でも一番大きな玉座の間には国家を支える上層部の面々が一堂に会していた。
玉座に腰掛けるは若きブロンドの美青年、パトリオット・ジェルタール王。
その脇には二人の男女が控えている。
一人は金色の髪をした若い女だ。
名はマーシャ・リンフィールド。
二十一歳にしてジェルタール王の即位と同時にその補佐役に抜擢され、大臣として政務を一手に担う若き聡慧である。
前任のマット・エレッドが引退して以降三年間空席であった上級大臣の肩書きを与えられると、その卓抜した才覚は瞬く間に同じ臣下から城下の民を伝って国内全土へと知れ渡り、大衆からも大国の頭脳にして知能と呼ばれるまでに至っていた。
そしてもう一人。
そのリンフィールド大臣の横に立つのは鎧を身に纏った大柄の男。
ぬめりとした長髪と無機質な表情が特徴的な王国護衛団八千人の兵士を纏める総隊長の肩書きを持つ古参兵ヘロルド・ノーマンだ。
この当時三十七歳。
代々兵士の家系であったノーマンは入団以来対魔王軍、対反乱組織、その両方の戦いで常に前線に立ち、若くして士官に任命され、その後少しして副隊長に、やがて総隊長へと上り詰めた誰を以てしてもエリートと目される腕利きの兵士だった。
手段を選ばず敵の殲滅に拘る非情とも言える采配を振る冷血漢の姿は見る目が変われば私情を挟むことも感情に流されることもなく、民や平和を守ることを何よりも優先させる絶対的な指揮官へと形を変え、治安の回復や部隊の統率性の改善といった目に見える成果が評価に繋がり、若くして総隊長の座に着くこととなる。
政治をマーシャが、軍務をノーマンが、それぞれ中心となって取り仕切ることで右も左も分からないジェルタール王を支えている。
それが新体制の在り方だと言えた。
脇には複数の大臣、士官が整列している。
五日に一度行われる定期報告会のために玉座の間に招集されているのだ。
「以上が各都市からの報告と、グラッタの南部で行われている崩落した橋の修繕工事の進捗になります。それからもう一点、先日の嵐の影響で軍港の傍にある農村の家屋が二軒半壊しているという知らせが届いています。陛下の承認を得たのち、直ちに工夫を派遣出来る様にしていますが問題ありませんでしょうか」
マーシャが数枚の羊皮紙を読み上げ、全ての報告を終える。
就任時からの取り組みによって全ての町に通信係を置き、災害や外敵による被害の有無から町の様子や民の要望、事件事故の詳細などを事細かに知らせさせる体系を作り上げた。
駐在の兵士が居ない村や集落には近隣の町から視察させることによって地域や環境による差を感じさせないように配慮し、出来る限り体制に対する不満に繋がらない制度を確立した。
それがマーシャ・リンフィールドの手腕が認められるきっかけとなる働きの一つだった。
「ああ、問題はない。対応が早くて助かる。そなた等が居なければ私はどうにもならなかっただろう、その働きには感謝している」
「勿体なきお言葉です。私からの報告は以上になります」
ジェルタール王の返答を受け、マーシャは一礼して一歩下がる。
「ご苦労だった。それではノーマン隊長、頼む」
指名されたノーマンは入れ替わる様に一歩前に出ると、普段通り表情を変えることなく淡々とした口調で報告事項を並べていった。
「新たな兵の募集については予定通り進んでおります。先日の陛下のご要望通り地方にも公示した結果、少数ながら希望者が出ているようですな。期日までには幾許か増える見込みもあるということで」
「そうか、それはよかった。なかなか情報が行き届かない地方の民にも職を求めている者や王都に移り住もうと考えている者はいるのではないかと予てより思っていたのだ」
「さすがは陛下、ご慧眼ですな。それからもう一つ、フルトと本城の中間付近にある森の中に我々が認知していない集落らしきものを発見したと報告が上がっております。偵察させたところ、どうにもグリーナに移り住んでいないピオネロ民族が暮らしているようで。民に及ぶ危険度の有無を確認する意味も込めて近く出向こうかと思っておりますのでその許可をいただきたく存じます」
「分かった。ではその件に関してはノーマンに一任する。後から報告してくれればそれで構わない。我々に対する敵意や危険が無ければこの城に代表者を招いて直接話を聞く準備があると伝えてくれ。中には争う気がない者もいるはずであろう。今の民達には共に暮らすことは中々受け入れられることではないかもしれないが、同じ国に生きる民なのだ。例え共存出来なくとも静かに暮らすことを望むならば私達が認知した上でその場所を提供せねばなるまい」
「委細承知」
ノーマンは短く答える。
一見すると不遜な態度に見えなくもないが、お互いが兵士であった頃から変わらないその態度をジェルタール王が無礼に思うことはない。
その返答を受けて解散を告げようとした時、マーシャが何かに思い至った様に小さく手を叩き、再び一歩前に出た。
「陛下、私も行っても構いませんか? 話し合い、平和的解決が前提であるならば私もお役に立てるかと思うのです」
「そうだな。話し合いの場を設けようと思うならばそなたが適任だろう。ノーマン隊長に同行してくれるか」
「承知いたしました。それではノーマン隊長、出発の日時が決まれば知らせていただけますか?」
マーシャはにこりとノーマンに微笑みかける。
ノーマンが自身の申し出を快く思っていないことなど百も承知である中で見せた牽制の意味を込めた笑顔だった。
「……後ほど遣いを送るとしよう」
ジェルタール王には見えない様に体の向きを変え、ノーマンは冷たい目でマーシャを見下ろした。
その心の内が投影されている様な口調と表情に対してもマーシャは笑顔を崩すくとなく、無言のまま見つめ返す。
しばし視線をぶつけ合ったのち、改めてジェルタール王が会議の終わりを告げるとノーマンはそそくさと玉座の間から出て行った。
○
その翌日。
マーシャは昼を迎える前にノーマンの部下から件の集落へ向かう予定を伝え聞いた。
どうやらこの日のうちに向かうことにしたようだ。
昨日の今日とは随分と急なものだ。
もしかしたら、当日に知らせることでこちらの都合が合わないことを期待したのだろうか。
ふと、マーシャの頭にはそんな考えが浮かんだが、そのノーマン本人が朝から遠征していて城にはいない。
「ノーマン隊長が戻り次第の出発するとのことです」
遣いの兵士がそう言っていたことを踏まえると単に早いに越したことはないと考えただけなのかもしれない。
そんなことを思いつつ、いつになるかは聞かされていないノーマンの帰還までにこの日の仕事を終わらせなければとマーシャは職務に精を出すのだった。
やがて日が暮れる。
自身の仕事を全て終わらせ、政務室で他の大臣達の仕事を手伝っているマーシャの元には未だ出発の知らせは届いていない。
視線が手元の資料と窓の外を往復しているうちに茜色の空は徐々に黒く染まっていく。
政務室にいることは伝えてあるので放って行かれたということはないはずだけど……と、少しの不安を感じ始めた時、政務室の扉が叩かれた。
「どうぞ」
マーシャが声を掛けると、すぐに扉が開く。
そこに立っているのは一人の兵士だ。
「失礼します。リンフィールド殿、ノーマン隊長がお帰りになりました。すぐに出発するとのことで、馬を連れて中庭に来るようにと言伝を」
「分かりました、すぐに向かいます。伝えに来ていただいてありがとうございます」
「はっ、それでは失礼します」
一度敬礼をして兵士は去っていく。
「それでは私は行って参りますね。急ぎの案件は処理し終わっていますし、皆さんもあまり遅くならないようにしてください」
マーシャは立ち上がると、他の大臣達へと声を掛ける。
口々にお礼や見送りの言葉を掛けられると、最後にもう一度挨拶の言葉を口にして自身の部屋へと急いだ。
直接広場に向かわなかったのは着替えるためだ。
数年前に両親は他界してはいるが、マーシャは貴族の家系である。
それに相応しい高貴さの溢れる白と黒のワンピースタイプの衣服に着替え、その上にマントを羽織り、腰にはリンフィールド家の家紋の入った短剣を、首元には上級大臣の証である旧サントゥアリオ王家の紋章が彫られた記章をそれぞれ身に着けた。
本人の中の決め事という域を出るものではないが、大臣として外部の者と対話する際に用いる正装だった。
マーシャはそのまま部屋を出ると、愛馬を引き連れて広場に向かう。
広場には既にノーマン隊長を始め共に城を出るのであろう兵士達が待機していた。
その数は二十人。
全てが古くからのノーマンの直属の部下ばかりであることが気になったが、元々己に従順な者を傍に置きたがる嫌いがある。
今この場でそれに苦言を呈する意味も無いと、マーシャは疑問をぶつけることを自重した。
「お待たせして申し訳ありません。ノーマン隊長、随分と遅くなってしまっていますが、この時間の出発で大丈夫なのですか?」
日が落ちて随分と経つ。
フルトの傍ならば二刻もあれば到着するだろう。
森の中ということもあって時間を要するかもしれないが、いずれにしてもこの時間に出発するとなれば夜営をすることになる可能性が高い。
敢えてそうすることに意味があるとは思えないが……。
そんな疑問を抱くマーシャだったが、馬上から見下ろすノーマンはただ興味がなさそうに、どこか面倒臭そうにさえ感じられる口調で言葉を返すだけだ。
「ここまで遅くなる予定ではなかったのでな。先に正確な位置を把握させるために部下を送っているということもあるが、私は明日の昼には港に出向かなければならない。それまでに城に戻るためには致し方あるまい」
「そうですか。分かりました、では出発しましょう」
いまひとつ納得のいく理由ではないように思えたが、マーシャは引き下がることにした。
夜営を張る意味はさほど無いのだろうが、部下を待機させているならば明日の朝早くに変更するというのも少々酷であることは事実だろう。
何よりも、今日向かうことはジェルタール王にも伝わっているはずなのだ。
その上で『遅くなったのでやめておきます』という報告をすることを厭うのもまた、悪い意味でノーマンらしいと思ってしまった。
真っ当な理屈を並べたところでノーマンは自身の決定を覆しはしないだろうということが大きかったとはいえ、なぜもう少し真剣に考えなかったのかと後に後悔することになろうとは露知らず。
マーシャは他の兵士達と同じ様に馬に跨ると、それを合図に一団は城を離れるのだった。
城門、正門を潜るとノーマン総隊長、リンフィールド上級大臣に二十名の兵士を加えた一団は隊列を組んで月明かりが照らす大地の上を駆けていく。
どこか普段よりも風が弱いことを感じながら、静かな自然の中を走るマーシャの頭には期待と不安の両方が浮かんでいた。
平和と共存。
それがマーシャの掲げる理想であり大臣として成し遂げるべき使命だという強い意志を持っている。
これをきっかけにピオネロ民族と互いに歩み寄ることが出来れば共存の足掛かりとなるかもしれない。
しかし、同様に決裂、或いは話し合いを拒否されてしまえばより溝を深めるだけに終わる可能性もある。
どうにか平和的解決を実現し、人里離れて静かに暮らすことを望む人々にその場所を提供した上で今は互いに受け入れ合うことが出来なくとも少しでもこちらにその意志があることを伝えることが出来ればそれは必ず希望に繋がるはずだ。
様々な想像と想定を繰り返しながら、マーシャは必ずや良い報告を持って帰ると心に誓った。
○
目的地である森に到着したのは当初の予想通り、城を出てから二刻ほどが経った頃だった。
その手前で偵察に送られていたという兵士二名と合流し、一団は馬の速度を落としながら見るからに深く大きな森の中へと進入していく。
夜間の森の中ということもあって著しく視界の悪い中、松明を持った兵士を先頭に万が一に備えての警戒態勢を維持しつつ、しばらく進んだ先にあった小さな丘の上まで来たところで全体が足を止めた。
高さにして十メートル程度の小さな丘だ。
見下ろす先には事前の話の通り小さな家屋がいくつも見えている。
暗いせいで正確な数は把握出来ないが、複数の人間が集団生活を送っていることはまず間違いないと言える光景だった。
明かりが漏れている小屋は一つもなく、集落全体が静まりかえっているところを見るに到底訪ねていける状況ではない。
それらの判断の下でマーシャは足を止めたこの場所で夜営をするものだと思い込んでいたが、次々と馬から降りる兵士達がその準備を始める様子は見られない。
不思議に思い、その疑問を口にしようとしたが先に兵士の一人が傍に居るノーマンに声を掛けたことで声を掛けるタイミングを逃してしまう。
どういうわけか、全ての兵士達が弓矢を手にしていた。
「ノーマン隊長、準備が整いました」
マーシャは兵士に対し短く了解の返事をするノーマンに思わず割って入る形で口を挟んだ。
「ノーマン隊長? 準備とは一体何のことです? これから何かをするのですか?」
「決まっている。村ごと焼き払うのだ」
「な……」
凍てつく様な冷たい目がマーシャに向けられる。
一瞬言葉を失ったマーシャだったが、ノーマンがやろうとしていることを理解すると同時に血の気が引き、次の瞬間には沸々と怒りが込み上げていた。
「あ、あなたは自分で何を言っているか分かっているのですか! 私達は話し合うために来たのではないのですか!」
「奴らにその価値はない。どこで暮らそうとも先代国王を暗殺し、この国に仇を為す蛮族であることに違いはない。駆逐することが民に平穏を与える唯一の方法なのだ。そのためにこの時間に到着するよう出発した、それが全てだ」
ノーマンは吐き捨てる様に言うと、マーシャの脇を通り過ぎて丘の端へと向かおうとする。
しかし、その行く手を塞ぐ様にマーシャが立ちはだかった。
「待ってください! そんなの納得出来るはずがありません! まだ危険分子かどうかも定かではないのに、なぜそんな非道を行わなければならないのですか。誰もが争い合うことを望んでいるわけではないはずです。事実、過去には保護を求めてきたピオネロ民族の方もいたではありませんか」
「元より貴様の納得など求めてはいない。貴様の理解を得なければならない道理もない。全権を与えられているのは私だ。異議があるなら陛下に申し立ててみるかね? 今から城に帰っては戻ってくる頃には焼け跡と死体の山が残っているだけだろうがな」
「あなたが……そこまで愚かな人間だとは思っていませんでした」
ノーマンは冷笑を浮かべている。
その言動を見て、マーシャは全てに合点がいった。
言葉通り、この時間に到着するように城を出たことも、連れ添う兵士の人選も、そして真っ直ぐにこの場所を目指していた理由も。
始めからそのつもりでしかなかったことを、嫌でも理解させられた。
恨みがましい目でノーマンを睨み付けることしか出来ないマーシャだったが、そんなことをしている場合ではないということに気付くと同時にその場を駆け出した。
力で敵うはずもない。であればここで止めることは不可能だ。
ならば、自分に出来ることは一つしかない。
そう考えてしまうと、ジッとしていることなど出来なかった。
「総隊長殿、どうするのです?」
その背を見届ける兵士の一人が言った。
すでにノーマンは興味を失い、集落へと目を向けている。
「放っておけ、女一人に何が出来るというのだ。すぐに攻撃を開始する、総員構えろ」
表情一つ変えずに告げると、二十二名に増えた兵士は矢の先端に火を点け始める。
そして丘の先端に並んで立つと、五十メートル程の距離にある家屋の群れに向かって一斉に火矢を放っていった。
○
ほとんど暗闇だったはずの森の中が真っ赤に染まっている。
丘を降りたマーシャの前に広がっていたのは地獄絵図だった。
全ての家屋が炎上している。
至るところに倒れている村人達の姿があり、その大半が矢に撃たれているか炎に包まれたままピクリとも動かない。
「そんな……どうして……」
マーシャは目の前の光景に絶望し、立ち尽くす他なかった。
なぜこんなことが現実に起こるというのか。
なぜ村人達が一方的に命を奪われなければならないというのか。
何が民の平穏のため……息絶え、倒れている者のほとんどが女性や子供、老人ではないか。
この理不尽な殺戮行為のどこに正義があるというのだ。
丘を降り、この場所に回り込むまでに時間を要してしまったことで誰一人救えなかったのだとしたら……私はどうすればよかったのだろうか。
マーシャの頭には後悔と失望ばかりが次々と浮かんでいった。
それでもどうにか一人でも助けることは出来ないかと再び火に囲まれる集落の中を走り回り、燃え盛る小屋を確認して回った。
辺りを火の海に変えた火矢は止んでいる。
自身の安全など最早どうでもよかった。
息がある者がいれば回復魔法でどうにか命を失うことだけでも防ぐことが出来るはずだと、ただ一心不乱になっていた。
焼かれる様な熱さが全身に広がる。
四方からバチバチと家屋が燃える音が聞こえてくる。
周辺が木々に覆われていないことがせめてもの救いであったが、大きな音を立てて倒壊していく小屋がいくつも出始めていた。
そんな中、マーシャは息を切らしながら必死に駆け回ったが、一人として生きている人間の姿を見つけることは出来ていなかった。
汗や涙だけではなく、強く握った掌からは血が流れている。
全て手遅れだったのかと諦めかけた時、その目に初めて倒れていない人の姿が映った。
それも、二人の子供だ。
若い少年と小さな女の子が背に矢が刺さった状態で倒れている女性の横で泣き崩れている。
倒れているのは子供達の母親なのだろうかと考えるだけで胸が締め付けられた。
そして、何があってもあの子達だけは助けなければならないと、自然と声が出ていた。
「あなた達、何をやっているの! 早く逃げなさい!」
その声が届いたのか、二人の子供はマーシャの方を見た。
マーシャはすぐに駆け寄っていく。
倒れている女性と小さな女の子が同じ銀色の髪をしていることが彼らが親子であるとことを半ば証明していた。
呆然としたまま視線を向ける二人の傍で屈むと、動く様子がない子供達の姿が今一度声を荒げさせた。
「何をしてるの! じっとしていたら死んでしまうの! 逃げないと死んでしまうのよ!」
ほとんど怒鳴るようになってしまったせいか、女の子は黙ったまま怯えた顔を向けている。
しかし、言葉を続けるよりも先に少年の腕が伸びてきていた。
マーシャの胸ぐらを掴み、憎しみの籠もった目で睨み付ける。
「お前……共和国側の人間だろ……何が逃げろだ、お前達がこうしたんじゃないのか! お前達が母さんを殺したんだろうが!」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……私には、私の力では止めることが出来なかった。私を恨んでもいい、憎いなら命を奪われても文句は言わない……だけど今は逃げて。死んだら全てが終わってしまうの。あの丘の上に部隊がいる、矢を撃つのは止めたみたいだけどいずれ隠れている人間が居ないか探しにくる。見つかったら確実に殺されてしまうの、だからお願い……今は逃げて、生き延びて……」
マーシャは涙ながらに懇願する。
その訴えが通じたのか、少年は「くそっ」と憎々しげに言って掴んでいた手を離した。
しかし次の瞬間。
少年はマーシャの腰にある短剣を素早く奪うと、そのまま丘の方向に向かって走り出した。
「待ちなさい!」
「兄上っ!」
少女と声が重なる。
二つの制止が遠ざかっていく背中に届くことはなく、少年は炎の中を真っ直ぐに駆け抜け森の中へと消えていく。
まさか、部隊に立ち向かう気でいるのか……どう考えても無謀だ。
そう考えたのはマーシャだけではなかったらしく、目の前では残された少女がその背を追おうと走り出そうとしている。
「行っては駄目!」
マーシャは咄嗟に腕を掴み、それを止めた。
少女は目に涙を浮かべたまま振り返る。
「でも……兄上が」
「私が迂闊だった……だけどお兄さんは私が連れ戻す、だからあなたは逃げなさい」
少女は追い掛けようとする行為こそ諦めたようだったが、だからといってこの場から逃げようとはしない。
どうすればいいのか分からず、立ち尽くすことしか出来ないようだった。
そんな少女を、マーシャは力の限り抱き締めた。
「どうにか負の連鎖を止めようと今までやってきたけど……私にはこの村の人達を助けてあげることが出来なかった。その上ここであなた達二人まで死なせてしまったら、私は死んでも死にきれない。あの男は執念深い、ここから逃げ出したことが知られればいつまでも追い掛けてくる。いつか同じ目に遭うことになる。あなた達には何の罪も無い、だけど……今のこの国にはあなた達が生きる場所が無い……だから、今は逃げて」
「でも……どこに逃げればいいと言うのだ……母上も兄上も居ないのだ、私一人でどうやって……」
「お兄さんは私がなんとかする。それから、あなたにこれを預ける」
マーシャは首元に付けていた記章を取り外し、少女の手に握らせた。
自身で口にした通り、ノーマンは執念深い男だ。
逃した敵を必要以上に追うことに執着する。
捕らえた敵を平気で傷つける。
幼い子供が逃げ延びることなど出来るとは思えなかった。
そうなれば、生き延びる方法は一つしかない。
「ここから南東に真っ直ぐいけば港がある。そこの船を管理している船長さんにこれを見せなさい。私の名前はリンフィールド、その名前とこの記章を見せれば船に乗せてくれるわ。とにかく今は遠くに身を置いて、生きていく方法を探して」
マーシャは真剣な眼差しを向けるが、少女は動かない。
戸惑っているのか、躊躇っているのか。
いずれにしても、この時間が生きながらえる可能性を減らし、一人護衛団に向かっていた少年を助けるための時間を減らしていることに間違いはない。
年端かもない少女相手に酷なことをしていると自覚しながらも、マーシャは心を鬼にして怒鳴りつけた。
「行きなさい!」
大きな声がそうさせたのか、少女はハッと我に返った様に絶えず彷徨わせていた視線を真っ直ぐにマーシャへと向ける。
動揺の色は一瞬にして恐怖へと変わり、二歩三歩と後退るとそこで背を向け、一目散に駆け出した。
その小さな体が森の奥へと消えていくのを確認すると、マーシャは急いで来た道を戻っていく。
どうか無事であってくれと、名前も知らない少年の身を案じながら丘の上まで戻ったマーシャに突き付けられたのは、どこまでも非情な現実だった。
待ち受けていたのは首から血を流すノーマンの姿。
そして、その怪我を負わせた一人の少年を斬り伏せ、丘の上から放り捨てたという報告だった。
○
城に戻った日の朝、マーシャはジェルタール王が起床したと聞くなり玉座の間に呼び出していた。
前夜に起きた出来事の報告と、それを糾弾するためだ。
「そうか……そのようなことが」
玉座に腰掛けるジェルタール王はマーシャの全ての報告を聞き終えると、手を組んだまま神妙な顔付きで呟いた。
広間に他に人は居ない。
出来るだけ冷静に話をしたつもりでいたマーシャだったが、所々で声は震え、怒りを堪えていることが傍目に分かる状態だった。
「あんなことを平気でする人間がいるだなんて……いくら隊長でも許されることではありません。陛下、ノーマン総隊長には厳罰を与えるべきです」
「リンフィールド大臣、そなたの言いたいことは分かる。だが、そう結論を急ぐべきではない。確かに行き過ぎた行為だ、決して許容出来るものではない。それは大いに同意しよう。しかし、ノーマンの行動も全ては民を思えばこそであろう。長きに渡って護衛団の一員として戦いに従事してきたからこそ彼らを憎むのだ。先代に仕えていたノーマンには悲劇を繰り返させぬために非情になっている部分もあるだろう。厳しく罰しては兵や民に動揺を与えることになりかねない。私から少し考えを改めるよう通告することにする」
「通告ですって? 確かに陛下の仰ることにも一理あるかもしれません。ですが、だからといって何のお咎めも無しで済ませられる問題ではありません! あれでは……あれではただの虐殺ではないですか! 小さな子供もたくさんいたというのに!」
「分かっている。私とて不問に処すつもりはない。ノーマンには規律違反と独断での行動に対する罰として副隊長への降格を命じる。それで十分であろう」
「あれだけの人々の命を無意味に奪って……ただの降格で済ませるというのですか」
「ノーマンも大怪我を負っているのだ。結果的には、何の危険も無かったとは言えぬ状況であろう」
「一方的に焼き殺されて無抵抗でいる人間がこの世のどこにいるというのですか……」
陛下の考えは異常ですと、言いかけた言葉をマーシャは飲み込んだ。
その結果ぶつける先を失った悔しさと憤りに唇を噛み、ただ俯くことしか出来ない。
若き王に安寧をもたらす力はない。それは分かっていたことだ。
だからこそ自分が支え、国を少しでも良き方向に導いていかなければと思っていた。
だけど、これではもう無理だ。
ジェルタール王には善悪を判断する気がない。
それは一見すれば寛容が過ぎるだけに見えるが、本質を見極めるならば若さゆえの事なかれ主義。
物事を荒立てず、形式に沿って処理していくことばかりを考えている。
きっと、歳の変わらない自分では王の考えを正すことは出来ない。
これまでも意見がぶつかれば年長の者の、或いは経験の長いものの意見を取り入れるばかりだった。そこに王として、一個人としての意志や考えを汲み取れたことはない。
己の経験不足、力量不足を自覚しているからこそジェルタール王なりに何かを吸収しようとしているのだと敢えて口を挟まなかった。
しかし、これはもうそういうレベルの問題ではない。
成長の意志を放棄し、どの意見に同調することがより多くの者の体面を保つことが出来るかという考えにしか繋がっていない。
今この場における自分の主張が間違いだと断ずるのであれば、王を王へと導くことなどどれだけの時間を掛けたところで私には出来ない。
失望と幻滅が心を埋め尽くしていくマーシャの頭に浮かんだのはそんな結論だった。
ただ絶望し、最後に一つの決断を下す。
「陛下……一つ、望みがあります」
「言ってみよ」
「後任の総隊長の指名権を私にいただけないでしょうか」
「ああ、そなたが適任であろう、王の名において次期総隊長の任命権を与える」
「ありがとう……ございます」
マーシャはどうにか絞り出した一言を残し、ペコリとお辞儀をしてその場を後にする。
頭に浮かぶのは一人の少女の顔。
上級大臣としての、この城で仕える者としての最後の仕事を全うするために、その人物の部屋へと向かった。
○
本城別棟横にある居館を訪れたマーシャは一度自分の部屋に寄ったのち、真っ直ぐに目的の場所へと向かう。
兵士達が暮らす部屋が並ぶフロア、その一番奥にある入団前からよく知る一人の兵士の部屋だ。
そこに辿り着くと、マーシャは扉を三度叩く。
すぐに出てきたのは一人の少女だった。
マーシャと同じ金色の髪をした少女は部屋の外に立つマーシャを見ると表情を輝かせる。
「マーシャ様っ。わざわざ訪ねてくださるなんてどうなさったのです」
「休んでいるところにごめんなさいね、エレナ。少し話があって」
「何を仰るのですか、マーシャ様が会いに来てくださるならば私は何を差し置いてもお待ちしています。どうぞ中にお入りになってください」
エレナと呼ばれた少女はマーシャを中に迎え入れる。
ありがとう、と。
いつもよりも弱々しく微笑んで、マーシャはそれに続いた。
部屋の主である少女が慌ただしく紅茶を用意すると、テーブルを挟んで二人は向かい合って腰を下ろす。
カップに一度口を付けたところでマーシャは切り出した。
「じき陛下からお話があるからすぐに分かると思うのだけど、本日付けでノーマン隊長が副隊長に降格することが決まったの」
「え……ノーマン隊長が? な、なぜ急にそんなことに……」
「理由を私の口から語ることは出来ない。申し訳ないけれど、今は聞かないで」
「わ、分かりました……マーシャ様がそう仰るのであれば。ですが、わざわざそれを伝えに来てくださったのですか?」
「そういうわけではないの。それにあたって、私が後任の隊長を任命することになって……あなたを総隊長に任命することに決めた。それを伝えに来たの」
「わ、私ですか? そんな、無茶です……たかだか十六歳の、入隊して二年に満たない私などに務まるわけが……」
「いいえ、そんなことはないわ。年齢は関係無い。経験はこれから積めばいい。二年に満たなくともあなたは周囲に認められ、その歳で士官になった。士官としてのあなたを見ていれば人の上に立つ器にあることは分かる。そして、私の意志を託せるのはあなたしかいないと思っている。だから、どうか引き受けて欲しい」
「分かりました……その期待に応えられるかどうかは何とも言えませんが、マーシャ様がそう仰るなら、それが私にとっては他の何よりも信じて従うべきお言葉ですから」
「ありがとう。そう言ってくれると信じていたわ。では、私マーシャ・リンフィールドが上級大臣の権限を以てエレナール・キアラを次期王国護衛団総隊長に任命します」
「謹んで、拝命致します」
キアラは両手を膝に添え、丁寧に頭を下げる。
慈愛に満ちた微笑みを浮かべてその姿を見つめると、マーシャは足下に置いていたそれを小さなテーブルの上に乗せた。
「総隊長就任に先駆けて、あなたにこれを授けます。どうか受け取ってもらえるかしら」
「これは?」
キアラはテーブルの上に置かれた物を不思議そうに眺めた。
マーシャがここに来る前に自身の部屋から持ってきたそれは全体が布に包まれている。キアラに分かるのは細長い、棒状の何かだということだけだ。
「これは私の家系が代々受け継ぎ、守ってきた世には伝説の武具と呼ばれている物です」
「伝説の……武具」
キアラは恐れ多いとばかりにゴクリと生唾を飲む。
その目の前でマーシャは布を解き、全貌を露わにした。
「これは……槍、ですか」
分類するならば、それは槍という以外には無い物だった。
刃が付いていない、円錐型の長い槍だ。
同様に柄も長く、突きに特化していることが分かるランスと呼ばれる武器に近い形状をしている。
「名を雷神の槍という武器です。あなたも聞いたことはあるでしょう」
「これがあの伝説の槍……」
資料や文献でしか見たことのない、実在するのかどうかも分からない代物が目の前にあるという事実にキアラは目を丸くする。
そして、それ以上にマーシャがそれを所持していることにも驚きを隠せなかった。
「あなたが持って生まれた力のことを考えると、誰よりもこれを扱うに相応しいと言えるでしょう。これをどう使うかはあなた次第。どうか私の代わりにこの国を守って欲しい。自分に出来なかったことをあなたに押し付けるのは心苦しいと思っている。私には出来なかったけれど、あなたは……守るべきものを間違えないで。きっとこの国を、若き陛下を支えて平和な国を実現出来ると信じているわ。傍で見守ることは出来ないけれど、元気でやるのよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいマーシャ様……元気でって、それでは別れの挨拶のようではないですか」
「ええ、その通りよ。私は……城を去ります」
「そんな……なぜですっ! 私はマーシャ様の背中を追って護衛団に入ったのです……マーシャ様が居なくなってしまったら、私は何を目指していけばよいのですか」
「今のこの国は……私の力では変えることは出来ない。あの光景から目を背けて今まで通りに過ごしてはいけない。あの悲劇を決して忘れてはいけない。救えなかった命に対する贖罪を一生心に残しておかなければいけない。そして、それをしようと思うならば……私はこの城で生きていくことは出来ない」
「マーシャ様……」
キアラは目に涙を溜め、縋る様な顔でマーシャを見ていた。
あの光景。
あの悲劇。
救えなかった命。
それらが意味するところを知る由はなかったが、それよりも城を去るという言葉を受け入れることが出来なかった。
「一度王都を離れて、私は私に出来ることを探そうと思う。生きる場所は変われど私は常にあなたの味方でいる。常にあなたのことを思っている。常に心は同じ方向を向いていると信じている。だから……この国のことをあなたに託させて」
マーシャは立ち上がり、キアラの傍によると両腕で包み込むように力強く抱き締めた。
それでも、少しの間どうにか引き留めようとあらゆる言葉を並べ立てたキアラだったが、マーシャの強い意志が次第にそれが無駄であることを悟らせ、やがてそれを受け入れさせた。
こうして、のちに雷鳴一閃という異名を世界に轟かせる女戦士エレナール・キアラは十六歳という異例の若さで総隊長となった。
同時に、若き王に代わって新体制を支えてきた上級大臣マーシャ・リンフィールドは城を去ることとなった。