悪魔の秘書でありまして ―赤本争奪戦……かもしれない―
色々崩壊しております。
それでよろしければ、皆様のお時間を頂けましたら幸いです。
「ああもうっ! 良いからその本渡せテメェっ!!」
「誰が渡すかド阿呆! このお宝はオレ様が持つに相応しいモンなんじゃ!」
人々の間をすり抜けつつ、赤い表紙の本を持って逃げる相手を、俺は必死の形相で追う。
いや、既に死んだ身なのだから、「必死」って単語を使うのも変なんだが……まあとりあえず、俺は幽霊みたいな存在だと思ってくれれば良いだろう。お陰で肉体的な疲労は感じないから、いつまでも追いかけっこは出来る訳だが。
……その代わり、死んで以降は精神的な疲労と言うかストレスと言うか……とにかくそう言った物が常に付きまとうが、それは俺の置かれた状況のせいだ。
今だって相手を追いかけながら、絶賛ストレス溜めまくり中。
くそ。屋敷に帰ったら絶対にあの男、罵倒しまくってくれる。
心の中で固く誓いつつ俺は相手をひたすら追いかける。人々の間をすり抜け、時に人の体をすり抜けて。
「って言うかっ! そもそもその本はウチのアホな主人が逆詐欺にあって取られた物なんだから! 所有権は一応あのどうしようもないダメ悪魔にあるんだよっ! 良いからさっさと本返せっ!」
「阿呆! そら盗まれたお前ンとこの主が悪いんじゃ! 大体、今の所有者は『人間』じゃヴォケがっ!」
「その人間からかっぱらっといて何ぬかすかこのカラス頭!」
「カラスカラスとじゃかぁしわっ。『こっち』ではこんな姿になってまうんじゃ! 人の姿に文句つけんなや。って言うか、何で『財産』である人間の魂がフツーに生活しとんのんじゃ!? お前変やぞ!?」
「変言うな! ウチのアホな主が、俺を秘書認定したからだろ!」
罵りあいの追いかけっこと言うシーン展開からのスタートで誠に申し訳ない。俺もほとほと短気なモンで。
さて、状況を説明していなかったので簡単に。
俺は今、ある博物館から盗まれた赤い本を追って、それを盗んだ存在を追っているところだ。
さっきの会話で言えば、「本返せ」と言っている方と認識して頂きたい。
俺が追っているのは、人の体を持った双頭の鴉……マモンと言う悪魔さん。この人、今まで出会ったどの悪魔さんよりも……言葉遣いが悪すぎる。
と、言った所で、あまりにも突拍子もない単語続出の為ついていけないであろうあなた方に、俺と言う存在の事を簡単に説明させてもらいたい。
*
俺は、最初に言った通り、諸事情によって「死んだ」存在だ。ここにいる俺と言う「意思」は、肉体を持たない魂、つまり俗に言う幽霊だと思ってくれれば良い。
さて、そんな「俺」なのだが。記憶に無い、詐欺紛いの方法で取り交わされた「死後、俺の魂はあなたの所有物です」という契約に基づき、ある1人の「悪魔」の所有物となった。
なお、彼ら曰く。
「悪魔とは、ちょっと位相のずれた空間に住んでいる、人類の一種みたいな物」
だそうで。確かに、見た目はごく普通の人間だ。服のセンスは壊滅的だ。
しかし性格に難があり、強欲、傲慢、おまけに短気な連中ばかり。色々と価値観も「人間」とは異なるし、存在可能時間……所謂「寿命」も人間に比べてはるかに永い。
彼らにとっての財産は「人間の魂」であり、それをどれだけ保有しているか、そしてどれだけレアな物かと言う部分で競い合っている。
つまり俺自身も、俺の「所有者」の財産扱いなのだが……この所有者がまたとんでもない変人で。
「同族の秘書に飽きたから、君が僕の秘書やってよ」
と、通常なら保管庫に入れて大切に扱う「魂」である俺に、「あっち側」で自由に動く権限と秘書と言う肩書き、そしてストレスと戦う日々を与えてくれた。
自由に動く権限は、素直に嬉しい。「奴の秘書」と言う肩書きも、虎視眈々と「俺」と言う財産を狙う連中への抑止力になっているからまあ良いだろう。
だが、最後の1つはいらん。余計だ。何しろ俺の所有者は、彼ら悪魔の中でも指折りの「ドS」。日々俺に無茶な要求を突きつけては、疲労困憊する俺を見てケタケタと笑う極悪非道のまさに「悪魔」。
……所有者と言うか主と言うか、とにかく俺の「持ち主」の名はバアルと言う。一応「国」でも66の軍を持つ相当な権力者だと聞いている。実際、「国」の北側一帯はこいつの管理下にあるらしい。
胸ポケットに猫と蛙のアップリケ、裾には銀糸で蜘蛛の巣の刺繍が施された白衣を身に纏う、外見20代前半のおにーさんだ。
やたらと明るく爽やかに詐欺を働くと言う、おそらく最も性質の悪い男の為、見目に騙されてこの男に泣かされてきた存在は数知れないだろう。事実、俺が秘書をやるようになってからも、この男に泣かされてきた悪魔さんは数え切れない。
噂によれば他の実力者として、アスタロト、ベールゼブブ、そしてルキフェルとか言う連中がおり、更にその上にサタンと言う名目上の「国王」がいるそうだが、残念ながらこの中ではアスタロトと言うひょうきんにーちゃんとしか会った事が無い。あの人は珍しくまともな良い人だった。
まあそれはさて置く事にして。とにかく、俺は「悪魔の秘書をやっている幽霊」だと思ってくれればそれで良い。
さて。そんな俺が何故、「人間の住んでいる位相」……つまり「こっち側」で、悪魔を……と言うか赤本を追いかけているのかと言うと。
……事は「こっち側」で言う2日前に遡る。
その日は「国」としては比較的平穏な日だった。珍しくバアルが机に向かって溜まりまくった書類の山をマトモに処分し、襲撃や邪魔も入らず、穏やかかつ静かな空気を満喫していたのだが……
「あ、やっばい」
「あ? どうしたよバアル?」
何かを思い出したのか、ぴたりとペンを止め、顔をあげた「我が主」に、俺はいつも通り冷たい視線を浴びせながら声を返す。
主に対して不敬だと思われるかも知れないが、バアル自身がこれで良いと言っているのだ。むしろ敬語を使おうものなら「つまらない」の一言の下、徹底的な嫌がらせが始まる。
……普通逆だろうと思うのだが、俺のこういった態度が新鮮らしく、バアルはいつも楽しそうに俺の反応を観察し、日記をつけているとかいないとか。
朝顔か、俺は。
そんな風に思う俺を余所に、珍しくバアルは困ったように眉を八の字に歪めると、俺の目の前に1冊の小さな冊子を放り投げる。
掌より2回りほど大きい。黒い表紙に、この「国」の紋様が箔押しされており、上の方にはこの「国」の文字で何やら書かれている。
ちなみに。どういう訳か言葉は通じるのだが、文字は日本語と全く違うので、俺は現在読み書きの練習中である。
この文字にも大分慣れてきたとは言え、今でもスラスラと読めるとは言い難い。
「……何だこれ? えーっと……ぱすぽぉと……って、パスポート!? 悪魔にもそんなモンがあるのかよ?」
「あるよ~。僕達が『あっち側』に行く為には、パスポートは必須。じゃないと不法入国で強制送還されるんだもん」
あっち側……悪魔にとっては人間が住む位相。
って言うか強制送還ってオイ。そもそもこいつらに法ってあるのか? 仮にあったとして、こいつらそれをまともに守るのか?
「……何をそんなに驚いてるのさ」
「いや……フリーダムなお前らに、法と言う概念がある事にちょっと」
「一応ね。国の中なら概ね何をやっても良いけど、流石に位相の違う場所でそれはまずいよ。どんな影響を及ぼすか分らないもん」
ほう、一応自分達がトンデモだという自覚はあるのか。
まあ確かに、こいつらが変な事をしでかして、か弱い人類が滅亡しました、なんて事になったら困るのはこいつらだもんな。何せこいつらの財産は「人間の魂」。それが枯渇するって事なんだから。
とか思いつつ、俺は渡されたパスポートをぱらりとめくる。バアルの顔写真と名前、生年月日、そしてパスポートの有効期限が記載されており、下の方には自著署名もある。
俺は生前にパスポートを取得した事が無いからよく分らんが、イメージの中にあるパスポートと大して変わらない。ごく普通の物だ。
「これがどうした?」
「いやね、期限が切れちゃってるんだ。ほらここ」
トン、と整った指先を期限の部分で指し示すバアル。
言われてみれば、確かに期限が2週間ほど前で切れている。再取得するまでの間、こいつは人間にちょっかいを出せないと言う事か。
……それはそれで平和的で良いな。少なくとも俺のように詐欺紛いの方法で契約させられる人間が減る訳だ。その分、俺のストレスは溜まるのだろうが。
思いながら、俺はその黒い冊子をバアルに返し……
「で? 期限が切れたら何か問題でもあるのか?」
これで、「再取得が面倒だからとって来て」などと言い出したら、問答無用で殴り飛ばす。と言うか、この男は言いかねない。それも爽やかな笑顔で。
言われる物と思い、拳をこっそりスタンバってバアルを見るが……どうも、おかしい。
いつもならここで、さっき予想したような笑顔を見せるはずなのだが、今回は違った。
いつに無く真剣な表情でむう、と唸りを上げ、困ったように自身のこめかみを押さえている。
「いつもは無いんだけど、今回はちょっと大問題があってね」
言いながら、バアルは近くの新聞立てからばさりと新聞を取り出し、その1面に踊る見出しをこつんと叩く。
随分と大きく取り上げられているって事は、大ニュースなのだろう。
必死にその字を読み解き、俺はそれを声に出す。
「なになに? 『赤本、ついに日本上陸』? ……これがどうしたよ?」
「赤本」。俺にとっては大学の入試問題の過去問集を連想させる単語だが、恐らくは違う。と言うか今更過去問集が日本に上陸とか、無いから。既にあるから。
と言う事は、この国では全く違う物を指すのだろう。それも、かなり重要な物を。
きょとんとする俺に気付いているのか、バアルははあ、と深い溜息を吐き出すと、言葉を紡ぎ始めた。
「いやね、それ、昔僕が『あっち』に遊びに行った時、『あっち』の住人に見事にパクられた『魂所有台帳』兼部下達に言う事を聞かせる為の『給与査定表』でさ~」
「……待て」
「今はまだその台帳の所有者が僕だから良いんだけど、昔っから色んな同族が台帳の所有者名を上書きして、人の財産ごっそり持っていこうと企んでるんだよねー」
いやいやいや。おかしいだろ、普通に。だって、言ってしまえば所有台帳って事は、財産管理に必要な物だろ?
しかも給与査定表も含めてるって?
おまけにそれを人間にパクられた?
……この詐欺師バアルを出し抜ける人間って、どれだけの詐欺師だよ。
「…………よく今まで無事だったな、そんな財産ごっそりと頂かれちまう様な本。絶対他の連中が黙って無いだろ」
「うん。一応パクった人間とその子孫達が、厳重に保管していたらしくてね。こっちも手出しが難しかったんだ。盗もう物なら銃火器取り出してくるし。おまけに信じている宗教の関係なのか、聖水と言う名の腐った水をかけてくるし、おまけにやたら大きな十字架で殴りかかってくるし……悪魔祓師なんて最悪だよ? 最終手段使って来るんだもん」
最終手段って何だ? 俗っぽい感じだとニンニクか? それとも銀の弾丸か? ……そんな物でこいつらって死ぬのか?
「でも、日本って割と平和ボケしてくれてる上に、宗教が色々と混在しているせいか悪魔祓師も少ないから、ここぞとばかりに強奪しようとする輩が出てくると思うんだよねー。そうなる前にとり返しちゃおうかと思ったんだけど」
「取り返す」が「盗り返す」と聞こえた気がするが気のせいか? いや、こいつならやる。多分普通に、いつも通りの詐欺紛いの方法で上手い具合に騙くらかして、その赤本とやらを手に入れる。
「なら、行って取り返してくれば良いだろ」
「でも僕、さっきも言ったけどパスポートの期限切れで行けないんだよねー。困ったなー。公開日は明後日だから、今からパスポートを再取得しても間に合わないんだよねー。こっちに赤本が返ってきてからじゃあ、きっと血の大雨が降る予感がするなー」
チラッ。
……これ見よがしな上目遣いを送り、バアルはチラチラと俺を見やる。
こいつは暗に、「あっち側」で取り返せなかった場合、赤本持つ悪魔、ならびにそれに組みする者全員を虐殺すると言っているのだろう。
この男の性格上、自分の物を奪われるのは我慢ならないだろうし、部下が自分から離反するのは許せない。他人の物に興味は無いが、自分の物に関する支配欲、独占欲は人一倍あると言う面倒臭い男。
この男を敵に回そうものなら、こいつと同等の力を持っている奴じゃなけりゃ渡り合えない。
……とは言え。俺に何が出来ると言うのか。チラチラと視線を送られても、何も出来ないのは明白だ。
「俺をチラ見しても無駄だぞ。ごり押しでパスポート作れって言うのか? あるいは偽造か?」
「いやいや、パスポートに関しての偽造等は国際問題に発展するから駄目。パスポート申請の類は、ルキフェルと言う堅物が管轄だから、ごり押しで行っても無理」
「……なら、どうしろと。言っておくが、俺は当然パスポートなんか持ってないからな」
頭痛を堪え、そう言った瞬間。バアルの顔が、楽しげに歪んだ。
あ、ヤバイ。こいつがこの顔をした時は、大体にして俺が大変な目にあうのが常だ。しかも目論見が上手く行った時とか……
最初からこいつ、俺をはめる気でいやがったな……
「んっふっふ~、君に関しては問題ないんだなぁ~」
「……あ?」
「だって君、ウチの『国民』じゃなくて、僕の『所有物』でしょ? この場合パスポートは不要、と言うかそもそも日本って君の故郷でしょ? 『里帰り』って事で『あっち側』へは割と自由に行き来できるんだよ」
……どんな屁理屈だそれ!? 逆に言えば、俺が今この国で不法入国じゃないのか? いや、「物扱い」って事は、俺、輸入品って事だよな? 関税とか通ってたのか? って言うか「物」の里帰りなんぞ聞いた事無いぞ!?
いやいや、その辺は実は思い切りザルな感じのこの国の事だ、きっと大丈夫なのだろう。何しろ上の方であるこの男がこんな感じだ。
だが、天下御免のドSであるバアルが、俺に何のリスクもない状態で放り出すはずもない。何しろ俺を虐めて楽しむ男だ。今回だって物凄いストレスフルな事を予測した上での言動に違いない。
「……その場合、俺へのリスクは?」
「彼らから見たら、君って幽霊だからね。お祓いされて成仏って可能性は高いよ。あるいは他の悪魔に拉致されて、『あっち側』の別荘で保管、監禁されちゃう可能性もある。そうなったら、僕は手を出せない……かもしれない」
成程。国内ならバアルの手が及ぶ範囲。俺と言う財産が、仮に何者かに奪われたとしても、この男の事だ、かなり残虐な方法で相手を追い詰め、俺と言う「使える道具」を取り返すだろう。
だが、人間の住む位相で奪われたとなれば話は別。仮に入国できたとしても、俺の居場所を知る為の情報網は無いだろうし、下手に大暴れして被害を出したらそれこそ強制送還だ。
それに、「お祓い」された場合は、バアルでもどうしようもない。どうなるのかは分らないが、十中八九「俺」自身が消えるか、この国に帰ってこれないよーな処置を施されるのだろう。
それは、困りはしないが……色々と問題が起こるだろう。特にバアルの仕事面で。こいつは誰かが……それこそしがらみの無い俺のような奴が側にいて手綱を引かないとどこまでも怠ける男だから。
「でもでも~、赤本も大事なんだよねー。あれに書かれている所有財産、ぶっちゃけ今持っている財産の半分くらいだしぃ」
「……半っ……ホント何でそんな大事な本をパクられてるんだよ、お前はッッ!!」
くらりと眩暈がする。
こいつが持つ財産の半分。以前別の悪魔さんに聞いた話だが、こいつの持つ財産はその1割でも、その辺の悪魔が一生かけて稼げるか否かの物らしい。それが、半分? 信じられない、有り得ない。
だが、そのあり得ない事を平然と起こしてしまうのがバアルと言う悪魔だ。独占欲、所有欲は強いのに、管理面になるととんでもなく下手な男。なまじ無駄なくらい財力があるせいで、その価値をほとんど理解していない。
「と、言う訳で。悪いんだけど、他の悪魔に取られた場合のみ、とり返してくれない? 勿論、それなりのフォローはしてあげるから。……あ、ちなみにこれ、所有者命令ね。キリッ!」
綺麗な……明らかに何かを企んでいる笑みを俺に向け、バアルが言う。それに対し、俺は深く……それはもう物凄ーく深い溜息を吐き出して、答えを返した。
「……承知致しました、『我が主』」
畜生、「所有者命令」を持ち出されたら、従うしかないだろうがよっ!!
あと……キリッとか口で言うな鬱陶しい!
*
……で、現在の追いかけっこに到る。
位相がずれているせいか、「国」ではごく普通の人間の格好をしている悪魔さん達も、こっちに出てくると怪物っぽい姿に変わるらしい。
赤本を公開すると言う博物館を見て回っていたが……確かに平和ボケしているのか、セキュリティが甘い。
生きていた頃はそうは思わなかったが、しばらくあの国で生活していたせいだろうか。あまりにも平和すぎて……大丈夫かと疑ってしまう。
そして、その疑いは現実の物になった訳だ。公開初日の閉館間際、あのカラス頭……マモンが乱入。あっと言う間にショーケースを壊し、赤本を持ち去って逃げたのだ。
後はご覧の通り、「返せ」、「返さんわい」を繰り返しながらの追いかけっこだ。
おまけに街往く人々はマモンを「仮装した人」と認識しているらしく、何かの撮影では無いかと思ってざわめく始末。俺の姿は見えていない為に、余計に何か台詞を言っているように見えるのだろう。
が、残念な事にこれは撮影では無いし、マモンの顔も特殊メイクなどでは無い。
「何じゃおどれらっ! 撮るなアホ、肖像権の侵害やぞ!」
「カメラ!? そんなモンあるかい!」
「ああもうっ! 群がるなカスがっ! 丸焼いたろか」
「ててててててっ! 何しよんねんこのガキゃぁ! ホンマに丸焼きにしたるど!? せやから人の髪毟るな……あいてててててて」
とまあ、群がる野次馬に凄みを利かせつつ、そんな事気にしない皆様に写真撮られまくるわ、もみくちゃにされるわ、更にはお子様にカラス頭の羽根……本来は髪の毛らしいそれを毟られるわと散々な目に合わされている。
……それでも赤本を離そうとしないその強欲さ加減には、天晴れと言いたい。
何とか人混みを抜け、更に追っかけてくる野次馬を撒いて、マモンと俺が廃墟らしき場所に辿り着いた時には、既に彼はかなりボロボロの状態だった。
羽根もかなり毟られているところを見ると、国に帰ったら10円ハゲがかなりの数出来ていそうだ。
「……大丈夫か?」
「おんどれ目ェあるのんけ!? これのどこが大丈夫に見えるんじゃ!?」
「いや、社交辞令だから。そして本返せ」
「お断りじゃ言うてるやろ。ようやく巡り巡った機会やど? オレは誰よりも財産が欲しいんじゃ。これさえあれば……そして所有者の上書きさえしてまえば、それも達成される。……オレのモンじゃ、誰が渡すか」
ギロリと、悪魔なら誰もが見せる殺意の篭った欲深い視線を俺に送り、マモンはぎゅうと赤本を胸に抱く。
言葉から推察するに、所有者の上書きはまだされていないらしい。まあ、上書きしている暇なんて無かっただろうが。
と言う事は、本の所有権はまだバアルにある……と言う事なのだが…………
さて、どうするか。ここからが問題だ。
マモンを追い詰めたとは言え、相手は残虐、かつ狡猾な悪魔さん。方やこちらはただの人間。おまけに実体を持たない魂だ。取り返すにしても、武力とか腕力とか、そう言った物に訴えられたら間違いなく俺は負ける。
既に死んでいるので、「死ぬ」と言う事は有り得ないが、それでも痛い事は痛い。
多少はバアルから剣術指南を受けているが、未だに下っ端悪魔さんから一本も取れていない。
だからと言って、俺、バアルみたいに舌先三寸ってのも得意じゃないしなぁ……
どうしようかと悩んだ瞬間。俺が悩んでいるその隙を突いて、マモンは俺の脇をすり抜け、「門」……つまり、「国」と「こっち側」を結ぶ「入国管理局」のような場所へ向かって一気に駆け出していく。
「っ!? しまった、逃げた!」
「かっかっかっか! 油断したな、アホ!」
怒鳴るカラスの顔が、不敵に歪む。まずい、これで俺の目の届かない所で本の所有者名を変えられよう物なら……バアルの奴が何をしでかすか、分ったもんじゃない。
良くて俺への嫌がらせ的八つ当たり、悪くて「国」を巻き込んだ壊滅的な八つ当たりだ。
……そこ、「どっちにしろ八つ当たりかいっ!」とか言うツッコミ入れない!
どっちに転んでも俺が痛い目を見る事になる。そんなのは丁重にお断りしたい。とは言え、既にマモンと俺との距離はかなり開いている。ヒトと言う障害物がない分、余計にマモンにとって逃げ易い状況なのだろう。
「ヤバイ、マジで逃げられちまう……」
最悪の事態を想像し、顔から血の気が引いたような感覚に囚われた瞬間。
「案ずるな。……私が逃がさん」
「へ?」
耳元で、誰かの声がした。
それに驚き振り返ると……そこには、蒼い顔をした爺さんが、鰐に跨って座っている。そして爺さんの右腕に止まっていた大鷹が甲高い鳴き声を挙げた瞬間。
……さっきまで遥か前方を走り、逃げていたはずのマモンが、唐突に俺の目の前へと瞬間移動してきたのだ。
「え?」
「なんじゃ!? 何が起こったんじゃ!?」
俺とマモン、2人して何が起こったのかわからず、驚きの声を上げる。
隣で鰐の頭を撫でている爺さんが、ドヤ顔でそんな俺達を見上げているところを見ると、今のはこの爺さんがやったと言う事か。
けど……どうやって?
『そんなの、こいつの『逃亡者を戻す力』で呼び戻されたからに決まってるでしょ? お兄さんはともかくとして、マモンが知らないはず無いよね。お前、馬鹿なの? 死ぬの?』
俺の心の声に答えるように、今度は頭上から無数の声が同時に響く。直後、爺さんとは逆隣へズドンと言う派手な音と共に何者かが降り立つ。
そろりとそちらに視線を向けると……一応、人間のようなシルエットはしている。ただし、首から上のみならず、全身に無数の老若男女の顔があって、こちらに視線を向けているような存在が、人間のはずが無い。右手に抱えている分厚い本にだけ顔が付いていないのがせめてもの救いか。
って言うかもう普通に怖いんですけど。そもそもこいつら、誰!? 新手!?
『……何? 助けてあげたのに『怖い』とか失礼じゃない? しかもボク達の事疑ってるの? 豆腐の角に頭ぶつけて死ぬ?』
「何と。私達が分らんか、秘書殿? 君の護衛を、バアルに頼まれたのだが」
「顔だらけ」の言葉を受けてなのか、爺さんも眦を下げて俺を見上げる。
……いや、俺の知り合いにこんな格好の人はいないから。
そりゃあ、「顔だらけ」の言葉は「国」で仲良くしてもらっているダンタリオン君と言う、「ヒトの心が読める悪魔さん」の物言いに似ていなくも無い。
スラスラと罵倒の言葉が出てくる辺りとか、俺の事を「お兄さん」と呼んだり自分の事を「ボク」と呼んだりする部分も似ているし、人の心を読んだ様な物言いも似ている。
しかし俺が知る彼の外見は8歳くらいの少年だ。服に人の顔が沢山プリントされたシャツとか、頭にヒーロー物のお面とかを沢山つけて…………
…………待て。まさかひょっとしてこの「顔だらけ」は……?
『お察しの通り、ダンタリオンだけど。『こっち側』に来ると、こんな格好になっちゃうみたいなんだよね』
全ての顔が同時に溜息混じりの声で言う。その中でメインになっている呆れ返った顔は、確かに俺の知るダンタリオン君の物と同じだ。
そうなると……何か? そこにいる鰐に座っている爺さんも俺の知り合いなのか?
鰐に座ってる知り合いと言えば……1人しかいない。
「あの、ひょっとしてアガレスさん、ですか?」
「うむ。気付かなかったか?」
「すみません、俺が知ってるアガレスさんは、そんな爺さんじゃなくてもっと良い男なんで。おまけに今日のエリーちゃんも、普通の鰐にしか見えませんし」
「爺さん」こと、アガレスさん。こちらも「国」で色々と教えてくれている悪魔さんだ。バアルの秘書である俺に、「国」の文字やら独特の言語やらを教えてくれている、言わば「先生」と言った所か。普段の見目は、やり手のサラリーマンと言った感じだ。
ただ、この人も「国」では例に漏れず、センスがよろしくない。
服のセンスはそれ程でもないが、移動手段が「鰐っぽい生物」である「エリーちゃん」なのだ。そんな彼女の外見は、睫が長く、ピンクのフリフリドレスを着た「可愛くデフォルメされた鰐」。ちなみに尻尾にもピンクのリボンが可愛らしく結ばれている。
「エリーの愛らしさがこちら側では表現できないのは、大きな痛手だな」
『本気でそう思ってるんだとしたら、相当な親馬鹿だよね。どこが可愛いの、それ。センス最悪』
普段と違ってステレオで響くせいか、ダンタリオン君の言葉は端で聞いていても凹む。何と言うか、己の無知を恥じまくった挙句、鬱になりそうだ。
「アガレスと、ダンタリオンのコンビとは……卑怯やないかい」
『はぁ? お前、何言ってるの? 悪魔なんだからこれくらい当たり前でしょ。って言うか見通し甘すぎ』
「バアルに暴れられては、後々面倒なのだ。……本を秘書殿に返せ、マモン。今ならば間に合う」
すっと手を差し出しながら、アガレスさんはマモンへと近付く。だが、マモンはベェと舌を出すと、もう1度脱兎の如く駆け出すのだが……
「無駄な事を」
アガレスさんの呟きと同時に、逃げたはずのマモンが再び俺の前に強制送還される。それを何度か繰り返すのだが、アガレスさんの「逃亡者を連れ戻す力」のせいで、結局俺の前に戻ってきてしまう。
それを何十回か繰り返し……ようやく諦めたのか、マモンは悔しそうに舌打ちを鳴らすと、忌々しげに言葉を放った。
「く……くそう。分ったわ。返したる」
「やれやれ、やっとかよ……」
『お兄さん、騙されないようにね。そいつ、お兄さんに贋物返すつもり満々だから』
「え、マジで!?」
差し出された赤本を受け取ろうと伸ばしかけた手は、ダンタリオン君の一言でぴたりと止まる。
同時にマモンも苛立たしげにそれを地面に投げつけると、さっきまで赤本だったそれは、ざらりと音を立てて灰へと変わってしまった。
「ちぃぃっ! これやから心読める奴は厄介なんじゃ!」
『お前の手口がテンプレなだけ。今時その手口に引っかかるのなんて、お兄さんぐらいだ。甘く見るな。って言うかもう本当に死ねば?』
「そこまで言われる筋合い無いわい、ドアホ! ああああ、折角手に入ったんに、お前らのせいでオレの『魂持ちになってウハウハ・モテまくり、ついでにバアルのアホと縁切り計画』がおじゃんやんけ!」
半分涙目になりながらも、マモンはアガレスさんとダンタリオン君の冷たい視線を受けて、隠し持っていた赤本を俺に手渡す。
ダンタリオン君が何も言わない所を見ると、どうやら本当にこの本が、マモンが盗んだ赤本らしい。
それにしても、「魂持ちになってウハウハ・モテまくり、ついでにバアルのアホと縁切り計画」って。この人もバアルの被害者なのか? だとしたら少し同情する。
……でも……
『バアルの被害に遭っていない悪魔なんて、多分いないから。同情してたら限無いよ、お兄さん』
「せや。兄ちゃんもあいつの秘書やっとるならわかるやろ? あのアホと縁を切ろ思たら、この本の所有者を上書きせんとあかん悪魔がぎょーさんおるのんじゃ。……可哀想や思うんなら、見逃してぇな」
「いや無理」
「ぬぅ、即答か、秘書殿」
マモンの言葉に即座に返す俺を、アガレスさんが心なしか引いたような視線で見上げてくる。
マモンとダンタリオン君も、俺のこの反応は予想外だったのか、ぎょっと目を見開いて俺の顔を凝視している。
可哀想だとは思うよ。バアルの無茶振りとか思い付きとか管理能力の無さとか、何度マジで殺意が湧いた事か。限がなくても同情するし、何とかしてあげられたら良いなとは思う。
それでも、赤本が他人の手に渡れば、確実にキレたバアルの手によって、血の雨降るわ、焦土と化すわ、阿鼻叫喚の地獄絵図が再現されるだろう。それは怖い。後処理とか全部俺に押し付けて、暴れるだけ暴れる男だ、あいつは。
かつて「殺された」身の上としては、出来る事ならそう言う虐殺は見たくないし勘弁して欲しい。
……と言うのも本音だが、そもそもそれ以前の問題があるのだ、この本には。
『問題? どういう事?』
「……こいつは多分、偽物だ。だから所有者を書き換えても、今と何も変わらない」
『えー? マモンがいくら強欲で貪欲でケチ臭いとは言え、その本は本当に……』
「何抜かすんじゃこのガキゃぁっ! それはホンマモンじゃ言うとるやろが! 正真正銘、オレがあの博物館から盗んだ一品じゃ!」
俺の贋物発言が気に食わなかったのだろう。カラスの顔でぎゃあぎゃあ喚くマモン。
ダンタリオン君曰く、「強欲で貪欲でケチ臭い」性格らしいから、1度手に入れた物を手放すのは本当に癪に障る事なのだろう。それだけでも苛立たしいのに、更にそれを贋物扱いされれば、悪魔でなくても苛立たしく思う。
が、これは贋物だ、間違いない。
「何も、マモンがすり替えたとは言ってないだろ。多分、博物館にあった時から贋物だったんだ。その証拠に……」
言いながら、俺はぱらりと本のページをめくる。
その本にはどこの言語かは知らないが、少なくとも「こっち側」の文字がずらりと並んでいた。
アラビア文字、ハングル文字、アルファベットにロシア文字、終いには漢字にひらがな、カタカナまでテキトーな感じで並んでいる。
「これは……私達の国の文字では無いな」
「この時点で、これがバアルの持ち物だとは、正直考え難い。あいつにしては字が綺麗すぎるし」
『……バアルの字って、読めないもんね、普通に』
「そしてこのページが、この本が贋物って言う決定的な証拠」
ぱらりと、本の真ん中あたりを開き、彼らに見せる。
だが、俺が彼らの「国」の文字を読むのに時間がかかるように、彼らもこちらの文字には不慣れらしい。軽く顔を顰め、不思議そうに首を傾げ……
「な、何じゃ? 何ぞ書いてあるのんけ?」
「…………『はっずれ~』」
「何?」
「だから、『はっずれ~』って書いてあるんだよ! ご丁寧にイラスト付きで!」
言いながら、俺は本を思い切り地面に向かって叩きつける。
……そう。今のページには、日本語で「はっずれ~」の文字と、明らかにこっちを馬鹿にしたようなイラスト。更には「贋物と知らずにご苦労様~」と言う文字まで躍っている。
…………ああっ! 畜生腹立つっ! まんまとマモンも俺も博物館の贋物に踊らされたっ! 誰の仕業か知らんが、元凶見つけ出したら即刻ボッコボコに叩きのめしてくれる!
ギリギリと奥歯を噛み締めつつ、少々物騒な事を思った瞬間。
「ははは! 引っかかりましたね悪魔達よ!」
高らかな笑い声が響き、その声の方を振り返れば……何やら聖書らしき本を小脇に抱え、左手でこっちに向けて十字架を掲げる神父だか牧師だかの姿が。
年は20代半ばか、結構若い。熱血漢っぽい印象の細マッチョだ。
日本と言うごった煮の国に住んでいたせいか、あまり世界三大宗教にすら詳しく無いのだが……確か、神父だか牧師だかって、教会から結構な地位を貰ってるんじゃなかったっけか。
いや、それはこの際どうでも良い。問題はこいつの「引っかかりましたね」発言だ。
「……テメーか、このふざけきった贋物を掴ませてくれた奴は」
「ふっ。贋物とも気付かぬあなた方が愚かなのですよ、悪魔達!」
ずびしっと俺ら4人に向かって指を突きつけながら、その兄ちゃんはまるで勝ち誇ったかのような態度で言葉を放つ。
……どうやら俺の姿が見えている所を見ると、幽霊を見る力はあるらしい。悪魔さん達と同一視されているのは少々心外だが。
「ぬぅ。悪魔祓師か」
『うわ、面倒なのが……』
思い切り顔を顰め、心底面倒臭そうに言うダンタリオン君。アガレスさんも困ったような顔で相手を見ており、マモンに到ってははめられた事に怒っているのか、ぶるぶると肩を戦慄かせている。
「フッフッフ……数多の悪魔を使役できると言う『アッピンの赤い本』。それを神への信仰が薄い国に持ってくれば、お前達悪魔が狙ってくると思っていました!」
赤本……どうやら正確には、「アッピンの赤い本」などと言う長ったらしい名前らしい。どうやらあの悪魔祓師の兄さんは、それが悪魔に対する「閻魔帳」である事は知っていても、バアルの「魂所有台帳」も兼ねている事は知らないらしい。しかも閻魔帳の方も、結構意味を曲解しているみたいだし。
それに、別に神への信仰云々は関係ない。ただ単純に、この国が1番平和ボケしていてやりやすかったと言うだけだ。
だがまあ、ある意味彼の目論みは成功している。つまり……
「最初から罠だったって事かよ。情報を垂れ流して、贋物を展示、そして現れた悪魔さんをどうにかしよう、みたいな?」
「その通り。2度とこちらに来ないよう、祓うつもりなのですよ。……とは言え、贋物だけではなく本物も持ってきています。これも我らには重要な戦力ですからね」
言いながらお兄さんが懐から取り出したのは、贋物とよく似た赤い本。
しかしその表紙に書かれた「管理台帳……っぽい物?」と言う文字は、間違いなく「国」の文字だ。文字は随分と崩れているが。
『ああ、あの瀕死のミミズみたいな字は、本物のバアルの文字だね』
「しかも下の方に小さくだが、『所有者は2年1組、バヱルだよん』と書いてある」
「名前の文字間違ってる上に2年1組って!? あの本、何か!? 夏休みの観察日記か!?」
「その本さえあればオレは……っ! それ寄越さんかいっ! この腐れ悪魔祓師ォォォっ!」
ああっ! マモンの奴、まだあの馬鹿っぽい計画を諦めてなかったのか!?
吠えると同時に、勢い良くマモンは悪魔祓師のお兄さんに向かって突進を仕掛ける。
だが、相手も伊達に悪魔祓師の肩書きを持っている訳では無いらしい。ニヤリと口の端を歪めて笑うと、ぱらりと手元の赤本をめくる。
「ふっ。甘いですよ、強欲の悪魔マモン! この本の脅威を思い知りなさい!」
「なっ!? まさか……オイ、やめや! それ言うたらあかんって!」
相手が何をしようとしているのか気付いたらしい。マモンは慌てて本を奪おうと試みるが、相手はするりとそれをかわすと、大きく息を吸い込んだ。
……何をする気だ?
訝しく思い、そのまま事の成り行きを見守ろうと決めた、まさにその時。悪魔祓師はちらりと本に目を落とすと、そこに書かれているらしい一文を朗々と読み上げた。
【君のお宝取り上げちゃうよ? 時給80円君♪】
……………………あぁん?
意味が分らず、思わずガラの悪い感じの一言が頭を過ぎる。声に出していたら、間違いなくその辺のチンピラだ。
悪魔祓師の放った後半の言葉は、一応「国」にある方言の一種だ。これもアガレスさんに叩き込まれた事だが、何も知らなきゃよく分らん音の羅列に過ぎない。あの兄ちゃんも意味は理解していないのだろう。そうでなきゃ、あんな「やりきった」と言わんばかりのドヤ顔は今の台詞では出来ない。
……まあ、バアルの文字を読めただけでも賞賛には値すると言えるが、俺にとってはそれだけだ。
意味が分らん。と言うか、何を書いているんだあのアホは。
……と、思ったのだが。マモンはその言葉を聞いた瞬間、ぴたりとその動きを止め……4つあるカラスの瞳いっぱいに涙を溜める。
「そ……それだけは堪忍してぇや、バアルのアホぉぉぉっ!」
うわぁん、と泣きながら、マモンは悪魔祓師の横を通り抜け、そのまま「門」へと突っ走って行ってしまった。
「……な、何と恐ろしい……これが『アッピンの赤い本』の力……っ!」
『流石はあのドSの閻魔帳。的確に言う事を聞かせる一言を書き連ねているなんてね。あいつの配下になろうとした事がなくて正解だったよ』
恐ろしいのか!? って言うか時給80円って、あんたらの通貨『円』じゃないだろ!?
と心の内でツッコミを入れる俺を無視し、悪魔祓師はドヤ顔のままこちらを眺めては、ぱらぱらと本をめくっている。
「ふむ、成程。言語の悪魔アガレスと秘密の悪魔ダンタリオン。残念ながらあなた方はこの本に真の名は載っていませんね……」
「いや、さっきのも名前じゃないから。つか自分が言った言葉の意味くらい理解しろよ」
どうやら悪魔祓師は、さっきの一文を「悪魔の真実の名」だと勘違いしているらしい。って事は多分、あの本が「閻魔帳」である事も理解していないのだろう。
……よく知りもしない力で、よくまぁ色々やっていけるな、おい。俺は怖くて無理だって。
一方で悪魔祓師は俺のツッコミと言う名の老婆心を軽く無視すると、聖書の間から何やら1枚の紙を取り出した。
大きさはA4サイズ。ベージュ色で、何やら文字やら記号やらが書かれている。
「ふふ。ですが、この悪魔祓いの符さえあれば、あなた方はゲヘナへ戻らざるを得ないのでしょう!?」
「ぬっ!?」
『うっ……』
ゲヘナ? って確か「こっち側」の「国」に対する呼び名の1つだったっけか。
のんびりと思う俺とは対照的に、アガレスさんとダンタリオン君はその紙切れを見るや、顔をさっと青褪めさせる。
まさか、こんな紙切れに何かとてつもない霊験あらたかな効力が!? もしもそうなら、対バアル用に1枚欲しいんだが。
と、結構本気で思う俺を、無視して、ダンタリオン君が悪魔祓師に向かって苦笑混じりの言葉を放つ。
『ここに来て『最終手段』とか、卑怯じゃない?』
「悪魔に卑怯などと言われるのは心外ですね。これはれっきとした悪魔祓いの符です」
「ぬぅ……すまぬ秘書殿。アレを出された以上、私達は戻らねば……」
『ごめんお兄さん。とりあえず頑張れ』
「って、マジで2人共帰るの!? しかもなんかちょっと投げやり!?」
と喚く俺など気にも留めず。
2人の悪魔さんは、マモン同様「門」をくぐって「国」へと帰っていってしまった。
後に残されたのは俺1人。目の前にいるのはますます調子付いてドヤ顔に拍車がかかった悪魔祓師。
そいつがジリジリとにじり寄りながら、俺に向かって2人を「国」へと帰した悪魔祓師の「最終手段」を掲げている。
「さあ! あなたも観念して、この符でゲヘナへ帰るのです!」
「ちょっ、待っ! 俺は……」
変な力が込められているようなものなら、俺なぞひとたまりもない。
――お祓いされて成仏――
出てくる前に言われたバアルの声が蘇る。
そして、そうなったと仮定した際のバアルの対応も。
まず、部屋が荒れる。奴は基本的に家事が出来ない。
次に、仕事場が荒れる。主に仕事をしないで書類を溜めると言う方向に。
最後に、「国」が荒れる。あいつは曲がりなりにも「国」のお偉いさんだ。仕事には重要な書類も多い。
それなりの時間を過ごせば、どんな場所にだって愛着は湧く。「住めば都」とはよく言った物だ。だからこそ、俺は勝手に消える訳にはいかない。
何とかにじり寄る悪魔祓師から離れ、睨みつけるようにその「符」とやらを見て…………絶句、した。
「……符って……これ?」
悪魔祓師が見せびらかしている「符」。それは見慣れかけた「国」の文字で……
【強制退去命令】
…………と書かれているよーに見えるんだが気のせいか。しかも下の方には、「この命令を無視した場合、パスポートを無期限停止にしちゃうゾ★」と言う、うっぜぇ一文もある気がするんだが。更に模様だと思っていた物は、どうやら正式な文書に押される「国印」であり、日本と「国」の間に交わされた「公式文書」である事が見て取れる。
……あー、こりゃ確かにアガレスさんもダンタリオン君も帰らざるを得ないわ。無期限停止は彼らもキツイ。成程、これがバアルの言っていた「最終手段」か。
そんでもって更に下には、小さい文字で「なお、当法令は悪魔にのみ有効です。キリッ」の文言も。
…………これ書いたの、まさかバアルのアホじゃないだろうな。ありうる。この最後の「キリッ」の表記なら充分にありうる。畜生、俺のさっきまでのシリアス返せ。
しかし、この小さい文言のお陰でわかる事が1つ。
「俺、これ対象外だ」
「そんなっ! 全ての悪魔はこれでひれ伏す、教会最強の符なのに!? ……まさか貴様、かなりの力を持つ悪魔か!?」
いや、人間だから。
と言うツッコミを入れたいが、とりあえずここは黙っておいた方が良いだろう。これでただの幽霊だと知られてなら成仏させましょうなんて話になったら、それこそまずい。
「そう言えば、ヒトと同じ姿をしている……と言う事は、人型の悪魔、リリスか? インキュバス!? ええい神よ! まずはリリスの真名から!」
言うが早いか、悪魔祓師は再び赤本をパラパラとめくり……
【日給850円ちゃん、君の子供は一切認知しません、キリッ!】
…………しーん。
「……鬼かあいつ!? つか、リリスさん女の人だからな!? 何で男の俺にそれ言うの!?」
「くっ、やはり駄目か! ならば次はインキュバスだ!」
【時給60円ごときが、何美女侍らせてるの? 顔、潰されたい?】
「酷ぇっ! マジで悪魔だあの男!」
って言うか、何で給料そんな悉く安いんだ!? 今時バイトの時給だって700円台からのスタートじゃないか? お前には良心と言う物がないのか?
この場にバアルがいたら、「だって悪魔ですから。キリッ!」とか返されそうなツッコミを入れつつ、俺はゆっくりと悪魔祓師に近付いていく。
符が効かず、どの名を呼んでも効かない俺に恐怖したのか、相手は小さく声を上げ、恐怖による震えからか赤本をとすりと取り落とす。
お、ラッキー。今のうちに拾っちまえ。
変なバトルにならずに赤本をゲットできたのは良い事だ。……まあ、マモンを追っかけるといった労力はあったが、そこそこ楽な仕事だったと思う。
うん、いつもみたいにバアルの相手をしているよりは、断然。
拾い上げた赤本についた埃を叩きながら、俺はゆっくりと「門」へ向かって歩き出す。後はこの本をバアルに渡せば、一件落着だろう。その後に、あのドSの事だ、本を使って一悶着起こすだろうが、そこまでは関知した事じゃない。俺が、奴にそんな暇を与えなきゃ良いだけの話だし。
そして……「門」まであと1歩と言う所で。それまでガタガタと震えていた悪魔祓師が、意を決したように問いかける。
「なななななな、何で!? 何で君には効かないんだ!? 君は一体何者なんだ!?」
「何者って聞かれてもなぁ……」
悪魔では無い。ただの人間の「魂」だ。だけどそれを教えてやる程お人よしでもなくて……
だから俺は、くすっと笑って答えを返す。
間違ってはいない……だけど多分、彼にはきっと理解し難い「答え」を。
「私、悪魔の秘書でありまして」
「おかえりー」
パァン、と男が持つクラッカーが鳴り、真正面に立っていた俺の頭にはそれから飛び出したらしい色取り取りの紙テープが、多少の焦げ臭さを伴いながらもひらりと乗っかる。
……既視感を覚える。確か俺が最初にこの国に来た時も、こうやって目の前の白衣の男が、クラッカー鳴らして出迎えたっけ。
「……おーい、聞いてるか~い?」
ひらひらと眼前で手を振り、俺の意識を確認するにーちゃん。
これも既視感だ。あの時もこんな感じで意識を確認された。
ただ、あの時とは決定的に違う。あの時はこの男の詐欺紛いの方法で半ば無理矢理この「国」に連れて来られたが、今は自分から帰って来た。
何だかんだ言って、結局俺はこのドSの策略にはまったんだろう。巻き込まれたくない、断ると言っておきながらこれだ。いつの間にか、ここが俺の帰る場所になっていた。
「……ただいま。『我が主』」
「あ、やっと反応してくれた~。いや~このまま無視され続けたら、どーしよーかと思ったよー」
「いや、この状況に凄ぇ既視感を覚えてた」
「はじめてここに連れて来た時だね。だって今回、そう言う演出でのお出迎えだもん」
「演出とか言うな、感動一気にトーンダウンだ」
とは言うが、実はあまりトーンダウンはしていない。こいつはこういう奴だ。分っている。
「ほらよ、赤本。……俺はともかく、部下の皆さんをあまり安い給料でこき使ってやるな。可哀想になる」
「んっふっふ~。僕は悪魔ですから。キリッ!」
「だから口で『キリッ』とか言うな、鬱陶しい」
呆れた声で、俺はある種いつも通りの答えを返してバアルを見やる。
猫と蛙のアップリケ、銀糸で蜘蛛の巣の模様を刺繍された白衣。こいつが「あっち側」へ出たらどんな姿になるんだろう。
「あっち側」の人間は、バアルが実はこんなへらっとしたお兄さんだと知ったらどう思うだろう。
……知る者なんて誰もいない。バアルのこの顔を知っている「人間」は、俺だけだ。
それが、妙に誇らしい。ひょっとしなくても、俺は毒され始めているのかもしれない。この「国」が持つ、独特の空気に。
「悪魔は下克上を狙ってナンボ。強欲で貪欲で傲慢で我儘。そんな僕達の手綱を握れるのは、たぶん、きっと人間である君だけだ」
いつに無く真剣な表情で言われ、俺は不覚にも心揺さぶられる。
「俺だけ」。その言葉の響きが、妙に嬉しい。
ああ、ヤバイ。にやけていくのが分る。
「そんな持ち上げんなよっ。……ガラにも無くはしゃぎそうに……」
「……だからこれからも馬車馬の如く働いてね。あ、ちなみに持って帰ってきてくれたコレ、写本だったみたい。本物はやっぱりまだ法王庁で眠ってるって。さっきホットラインで猊下に聞いたから間違いないよ」
俺の言葉を皆まで言わせず。と言うか封殺するように。
バアルは少々俺の理解を超える発言をぶちかました。
……コピー……だと? と言うか、ホットラインで猊下に聞いた?
バチカンで、「猊下」っつったら、大抵は「サン・テイタ」……「法王猊下」の事だよな?
「いやー、最初にそこは確認すべきだったねー。あっはっはっはっは」
「……をい、ちょっと待て。じゃあ、今回の俺の仕事は一体なんだったんだ?」
「んー、『無駄足』?」
にっこりと。
それはそれは綺麗な笑顔を浮かべて、バアルは朗らかに言い放つ。
この笑顔……やっぱりこいつ確信犯だっ! 最初っからあの赤本が写本だと分ってて俺を振り回してた笑顔だ間違いない!
「はめやがったなテメエっ!」
「はめるだなんて何の事? どこかに証拠でもあるのかニャ?」
「こんな時だけアップリケの猫使って可愛らしさ演出してるんじゃねぇっ!」
怒鳴るが、バアルはどこ吹く風。あっはっはっはと笑いながら、俺の所有者様はスタスタと屋敷に向かって歩きさってしまっていた。
「畜生、あのサディスティックアホ主人がぁ…………俺の労力と感動、その他諸々返せぇぇぇぇぇぇっ!!」
黒一色に染め上げられた「国」の中で。
俺の絶叫だけが、周囲に響き渡ったのだった……
こんばんは。
初めての方、お初にお目にかかります。
お久し振りの方、今回もありがとうございます。
変人大好き、辰巳結愛と申します。
この度は当作品にお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。
ちょっと久し振りに「馬鹿っぽい話」に走りたくなったもので。
悪魔を題材に、アホな話を展開する。
……よし、とりあえず1つ野望は達成した。
それでは。
ここまでのお付き合い、本当にありがとうございました。
西暦2011年8月31日 辰巳結愛