【第二十二章】 悲願実り、豪傑は散る
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~another point of view~
ユリウスが単独で先頭を、他の五人がそれぞれ武器を手に横並びの陣形でその後を追う形で冥王龍へと向かっていく。
それに対し冥王龍は再び高く飛び上がると素早い動きで、まるで踏み潰そうとするかの様にユリウスの頭上から降って下りた。
巨体による跳躍はドスンと大きな音を立てて地面を揺らす。
ユリウスは咄嗟に足を止め、右方へと飛び退くことで踏み付けられることを回避していたが本来の獰猛さを取り戻しつつある冥王龍は攻撃の手を緩めない。
すぐさま背を向けるように体を回転させ、ユリウスを薙ぎ払おうと鞭の如くしなる尾を真横に振り回した。
僅かに体勢を崩していたユリウスだったが、膝を折っていた状態であったことを利用し真上に跳躍することでそれを回避する。
高々と跳ね上がったその動きはただ攻撃を躱すに留まらず、その尾を踏み台にして二度跳ねることで更に一段階高く飛び上がると冥王龍の体長を超える高さまで浮上し、その頭上から垂直に突き立てるように剣を両手に持ち替え脳天目掛けて降下した。
まさにその瞬間、ユリウスの眼前で大きな爆発が巻き起こり、轟音が響くと同時に炎と煙が冥王龍の上半身を包んでいく。
後方から追い付いたクリストフの渾身の爆砲だ。
瞬時にそれを理解したユリウスは視線を地面へと向ける。
それは一瞬にも満たない僅かな間であったが、交差する視線の先でクリストフの目は『仕留めてこい』と確かに告げていた。
まさか本当に奴がお膳立てに徹するとは。
ユリウスは人知れずそんな感想を抱き、無意識に両手に込める力が増していた。
ブラックの一撃を確実に上回る威力だ。
その爆撃が多少なりともダメージを与えているならば、こちらにまで対応しきれるタイミングではない。
ある種の勝算を胸に攻撃対象に迫るユリウスだったが冥王龍との距離がゼロになろうとする瞬間、全てが幻想であったと知ることとなる。
目の前にあった冥王龍の姿が消えた。
ユリウスに把握出来たのはただそれだけだった。
その刹那、背後に巨大な影と気配を感じる。
冥王龍はその素早い動きで片足を回転軸にし、宙に浮くユリウスの背に回り込んでいたのだ。
直後に自身の置かれている状況に気付きはしたものの、標的を失い地面に落下する以外に為す術の無いユリウスに冥王龍の反撃を防ぐ方法などなかった。
勢いよく振り下ろされた大きな前足がユリウスを襲う。
身を守ろうと咄嗟に剣を盾にしたがほとんど効果はなく、まともに直撃を受けた結果ユリウスは凄まじい速度で地面に叩き付けられた。
「フレッド先輩っ!」
アリフレートは地面を転がり、動く気配のないユリウスに慌てて駆け寄っていく。
目の前に居る冥王龍から視線を切るという愚行を自覚する余裕などそこにはなく、直前にクリストフに掛けられた言葉も既に頭には無かった。
そして、その行動が更なる悪循環を生むこととなる。
「待たんか、アリフレート!」
一番近くにいたゲルトラウトが慌ててそれを止めようと更にその後を追う。
群れから離れたことで自身が次なる標的となっていたことにも、それにより冥王龍の尾がすぐ側に迫っていることにも、アリフレートは気付いていなかった。
「うえっ!?」
ユリウスまでは未だ大きく距離がある。
背後からのゲルトラウトの声を聞いて始めてその状況を理解し、真横から襲い来る黒く長い影の存在に気付いたアリフレートだったが『しまった』と焦る気持ちとその速度や直撃した場合の被害の大きさが頭を過ぎったことが咄嗟の判断を誤らせた。
回避すべきか、間に合わないとみて防御に徹するべきか。
そんな一瞬の逡巡はただ足を止めるという行為だけを残して全ての選択肢に対する実行の猶予を自ら奪い去ってしまう。
何度戦場に身を置こうとも、負けて殺されることに対する恐怖心を抱いたことはない。
肩に矢を受けたこともあった。
トラップに掛かり馬ごと崖を滑り落ちたこともある。
十五歳の少女らしからぬそんな半生は亡き両親が揃って騎士団員だったこともあり常に争いの渦中にあった。
そんな両親も物心付く前に死んだらしいということ以外に何も知らなければ何も聞いていない。聞こうとも思わない。
戦って死んだのか、それ以外の理由があったのか。
顔も覚えていない両親だったらしい誰かに、不思議と興味を抱くことはなかった。
それでいて負けることは死ぬことであり、死ぬことは負けることなのだとその後の生い立ちによって本能的に理解していった。
そんなアリフレートが今この瞬間、生まれて初めて死を覚悟していた。
そこに恐れはない。後悔や思い残すこともない。
ただ一つユリウスの顔を脳裏に浮かべ『やべ~、これ死んだ~』と、至極冷静に率直な見解を心で呟いていた。
「この阿呆! 何をボーッとしとるんじゃ!」
それはアリフレートが回避不可能と判断し、棒立ちのまま思考を放棄した一瞬の間だった。
すぐ背後で再びゲルトラウトの野太い怒声が響く。
何事かと思った時にはアリフレートの体は宙に浮いていた。
どういうわけか抱え込む様に、飛び付いてきたゲルトラウトの大きな体に包まれている。
まさか助けに来てくれるとは。
そんな驚きと共に目を見開くアリフレートだったが、攻撃を受けようとしていた本人が対処を諦めたタイミングであったことに変わりはなく、小柄なアリフレートを抱えて回避しようと飛び退いたゲルトラウトの背に冥王龍の尾がまともに直撃する。
宙に浮いた状態でその攻撃を受けた結果二人はまとめて吹き飛ばされ、勢いのまま二度弾んでそのまま地面を転がった。
「いてて……ゲ、ゲルトラウト隊長」
アリフレートは手を突き、痛む体を持ち上げる。
ゲルトラウトに庇われたことで冥王龍の攻撃を直接受けることはなかったものの地面を跳ねるだけの衝撃が華奢な体にダメージを与え、激しく転がったことが四肢の至る箇所に流血をもたらしていた。
「し、心配は要らん……これしきで倒れる程ヤワじゃないわい」
続けてゲルトラウトもよろめきながら立ち上がった。
鎧を身に着けていても、いかに体が頑丈であっても、到底無事だと言える状況ではないことは側で見上げるアリフレートにとっても、離れた位置で二人の安否を見守る他ない状態にある他の団員達にも一目瞭然だった。
「チッ、馬鹿共が。揃いも揃って何をしている!」
向かって右手には倒れて動かないユリウスが、左手には立ち上がったばかりのゲルトラウトとアリフレートが見えている。
そんな中、レイヴァースは二人が無事であることを確認するなり声を荒げた。
正面に立つ冥王龍には未だ何の変化もない。
このままでは不味いと、全ての状況が告げていた。
「おい貴様、向こうで寝ている役立たずを拾って来い!」
レイヴァースは剣でユリウスの居る方向を指し、視線を向けることなくブラックへ叫んだ。
それは動かないユリウスが冥王龍の標的にされる可能性を危惧しての指示だったが、だからといって同志を思い遣る気持ちによるものというわけでは決してない。
ただ戦況を左右するだけの、限られた有効な攻撃手段を持っているということもあって『死ぬなら後にしろ』と苛立つ気持ちからの発言でしかなかった。
しかしそれでも、これが騎士団加入以来始めてレイヴァースに声を掛けられた経験となるブラックは驚きながらも『りょ、了解でやんす』と、慌ててその場を離れていく。
遠ざかっていくその後ろ姿に目もくれず、レイヴァースは左手を顔の前まで持ち上げると力一杯拳を閉じた。
「薔薇吹雪」
呟く様に詠唱の呪文を口にする。
少しでも体勢を立て直す時間を稼ごうという意図を持った覚醒魔術による攻撃は戦闘開始直後の攻防で発動条件を満たしていた。
詠唱と同時に冥王龍の頭上から赤く輝く小さな花びらの様な何かが無数に現れ、ひらひらとその全身を覆う様に舞い始める。
微かに戸惑いの色を見せる冥王龍を他所に、僅かの間を置いて幾十もの花弁全てが刃へと変わり全身を切りつけた。
キンキンと、その黒い皮膚を刻む音が繰り返し響く。
しかし、その攻撃は既に硬化オーラによって全身を包んでいる冥王龍に傷一つ付けてはいない。
ならばと、間髪入れずに技を繰り出したのはクリストフだ。
「連雅」
地面に叩き付ける様に、真上から縦一線に振り下ろす。
刀が振れた箇所が大きな爆発を起こし、それが誘爆の連鎖を生むが如く次々と大きな爆発を巻き起こしていった。
地面を伝る様にクリストフの目下から冥王龍に迫っていく連続する爆発の波はやがて足下から腹部へ、腹部から顔面へと昇っていき冥王龍を飲み込んでいく。
元よりダメージを与えるまでの目的を持った攻撃ではなかったが、本来クリストフにとって必殺技でもあるその技が生んだ十数発を数えた大きな爆発は炎と煙に包まれた冥王龍を眺める他の面々にとって一縷の希望を抱いてしまうだけの規格外の威力を持つ能力であり、それに足る光景を作り上げていた。
「気を抜くな、まず効いてはいないはずだ」
隣で敵の姿を見上げるレイヴァースに対し、眼光鋭いままにクリストフの警告が飛ぶ。
大爆殺に次ぐ殺傷力を持つ技であるが、放った本人にとって手応えと呼べる感触など到底得られてはいない。
横に立つレイヴァースもすぐに表情を引き締める。
視界の左側からは既にゲルトラウトとアリフレートが合流しようとしており、右側からも意識を取り戻したらしいユリウスがブラックに寄り添われながらもこちらに向かって来ている。
薔薇吹雪が一切通用していない時点で自身に冥王龍を攻撃する手段などないことは理解していたが、状況からしてそう何度も総攻撃を仕掛ける余裕は残されていない。
一部怪しい者がいるとはいえ、全員がまだ戦える状態であるこの機を逃せばその後の勝機など望めないとなれば、それに備えて団長の考え通りに動く準備をする。
それが自分に出来る唯一のことだとレイヴァースは考えていた。
気を抜かず、団長の指示に従うことだけを考えろ。と、すぐ近くまで到達しているゲルトラウトとアリフレートに命令しようとした時だった。
炎と煙に覆われていた冥王龍がそれらを振り払おうとする様に体を大きく揺らし始める。
前後左右に上半身を振り回すと瞬く間に炎は消え去り、爆発による煙も霧散していった。
その動きが止まると、そこに残るはただ一つ。クリストフの予想通り傷一つ火傷一つない冥王龍の姿だ。
そしてユリウスとブラックが合流する間も他の四人が次の手を打つ間も与えず、冥王龍は再び畳み掛ける。
誰かが言葉を発するよりも先に冥王龍は体を回転させ、右から左へと何度目になるかという尾による攻撃で目の前に居る二人を襲った。
速度、威力共に十分であることも、これ以上負傷者を出せばどうなるかということも、誰もが理解させられている状況にあって距離のあるゲルトラウトとアリフレートはすぐに回避に備えたが、レイヴァースのプライドがとうとうその選択を拒絶する。
いつまでも逃げ回るばかりでいられるか。
そんな意志が安全策を放棄し、レイヴァースは憎しみを露わにした表情のまま両手で持った大剣を頭上へ持ち上げると迫り来る尾へと全力で振り下ろした。
「ラミアス!」
クリストフの声が響く。
それは無謀な選択に対し、早まるなという意味を持ったその身を案じる声であったが、それでもレイヴァースは止まらなかった。
戦況を変えようとするならば、最早捨て身の反撃に打って出る他に方法はない。
あのユリウスですらそうしたのだ。
後の勝利のためならば、この身一つで何かを変えられる可能性があるならば、黙ってやられるのを待つよりは幾らかマシなはず。
団長を思うあまり、そんな気持ちがより強くなってしまっていた。
「この……低劣な化け物めが!」
レイヴァースは殺意の籠もった目で、それでいて完璧なタイミングで全身全霊の一撃を迫り来る尾に叩き込んだ。
重量を比較するならばレイヴァースの剣も十分に重い部類に入る。
しかしそれでもクリストフの制止を無視したその行動が何かを好転させることはなく、武器と尾が接触した瞬間にはゲルトラウトと同じく勢いよく吹き飛ばされていた。
直撃を受けていない分、体に残るダメージは微々たるものであったが全ての衝撃を受け止めた両腕からミシっと、嫌な音がしたのを自覚していた。
「ぐっ……」
レイヴァースは宙に浮く体が地面に叩き付けられる前に着地しなければと左手を伸ばしかけたが、そこに残る激痛がそれをさせてはくれない。
手を地面に突いたところで到底体重を支えられる状態ではないという理由もあるにはあったが、それ以前に残る右手が武器を放してしまわない様にすることで既にすでに精一杯の状態だった。
それでもどうにか、余計なダメージを負って行動不能になるぐらいならば腕一本を犠牲にしてでもそれを避けるべきではないのかと、レイヴァースは覚悟を決める。
右腕一つあれば攻撃は出来る。
二本の足で動ける状態でさえあれば団長の盾にぐらいはなれる。
そんな決意の下、まさにそれを実行に移そうとした時だった。
思い掛けず、ただ飛ばされているだけだったはずのレイヴァースの体が動きを止める。
背に残る少しの衝撃が何かにぶつかったのだということだけを理解させた。
「お、お前……」
レイヴァースが顔を上げると、そこには厳つい髭面があった。
進行方向付近に居たゲルトラウトがその異変に気付き、咄嗟にレイヴァースを受け止めるために回り込んでいたのだ。
「まったく、次から次へと無茶ばかりしよる奴等じゃ。ま、わしも人のことは言えんじゃろうがの」
呆れた様に漏らし、ゲルトラウトはレイヴァースを下ろす。
「散り散りになると余計に泥沼じゃ。仕切り直すチャンスもそう残されとらん、すぐに団長の所へ集まるぞ」
「あ、ああ……」
「あっ、そうッス!! フレッド先輩ー!」
ゲルトラウトのすぐ後ろに居たアリフレートは思い出した様に叫ぶと、真っ先に走り出した。
視線の先には今にもクリストフの元に辿り着こうとしているユリウスとブラックが居る。
考え無しに突っ走るという愚行を早くも繰り返すアリフレートだったが、すぐに自分とレイヴァースが後に続いたこともありゲルトラウトは敢えて咎めることはしない。
駆け出した三人の足を止めたのは他でもない、向かう先にいるクリストフだ。
「来るな!!」
そのただならぬ声色に三人は慌てて足を止める。
クリストフの目は三人を見てはおらず、その視線は正面に立つ冥王龍に向けられていた。
冥王龍の追撃に対し、少なくともゲルトラウトとレイヴァースの二人は細心の注意を払っている。
しかしそれはあくまでその動向を意識し、動く気配を見せればすぐに対処出来るようにしておくというレベルでしかない。
そこで始めて、ゲルトラウトだけが気付いた。
レイヴァースが弾き飛ばされた瞬間から今に至るまで、クリストフが一度も自分達を見ていなかったということに。
そして、それが何を意味しているのかを理解したのはそれぞれがクリストフの視線の先を追ったのと同時だった。
見上げるその先、冥王龍の開かれた口には赤く輝く魔法力の塊が覗いている。
大地を一部消し飛ばす程の威力を持った一撃が、今まさに放たれようとしていた。
「ちいっ、そういうことじゃったんかい!」
舌打ちを漏らすゲルトラウトの顔は険しい。
冥王龍が続け様に攻撃を仕掛けてこなかったのはこれを狙ってのことだったと、今になって気付いた自分の迂闊さを恨んでさえいた。
三人とクリストフの距離はまだ少しある。
それでも明らかに攻撃対象となっているクリストフはおろか、自分達までもがその一撃の射程内に含まれる可能性がある位置であることを理解してはいたものの、レイヴァースもアリフレートも退避することが出来ない。
当のクリストフがそれをする気配がないどころか、まるで迎撃しようとするが如く攻撃態勢を取っているからだ。
「「団長っ!」」
二つの声が重なる。
どう考えても無謀だ。
そんな気持ちが二人の女戦士に最悪の結末を想像させ、絶望に近い感情を抱かせていた。
止めるにしても、盾になるにしても、この位置ではどうにもならないとレイヴァースはクリストフの元へと走り出そうとしたが、ゲルトラウトに腕を掴まれたことで一歩目から先を踏み出すことが出来ない。
レイヴァースが反射的に振り返り、罵倒の言葉を吐き出しかけた時。
冥王龍を見据えながらジッと動かず、刀を頭上に翳し爆発力へと変換するエネルギーを蓄積させていたクリストフが動いた。
ほとんど真上から振り下ろす様に、両手で持ったノコギリ刀を振り抜くと通常の爆砲とは違った形の薄く、楕円形をした黒い気体が冥王龍の顔面へ向かって飛ぶ。
離れた位置にいる三人も、同じくクリストフの声によって足を止めていたブラックやユリウスも、クリストフが迎撃ではなく先制で仕掛ける意図があったことに驚きを隠せない。
それは冥王龍の【黒龍の鉄槌】を阻止する目的だけではなく、あわよくばその口内で大きさを増していく魔力の塊を誘爆させられたなら冥王龍に致命傷を与えることが出来る。そんな計算あっての先手の一撃だった。
それぞれが見守る中、クリストフの放った攻撃は冥王龍の下顎に直撃し大爆発を起こす。
三度爆炎に包まれた冥王龍だったが、やはりその大きな体がダメージを負った素振りを見せることはなく、続けて爆発が起こる気配が無いことがクリストフの狙いが実を結ばなかったことをも意味していた。
そして、離れた位置にいる五人を含めた全員がそれを理解したと同時に冥王龍から発せられている強大な魔力が異様なまでの禍々しさを帯び始める。
それはすなわち、今にも黒龍の鉄槌が放たれようとしていることを意味していた。
冥王龍は未だ眼下のクリストフを見下ろしている。口内の赤い球体はすでに一度目の発射時と同等の大きさにまで育っていた。
この瞬間にあの一撃を繰り出されたならば、少なくともクリストフに躱すことは不可能であることは明白。
誰もがその絶望的な状況に為す術を失い、どうすべきかを判断出来ずに瞬間的に肉体と思考が停止する中、唯一アリフレートだけが既に次なる行動に出ていた。
「団長っ!」
叫び声と共に素早く前に出ると、その過程で手にしていた鎖で繋がれた二本の鎌の一方から鎖を切り離し、繋いだままのもう一方を左手に持ったまま逆手で振り抜く様に右手で鎖を投げ付けた。
身長の五倍以上の長さを持つその鎖はクリストフに向かって真っ直ぐに伸びていく。
偏に団長の身を案じたその一連の動作は既に思考を凌駕し、本能が体を動かしている状態であると言えた。
先程までの位置では鎖の長さが足りないことを感覚で理解し、前方に移動しながら鎖を投げるための準備を完了させる。
それらの反応や判断を頭で考え計算するよりも先に自然と体が導いていたのだ。
本来闘争本能に欠け、幼さによる思考能力の稚拙さもあり想定外の状況への対処や咄嗟の判断が苦手なアリフレートが極限状態で見せた血統の片鱗。
すぐに鎖の先端がクリストフへと到達する。
クリストフがそれを片手で受け取ると同時にアリフレートは再び声を張った。
「ゲルトラウト隊長っ、手伝って下さいッス!!」
すぐに鎖を引っ張り上げる仕草を見せる。
非力なアリフレートに人間一人を持ち上げる力はない。
その意図全てをようやく理解したゲルトラウトはハッとした表情を浮かべ、慌てて横から鎖を掴むと力一杯両手で引き抜いた。
その瞬間、クリストフの体は宙に浮き勢いよく引き寄せられる。
僅かな誤差もなく冥王龍の口から魔力の塊が発射されていた。
まさに紙一重のタイミングではあったが、ギリギリ回避することで事なきを得られるレベルの威力ではない。
鎖ごと三人の居る方向へ飛ぶクリストフのすぐ後ろで再び地面が爆音と共に弾け飛んだ。
直撃こそ避けられたものの空中で身動きが取れない状態のクリストフも、そのクリストフと大差ない距離に居た三人も、その衝撃と爆風によって吹き飛ばされる。
四人は揃って地面を転がった。
最も近くでそれらを受けたクリストフと小柄で鎧を身に着けていないアリフレートのダメージは特に大きく、全身に強い痛みが走っている。
「団長っ」
真っ先に立ち上がったレイヴァースは痛む右腕を押さえながらクリストフに駆け寄った。
クリストフは若干よろめきながらもすぐに立ち上がると、側で呻いているアリフレートを抱き起こし、地面に転がる刀を拾う。
「大したことはない……あれを見てみろ、一発目よりも威力が落ちている事が分かる。こちらがほとんど何も出来ていないにも関わらずあの様では、やはり弱っているという情報に間違いはなさそうだ。そのおかげで無事だったとも言えるが、助かったぞルイーザ」
クリストフの視線の先には今の攻撃で地面に空いた穴がある。
その言葉通り、一度目の同じ攻撃の時よりもその規模は明らかに劣っていた。
数百年に及ぶ封印の影響とその中での大幅な魔力の消費により冥王龍は著しく本来の戦闘力を失っている。
その事実も、そうでなければここまで戦いが長引くことなく戦いが終わっていたであろうことも、帝国騎士団の面々が知る由はない。
しかしそれでも、見るからにその動きが鈍っていることだけは誰の目にも明らかであると言えた。
「いててて……団長が無事ならそれでよかったッスけど、どうするんすか?」
アリフレートもようやく自らの足で立つに至ったが、強く打ち付けた左膝で踏ん張ることが出来ず、片足だけが不自然に浮いていた。
その間に反対側に居たユリウスとブラックが合流する。
ブラックはゲルトラウトに駆け寄り、ユリウスはただ群れの中で立ち尽くしていた。
「せ、先輩……大丈夫なんスか?」
「一瞬気を失っていただけだ、問題はない」
飄々と言葉を返すユリウスだったが、未だその全身は激しい痛みに包まれている。
上空から地面に叩き付けられたのだ。問題が無いはずがなかった。
アリフレートは雰囲気からそれを察していたが、誰も彼もがふらふらになりつつある状態で人の心配をする発言ばかりなのもどうかと言葉を飲み込む。
すると、既に立ち上がりブラックと一言二言交わしていたゲルトラウトが全ての視線を集めようとするかの様な声と口調で割って入った。
「どうにか無事で済んだはええが……このままではジリ貧じゃぞ。どうにか奴を攻撃出来んと時間の問題でしかない」
「やはり私が……」
団長の盾になってでも。
そう言いかけたレイヴァースだったが、その声をもゲルトラウトは遮った。
「すっこんどれ、レイヴァース」
「な、なんだと……」
「痺れたままの腕で何が出来る。ここからは男の仕事じゃ」
レイヴァースは憤慨し反射的に悪態を吐きかけたが、言葉にならず憎々しげに舌打ちをすることしか出来ない。
両腕共に武器を握れる状態ですらないことを自覚しているからだ。
その様子を見てレイヴァースから視線を逸らし、ゲルトラウトは続ける。
「団長よ、偉そうなことを言うたがどうやらアレを使う以外に勝ち目はなさそうじゃ。奴を確実に仕留めるにはやはり大爆殺しかないらしい」
「俺はとっくにそのつもりだ。懸念材料は厄介な問題が変わらず一つ、ということか」
「一発で当てる方法、じゃろう。心配は要らん。そのチャンス……わしが作っちゃる。団長はそのことだけ考えとればええ、デカブツの相手はわしがする。ユリウス、ブラック、お前達もそのためだけに動け。死ぬ気でそれをサポートせい、男と男の約束じゃぞ」
ゲルトラウトはギロリと二人を睨み付け、その剣幕に返す言葉を飲み込む皆の視線を背に受けながらそのまま冥王龍の元へと近付いていく。
「ど、どうするつもりなんスか……ゲルトラウト隊長は」
少しずつ遠ざかっていく後ろ姿に、若い二人は戸惑いを隠せない。
それでいて直前のやり取りが後を追うことを躊躇わせていた。
「オイラに聞かれたって分からねえよい。何をしようとしているにしても、只ならぬ決意があることだけは嫌でも分かるでやんす。だったら、オイラはそれに従うだけだよい」
「ブラックの言う通りだ。デバインに何か考えがあるならば俺達がそれを台無しにするわけにはいかん。ラミアス、ルイーザはここで待機、フレデリック、ブラックは付いてこい。俺の身の心配はもう必要ない、我が渾身の一撃を奴に食らわせることだけを考えてくれ」
クリストフもその言葉を最後にゲルトラウトの後に続いてその場を離れる。
先程の迎撃狙いの攻撃と同じく、自分が無事でいられる勝ち方を追求する気など既に消えてなくなっていた。
その頭にあるのはゲルトラウトが何を目論んでいようとも、そこに可能性があるならば機を逃すことだけはしない。ただそんな決意と覚悟だけだ。
待機という命令に異論を挟もうとしたレイヴァースとアリフレートも、具体的な指示がなくどう動くことが最良なのかを問うとしたブラックも二人の只ならぬ様相に言葉を飲み込み、ユリウスとブラックだけが無言でその背を追う。
唯一ユリウスだけは始めから自己判断で動くつもりでいたため特に何も感じてはいなかった。
そんな三人の前でゲルトラウトは今空いたばかりの地面の穴を避け、一人冥王龍を目の前に到達してようやく立ち止まる。
背に戻していたクラック・ハンマーを抜き、ニヤリと笑った。
「おうデカブツ、ええ加減コソコソ逃げ回るんはやめじゃ。一丁わしが男の戦いっちゅうもんを見せちゃるけえ掛かってこいや」
見上げて放ったその言葉が届いているのかいないのか。
動きを止め、戦闘を続けるだけで著しく消耗していく肉体の回復に努めていた冥王龍はすぐさま攻撃を仕掛けた。
またしても太く長い尾が真横からゲルトラウトを襲う。
ゲルトラウトは避ける動きを一切見せず、迫り来る黒き尾に向かって両手で持ったハンマーを真横に振り抜いた。
その二つがぶつかり合った瞬間、ゲルトラウトの体は僅かに宙に浮いたもののレイヴァースの様に吹き飛ばされることなく、両足が少しばかりの距離を滑るだけで持ち堪えてみせた。
クラック・ハンマーには打ち付ける強さに比例した衝撃波を放つ特性がある。
直撃と同時に放たれた衝撃波が尾の威力や重量を相殺していたのだ。
それを証明する様に冥王龍の尾は弾き返され、向きを変えている。
ここに来て始めて、まともに攻撃を防いだといえる結果に背後で見守る三人もただ息を呑んだ。
「さすが隊長でやんす……」
ただ一人、ブラックの口から呟く様な感想が漏れる。
クリストフとユリウスは静かに、いつでも動ける心構えを維持することだけを考えていた。
目の前では冥王龍が大きな左足を上げ、ゲルトラウトを踏みつけようとしている。
さすがのゲルトラウトも腕力で防ぐことは困難だと判断しそれを躱したが、後方に飛び退いたと同時に次なる攻撃が繰り出されていた。
弾かれたはずの尾が再び伸びる。
それは薙ぎ払うための横の動きではなく、鋭利に尖った先端を向けた鋭い突きだった。
躱すのか、それとも武器で対処するのか。
そんな心境で見守る五人の前でゲルトラウトが取った行動は、全てにおいて予想外のものだった。
「そうくるのを……待っとったぞ」
もう一度ニヤリと笑みを浮かべたかと思うと、ゲルトラウトはハンマーを放り捨てる。
そして、まるで尾を受け止めようとするかの様に両手を開き、身構えた。
速度、重量、そして鋭利さ。
全てにおいて素手で受け止められる攻撃ではない。
傍目に見ても火を見るよりも明らかである状況であったがゲルトラウトはその体勢を崩さず、誰かが制止の言葉を投げ掛ける間もなくその攻撃をまともに受けた。
「がはっ……」
長い尾が鎧ごと胴体を貫く。
同時にゲルトラウトは口から大量の血を吐き出した。
しかしそれでも、貫通した尾が腹に穴を空けた状態でありながら両手ががっちりとその尾を掴んでいた。
「さあ……これでお前も逃げ回ることは出来んぞ」
唸る様な声が静かに響く。
その顔は変わらず、不敵な笑みを浮かべたままだった。
「た、隊長っ!」
その光景に愕然とし、絶望し、震える声で叫びながらブラックは慌てて駆け寄ろうとするが、それを制したのは他でもない、ゲルトラウト自身だった。
「来るなぁ!!」
口から血を流しながら、ゲルトラウトは声を荒げる。
ギロリと睨み付ける強い眼力がブラックの足を止めた。
恐れを抱いたわけでもなく、怯んだわけでもなく、ただ気圧され、動くことが出来なかった。
「男と男の約束……忘れたら許さんぞ」
ゲルトラウトが言葉を絞り出すのと同時に冥王龍は体を揺らし、尾を暴れさせ始める。
掴まれたままの尾からゲルトラウトを振り払おうとするその動きに対し、ゲルトラウトは踏ん張り、両腕に力を込めることでそれをさせずに耐え続けた。
全ては素早い身のこなしを封じ、クリストフの攻撃を回避する術を奪うための布石。
しかし例え万全な状態であったとしても、どれだけ特出した怪力を持っていても、冥王龍の重い体をいつまでも腕力によって押さえ付けたままでいることは不可能に近い。
それを自覚し、残された時間が多くないことを誰よりも理解しているゲルトラウトは気力を振り絞り、腹心の名を叫んだ。
「ブラック!!」
「ちっくしょぉぉっ!!」
取り乱し、雄叫びの様な声を上げながらもブラックはすぐに呼応し右腕の砲筒を冥王龍に向ける。
発射された魔法弾は真っ直ぐに冥王龍へと向かって飛び、その首元に直撃した。
瞬く間に濃い煙幕が顔面から上半身全体へと広がっていき、互いの姿を視界から消していく。
それは動きを封じられつつある冥王龍の行動を阻害し、それでいて味方の攻撃に対処させないための一撃。
ブラックは焦る気持ちのまま、残る最後の一手を催促しようと振り返る。
そこにいたのは、全ての準備を完了させているクリストフだった。
「デバイン……お前の覚悟、無駄にはしない! 大爆殺!!」
尋常ではない濃度を持ったオーラを刀に集中させ、突きを放つ体勢を取っていたクリストフは迷うことなく、自身の最強最大の技を繰り出した。
螺旋状の黒い闘気が冥王龍に向かって伸びる。
最後の手段。
そして、唯一の手段であるその一撃の行く末をブラックも、後方で待機しているレイヴァースやアリフレートも、祈る様な気持ちで見守っていた。
煙幕に包まれ、ゲルトラウトを貫いた尾が暴れようともがく動きすらもままならない状態にさせているその巨体に渾身の一撃が炸裂する。
黒龍の鉄槌と同レベルの大爆発を起こし、煙幕ごと大きな炎が冥王龍を飲み込んだ。
呻き声の様な咆哮が響き渡り、冥王龍は見るからに苦しむ素振りを見せている。
ほぼ全ての団員が次の行動へ備えることも忘れて見つめる前で爆炎は徐々に消失し煙が薄れていくと、その先に居たのはピクピクと全身を痙攣させながら動く気配の無い冥王龍の姿だった。
上半身の大半が抉れ、焼け爛れ、肉や骨が露わになっている。
誰がどんな見方をしても、紛れもなく致命傷と言えるダメージだった。
そして。
そんな有様でいながらも絶命に至らない生命力に驚くよりも先に団員達を驚愕させたのはただ一人、見守るという選択肢を放棄していたユリウスである。
全ての視線の先でユリウスは冥王龍の頭上に着地した。
その行動を把握していた者は居らず、四人はただ言葉を失っている。
騎士団の勝利のために尽くそうという意図があったわけではない。
ゲルトラウトの覚悟に心打たれたわけでもない。
ユリウスがその行動に出た理由はただ一つ。他人をあてにしていなければ、するつもりもない。それだけのことでしかなかった。
ゆえに、ユリウスはクリストフが大爆殺を放つと同時に冥王龍へと突進していた。
ゲルトラウトの背を蹴り、尾を二度蹴り、最後に背中を蹴って冥王龍の頭上へと降り立ったのだ。
「フン、何が地上最強の生物だ……この死に損ないめが」
鉄仮面の奥で冷酷な目を浮かべながら、ユリウスは右手に持つ煉蒼闘気を帯びた剣を頭蓋に深く突き刺した。
瀕死の冥王龍は再び呻き声を上げ、大きな口を開いたまま前のめりに崩れ落ちていく。
地響きを立てて倒れ込んだのちその巨体が動くことはなく、やがて巨大なドラゴンの姿は消えてなくなった。
仇敵は死滅し、離れた位置で見守る四人の前に残ったのは冥王龍の上から飛び降り、着地したユリウスと刺さっていた尾が消え、腹から夥しい血を流すゲルトラウトだけだ。
ゲルトラウトは体を揺らしながらよろよろと数歩後退し、そのまま仰向けに倒れる。
「デバイン!」
「「ゲルトラウト隊長!!」」
団員達はすぐにゲルトラウトへと駆け寄った。
クリストフ、ブラック、アリフレートの三人はその脇に屈み、動くことなく地面に血溜まりを作る同志に精一杯の声を掛ける。
もはや助かる見込みなど無いことを、理解した上で。
「デバイン、すぐに連れ帰って治療させる。少しだけ我慢してくれ」
「アホ言え……どてっ腹にこんだけデカい穴空けられて助かるわけがないじゃろう……いくらわしでもキツいわい……勝てたならなんぞ文句は無いが…………そろそろ限界じゃ」
「そんなわけないでやんす……すぐによくなるよい!」
「そうッスよ! ゲルトラウト隊長が居なくなったら誰が部隊を纏めるんスか!」
「泣いとる場合か二人とも……お前達にゃまだまだやることがあるはずじゃろう……ブラック……後は頼んだぞ。わしの分まで団長の役に立ってやってくれ」
「…………」
虚ろな目で自分の名を呼ぶその姿にブラックは涙を流し嗚咽を漏らすことしか出来ない。
「レイヴァース、それにユリウス……ちっとは仲良うせいよ。お前達がおるけえわしも安心して逝けるんじゃ……わしらが最強じゃと信じたままでおらせてくれ…………絶対に、負けんでくれよ」
「ゲルトラウト……」
「…………」
レイヴァース、ユリウスも泣いてこそいなかったが、返す言葉が見つからない。
「アリフレート……ユリウスのこと……頼んだぞ…………それから、お前はまだ若いんじゃ……しっかり生きい」
「ゲルトラウト隊長……」
アリフレートも徐々に温もりがなくなりつつあるごつい手を握り、溢れる涙を拭うだけだ。
「団長……最後まで付き合えんで悪いのう……あんたのおかげで人として生きた時間が残ったんじゃ……誰が何と言おうと……わしらの大将はあんたじゃ……未来と栄光をあんたに託したんじゃ……だから…………最後まであんたが信じる道を……進んで……く……れ」
掠れた声で途切れ途切れに最後の言葉を紡ぐと、ゲルトラウトはそのまま目を閉じる。
指一つ、眉一つとして動く様子はなく、それ以上言葉を続けることはなかった。
その姿を見下ろし、クリストフは立ち上がると胸に拳を当て目を閉じる。
「必ずやお前の生き様に報いてやる。誇り高き同志よ、安らかに眠れ」
涙を流す二人、そして無言で亡骸を見つめる二人の間にそんな声が届いた。
こうして。
冥王龍はこの世から消え、帝国騎士団の、ひいてはエリオット・クリストフの無き祖国の弔いという長き宿願は果たされた。
デバイン・ゲルトラウトという名の一人の豪傑の命と引き替えにして。