第一話 異世界 (2)
「母さん、仕事には行かないんですか」
「セリスはまだ熱が下がってないもの。今日は母さんがそばにいて看病したほうがいいわ」
「俺は大丈夫です。行ってください。母さんが仕事に来なかったら、公爵様が機嫌を悪くするかもしれません」
心配でいっぱいだった母さんの表情は、俺が強く言い切るのを見て、少しだけ和らいだ。
「分かったわ。じゃあ、ちゃんと自分で気をつけるのよ。母さん、なるべく早く帰ってくるから」
そう言って、彼女はもう一度ぎゅっと俺を抱きしめる。
「ちゃんと横になって休むのよ。そうすれば、早くよくなるから」
俺は小さくうなずいた。
それを見届けると、母さんは部屋を出ていく。
あとには静けさだけが残り、部屋の中はまたしんとした空気に包まれた。
食事を終えた俺は、器を机の端に寄せ、その代わりに本を手元へ引き寄せた。
その本はかなり大きく、ずっしりと重い。
持ち上げるのにも両手がいるほどだ。
最初のページを開くと、序文とともに「アンノン」という名前が目に入った。
おそらく、この本を書いた人物のペンネームなのだろう。
俺の記憶の中では、この子は何度かこの本を読もうとしていた。
だが、そのたびに途中で投げ出している。
文字が読めなかったわけじゃない。
読み書きそのものはちゃんとできた。
母さん一人では教えきれなかったが、屋敷のほかの侍女たちも手伝ってくれていたらしい。
問題は、本の内容のほうだった。
この本には、理解しづらい理論や数字がこれでもかと詰め込まれていたのだ。
母さんでさえ中身を見た瞬間、頭を抱えていたくらいだ。
きっと本屋にだまされたに違いないと本気で思っていた。
どう見ても子供向けの本じゃない。
中身を確認せずに買ってしまったのは、自分の落ち度だったと悔やんでいたほどだ。
俺は一章を開いた。
題名は 魔法の粒子。
そこには見慣れない記号や数式がずらりと並んでいて、それを見た瞬間、俺は思わず体をのけぞらせ、目を閉じて大きく息を吐いた。
「何だよ、これ……!」
俺はあわてて表紙を見直した。
そこには確かに 基礎魔法書 と書かれている。
しばらく固まったあと、俺はもう一度第一章へ戻った。
今度はちゃんと腰を据えて読み始める。
だが、読めば読むほど分かってくる。
これは、ただ難しいだけじゃない。
信じられないくらい複雑だった。
並んでいる数式は一行ごとにやたらと論理が細かく、とても普通の基礎魔法書には見えない。
奇妙な記号は何かの値を表しているようだが、その説明も曖昧だ。
しかも内容の一部は、かなり複雑な数的体系で組み立てられているように見えた。
俺は一行ずつ丁寧に目で追っていく。
けれど、読めば読むほど、頭の中はますますこんがらがっていく。
これのどこが基礎なんだ。
そう思いながらも読むのをやめず、時間も忘れてページを追い続けた。
どれだけ経ったのか分からない。
気づけば体はだるくなり、脳も詰め込まれた情報に押しつぶされそうになっていた。
俺は勢いよく本を閉じた。
それから体をひねって軽く伸びをし、気分転換のために外へ出る。
さっきまで読んでいた内容の重さを少しでも追い払いたくて、冷たい風に当たりたくなったのだ。
俺の目の前には、広大な平原が広がっていた。
その周囲には、村人たちの小さな家々が点々と並んでいる。
ここはエヴァーデンという都市の外縁部で、この国でも有数の大きな町らしい。
町の中心には、巨大な貴族の館が高台の上にそびえ立っていた。
遠くからでも、目を凝らせば空の輪郭に溶け込むようなその影が見える。
エヴァーデンという町そのものが、権力の中心として築かれた場所なのだと感じさせた。
大きな市場は中心部からそう遠くない場所にあり、この国の重要な商業と物流の拠点になっている。
外縁部には、小さな集落が平原のあちこちに点在していた。
住んでいるのは主に農民や職人、それに日雇いの労働者たちだ。
大きな町から周辺の村へ向かって一本の主要道が延びていて、都市の中心と村々をつないでいる。
村のあたりを見渡すと、その景色はどこか十九世紀の田舎を思わせた。
家々はこぢんまりとしていて、くすんだ漆喰で塗られたものもあれば、赤い煉瓦を積み上げて作られたものもある。煉瓦造りの煙突が屋根の上へ高く伸び、灰色の煙が細くたなびいていた。
家の前には低い木の柵があり、その内側には小さな菜園が広がっている。
壁際には水桶や薪の束がきちんと並べられていた。
さらに先には広い草原が続き、牛や羊が群れになって歩いている。
道端には古びた荷車が一台止まっていて、荷台には農作物が山のように積まれていた。
あちこちでは子供たちが広場を走り回り、楽しそうな笑い声を響かせている。
町の中心からは離れているが、ここにはここなりの活気があった。
母さんは毎朝ここから館まで通い、日が暮れるまで働いている。
ずっと、そんな毎日を繰り返してきたのだ。
俺は村の土道をゆっくりと歩いた。
急ぐ必要はない。ただ流れていく時間に身を任せるように、のんびりと足を進める。
向かう先は、館の裏手、大きな森に接したあたりを流れる川だ。
そこは、この体の持ち主が子供のころによくこっそり遊びに来ていた場所でもある。
静かで、人の気配もほとんどない。
しかも、仕事を終えた母さんを待つのにも都合がよかった。
母さんはいつも、町の裏手へ抜ける道を使って帰ってくるからだ。
俺は川辺で立ち止まり、目の前をゆるやかに流れる水を見つめた。
それから、そっと指先を持ち上げる。
「ウォーターボール」
指先に、硬貨ほどの大きさの小さな水球が現れた。
だが、それは数秒もしないうちに崩れて消えてしまう。
これは、この子の記憶に残っていた初歩的な魔法だ。
自分でも驚いた。最初から自然に使えてしまったのだ。
まるで、この体そのものがやり方を覚えていて、勝手に動いてくれたみたいだった。
俺は何度も同じことを繰り返した。
何十回も、何百回も。
そうしているうちに、少しずつ仕組みのようなものが見えてくる。
少なくとも、ひとまずこう結論づけられる程度には理解できた。
魔法は、まず作りたいものの形を頭の中で思い描くことから始まる。
今回なら、水滴だ。
そして、その形を生み出すには体内の魔力が必要になる。
さらに、作り出したものを保つには、魔力を絶えず流し込み続けなければならない。
集中しすぎて、いつの間にか時間のことをすっかり忘れていた。
ふと顔を上げたときには、もう太陽は地平線の向こうへ沈んでいた。
そして最後に、ぼんやりしたまま魔法を使ったときだった。
俺はうっかり、サッカーボールほどの大きさの水球を作り出してしまった。
だが、それは形を保てなかった。
次の瞬間、派手な音を立てて破裂する。
飛び散った水がまともに俺へ降りかかり、全身ずぶ濡れになった。




