らせんの悲鳴――構造設計者の死に戻り、倒壊した建物を設計からやり直す。
本作をお読みいただき、ありがとうございます。
まず最初にお断りしておきますが、この物語はあくまでフィクション(作り話)です。
建築構造設計という専門的な世界を舞台にしておりますが、物語を面白くするための独自の解釈や、実際の法規・実務・物理現象とは異なる描写が多分に含まれています。
もし「いや、現実の構造設計はこうじゃないだろ!」「この計算は物理的におかしい!」と気づかれたとしても、そこは「魔法の法則が違う異世界の話」でも読んでいるような広い心で、さらっと受け流していただけると幸いです。
理屈よりも熱量を、整合性よりもカタルシスを優先した「お仕事×再計算」の物語、どうぞお楽しみください。
建築構造設計。
それが、俺の仕事だ。
蔵淵構造計画。
それが、勤め先である構造設計事務所の名前だ。
意匠設計が描いた"美しさ"を、物理的な"強さ"へと構築する仕事。
建築基準法という絶対のルールを遵守し、地震大国日本において、人々の命を、鉄筋とコンクリートと鉄骨、時には木材で造られた箱の中で、最後まで守り抜く。
地味で、孤独で、けれど誇り高い職人仕事なのだと、俺は信じていた。
「パパ! おはな!」
二歳の娘が、真新しいロビーに並べられた数々の花を見て、目を輝かせている。
その隣では妻の沙織が、少し窮屈そうなスーツ姿の俺を見て、くすりと笑った。
「そうだね、お花たくさんだね……。大丈夫? なんか緊張してる顔してるよ」
今日は、俺が構造設計の担当を務めた複合商業ビル『シンビオシス・リンクテラス』の落成記念式典が行われる日だ。
地獄のような設計作業の、文字通りの集大成といえる日だった。
ーーカタカタ
最初は、小さな振動だった。
この国で生活していれば、嫌でも味わうことになるあの振動。地面を撫でるような、微かな揺れだ。
「地震?」
「みたいだね。でも、大丈夫だ。ここは最新のビルだから」
妻の沙織に微笑みかけ、俺は腕に抱っこしていた娘の背中をポンポンと軽く叩いた。
――ドン!
直後、床を下から突き上げるような短い衝撃が式典会場を襲った。
悲鳴が沸き上がり、テーブルのグラスが床に落ちて砕け散る。
俺は反射的に足を広げて踏ん張り、娘の体を強く抱きしめた。
「こっちへ! 沙織――」
叫びながら、俺は足から伝わってくる地震の波形を読み取っていた。
震度五弱。直下型の鋭い揺れだ。
だが、衝撃は一瞬で通り過ぎていった。続く余韻もなく、地面の揺れは急速に静まっていく。
(……収まった。ただの単発のショックだ)
安堵の息を吐き出そうとした、まさにその時だった。
奇妙な感覚。本能が警鐘を鳴らしてる。
地面の揺れは、間違いなく止まっている。
なのに、俺たちが立つこの一階のフロア全体が、ゆっくりと"動いて"いた。
――いや、止まっているように感じるのは錯覚かもしれない。
まるでテーマパークのギミックハウスに迷い込んだかのようだ。
そこは"部屋が伸びているように錯覚するが、実は床や天井がゆっくり動いている"ように、見ているものと感じるものが噛み合わない。
俺が立っているのは、渦の中心。台風の目の中のように、ただ静まり返っているだけ。
しかし、たしかに、動いている。人間の体感では捉えきれない長周期の波が、まだ地面を舐め続けている。
ギィィィィィィ……
頭上から、巨大な金属のバネが軋むような、重く長い音が響く。
視線を上げた俺は、自分の目を疑った。
式典会場の豪奢な天井。
そこに描かれた幾何学模様が、そして吊るされた巨大なシャンデリアが、俺の頭上でゆっくりと回転しているのだ。
いや、天井だけではない。外周を覆うガラス窓の向こうの景色ごと、空間全体がゆっくりと揺れ動いているのがわかる。
「パパ、おへや、まわってる……」
娘が不安そうに、小さな身をよじる。
(ねじれ振動……? だが、なぜ地面が止まっているのに動く?)
その回転には、一定の周期が見て取れた。
ある程度の角度まで達するとピタリと止まり、そして今度は、反動をつけるようにして、逆方向へと回り返し始めた。
ギィィィィィィ……
右へ、左へ。
この巨大な建物全体が"バネ"のように、ゆっくりとした捻り運動を繰り返している。
構造設計の常識に照らし合わせれば、こんな揺れは数回繰り返せば減衰して止まるはずだ。
建物の持つエネルギー吸収能力が、揺れを熱へと変えて殺していくからだ。
だが、現実は違っていた。
右へ、左へ。一往復するごとに、ねじれる角度が深くなっている。
減衰するどころか、揺れが増幅しているのだ。
俺の目には、ある種の幻視が見えていた。
巨大な悪魔が、このビルの頭頂部を両手で挟み込み、いたずらに右へ左へと捻って遊んでいるかのような光景だ。
建物の断末魔が始まった。
バキッ!! バババババキィッ!!
乾いた、しかし圧倒的な質量を伴った破壊音が響く。
ロビーから見える、このビルを支える太い柱たち。右へ左へと過酷な反復変形を強制されたことで、コンクリートが悲鳴を上げたのだ。
(剛性低下……!)
コンクリートは圧縮には強いが、引っ張りには脆い。
繰り返されるねじれによって、柱の表面に斜め四十五度の"X字型"のひび割れが無数に走るのが見えた。
ひび割れが増えるということは、建物の"固さ(剛性)"が失われるということだ。
固さが失われれば、ねじれに対する抵抗力がなくなり、巨人の手はさらに深くビルを捻り込むことができるようになる。
バキィィィィン!!
再び大きくねじり込まれた瞬間。
限界を超えた柱たちが、一斉に弾け飛んだ。
内部に封じ込められていた太い鉄筋が、コンクリートによる拘束を失い、飴細工のようにぐにゃりと外側へはらみ出す。
もはや、建物を支えるものは何もない。
上層階の数万トンの質量が、ねじれの慣性を保ったまま、ゆっくりと、滑らかに落ちてくる。
それは崩落というより、あたかも巨大な手によって完全に"ねじ切られた"と表現するほかない、無残な最期だった。
右へ左へと回されていた天井が、今度は圧倒的な質量となって、俺たちの視界を漆黒に塗り潰した。
+---------+---------+---------+---------+---------+
硬い。痛い。そして、ひどく埃っぽい。
頬に伝わるタイルカーペットの不快な感触によって、俺は意識を浮上させた。
這い出すようにして身を起こしてみると、そこは"いつも通り"の地獄だった。
無意識に、壁に掛けられた時計を見る。時刻は深夜二時。普通の会社であれば、とっくに無人であるべき時間だ。
だが、この事務所――蔵淵構造計画では、誰もが死んだような目で画面に齧りついているのが日常の光景だ。
蛍光灯が発する微かなノイズ。マウスを小刻みにクリックする音、そしてキーボードを叩く乾いた打鍵音。
あまりにも"いつも通り"すぎるその光景に、まずは、俺は自分自身の正気を疑った。
先ほどまで体験していたあの凄惨な災害は、いったい何だったのだろうか。
夢、だったのか?
ちらりと卓上カレンダーに目をやる。それは俺にとっては、三年前のそれだった。
赤く目立つ文字で"現説"と書き込まれている日付を見た。今日が何日であるかを確認するまでもない。設計の大詰めが刻一刻と迫っている。
繰り返して言うが、それは俺にとっては三年前のものなのだ。
しかし、その事実を認識した瞬間に、首をぐっと握られたかのような息苦しさを感じた。
仕事で極限まで追い詰められた時に特有の、あの張り詰めた緊張感だ。
椅子に座り直して、目の前にあるモニターを確認する。
DRA-CADが画面いっぱいに表示されており、黒い背景の中に、白や緑や水色の線が幾重にも引かれている。
事務所によって、どの線をどの色で描くのかというルールは異なるのだが、この事務所では白は"印刷しない補助線"として扱うことになっている。
これがいわゆるJW_CAD(Jww)ならば、そもそも補助線という線種が独立して存在するのだが……。
いや、そんなことは今はどうでもいい。
問題は、その線が描き出しているもの。構造図と呼ばれる図面だ。
今、俺が作図していたのは伏図と言われる図面で、建物の平面構造を切り取った様子を示している。
だが、いわゆる平面図として知られている意匠設計が描く間取り図とは違い、ここには部屋の名前や出入り口を示す半円の記号などはない。
ここに描かれているのは、柱や梁、そして壁の外形線だ。そしてそのすべてに符号が付記されている。
1C1や2G1など、それぞれが柱や梁の部材リストと連動するように番号付けがなされているのだ。
いざ建物を作る段階になった時、柱や梁の配置を正確に確認するために、この図面が使われる。
だが、この図面はまだ書きかけの状態だ。一目見ればそれとわかる。
「小梁の符号を、検討しながら、作図指示を書こうとしていたんだっけか……」
独り言を呟きながら、何が現実なのかが、次第にわからなくなってきていた。
しつこいようだが、俺にとっては三年前のこと、であるはずだ。しかし、当時の記憶は鮮明に思い出せていた。
設計業務として、今まで何をしていたのか、そしてこれから何をすべきなのかということも。
やはり、すべては夢だったのだろうか?
あまりの過労が見せた、長い長い"明晰夢"だったのではないか。
三年間をどう過ごしたのか、その一つ一つをあまりに鮮明に思い出せてしまう。
そうだ、そうでなければ説明がつかない。
建築基準法によって厳格に規律されたこの国の建物が、あんな壊れ方をするはずがないのだ。
――まるで、悪魔の巨大な手によって、建物がねじ切られたかのように、俺には思えた。
しばしの間、呆然としていたが、改めて今日という日付を眺めていたら、ふと思い出したことがある。
そういえば、今日は、あの日のことか……。
「……確かめるか」
俺はそっと席を立ち、事務所の外へと出た。
誰かに咎められることなどない。皆、自分の仕事に必死すぎて他人のことなど構っていられないのだ。
同僚がいま、何の仕事を抱えているのか、その期限がいつまでなのかについても、誰も興味を持たない。
この事務所内には、人の数だけ、別の設計事務所が独立して存在しているようなものだった。
階段を降り、ビルの裏手にある小さな公園へと向かう。
肺に流れ込む冬の空気は、オフィスの中よりもずっと鋭く、そして冷たい。
移動しながら、ポケットからスマートフォンを取り出し、一つの番号を呼び出す。
遠距離恋愛中の彼女、沙織。
コールが三回鳴って、小さく、震える声が聞こえてきた。
『……なに?』
無理に、眠そうな声を装っているのがわかる。
それもそのはずだ、今は深夜二時。普通の人は深く眠っていて当然の時間なのだから。
しかし、彼女が起きているという確信が、俺にはあった。
「泣いてるんじゃないかと思って」
沙織が電話の向こうで息を呑むのが聞こえたが、そのかすかな音さえも、泣き声のように響いた。
『……どう、して。知ってるの?』
「もちろん、沙織のことを愛しているからさ」
『……』
俺は調子のいい言葉を口にしたが、沙織は呆れたかのような鼻音を漏らした。
どうやら、いつもの軽口だと思われて、怒りを買ってしまったらしい。これはよくあることだ。
俺は本気で言っているつもりなのだが、なぜかふざけて言っているように聞こえてしまうらしい。困ったことである。
「当てようか。どうして泣いているのかを」
『……』
「パッケージデザインの表記ミスに気づいてしまい、朝イチで関係各位に連絡して頭を下げなきゃいけないのが嫌なんだろう」
『……!』
「中でも一番嫌なのは、あの大嫌いな営業のあいつに報告すること、だろう?」
『……ねえ、もしかして、近くに来てるの? 見てたの?』
「残念ながら、違うよ。もしそうであったなら、すぐにでもお前の部屋へ行って抱きしめているさ」
『……』
人間というのは、あまりに驚きすぎると黙り込んでしまうものらしい。
だが、これで俺は確信を得た。間違いなく、今はあのビルの倒壊から三年前の時点に戻っているし、この三年間に関する記憶もすべて真実なのだ。
こういうの、なんて言うんだっけか。
因果律の撥ね退け、世界線の再初期化、既視感の潜行、刹那の巻き戻り、刻の砂時計の転倒。
もっとわかりやすく言えば、三年前の過去に、自分の記憶や意識だけが戻っている。
建物の下敷きになって死んでしまったはずの俺は生きているし、結婚して子供も出来た沙織との関係は遠距離恋愛中の恋人同士に戻り。
そして、倒壊してしまった建物はまだ設計中なので、この世に存在しない。
俺が今日という日を確信したのは、この日の出来事は、後に沙織から聞いた話だからだ。
それも、彼女からこの大失敗を後悔していると打ち明けられたのは、結婚した後のことだ。
今の俺が知るはずがない情報だ。それをあらかじめ知っている。
眠れなかった沙織は、スマートフォンを手に握りしめて、俺に電話をかけようか、ギリギリのところまで迷っていたのだと言う。
でも、俺の仕事が忙しいという話を聞いていたので、邪魔をしないようにと、最後の最後で我慢したらしい。
そして、家にあった酒という酒を煽って無理やり眠ろうとして、翌日、大遅刻をすることになる。
『聞いて! わたしは悪くないの、そもそも――』
彼女は不思議に思いながらも、それ以上に強烈な感情を堪えきれなくなったように、想いが堰を切って溢れ出した。
怒りや悔しさ、そして心細さ。愚痴が三十分もの間、途切れることなく続く彼女の話を、俺はただ、公園のベンチに座って受け止めた。
溜まっていたものをすべて吐き出したことで、徐々に彼女も落ち着きを取り戻してきたようだった。
『――まだ仕事?』
「ああ、いつも通りだ。でも、もうすぐ帰るよ」
『ごめん、やっぱり邪魔しちゃったね』
「いや、邪魔だなんて思っていないよ。むしろ助かったくらいだ」
『助かったって、何が?』
「世界が救われたよ。おかげでまた、やり直せそうだ」
いつもの軽口。けれど、彼女はそれを聞いて安心したように、安堵の息を漏らした。
『じゃあ、もう寝るね。朝のことは、今は考えないことにする。なるようになるわ』
「ああ。でも、ひとつだけ。もう一度だけ先方に確認してみた方がいいよ。気が変わっているかもしれないからな」
せっかく頭を下げて修正を申し出たのに、今度は連絡不備でやり直す羽目になる、という後日談も彼女から聞いていたので、つい口を突いて出てしまった。
これではまるで、"バック・トゥ・ザ・フューチャー"でドクに怒られる展開ではないだろうか。
確か、連鎖反応が起きて時空連続体がバラバラに解け、宇宙全体が消滅してしまう、といったような。
『……よくわかんないけど、わかった。そうしてみる』
「おやすみ。酒は飲むなよ、朝起きられなくなるからな」
『飲まないわよ。そんな気分じゃないもの。おやすみなさい』
電話を切る。
夜空に向かって、白い息を吐き出した。
吐き出された息は、深夜の闇の中へと溶けて消えていく。
「さて……どうしたものか」
三年前という、地獄の入り口。
手元にあるのは、これから未来に崩壊することになるビルの、設計途中のデータだ。
俺は、この"再計算"を、一体どう使うべきだろうか。
+---------+---------+---------+---------+---------+
午前九時。
事務所のドアを開ける。
マウスをクリックする音、キーボードを叩く音、ハードディスクの駆動音。それらが混ざり合い、不快な不協和音を奏でている。
俺は自分の席まで、誰とも視線を合わせることなく、空気の一部になったつもりで歩を進める。
この事務所――蔵淵構造計画には、明文化こそされていないが、絶対的なルールが存在する。
「おはよう」と口にしてはいけないのだ。
理由は知らない。
集中力を削ぐからなのか、あるいは単に、地獄の底で互いの無事を確認し合うような精神的余裕を、誰も持ち合わせていないからなのか。
俺は、隣の席で図面修正を担当しているパート勤務の女性、内藤さんのデスクに、赤ペンで修正を入れたチェック図を置いた。
「内藤さん、これをお願いします。伏図と軸組の部材符号の修正と、これに合わせて架構配筋詳細図も進めてもらえますか」
「はい」
彼女もまた、挨拶も表情もなく、機械的な動作で図面を受け取る。
これでいい。ここは感情を動かす場所ではない。数値を動かすための場所なのだから。
俺は電源をつけっぱなしにしていたモニターを眺めながら、脳内の情報を整理し始めた。
今、俺が取り組んでいるのは、あの『シンビオシス・リンクテラス』の設計業務だ。
通常のプロセスであれば、建物の誕生まではシンプルな一本の線で結ばれる。
まず、土地と金を動かす"平和島工務店(ゼネコン兼デベロッパー)"が企画を立てる。
いわば、プロジェクト全体の総責任者だ。
次に、その子会社である"平和島エンジニアリング設計"が、建物の外見や間取りを決定していく。
彼らは"意匠設計"と呼ばれ、施主である平和島工務店の理想を具体的な形にする役割を担う。
単なるデザインだけではない。
人の動線が混乱しないような機能的な配置を計画し、避難経路を確保し、合理的な設備配管のルートを練り上げる。
さらに、煩雑な法的手続きや各専門家の統括を行い、建築全体のベースとなる<意匠図>を作成するのだ。
そして、俺たち"蔵淵構造計画"の出番となる。この<意匠図>を元に、地震や台風などの自然災害に屈しない"強さ"を設計していく。
法律を遵守し、学会が研究・発行する最新の技術基準を把握した上で、建物が倒壊しないよう、その安全性を担保する。
イメージしにくいかもしれないが、より単純化して表現するなら、それは一種の「天秤」にかけているようなものだと言える。
左側の皿には"建物に作用する力"を乗せ、右側の皿には"建物が耐えうる力"を乗せる。
もし左側に傾けば、"作用する力"の方が上回っているということになり、建物が倒壊する恐れが生じる。
逆に右側に傾いていれば、"耐える力"が勝っているということであり、倒壊の危険性は少ないと判断される。
……ここで「絶対に倒壊しません」や「間違いなく安全です」と断言しきらない理由は、お察しの通りだ。
そうして検討し、設計した内容を元にして、<構造図>や<構造計算書>を作り上げていく。
さらに、設備設計事務所が電気や給排水、空調など、建物が機能し、人々が快適に過ごすために必要な設備を計画し、<設備図>を作成する。
親が命じ、子が描き、俺たちがそれを支える。この阿吽の呼吸こそが、設計現場の秩序を守ってきた。
だが今回、その真っ直ぐなはずの線が、得体の知れない不純物によって歪められていた。
平和島工務店と設計者の間に入り込んできた、"建設コンサルタント"という存在のせいだ。
本来、コンサルタントとは専門外の知恵を貸してくれる心強い助っ人のはずである。しかし、今回の連中は、根本から違っていた。
彼らが会議の場で並べるのは、世界情勢や経済の波に乗って資産価値を最大化し、建物を『究極の金融資産』へと仕立て上げるための経営戦略ばかりなのだ。
「ESG投資の潮流に合わせた、LEEDおよびWELL認証の最高位『プラチナ』の同時取得」
「パンデミック・リスクをヘッジする、用途可変型フロア設計」
「資材価格の高騰を相殺するための、VEの徹底」
「欧州の環境規制強化を見据えた、ZEB要件の再引き上げ」
「TX最大化のための、全館スマートビルディング化と専用サーバー群の増設」
「グローバル企業の誘致に不可欠な、ABWの完全導入」
「ドローン物流網の解禁を見越した、屋上へのメガ・ヘリポート・テラスの追加」
彼らに悪意など微塵もない。
クライアントの利益を最大化するという、資本主義における絶対的な正義に忠実なだけなのだ。
だが、その正義を実現するために、彼らは建築設計のセオリーを完全に無視し、土足で現場へ踏み込んでくる。
「中東情勢の悪化によりエネルギー価格が高騰しています。外壁の断熱性能を現行案の二倍に引き上げ、屋上には大容量の太陽光パネルを追加してください」
「昨今の金利引き上げを受け、海外の機関投資家がオフィス需要に難色を示しています。よって、上層階の用途を『オフィス』から『高級サービスアパートメント』へ変更します」
「ヨーロッパでESG投資の基準がまた引き上げられました。このビルも追従しなければ融資が受けられません」
「コロナ後のハイブリッド・ワークに対応するため、全フロアから極力柱を排除した無柱の大空間にしてほしい。テナントが自由に間仕切りを変更できる柔軟性こそが、今の不動産価値なのですから」
「資材価格が想定より上振れしています。固定化された空間を作るのではなく、将来的な用途変更が容易な構造や、仮設的な素材の採用が好まれます」
「個人の所有する専有空間を減らし、ラウンジやシェアオフィスなどの共用部分を充実させることで、利便性の向上と資産のライト化を両立させます」
立派なお題目の数々は、理屈としては理解できる。
だが問題は、まるで日々変動する株価チャートを追いかけるかのように、指示が絶え間なく変更されてしまうことにあった。
彼らにとって建物とは、パソコンの画面上でいつでもアップデート可能なソフトウェアに過ぎないのだ。
しかし、実際の建築設計の現場を動かしているのは血の通った人間だ。
窓の一枚、配管の一本に至るまで、そのすべてに技術的な根拠が求められている。そこにあるのは、果たすべき必要な役割があるからなのだ。
彼らにとって窓の変更などは、CAD上の四角形をマウスで数センチ引き伸ばすだけの、無邪気な変更に過ぎないのだろう。
だが設計者にとっては、精緻に構築された秩序に対する暴力そのものだった。
たった一枚の窓が動くだけで、採光や排煙といった法規計算が狂い、省エネ基準の数値が変動し、ミリ単位で整えられた外壁の美しいグリッドが崩れていく。
それらのつじつまを合わせるためだけに、膨大な作業が発生するのだ。
『すみません、間島さん。また、コンサル側がどうしてもって……』
変更指示が下るたびに、平和島エンジニアリング設計の担当者である六車さんが、冥い声で呟くのだ。
彼が悪いわけではない。俺たちは運命共同体なのだ。しかし、彼が謝罪を口にするのは、元請けと下請けという、抗いようのない力関係があるからだった。
そのたびに、俺は重い溜息をつきながらも、再び計算をやり直すのだった。
+---------+---------+---------+---------+---------+
デスクの電話が鳴った。
無機質な呼び出し音が、静まり返った事務所に鋭く突き刺さる。
ナンバーディスプレイの着信表示には、"平和島エンジニアリング設計"の文字。
俺は受話器を取り上げた。
「……はい、蔵淵構造計画の間島です」
「平和島エンジの六車です」
「お世話になってます」
「お世話になっております。……間島さん、また、です」
受話器の向こうから聞こえてくる六車の声は、老人のように枯れ果てていた。
その一言だけで、俺はすべてを悟った。
設計変更という名の、理不尽な天災。俺たちは、この不条理をやり過ごすための"符丁"を共有していたのだ。
「またですか。被害ランクは?」
「……S級、でしょうか」
「S級。世界でも終わるんですか」
「ええ、終わりますね」
それは、これまでの検討がすべて灰燼に帰し、ゼロどころかマイナスからの再スタートを意味する絶望のサインだ。
本来ならば、意匠側で変更内容を詰め、正式な図面が俺の手元に届くまでには数日のラグがある。
だが、俺はすでに"知って"いた。
「六車さん。それ、外周部のバイオフィリック・テラスの配置変更ですよね。一度は没にしたはずのやつ」
受話器の向こうで、六車が息を呑む音が聞こえた。
「え、どうして……。そちらにも、もう連絡が?」
「いえ、ただそんな気がしただけです。嫌な予感ってやつですよ」
「そうです。今日の午後、突然コンサルが乗り込んできましてね。二つの要求を突きつけてきました。一つは、コアを限界まで圧縮して、レンタブル比……すなわち貸室面積の割合を極限まで引き上げろというものです」
「この期に及んで正気ですか。レイアウトが全部やり直しになりますよ」
「ええ、それは全力で突っぱねました。今の段階でそれは物理的に不可能です、と。……ですが、その代わりにもう一つの要求を、飲まざるを得なくなってしまったんです」
「それが、テラスの配置変更ですか」
「ええ。間島さんにもご協力いただいて、テラスの配置案については、いくつかパターン出しをしたじゃないですか。一列に揃える案、ランダムに散らす案、千鳥にする案。そうして、それぞれのメリットとデメリットを比較検討して、最終的に今の"一列配置"に決定した、はずなんです」
「ええ、もちろん覚えています」
「しかし、彼らは言うんです。『まったくゼロからの設計じゃないでしょう。すでに検討済みのパターンを組み合わせるだけなんだから、できるはずだ。レンタブル比の引き上げを妥協する代わりに、環境価値(ESG)の最大化には貢献してほしい』と」
「……ッ」
「たしかに、まったくのゼロからではない。でも、あれはあくまで"絵に描いた餅"であり、基本設計の段階での話です。それを実施設計の、しかも図面が何百枚も連動しているこの最終盤に『あの時の別パターンでよろしく』なんて……」
六車の声が震えていた。怒りや悔しさよりも、圧倒的な徒労感に押しつぶされそうな声だった。
「できない、とは言えませんでした。技術的に不可能だと強弁するには、過去に自分たちが作成した検討資料が邪魔をしたんです。『今更そんな面倒な図面修正はやりたくない』なんて、プロとして言えるわけがないじゃないですか……っ」
無理もない話だ。
意匠設計者にとっても、テラスの位置が階ごとに変わるということは、"基準階(すべて同じ間取りのフロア)"という概念が消滅することを意味する。
全フロアで異なる外壁ラインを描き、異なる窓の位置を定め、異なる配管経路を引き直さなければならない。それは、文字通りの地獄だ。
賽の河原で石を積み上げて、高層ビルを作っているような気分になる。どうせ鬼がやってきて、棒で小突き、やり直しを命じられるというのに。
「六車さん。無駄だとは思いますが、十二回目の提案をしますよ」
「……どうぞ」
「今までも無茶な変更ばかりでした。そのたびに、六車さんには何度も上に掛け合ってもらいましたね」
「しましたね」
「でも、至上命令はひとつ。やり遂げろ、どんなカタチであれ」
「ええ」
「二人で、逃げますか」
「いいですね。二人で酒でも飲んで、温泉にでも入って、世間から身を隠しますか」
現実逃避、ここに極まれり。
受話器の向こうで、六車は黙り込んだ。俺もまた、言葉を失っていた。
昼も夜もなく、ずっと点きっぱなしの事務所の蛍光灯が発する微かなノイズ。
他の同僚や先輩たちが作業している音までもが、もう常に聞き続けているせいか、川のせせらぎや森のささやきのようにさえ思えてきた。
電話は繋がったままだ。
だが、互いに何を言うべきか、何を確認すべきかすら分からなくなっていた。
五分、あるいは十分。
ここで突っぱねればどうなるだろうか?
変更は回避されるのか。納期は延びるのか。そもそも業務自体が頓挫してしまうのか。
この地獄から抜け出せるのか。その答えは、すでに出ていた。
至上命令はひとつ。"やり遂げろ、どんなカタチであれ"、それだけだった。
コンサルと怒号を交わし、過去の経緯を盾に正論をぶつけ合ったところで、出口のない果てしない泥仕合に身を投じることになるだけだ。
もう嫌だった。そう、二人はもう、単純に嫌だったのだ。
俺たちを蝕んでいる"終わらない設計作業"という地獄が、永遠に続くことだけは避けたかった。
すべてを飲み込み、無理やりでも成立させれば、ひとまずは"完了"へと近づく。
誠実さを捨て、ただ"数字を合わせる作業"に埋没してしまえば、この苦しみから、一時的には解放されるのだ。
俺たちは、誇り高い設計者であることをやめ、ただの"処理機械"へと成り下がることで、自分たちの精神を守ろうとしていた。
俺の沈黙は、拒絶ではなく、この理不尽な世界への屈服だった。
そして六車も、俺も、互いにその"諦め"の境界線を越える瞬間を待っていたのだ。
やがて、震えるような吐息とともに、六車が沈黙を破った。
「……間島さん。正気じゃないのは分かっています。でも、もうコンサルを説得する時間は残っていない。僕が意匠図を直します。だから、構造の方はどうにかしてくれませんか」
「断面サイズ、変わりますよ。構造の複雑化も、そもそも一列配置に決定した要因の一つでしたからね」
「お任せします。意匠との干渉チェックや細かい調整はあとに回しましょう。力業で修正するしかありません」
その声は、懇願というよりは、共に泥沼へ沈もうという誘いのようだった。
できないと叫んでプロジェクトを止める勇気を持つには、二人はあまりに真面目すぎて、そして、あまりに疲れすぎていたのだ。
「いいですよ。六車さんが図面を送ってくれたら、俺はそれを構造に反映します。断面サイズは極力変えずに、鉄筋を詰め込みますよ」
それは、建物の安全を守るための設計ではなく、納期という死線を越えるためのパズルへの逃避だった。
施工性がどうなろうと、目の前のモニターに並ぶエラーメッセージさえ消えてくれれば、今日は眠れるのだ。
建築基準法という絶対のルールは、いつの間にか"命を守る盾"ではなく、"検収を通すためのハードル"へと変質してしまっていた。
「ありがとうございます。……では、先に進めますね」
「ええ」
二人は互いの領域に深く踏み込まないことで、巨大な責任を細分化し、不可視化した。
責任のバケツリレーの果てに、致命的な欠陥を抱えた"爆弾"が次へと回されていく。
思考を停止させ、ただ手を動かす。
それが、地獄のような設計現場で俺たちが生き残るために選んだ、唯一の特効薬だった。
電話を切ると、俺は狂ったようにキーボードを叩き始めた。
ビルの崩壊で死んだあの時の俺は、この変更に抗いきれず、なんとか"計算書の上で"だけ整合性を取ってしまったのだ。
だが、今回は違う。
数値だけを合わせる"作業"はもう終わりだ。
「まずは前回の完成品までは作業を進めてしまおう。必要な断面サイズや配筋は覚えている。答えを知っているようなもんだ」
まずは、一貫計算プログラムの入力モデルを修正していく。
プログラム上に構築した建物の"カタチ"を変更するのは、想像以上に面倒な作業だ。
線を消して書き直したり、あるいはCADの移動や複写コマンドで線を動かしたりといった、単純な作業とは訳が違う。
端的に言って、その部分に限っては、白紙からデータを作り直すことが最適解となる。
下手に既存のデータを残したまま修正しようとすれば、どこかに不具合が残っても把握しづらくなるからだ。
小梁の配置、スラブの配置、仕上げ荷重の配置、積載荷重の配置、追加荷重の配置、そして壁の配置などなど、項目は多岐にわたる。
前回、この作業をしたときは、本当に吐きそうだった。
自然と涙が頬を伝い落ち、通りがかった先輩が心配したほどだったが。
しかし、"間違えて作業中のデータを消してしまった"という経験を持つ技術者なら、きっと共感してもらえると思う。
意外なことに、二回目というのは作業が非常に捗るものなのだ。試行錯誤する工程をすべて飛び越して、最短距離で作業が進むからである。
これから深夜にかけて送られてくるであろう"渾身の変更図面"を待ちながら、俺は今できることを着実に進めていく。
+---------+---------+---------+---------+---------+
十九時。
事務所の窓の外はすっかり夜の帳が下り、街路樹を照らす街灯が寒そうに揺れている。
六車からの修正図面が届くまでの空白の時間。
俺はデスクで、コンビニで買った味のしないパンを口に押し込んでいた。
その時、ポケットのスマートフォンが短く震えた。
沙織から『電話できる?』という短いメッセージだ。
俺は事務所を抜け出し、いつものように裏手にある公園に向かった。
「……もしもし」
『あ! あのね、聞いて!』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、泣きそうな声とは正反対の、弾んだ声だった。
『あなたに言われた通り、朝イチで恐る恐る先方に確認してみたの。そしたらね、向こうも「ちょうど表記を見直そうって会議があったばかり」って! だから私のミス、ミスじゃなくなっちゃった。修正も向こうの都合ってことになって……本当、奇跡みたい』
彼女は一気にまくしたてた。
彼女にしてみたら、俺のアドバイスが彼女の窮地を救った、ように感じただろう。
だが、俺が何もしなくても、彼女のミスはミスではなくなっていたはずだ。
まあ、彼女の大遅刻は未然に防いだので、その点は感謝してもらってもいいかもしれない。
しばらく、高いテンションの彼女が、何があったのかとか、天敵の営業担当者との対決とかを聞き、相槌を繰り返していた。
しかし、一通り語り終えた彼女が、ふと声を潜めた。
『……なんか、悩んでる?』
「いつだって悩んでるよ、どうすれば世界が平和になるんだろうって」
『この間は、世界を救うより電話越しに私を抱きしめた気持ちになる方が難しいって、わけのわかんないこと、言ってたけど』
「いつだって悩んでるよ、どうすれば沙織を幸せに出来るのだろうって」
『もう。そんなのはいいから、話してみてよ』
「そんなの、はひどいな。本当のことさ」
『……あなたってさ。そうやって自分のことは真面目に話してくれないよね。正直、ときどきイライラする』
「ごめん」
俺は短く謝った。本当に、そんなつもりはない。
けど、照れ隠しのために、話をそらす傾向は自覚していた。
『……もういいよ。でも、今度、会ったときには、いろいろ話そう。二人の将来、とかさ』
その言葉に、どきりとする。
将来、か。この後の三年間のことは、もちろん"よく知っている"。
俺が沙織にプロポーズする。しかも電話で。
最初は本気だと思われなくて断られ、ショックのあまり、深夜バスに飛び乗って、沙織の町へ。
そして、早朝に沙織のマンションの前で、じっと正座して待つこと、三時間の末――。
いや、あれは我ながらキモいプロポーズだった。後悔してる。
――そっか。プロポーズをやり直せるってことか。
『なんか、静かだね。……もしかして、怒った?」
黙っていたら、彼女を不安にさせてしまったようだ。
「ごめん、そうじゃないんだ。今から言うことは、本気だ、沙織に言っておきたいことがある」
『えっ……なに? 急に改まって』
「俺、今の仕事が終わったら、会社を辞めるよ」
ビルの倒壊という災害に巻き込まれ死んだ俺には、その覚悟がなかった。
沙織が仕事を辞め、生活を捨てて、一人っきりの母を置いて、単身で俺の住む町に移住してきてくれた。
でも、今の俺は違う。この覚悟は、俺の未来を大きく変えてしまうことになるだろう。
未来を知っているという、強いアドバンテージを捨ててしまう行為なのかもしれない。
受話器の向こうで、彼女が息を呑むのがわかった。
「ずっと考えてた。俺にとって、本当に守るべきものは何なのか。毎日四時間しか眠れず、休日もなし、他人と会話すらまともにしない、命削ってこんな生活が、何を守ってるんだろうって」
『……』
「そっちへ行く。沙織の住む町に移住して、仕事を探すよ。この仕事を続けてもいいし、いっそ転職したっていい」
『……本気?』
「本気。で、さ。……一緒に、住まないか。もう、電話越しに泣き声を聞くのは嫌なんだ。一緒が嫌なら、近くに住むでもいい」
『……』
沈黙が流れた。
やがて、小さな、震えるような声が聞こえてきた。
『……嘘じゃないよね?』
「ああ、本気だ。もう決めたんだ」
『私も、ずっと……いつかそうなったらいいなって、思ってた。今の仕事、好きだけど、ときどきすごく嫌いになる。そんなとき、あなたにいつも電話してた。でもさ。本当は近くにいてほしかった』
「ああ」
『でも、お互いにさ、自分の生き方が出来ちゃってるじゃない? それを壊してまで、って勇気がなかった』
「ぶっちゃけさ、俺、たぶん生活なんか、すでにぶっ壊れてるよ。冷静に考えたら、今の働き方って、まともじゃない」
『うん、いつも心配してた』
「だから、待っててほしい。今の仕事だけは、終わらせたいんだ」
『うん……。うん、待ってる。……嬉しい……どうしよう、涙が出てきちゃった。……一緒にいたいよ』
彼女の反応は、あまりにも真っ直ぐで、混じりけがなかった。
これから俺が直面するのは、捻じ曲がった運命の破壊、あるいは再構築だ。何が現実で誠実で、何が夢か欺瞞なのか、わからなくなる。
けれど、受話器から伝わる彼女の温かな震えが、俺をこの世界に繋ぎ止めてくれる。
「ああ。じゃあ、最後の戦いに行ってくるよ。また電話する」
『うん、がんばって』
電話を切り、公園のベンチから立ち上がる。
そろそろ、来る頃だろう。
地獄の道標、六車からのメールが届く。
俺はもう、迷わない。
愛する人の待つ未来へ帰るために。
+---------+---------+---------+---------+---------+
深夜二時。また、この時間がやってきた。
いつものように、先輩や同僚たちは黙々と己の世界に閉じこもり、仕事に没頭している。
時折、先輩同士で声を掛け合い、煙草休憩に向かう姿も見受けられるが、事務所内の空気は、吐き出された二酸化炭素と電子機器が発する熱気によって、まるで淀んだプールの水のように重く沈んでいる。
俺の手元には、すでに"未来の答え"が揃っている。
これから間近に迫った現説(設計の締め切り)までの残り時間で、設計変更のために成すべきことを、俺はすべて熟知していた。
元の時間軸において、血を吐くような思いで完遂させたあの作業は、忘れようとしても忘れられない、魂に深く刻み込まれた苦行そのものだったからだ。
それを再現するだけならば、以前に比べればずっと容易な作業だった。
だが、画面上に並ぶ完璧なはずの数値を眺めれば眺めるほど、心臓の鼓動は冷たく、そして速くなっていく。
このままでは、またこのビルは崩壊してしまう。
震度五弱。この国では決して珍しくない揺れであり、本来ならばあのような無残な壊れ方をするはずがないにもかかわらず、建物は倒壊へと至ったのだ。
あの災害によって崩れ去ったビルは、建築基準法に基づく指定確認検査機関、および指定構造計算適合性判定機関による厳格なダブルチェックを通過していた。
どちらの機関からも、数十項目に及ぶ指摘事項のリストが届き、その一つ一つに対して、生爪を剥ぐような思いで追加説明を施したり、修正を行ったりしてきたのだ。
少なくとも、法規の上では、安全性は十分に満たされていたはずだった。
それなのに、なぜ死という結末は確定しているのか?
デスクの電話が鳴った。
ナンバーディスプレイに表示された着信先は、"平和島エンジニアリング設計"だ。
俺は電話の受話器を取り上げた。
こんな深夜に電話をかけ、当然のように俺が受けることを微塵も疑わない。それは、この業界特有の狂った信頼関係の証でもあった。
最初は、図面を送付したという事務的な連絡事項だった。具体的にどの箇所をどう変更したのか、その詳細な報告だ。
変更修正がまだ追いついていない箇所についても、随時更新していく予定だが、ひとまず構造設計に必要となる情報を優先的にまとめた、という確認の内容だった。
しかし、一通りの説明が終わると、六車の様子に異変が生じた。
「間島さん……このプロジェクト、何かが妙なんです」
「何を今更。コンサル側による無茶苦茶な変更のことなら、俺はもう諦めましたよ」
「いえ、変更内容そのもののことではなくて。その、もっと根本的な……"建物の在り方"に対する、拭いきれない違和感なんです」
「ありかた、ですか?」
「ええ、このビルには"未来"が無いんですよ」
その言葉に、心臓をどきりと突かれたような衝撃を覚える。
未来を知る俺の立場からすれば、その言葉はあまりに重い。事実として、このビルには"未来"が存在しないことを俺は知っている。
俺や沙織、そして娘の未来だけでなく、あの場に居合わせた多くの命を、このビルは奪い去っていくことになるのだから。
俺が絶句していると、六車の声は深夜の静寂の中に不気味なほど響き渡った。
「スクラップ・アンド・ビルドの時代は終焉を迎え、建物を長く大切に使い続けるストック型社会へと移行したはずでした。僕ら意匠は、三十年、五十年先のライフサイクルコストまでを考慮し、修繕しやすい動線を計画し、この街で建物がどう歳を重ねていくかを想像しながら線を引いてきました。……ですが、あのコンサルたちは根本から違っている」
六車の言葉には、設計者としての矜持を根底から否定されたような、深い徒労感が混じっていた。
「彼らの頭の中にあるのは"流動性"と"オフバランス(資産の切り離し)"だけです。建物を完成させたら、即座に不動産投資信託や海外の機関投資家へと売り払う。彼らにとっては、いわゆる"出口戦略"こそがすべてなのです」
俺は口を挟むことができず、ただ黙って彼の話を聞いていた。
「これほど頻繁に変更を要求してくるくせに、建物の長期的なメンテナンス計画や、十年後の設備更新ルート……といった"物理的な将来計画"については、驚くほど無関心で、内容も白紙のままなんです。彼らにとってこのビルは、作って売るだけの単なる"金融商品"でしかないんですよ」
六車は、俺が返事をしないことさえ気にする様子もなく、想いを吐き出し続けている。
受話器の向こうから伝わってくる彼の痛切な嘆きを聞きながら、俺の心に去来したのは、ひどく冷めた、まるで第三者のような感情だった。
"流動性"、"オフバランス"、"エグジット"。
六車の口から漏れる金融や不動産投資の専門用語は、俺にとって、まるで別世界の言語のように響いていた。
著名なアトリエ系建築家と二人三脚で斬新な空間を創り出す、芸術家のような"構造家"ならばいざ知らず。
俺のような、構造設計事務所に属する一介の設計者にとって、建物の"資産価値"や"将来のライフサイクル"などというものは、そもそも管轄外のフィクションに等しい。
俺の日常の中に、そのような高尚な思想が入り込む隙間など、どこにもないのだ。
極論を言ってしまえば、俺は建物を"創って"などいなかった。
上流から降りてきた情報に対して、法規と力学というフィルターを通し、ただ変換と出力を機械的に繰り返すだけの、無機質な"処理装置"だった。
建物が完成した後、それが誰に買い取られようと、どのようなファンドの間で転がされようと、俺の知ったことではない。
監理の仕事まで請けていなければ、建設中の現場に呼ばれるのは、たいてい何らかの問題が発生したときくらいのものだ。
たまにその建物の前を通りかかったときに、「ああ、完成していたんだな」と他人事のように思うだけ。
その建物が寿命を迎えたり、役割を終えたりして取り壊されることになったときに抱く感情は、役目を終えた時限爆弾が、無事に解体されたのだという安堵感に過ぎない。
俺の業務は、地震波を入力しても建物が倒壊しないように計算書をまとめ上げ、確認申請の許可を下ろすところまでだ。
完成した後の建物の"未来"なんてものは、最初から俺の頭の中には存在すらしていなかったのだ。
「誰も、この建物に対して愛着なんて持っていない。所有者でさえ、ただの株主の集合体に過ぎなくなる。……間島さん。だからこのビルには、本当の意味での"未来"が無いんです」
六車は、建築家としての誇りを奪われ、"未来が無い"と嘆き悲しんでいる。
だが俺は、そんな喪失感すら抱くことができない。
コンサルの無茶な要求に屈するまでもなく、俺はとっくの昔から、ただ図面の辻褄を合わせるためだけの"機械"に成り下がっていたのだ。
(……だからこそ、俺は何か致命的なことを見落としたのか?)
――その冷徹な自覚が、背筋を凍りつかせた。
「六車さん」
「はい」
「図面は、確かに受け取りました。なんとか形にしてみます」
「……すみません。少々、自分語りが過ぎましたね。お願いします」
「いえ。これが終わったら飲みに行きましょう。そこで話の続きをまとめて聞きますから」
「ええ、是非そうしましょう」
電話を切る。
受話器から漏れるツー、ツーという無機質な電子音が、まるで死へのカウントダウンのように響いていた。
+---------+---------+---------+---------+---------+
受話器を戻し、俺は再びモニターの放つ光に向き直る。
モニターの限られたデスクトップ領域で、俺は視界を埋め尽くすウィンドウを切り替えた。
六車から送られてきたばかりの、最新の意匠図面。
そして、俺自身がデータを打ち込み、構築した一貫構造計算プログラムの応力図。
それらを背後へと追いやり、最前面に引きずり出したのは、限界耐力計算の要となる、一質点系解析の地震応答を示す解析結果のデータだ。
複雑な構造を持つ建物を「等価な一つの質点」へと集約し、大地震の揺れに対して建物がどう応答するかを示すグラフが広がっている。
横軸に変形(Sd)、縦軸に加速度(Sa)をとった「加速度-変位応答スペクトル(Sa-Sd線図)」だ。
画面を斜めに下る太い赤線は、地震波が建物に対して要求する力の大きさを示す"要求スペクトル"。
対して、右肩上がりに伸びる青い線は、建物の粘り強さを表す"性能曲線"だ。
二本の線は計算通りに交わって黄色いドットを打ち、そこがこの建物の設計上の「性能点(着地点)」であることを示している。
そのドットは、建物の安全限界ラインより十分に左側――つまり、明確な安全圏の中に収まっていた。
「……この解析結果通りに応答するならば、倒壊など、するはずがない」
これは、過去に発生した大地震の観測データを用い、コンピューターの中に構築した仮想のビルを揺らして、どのような反応を示すかを確認する作業だ。
構造設計者が扱う"地震波"には、明確なセオリーがある。
1940年のエルセントロ(El Centro)NS波、1952年のタフト(Taft)EW波、そして1968年の八戸(Hachinohe)波。
基本となるのは、構造設計者ならば誰もが知っている、過去の巨大地震の波形データだ。
特に、1968年の八戸(Hachinohe)波というのは、大きな意味を持つ地震波だ。
1968年に発生した十勝沖地震の際に観測されたもので、当時のコンクリート建築が脆くも崩れ去った光景は、建築界に巨大な衝撃を与えた。
この震災をきっかけに、日本の建築基準法はそれまでの脆弱さを克服すべく抜本的な見直しが行われることになった。
これ以降に施行された厳しい新基準で建てられた建物は、いわゆる"新耐震"と呼ばれ、現代の都市が地震に耐えうるための分水嶺となったのである。
八戸波は、歴史的なターニングポイントの記録といえる。
これらの地震波を入力し、シミュレーション上で建物が倒壊しなければ、法律上も、そして実務上の慣習としても"安全"であるとみなされる。
俺たちはいつだって、過去の亡霊を相手にして設計を行っている。
だが、俺はこのビルが実際に倒壊へと至る地震を、この身で体験している。
その揺れ方は、大地震と呼べるほどの巨大なエネルギーを孕んだものではなかった。それは間違いない。おそらく、最大でも震度五弱程度だったはずだ。
少なくとも、俺は娘を抱きかかえながらも、その場に立っていられたのだから。一般的に"人が立っていられなくなる"と言われるのは、震度六弱からだ。
そのうえ、あれは直下型の鋭い揺れだった。揺れ自体は短時間で終わったことを覚えている。
問題はそのあとだ。地面の揺れは収まっていたにもかかわらず、建物がゆらゆらと、ゆっくりとしたねじれを執拗に繰り返した。
それがなぜなのか、今の俺にはまだわからない。
あの時。幻を見た気がする。巨大な悪魔が、ビルを両手で挟み込み、いたずらに右へ左へと捻って遊んでいる光景を――。
「まさか、本当に悪魔の仕業だというのか?」
「――悪魔が、どうしたって?」
不意に背後から声が降ってきて、俺は心臓が跳ね上がるのを感じた。
振り返ると、いつの間にか背後に立っていたのは、先輩の羽柴さんだった。
万年寝不足で落ち窪んだ目をし、手には冷めきったブラックコーヒーの缶を握っている。
「羽柴さん……いや、その……」
誤魔化そうとした口が、極限の疲労と焦燥のせいか、勝手に別の言葉を紡ぎ出していた。
「このビル、倒壊するんです。それも、まるで悪魔にねじ切られたみたいに」
言ってしまった直後、俺は血の気が引くのを覚えた。
いくら深夜で皆の頭がおかしくなっているとはいえ、構造設計者が口にしていい冗談ではない。
「お前は頭がイカれたのか」「仕事から逃げるための言い訳か」と、烈火のごとく叱られる。そう身構えて、俺は肩をすくめた。
しかし、予想に反して怒号が飛んでくることはなかった。
「……どれ、ちょっと代わってみろ」
羽柴は持っていた缶コーヒーをデスクの端に置くと、俺の肩を軽く押し、座っていたキャスター付きの椅子を半ば強引に奪い取った。
そして、モニターに顔を近づけ、無言でマウスを握る。
カチ、カチカチッ。
羽柴の指先が、一質点系の応答スペクトルから、立体フレームの変形図、そして軸力図へと次々と画面を切り替えていく。
その横顔は、冗談に付き合っているような軽薄なものではなく、純粋な技術者としての鋭い眼光を帯びていた。
「どうやって倒壊するっていうんだ? 詳しく話してみろ」
画面から目を離さないまま、羽柴が低く促す。
俺は戸惑いながらも、自分が"体験"したあの異常な現象を必死に言語化した。
「……最初は直下型の、鋭く短い揺れでした。震度で言えば五弱程度。娘を抱きかかえたままでも、十分に立っていられるくらいの揺れです」
「お前、娘なんていたか?」
あ。しまった、と俺は思った。
つい、未来の記憶のままに口走ってしまった。
"今"の俺はまだ結婚しておらず、当然、娘も存在していないというのに。
「い、いえ、いません。あくまで例えとしての話ですよ。それよりも、その後が問題なんです」
「揺れが収まった後、か」
「はい。地面の揺れは確実に止まっていたのに、一階のフロア全体が……いや、空間そのものが、ゆっくりと回り始めたんです」
「回る、のか? 前後の揺れではなく、回転運動だというのか?」
「ええ。うまく説明はできませんが……、まるで巨大なターンテーブルの中心に立たされているような感覚でした。足元そのものは揺れていないのに、外周の景色だけが右へ、左へと大きく回転して……。そして一往復するごとに、ねじれの角度がさらに深くなっていきました。最後には柱がその反復運動に耐えきれなくなり、一斉に弾け飛んだんです」
羽柴のマウスを動かす手が、ピタリと止まった。
そして、なぜか天井を見上げてじっとしている。その頭の中で、凄まじい勢いで何かがシミュレートされているようだった。
羽柴は再び動き出したかと思うと、マウスを操作し、開いていた画面をあっさりと閉じてしまった。
「羽柴さん……?」
「……独楽、か」
羽柴が何を言おうとしているのか、すぐには理解できなかった。
「独楽、ですか?」
「ああ、内柱と外柱のバランスがな。軸力の比に対して断面積の比が、うまく噛み合っていないのかもしれない。軸変動を考慮して、梁に過大な負担がかかるような数値ではないようだが、それらが全く同一でないとするならば、極端に言えば一本足で立っているような不安定な状態だ。内柱は地面を強く踏ん張り、逆に外柱は少し浮かされているような、そんなバランスだ」
どんな建物であっても、多かれ少なかれその傾向はある。
なぜなら、柱とは"床の重さ"を分担して背負う、担ぎ手のような存在だからだ。
イメージしてほしい。
建物の中心に立つ柱は、自分の周囲360度、四方八方に広がる床の重みをすべて一身に受け止めている。いわば、大きなテーブルの下に潜り込んで、ど真ん中で支えているようなもの。
これ対して、建物の端、つまり外壁に面した柱はどうだろう。床の重みは前にしかなく、それは大きなテーブルを皆で力を合わせて運ぼうとしているようなもの。
もちろん、ビルをぐるりと覆う重厚なガラスやコンクリート壁といった重いものを支える役割も担っているので、そう単純な話でもないが。
「そこに、お前が言うようなターンテーブルの回転が加わったとしたら、それは独楽を回そうとして勢いをつけているようなものだ。遠心力によって、回転する力はさらに増幅されていく」
「まさか――」
「計算用のモデルでは、柱を単純な"線材"として扱うが、高層RC造における太い柱のヤング係数の経時変化や、複雑な配筋による剛性増大の差異を正確にモデル化するのは、極めて難しい。単純な横揺れであればその影響は表面化しないかもしれない。だが、もしお前が言うように、悪魔がビルを弄ぶかのように長く、繰り返し回され続けたとしたらどうだ。コンクリート内部の微細なひび割れによって、建物の剛性は刻々と変化していく。その場合、このような一様な条件下でのシミュレーションなど、何の意味も持たなくなる」
「しかし、そんなこと――」
「そう。普通はそこまで想定しない。設計においても考慮しないというか、そもそも考慮することなど不可能なんだ」
羽柴は空になったコーヒー缶をゴミ箱へ無造作に放り投げた。カラン、と乾いた音が、深夜の静寂に響き渡った。
+---------+---------+---------+---------+---------+
「汎用の構造計算ソフトというのは、あくまで『法律で定められたルール』をクリアしていることを証明するための道具だ。お前が言ったような、未知の地震波や、建物が悪魔に揺さぶられるような複雑な壊れ方までを、馬鹿正直に計算できるようにはできていないんだよ」
「なら、どうすれば……。このまま放置すれば、本当にあの時と同じように倒壊してしまいますよ」
思わず漏れた俺の声には、隠しきれない焦燥が混じっていた。
一度その死を目の当たりにした俺にとって、それは単なるシミュレーション上の懸念などではなく、すでに確定してしまった未来の恐怖なのだ。
だが、それを羽柴さんに問いかけてどうするというのだ。
この建物の設計主担当は自分自身だというのに、まるで自分は被害者であるかのように、責任を他者に押しつけようとしていないか。
一瞬の葛藤が脳裏をよぎる。
しかし、羽柴はそれらすべてを飲み込んだかのように深くうなずくと、静かに言葉を継いだ。
「モデルの解像度を上げるしかないな。『ファイバーモデル』を導入する」
「ファイバー……繊維、ですか?」
「ああ。普段の計算では、柱や梁をただの『一本の線』として簡略化して扱う。だがファイバーモデルは違う。柱の断面を、コンクリートと鉄筋という細かいメッシュ……いわば無数の『繊維の束』として分割して計算を行うんだ」
「名前は聞いたことがありますが……」
「柱がねじられた際、外側のコンクリートからどのようにひび割れが生じ、中の鉄筋がどう引き伸ばされていくか。それを繊維の一本一本に至るまで追跡できる。これならば、お前の言う『独楽のように回されて剛性が抜けていく』過程を、計算機の中で忠実に再現できるはずだ」
「でも、それだと計算量がとんでもないことになりませんか? いくらなんでも解析に時間がかかりすぎて……」
羽柴の提案に、俺は絶句した。
俺自身、実務においてファイバーモデルによる検証を行った経験は一度もない。
利用しているプログラムの説明会で、高度な解析として「そんなことも可能だ」という話を聞いた程度の認識だった。
今から専門書を読み漁り、無数に湧き出てくるであろう必要な設定数値の根拠を準備して、入力し、解析にかける――。
結果が出るまでに、一体何週間を要してしまうだろうか。今はただでさえ、設計の締め切りが目前にまで迫っているというのに。
「勘違いするなよ。すべての部材要素に詳細な設定を施して、完璧な数値を弾き出そうというわけじゃない。そんな悠長な時間は我々にはないんだ。目的はただ一つ、悪魔に揺らされた時の『建物全体の挙動を視覚化』することにある」
「挙動の視覚化……」
「そうだ。お前が視たのは一階からの風景だけだろう? それでは建物がどのような変形を伴い、どこに応力が集中し、どこで耐力が不足しているのかまでは見えてこない。どこからひび割れが始まり、どこが最初に悲鳴を上げるのか。建物全体のバランスの中で、どこから崩壊のドミノが倒れ始めるのか。そのクリティカルな弱点……アキレス腱さえ洗い出せれば、それでいいんだ」
なるほど、と俺は得心した。完璧な数値による証明ではなく、弱点の特定にのみ特化するということか。
「もし、弱点が見つかったとしたら……その後はどうするんですか?」
「強くする。だが、ただ闇雲に鉄筋を増やすだけでは、耐力こそ上がるが、逆に脆くなってしまうのが鉄筋コンクリート造の難しいところだ。まずはどう壊れるのかを知り、その上でどう補強するかを考える。この順番で検討を進めるんだ」
羽柴の言うことは理論として理解できる。しかし、俺の頭には一つ、極めて現実的な問題が浮かんでいた。
「待ってください。その検討結果は……確認申請の書類に出すんですか?」
「出さない。というか、そんなもの出せるわけがないだろう」
羽柴は自嘲気味に、鼻で笑った。
「『架空の悪魔に捻じ切られるような地獄の地震波を入力したら倒壊したので、独自のモデルで安全を確かめました』なんて説明するのか? 審査側の人間は、誰もそんな不確かなものは認めないし、正直なところ見たくもない、というのが本音だろうよ」
「じゃあ、申請の方は……」
「シミュレーションで導き出した必要な断面サイズに基づいて、構造図を修正する。当然、図面との整合性を取るために、確認申請用の標準モデルにもその数値を入力して計算を通す。文句を言うのはコンサルくらいだろうな。検定比に余裕がありすぎる、これは過剰設計ではないか、とな」
「……そこは『ご要望いただいた通り、将来の用途変更に耐えうるフレキシビリティを持たせるための安全マージンです』とでも、適当な理由をでっち上げるしかありませんね」
「そういうことだ」
過去に一度も発生したことのない、想定外の災害への対処法は、現行の制度下では説明がつきようがない。
だからこそ、それはコストダウンを至上命題とするコンサルたちにとっては、無駄な贅肉にしか見えないはずだ。
三年後、このビルが完成し、実際にあの未知の地震が発生するその瞬間まで、俺たちの戦いは誰の目にも触れることのない、稀有な状況となる。
しかし、やるしかないのだ。
「やるぞ、間島。さっさと今の建物の全データをこちらに回せ。悪魔のねじれ波を再現して、本当にお前の言う通りに壊れるのかどうか、この目で見てみようじゃないか」
先輩の丸まった背中は、理不尽な納期に押し潰されていた今までとは打って変わり、圧倒的な熱量を帯びていた。
俺は小さく息を吐き出すと、深く頷いた。
「……はい。すぐに準備します」
ただの"処理する機械"に成り下がっていた俺の胸の奥底で、とうの昔に冷え切っていたはずの感情が、静かに熱を持ち始めるのを感じていた。
これから始まるのは、極限状態における、気の遠くなるような二重作業だ。
建築基準法に基づき、指定確認検査機関および指定構造計算適合性判定機関のダブルチェックを通過するための「表の設計」。
そして、いつか必ず襲い来る悪魔のねじれに打ち勝つための「裏の設計」。
コスト削減と資産価値の向上を至上命題とするコンサルタントたちの目を巧みに欺き、過剰設計だと追及されないギリギリのラインを慎重に見極めていく。
意匠設計を担当する六車とも水面下で調整を図りながら、建物のクリティカルな弱点を、密かに、しかし確実に"強く"しなければならない。
それは、誰からも賞賛されることのない、孤独な戦いになるだろう。
もし三年後、俺たちの目論見通りに見事悪魔を退けることができたとしても、世間の目には「最新のビルが、普通に地震をやり過ごした」としか映らない。
俺たちがどれほどの血の滲むような努力を重ねて、致命的な欠陥を塞ぎ止めたかなど、誰も知る由はないのだ。
だが、それでいい。
建築構造設計。それは本来、人々の命を鉄筋とコンクリートと鉄骨の箱の中で守り抜く、地味で、孤独で、けれど誇り高い職人仕事なのだ。
理不尽な納期と要求の前にひれ伏し、その誇りを自ら手放してしまったからこそ、俺は一度、大切なものをすべて失うという残酷な結末を迎えた。
もう二度と、あんな過ちは繰り返さない。
三年後。
あの落成記念式典の日に、沙織と、これから産まれてくる愛しい娘が、この真新しいロビーで無邪気に笑い合えるように。
その笑顔の足元で、俺と羽柴が仕込んだ強靭な骨格が、大地からの理不尽な暴力を静かに、そして確実に押さえ込んでみせる。
「……悪魔でも何でも、捻じ伏せてやる」
画面の奥底に潜む見えない敵を見据え、俺は静かな、しかし固い決意と共に、エンターキーを強く叩き込んだ。
+---------+---------+---------+---------+---------+---------+
三年の月日が流れた。
真新しいロビーに所狭しと並べられた、色とりどりの祝花。
空調の効いた静謐な空間には、シャンパングラスの触れ合う繊細な音が心地よく響いている。
複合商業ビル『シンビオシス・リンクテラス』の落成記念式典。
「パパ、ふうせんほしい!」
もうすぐ三歳になる息子が、花の香りなど意に介さぬ様子で、飾り付けられた色鮮やかな風船の方へと気を取られている。
その隣では、妻の沙織が、どこか落ち着かない様子の俺の手をそっと握りしめた。
「大丈夫? なんだか、さっきから緊張しているみたいだけど」
「……ああ。本当は、ここには来ないつもりだったからね」
俺は、内ポケットに忍ばせたスマートフォンで『強震モニタ』のアプリを無意識に確認してしまう。
あれから、いろいろと未来は変わった。
だから、もしかしたらあの悪魔はもうやって来ないのかもしれない。
このまま何も起きず、ただの退屈なセレモニーとして終わって家に帰るだけ。もしそうなら、それでいい。
――その時だった。
カタカタ。
三年前と、まったく同じ予兆。地面を撫でるような微かな揺れに、会場の華やかな笑い声が一瞬にして凍りつく。
――ドン!
直後、床を下から鋭く突き上げるような短い衝撃が式典会場を襲った。
悲鳴が沸き上がり、テーブルのグラスが床に落ちて砕け散る。
俺は反射的に足を広げて踏ん張り、息子を強く抱きしめた。
震度五弱。直下型の、鋭い揺れだ。
だが、衝撃は一瞬で通り過ぎていった。続くはずの余韻もなく、地面の揺れは急速に静まっていく。
そして――、あの時と同じ奇妙な感覚に身構えた。
地面の揺れは、間違いなく止まっている。
なのに、空間全体が、ゆっくりと"動こうと"していたのだ。
まるでこの巨大な建築物を、目に見えない巨大な悪魔が両手で掴み、ねじりながら弄ぶ、あの感覚。
外周を覆うガラス窓の景色が、ゆっくりと横へ滑り出そうとする。
(来る……!)
俺は息を呑み、足の裏から伝わってくる建物の挙動に全神経を集中させた。
――ギチリ。
重く、鈍い音が足元から響いた気がした。
三年前、過酷な反復変形を強制されてコンクリートが上げたあの"らせんの悲鳴"ではない。
密かに"強く"しておいた建物の骨格が、今まさにその強靭さをもって、悪魔の力と真っ向から組み合っている音だ。
右へ回ろうとした建物のねじれは、内部に密に配された鉄筋によってがっちりと受け止められた。
その反動で左へ回り返そうとする力も、強化された外周柱がしっかりと地面を踏みしめて決して逃がさない。
増幅するはずだったねじれのエネルギーは、建物の骨格に熱として吸収され、たった一回の往復だけで、急速に、そして完全に殺し切られた。
「……収まった」
俺は自分に、そして家族に言い聞かせるように呟いた。
周囲を見渡す。
シャンデリアはわずかに揺れの余韻を残しているが、建物は真っ直ぐに立ち続けている。
招待客たちは「あー、びっくりした」「一瞬でしたね」と、安堵の溜息をつきながら胸をなでおろしているだけだった。
あの不気味なねじれ現象に気づいた者は、ここには誰一人としていない。
彼らにとっては、ただの「短くて少し大きな地震」が来て、それが安全に終わっただけに過ぎないのだ。
違和感は違和感のまま、日常の風景の中に溶けて消えていった。
やがて落ち着いたトーンの非常放送が響き渡り、スタッフの誘導に従って、俺は家族の手を引いてロビーを歩き出した。
外に出ると、そこには冷たく澄み渡った冬の空が広がっていた。
三年前、瓦礫に塗り潰されたあの"降ってきた空"ではない。
「パパ、いま、すごくゆれたね!」
無邪気な息子の声を聞きながら、俺は三年分の重い荷物を下ろすように、心の底から長く、深い息を吐き出した。
+---------+---------+---------+---------+---------+---------+
自分の個人事務所で、俺は一人、静寂の中にいた。
時刻は深夜。息子を風呂に入れ、寝かしつけた後でそっと家を出て、ここに来たのだ。
深夜のオフィスを照らしているのは、モニターから漏れる冷たい光と、デスクライトが作る小さな円だけだ。
今夜は、息子や妻の隣にいても、きっと心が落ち着かず、二人を起こしてしまうかもしれないと思った。
昂ぶった気持ちを静めるために、俺はここへ来たのだ。
三年前、組織の歯車として、充血した目で仕事をしていた自分はもうここにはいない。
『シンビオシス・リンクテラス』の設計が完了して、確認申請がおりたと同時に、俺は退職届を叩きつけた。
本音を言えば、あのビルから、あの確定した絶望から、ただ逃げ出したかったのだ。
関わりを断てば、もし三年前と同じ悪夢が現実になったとしても、自分と家族が瓦礫の下に埋まることはない。
それは設計者としての誇りよりも、一人の男としての臆病な感情に基づいた逃走であった。
そして、会社を辞めてすぐ、俺は沙織の元へと向かい、プロポーズをした。
前回の反省を生かして、きちんとロマンチックな演出を凝らした上で、最高のプロポーズを。
もちろん、沙織はうなずいて、俺たちはすぐに結婚した。
生まれてくるのが、男の子だと知らされたときは、正直驚いたが。
俺は開業した。
今では個人事業主として、一人親方として構造設計を請け負っている。
設計する建物の規模は、あの頃に比べればずっと身近な存在になった。
もう、違う人生を歩み始めた。そう感じていた、のだが。
運命は、俺を放っておいてはくれなかった。
かつての先輩である羽柴からの「式典、お前も来ないか?」という一本の電話。
迷いの果てに、あえて家族を連れて行くことを決めたのは、逃げ出した過去の自分と、そして俺自身に決着をつけるためだった。
俺と羽柴が、極限の闇の中で仕込んだあの"裏の設計"。
それが本当に悪魔のねじれを捻じ伏せられるのか、俺には自分の目と足の裏で、その結末を確かめる責任があった。
一人でこっそりと行くこともできたはずだ。
だが、それではいつまでも恐怖から逃げ回っているのと同じことだ。
自分が魂を削って引いた線、命を守るために再構築した骨格。
それが本物だと信じているのなら、最も愛する家族をその空間に預けられるはずだ。
もしそれが信じられなくなってしまったら、もう俺は何を指針として構造設計をすれば良いのか、わからなくなってしまうだろう。
それでも、万が一の事態に対する恐怖はあった。一度は、死を体験したのだから。そう簡単に拭えるものではない。
内ポケットで強震モニタを表示させたスマートフォンを握りしめる手には、冷たい汗が滲んでいた。
結果。俺や羽柴が執念で仕込んだ柱は、強靭な意志を持って暴力を殺し、家族の笑顔を守り抜いた。
誰にも気づかれることのなかったあの一瞬の静かな勝利をもって、俺の三年にわたる長い悪夢は、ようやく本当の終わりを迎えたのだ。
独立してからの俺は、大きなプロジェクトを回すための組織の論理からも、無謀な野心からも距離を置いた。
数千人を収容する巨大な塔を建てる使命を持つ構造設計者もいれば、家族の小さな営みを支える戸建てを専門にする構造設計者もいる。
今の俺は、ただ自分の"身の丈"に合った仕事をすることを心がけている。
自分の目が届き、自分の指先がすべての架構の振る舞いを正確に把握できる範囲。
それが、あの地獄を経験した俺がたどり着いた、設計者としての誠実さの形だった。
建築基準法という数字の羅列の裏側にある、血の通った生活。
それを守るために必要なのは、万能の計算式などではなく、一箇所でも無理があれば"できない"とはっきり言える、当たり前の勇気なのだ。
窓の外では、深夜の街が静かに眠っている。
家族が眠るわが家の屋根も、今夜は穏やかな闇に包まれているはずだ。
「……さて」
俺はマウスを握り直した。
黒い画面の上に、新しい建物の構造図の、新しい線を静かに引き始める。
かつて、建物の"断末魔"を聞いた男。
その男が今引く線は、単なる部材の外形線ではない。
用意されたデザインに対して、数字の辻褄を上乗せして"処理する"ことで書かされた線ではない。
ゼロから外力と対峙し、見えない悪魔の暴力を退けるための強靭な骨格を"創造する"ための線だ。
男が引く線の一つ一つが、いかなる天災に対しても生存のシナリオを創り出し、誰かの穏やかな明日を約束していく。
暗い部屋に、規則的なクリック音だけが静かに響き続けた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
さて、本作の内容に関しまして、特に本業で構造設計や建築実務に携わっていらっしゃる皆様におかれましては、多々言いたいこともおありかと存じます。
「適合性判定は通るの?」「そんな変更はありえない」「実務をなめるな」「そんな壊れ方する?」「ビルを回すような地震波ってなに?」……ごもっともです。ぐうの音も出ません。
ただ、悲しいかな素人の私には、皆様の鋭い技術的ツッコミに対し、学術的・実務的に真っ向からお答えできるだけの準備が一ミリもございません!
というわけで、プロの方の叱責を避けるため、感想欄やレビューは受け付けない設定にし、全力で逃走させていただきます。
あくまでエンターテインメントとして、一人の設計者の意地と再起の物語として、温かく見守っていただければ幸いです。




