第一話 異世界 (6)
六か月目に入った。
このところは雨季だった。
空はどんよりと灰色に曇り、空気はひんやりと湿っている。
雨粒が屋根を叩く音が、途切れることなく一定のリズムで響き続けていた。
母さんはいつものように雨よけの外套を羽織って、仕事へ向かった。
雨はそこまで強くないが、地面はぬかるみ、小道のあちこちには小さな水たまりができている。
それでも、母さんにとっては仕事へ行くのに何の支障もないらしい。
一方の俺は、食卓に座ったまま窓の外をぼんやり眺め、雨が止むのを待っていた。
外で魔法の訓練がしたい。
頭の中を、その考えだけが何度もぐるぐると回っていた。
雨季は、外に出たい人間にとって本当に厄介だ。ほとんど毎日のように雨が降り、一日に六時間は当たり前のように降り続ける。これでは、外へ出ること自体がひどく面倒になる。
外に出られない以上、できることは本を読むくらいしかない。
魔法の勉強は進んでいるのかって?
正直に言えば、基礎魔法書はもう何度も読み返した。
理解しようとして何度も何度も目を通したが、得られたものはわずかだった。
中身は謎の文字と数式だらけで、まともな説明がほとんどない。
読めば読むほど、逆に頭の中がこんがらがっていく。
あの本を書いた奴、他人に伝える気あるのか?
というのも、あの本は魔法の使い方を教えるための本じゃない。
魔法にはどんな種類があるのか、どう扱うのか、そういう実用的なことはほとんど書かれていない。
代わりに書かれているのは、魔法とは何か。
魔法はどんな粒子で構成されているのか。
自然界のさまざまな現象を、魔法理論でどう説明するか。
内容そのものは深い。
魔法というものに対して徹底的に問いを立て、理論としてまとめようとしているのは分かる。
だが、その説明があまりにも入り組んでいて、理解しづらいのだ。
雨だれは相変わらず屋根を叩き続け、時間だけが静かに流れていく。
俺の目の前の机の上には、ノートと羽根ペン、それにインク壺が置かれていた。
今朝、母さんに頼んで用意してもらったものだ。
俺は長いこと迷っていた。
前の世界での自分について、何か書き残しておくべきかどうか。
自分が何者だったのか。
何をしてきたのか。
どこまでたどり着いて、どんな結末を迎えたのか。
それを忘れないために、文字として残しておきたかった。
ノートの最初のページを開き、ペン先をインクに浸して書き出そうとする。
だが、何時間たっても紙の上は真っ白なままだった。
やがて雨は弱まり、ついには止んだ。
それでも考えはまとまらない。
俺は小さくため息をつき、ノートを閉じると、立ち上がってそのまま家を出た。
振り返ることはしなかった。まとまりきらない思考だけを、そこに置き去りにして。
今日は訓練を休んで、村の中を歩くことにした。
自分の考えを整理したかったからだ。
この半年で、俺の魔法はかなり成長した。
昔は小さな水球を作るのがやっとだったのに、今では木を破壊できるほどの威力を持った魔法まで扱えるようになっている。
だが、それでもまだ足りない。
この世界には、俺の知らない魔法がまだいくらでもある。
今の俺は、何も見えない大海原の中で、手探りのまま何かを探し続けているようなものだった。
誰も助けてはくれない。
前へ進みたいなら、自分で道を切り開くしかない。
何も持たずに生まれたことを言い訳にはできない。
母さんに力がないことは、母さんのせいじゃない。
友達がまだ子供で、何も助けられないことも、誰のせいでもない。
全部、自分の手で切り開くしかないんだろ、セリス。
俺は軽く自分の頬を叩いて、気持ちを引き締めた。
まだ時間はある。
俺は遊び半分で魔法を学んでいるわけじゃない。
ただ周りよりできる子供になりたいわけでもない。
毎日を気ままに楽しんで終わるつもりもない。
俺には願いがある。
そして、その願いこそが、今ここにいる理由だった。
その日の夕方、母さんと夕食を食べていたときのことだ。
しばらく黙っていた母さんが、やがて心配そうな声で言った。
「最近、少し思いつめてるみたいね。何かあったの?」
俺は一瞬、手を止めた。
それから短く答える。
「別に何でもないです」
自分でも気づかないうちに、少しだけ冷たい声になっていた。
母さんは俺をじっと見つめ、それから静かに続ける。
「セリスが病気から治ってから、ずっと一生懸命に魔法の勉強をしているのは分かってるわ。でも、そんなに無理をしてつらいなら、少しくらい休んでもいいのよ」
俺は首を横に振った。
何も答えず、ただパンを手に取ってまたかじる。
「それとも……家庭教師を探してみようか? 誰かに教えてもらえたら、少しは助けになるかもしれないし」
その言葉に、俺は噛む動きを止めた。
ゆっくりと視線を上げ、母さんをまっすぐ見る。
「うちにそんなお金はないです」
母さんは薄く笑って、首を振った。
「大丈夫よ。母さん、少しなら貯えがあるの。先生に来てもらえたら、セリスのためにもいいと思うのよ」
俺はパンを置き、じっと母さんの目を見返した。
その瞳には、心配と、どこか後ろめたさのようなものがにじんでいた。
自分では何もしてやれない。
そう思っているからこそ、母さんは苦しいんだろう。
俺は小さく息をついてから、できるだけ落ち着いた声で言った。
「じゃあ……あと二年待ちます。俺が十歳になるまで待って、それからもう一度この話をしましょう。そうすれば母さんも、そのぶんお金を貯める時間ができますし。その頃には、学校に入る準備もしないといけないですから」
母さんは少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「分かったわ……セリスって、本当に大人びてるのね」
俺は肩をすくめて、冗談っぽく答えた。
「だって、俺は本当に大人だからな」
その言葉に、母さんと俺は同時に吹き出した。




