突然の別れ
三日後の日曜日。フィオリは、リディアの丘を目指していた。三日前、そこでベスに剣術を教える約束をしたのである。
ついベスの勢いに押されて剣術を教えることにしてしまったが、フィオリは女の子に剣術を教えると言ってしまったことを後悔していた。
怪我でもさせたらどうしよう。つーか、剣術を教えても芽生えるのは、愛ではなく、殺意なんじゃないか。
フィオリがリディアの丘に行くと、木刀を2本用意したベスが手を振っている。彼女は、
この間と同じく、茶色のジャケットとズボンという少年のような恰好をしている。
「来てくれてありがとう」
ベスが天使のように微笑んだ。か、かわいい。フィオリの心臓が早鐘のように鳴り響いた。
「でも、どうして剣術なんか学びたいんだ?」
「どうしても殺したい人間がいるの」
ベスは、サラリとした口調でとんでもないことを言った。
(……物騒な話だ。俺は、この子に、剣術を教えてしまっていいんだろうか。俺は、殺人の補助をすることになるのか……)
戸惑うフィオリを安心させるように、ベスが「安心して。そいつは、悪い奴だから、大丈夫よ」と言ってきた。
「いや、悪い奴でも人殺しはダメだろう。ベスが危険な目にあうかもしれないだろう。剣術なんて、男に任せて安全な場所に隠れている方がいいんじゃないか」
「私の手で殺さないとダメなのよ」
ベスは、強い口調できっぱりと言い切った。赤いルビーのような瞳は、決意で燃えているようだ。何かの仇とかなのだろうか。事情は、複雑そうだし、ベスも強情そうだ。何かあった時にもために、護身術くらい身に着けてもいいのかもしれない。それに、この機会に彼女ともっと仲良くなりたい。
「俺は、君が誰かと戦うことには反対だ。でも、護身できるように、少しくらい教えてやる。運動することは、身体にもいいしな」
「ありがとう」
ベスは、薔薇のように華やかな笑顔を浮かべる。ふんわりと漂う花の香水みたいな香りに、ついドキッとしてしまった。
毎週日曜日、フィオリは、ベスに剣術を教えることになった。ベスは、女ではあったが、やる気満々で飲み込みが早かった。あっという間に、基礎的な型をマスターして、1割くらいの力を出しているフィオリと打ち合えるようになった。
ベスに教えることは楽しく、人に剣術を教えることが好きかだという気持ちも芽生えた。いつかは、人に剣術を教える仕事をすることも悪くないかもしれない。
フィオリは、毎週日曜日が来ることが楽しみでたまらなかった。早くベスに会いたい、もっと剣術を教えたい……そんな気持ちでいつもいっぱいになるようになった。
こんな時間がずっと続けばいい。そう願っていたが、変化は急に訪れた。
六月の始めのことだった。その日は、朝から曇り空で今にも雨がふりそうな様子であった。いつも元気なベスは、様子が違っていた。稽古をしているが、魂がこの場にないような雰囲気だった。
あまりにも上の空みたいな様子であったため、フィオリは、勇気を振り絞って聞いてしまった。
「ねぇ、ベス。何かあったのか?」
そう聞いても、ベスは弱々しく「今の私、どう見える?」と尋ね返してきた。
「なんか……悲しそうだ」
そう答えると、ベスは自虐するように顔を覆ってクスッと笑った。
「悲しいか……。悲しいというより、怒っているのかもしれない。彼や、兄、いろんなものに……。そして、自分自身に……」
生き生きと燃えているようだった彼女の赤い瞳は、暗く濁っているようだった。
「怒っている?」
「そうよ。ずっと、ずっと怒りが収まらないの。もう全部が嫌で、逃げ出したい。だけど、逃げる場所なんてないんだわ」
ベスは、胸が張り裂けそうなくらい切ない声でそう呟いた。
(逃げる場所がない?家族と喧嘩でもしたのだろうか?)
「俺の家にしばらく来る?部屋も余っているし、父さんと、母さんも悪いようには、しないだろう」
ベスは、その言葉におもしろいジョークでも聞いたかのように、手を叩いて笑い出した。
「あははっ。フィオリ、あなたおもしろいこと言うのね。もうルートピアには、私の居場所なんてないのに……」
「え?」
「何でもないわ。もう今日の練習もやめましょう」
「……ああ。そうだ。君は、疲れているみたいだし、また今度にしよう」
きっと別の日になったら、ベスもいつものベスに戻るに違いない。
「ちがうの。もう練習はいいわ」
ベスは、悲しそうに首を振った。
「何を言っている?君は、殺したい奴がいるのだろう。強くならなくちゃいけないのだろう」
(だから、そんな風にいきなり俺を切り捨てないでくれ)
そう言いたいのに、喉から言葉がつかえてしまったかのように出てこない。自分が選ばれないことに慣れているからかもしれない。
「もういいの。全部、無駄だった。私のことは、もう忘れて欲しい」
彼女の声は、まるで泣くのを堪えているかのように、かすれていた。
「え……」
「戦う理由がなくなったの。あなたといる意味もないわ」
彼女は、まるで今にも折れそうな小枝みたいに弱って見えた。そんな彼女を抱きしめたかったが、抱きしめる言い訳も理由も思いつかなかった。
もっと彼女と過ごしたい。このまま終わりなんて嫌だ。
「でも……俺は……ベスといると楽しいんだ」
精いっぱいそれだけを伝えるが、彼女は、沈みかけた船みたいに淡い笑みを浮かべるだけだった。
「ありがとう、フィオリ。私も、あなたと過ごす時間は、楽しかったわ」
そして、ベスは風のように跡形もなく去っていった。




