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RE:アセンド - 異世界で夢を追いかける  作者: 黒い水滴
第一章 フォンブラント家編 (八歳)
10/10

第一話 異世界 (10)

「どうしたんですか、セリス。何かあったの?」


母さんは驚いたように声を上げると、すぐに手を伸ばして俺の涙を拭ってくれた。

そのまま強く抱き寄せられる。細い腕がぎゅっと俺を包み込み、震える声が耳元で響いた。


「母さんはここにいるわ。もし何かあったなら、いつでも母さんに話していいのよ」


言いたかった。


全部、話してしまいたかった。


俺が何者だったのか。

何を失ってきたのか。

俺は誰もが思うほど強い人間なんかじゃないことも。


けれど、できなかった。

怖かったんだ。


弱い人間だと知られるのが、たまらなく怖かった。


俺は唇を強く引き結び、どうにか表情を整える。

隠さなければいけない。

そう思って、顔を上げて笑ってみせた。


「何でもないです。……ただ、嬉しかっただけです」


母さんはまだ心配そうな目で俺を見ている。


「本当に大丈夫?」


俺はうなずき、できるだけ平静な声で答えた。


「はい……市場に行きましょう」


朝の光が村を照らす中、母さんは俺の手を握って市場へ向かった。


不思議なくらい、温かい気持ちだった。

胸の奥にこびりついていた冷たさが、少しずつ溶けていく。

何もかも手放して、ただ母さんと穏やかに暮らしていけたら――そんなことさえ思ってしまう。


だが、市場の一角に足を踏み入れた瞬間、村の静けさは一気にかき消された。


「川で獲れた新鮮な魚だよ! 大ぶりで身も締まってるよ!」


「焼きたてのパンだよ! 今すぐ来ないと売り切れちまうよ!」


「東の国の織物だ! この手触りは他じゃ味わえないよ!」


四方八方から売り声が飛び交い、商人たちは競うように客を呼び込んでいた。

手を振る者もいれば、商品を押しつけるように見せてくる者もいる。

中には、場所取りでもめている者たちまでいた。

市場全体が熱気に包まれ、どこを見ても活気に満ちている。


母さんは俺の手を軽く引きながら先へ進んでいく。

俺は人と人のすき間を縫うようにして、その後をついていった。

紙袋いっぱいに食材を抱えた者、果物籠を背負った者、珍しい品を並べる旅商人の露店を囲む者。

そこかしこに人があふれていた。


香辛料の匂い、藁の匂い、採れたての野菜の匂い、焼きたてのパンの匂い。

そこへ混ざって、硬貨が触れ合う乾いた音がときおり響く。売買が絶え間なく続いている証拠だ。


「坊や、お菓子はどう?濃い砂糖が口の中でとろけるよ」


菓子屋のおばさんが、菓子の載った盆を差し出してきた。

俺は苦笑いを浮かべて首を振る。すると母さんが小さく笑って、耳元でささやいた。


「まずは一通り見て回りましょうね」


市場の喧騒はなおも続く。


「牛肉だよ、牛肉! 今日だけ特別価格だ!」


「北の森の珍しい薬草だ! 滋養強壮にも、毒消しにも効くよ!」


俺は視線を巡らせ、並ぶ店々を眺めた。

簡素な木組みの露店もあれば、机の上に綺麗に品を並べた店もある。

中には、ただ布を敷いて、その上に商品を山のように積んでいるだけの店もあった。


人混みの中では、商人同士が値段をめぐって言い争っている。


「お前、その値段で野菜を売る気かよ! そんな安くされたらこっちが売れなくなるだろ!」


「仕入れが安かったんだからしょうがないだろ。お前に文句を言われる筋合いはないね!」


そんな騒がしさの中でも、小さな子供たちは元気に走り回っていた。

笑いながら追いかけっこをして、すぐに母親に捕まっている。


「走っちゃ駄目でしょ。誰かにぶつかったら危ないでしょう?」


俺は大きく息を吸った。


……何もかもが、俺の知っている感覚とは違う。


整然としていない。

静かでもない。

あるのは混沌と、活気と、人々が生きる気配だけだ。


母さんがこちらを振り返って微笑む。


「市場って、セリスが思ってた通りだった?」


俺は思わず笑ってしまった。


「はい……まるで違いました」


「それで、今夜は何が食べたい? 母さん、材料を買ってあげるわ」


正直に言えば、無性にピザが食べたかった。

でも、この世界にそんなものがあるのか?

仮にあったとして、自分で作れと言われても困る。料理なんて、まともにできるわけがない。


「ええと……生地があって、ソースがあって、肉も載ってて、それを焼くような料理ってありますか?」


母さんは少し考え込み、それから目を細めて俺を見た。


「それって、ピザのこと?」


……は?


俺は思わず動きを止めた。

きっと、間の抜けた顔をしていたと思う。


「ピザ……はい、それです」


この世界、妙なところで前の世界に近いものが多すぎるだろ。


それから俺たちは、小麦粉、ソース、肉、香辛料と、いろいろな店を回って材料を買い集めていった。

母さんの紙袋はどんどん膨らんでいく。俺はその後ろをついて歩きながら、周囲の様子を眺めていた。


そして、母さんが店ごとに硬貨を差し出すたびに、俺の胸は少しだけざわついた。


……こんなにお金を使ってしまって、本当にいいのか?


口を挟みたくなる。

けれど、言ってもどうせ聞いてもらえないことは分かっていた。

どうせ返ってくるのは、こんな言葉だろう。


誕生日なんて一年に一度しかないんだから、そんなこと気にしなくていいのよ。


「新聞だよ、新聞! 最新のニュースだよ! たった五クラウンだ!」


そのとき、通りの端から威勢のいい声が響いた。


中年の男が、肩から大きな鞄を下げ、両手に新聞を掲げて売り歩いている。

通行人の目を引くように、紙面の見出しをこちらへ向けていた。


その中のひとつが、すぐに俺の目を奪った。


国境問題、なお激化 帝国は一歩も譲らず


詩人ヨハン・フランソワン、王都中心部パナコート劇場にて一九〇九年二月二十五日公演予定


俺はその場で立ち止まった。

視線が新聞に吸い寄せられる。


――そうだ。

新聞だ。


新聞があるじゃないか!


今の世界の出来事を知る手段が、こんな身近なところにあったのに。

どうして今まで思いつかなかったんだ。


俺は顔を輝かせた。


「母さん、母さん!」


俺は勢いよく母さんの腕を引っ張る。


「新聞、買ってほしいです!」


「えっ? ええ、いいわよ」


その返事を聞くやいなや、俺はすぐに五クラウンを手に取って、新聞売りへ駆け寄った。


「ふふ~ん、ふふふ~ん」


新聞を手に入れたあとの俺は、もう上機嫌だった。

市場を歩いているあいだ中、気づけばずっと鼻歌までこぼれていた。


「そんなに新聞が欲しかったのね。なら、これからは毎日母さんが買ってきてあげてもいいわよ」


「本当ですか、母さん。ありがとうございます」


「変わった子ねえ。こんなに新聞が好きな子供なんて」


「まあ、ちょっとだけです」


俺が小さく笑うと、その様子を見た母さんもつられて笑った。


……新しい世界で過ごすには、悪くない一日だった。

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