王子が真実の愛を見つけたらしいので相手を巫女にして去ります
自由な龍たちが神々として君臨する世界で、龍の魂を持って人に生まれた巫女姫が婚約を破棄されたことで発生した顛末。
この世界には神々の住まう領域と人の住まう領域がある。
夜には宝石のような星々が天上にきらめき、昼には気温が40度にもなる熱帯を、三本の大河が、むせ返るような濃い緑の木々や蔓草が、かろうじて冷やす。高くそびえる山々の頂は常に雪と氷に覆われて、その融水こそが大河を満たし冷やしていく。この大陸の名を、アーケリという。
さてこの世のはじめは、三柱の神々によって作られたという。
二柱の男神と一柱の女神。
神殿の巫女は、女神の加護をその身に宿し、この世界に恩寵をもたらす者として、その生まれの貴賤を問わず、身分階級の頂点に置かれる「神民」という最上階の存在に属することになる。
神民の上に存在するのは、龍と呼ばれる神々のみ。
アミジュラは賤民の家に生まれ、子供の頃から、育ちが遅く、両親から疎まれていた。
同じ年に生まれた他の子供はもう五歳で走り回るのに、アミジュラは赤ん坊のまま、ようやく寝返りをうつ程度という事情で、両親は村長に相談して、アミジュラの足を切り、せめて人々の憐れみのもと生きて行かれるようにと、大人として娘のための慈悲を請うた。
我が子の五体をわざと損なうなどひどい親だと言われようが、この国、この大陸では、それもまた賤民の子が行く行く人の慈悲で生きていかれるようにするためであるという社会通念があった。
村長は幼いアミジュラの小さな足を押さえ、母親はその手を押さえ、そしてアミジュラの父がアミジュラの足首に向かって手斧を振り下ろした。
*** *** *** *** ***
足を失った十五歳のアミジュラは、神民階級の最上位に君臨する巫女として、グルクマニの王子ラジャヌの「神聖なる婚約者」として神殿の前にいた。
それは王が巫女を通して神を繋ぎとめるための形式的な婚約と婚儀であり、国の言祝ぎを行う祭りの一環だったが、王子ラジャヌはアミジュラの前に、別の娘を連れて出た。
神殿は砂岩を長方形にくりぬいた石を積み上げて作られ、床には大粒のきらめきを放つ石英を含んだ御影石のタイルが敷き詰められている。
神々のために黄金と宝石で装飾を施された壁は、夜になると燭台の灯に照らされて温かみのある淡い赤を含んだ光で彩られており、回廊を繋ぐアーチはいくつもの円形を幾何学的に結んで装飾をより細やかなものに見せる。その間には、ところどころに、サルや象などの神獣を形どった像が神々を守るために置かれていた。
「アミジュラ、これは財務大臣の娘パーディバだ。私はこのパーディバを妻とすることをこの神殿におわす神々に誓う」
アミジュラはラジャヌに連れられたパーディバと、パーディバの父である財務大臣ザッタバの表情に自分への侮蔑を見た。
そしてまたラジャヌの表情にも同じ侮蔑があることを見て取った。
アミジュラの褐色の肌は陽光に艶めき、緩やかに波打つ黒髪がたゆたう。
「それはおめでとうございます、神々の祝福がお二方の上にありますように」
ラジャヌはアミジュラの言祝ぎを鼻で笑い、パーディバと顔を見合わせた。
「パーディバよ、彼女は神殿に迎え入れられるまで、賤民だったそうだよ」
「あら嫌ですわ、そのような汚らわしい血の者が神殿に入るだなんて」
ラジャヌとパーディバの会話を、ザッタバも頷きながら微笑して聞く。
アミジュラは嘆息した。
「私の愛しいパーディバ、卑しく穢れた血の巫女はこのグルクマニの国に相応しいだろうか?」
「いいえラジャヌ殿下、我が国の神殿には殿下と同じ、神々に次ぐ清らかな血の持ち主がふさわしいと思います」
パーディバの返答は、きっとあらかじめ決められていたか、あるいはパーディバならばこう言うであろうとラジャヌが熟知しているからこそ出てきた言葉だろう。
そう思いながら、アミジュラは最上位の巫女を座らせるために作られた玉座のうえで足なき足を伸ばした。
「さあ、アミジュラ、その玉座から下りるんだ。その玉座にはパーディバこそがふさわしい」
「まあラジャヌ殿下、わたくしが巫女姫の玉座に座るのですか?」
「あの玉座には、美しく力のある者が巫女姫として座るべきだ」
ラジャヌの言葉にアミジュラは困ったように自分の足なき足を見たが、それから頷いた。
「承知いたしました」
「聞き分けがよいなアミジュラ、その聞き分けのよさで、このグルクマニを離れるがよい。国外への追放だ」
ラジャヌの言葉にアミジュラは目を見開き、それから神殿の奥に控えていた神官や侍女たちを振り返った。
「ラジャヌ様のお申し付けだもの、許されるでしょう?」
「そのように聞き分けよくなさらずともよろしいのではありませんか?」
そう口を挟んだのは神官のかカニシュカという男だったが、アミジュラはカニシュカを見て首を振り、それからラジャヌに顔を向けた。
「ラジャヌ殿下、わたくしは、この国を離れてよろしいのですね?」
「よいとも、さあ、さっさとその玉座から下りるがよい」
ラジャヌとパーディバが笑顔を浮かべ、ザッタバも目つきの悪い顔を笑顔にした。
「ラジャヌ殿下、アミジュラ様は足がないのにどう下りるのかしら?」
「元は賤民だ、賤民として地を這って生きるのに、姫巫女の玉座から這いずって下り、この神殿からも這いずって出ていくのはアミジュラに相応しいではないか」
「ああ、そうでしたわ! 神殿から惨めに這いずって出るのが賤民のあるべき姿!」
底意地悪く笑うラジャヌとパーディバを見てから、アミジュラは笑顔を作ってカニシュカを振り返る。
「カニシュカ、どうかしら?」
「なにがです?」
「あれ」
アミジュラはパーディバの足を指さし、それから「ふふ」と笑った。
「パーディバ様、この巫女姫の玉座にお座りになるならもうその足はお使いにならないでしょ? わたくしにくださいな」
そう言うやいなや、アミジュラはパーディバの足に向けて指をするりと横一線に動かす。
パーディバの足はくるぶしのあたりから切れて離れ、パーディバは足を失って後ろに崩れるように倒れた。パーディバの足だけが、神殿内に血をまき散らしながらアミジュラのほうへと歩き出す。
「痛い! 足が! わたくしの足が! お父様! ラジャヌ殿下! わたくしの足が、足が!」
「アミジュラ! そなたの仕業か!」
「お父様! ラジャヌ殿下! あの女、あの女は悪魔の化身に違いありません! ああ!」
泣き叫ぶパーディバと、批難がましく自分を見るラジャヌをちらりと見てから、アミジュラはまた指を動かす。
「愛しいパーディバ様が巫女姫になるのですもの、恋人のラジャヌ殿下は神官におなりになるとよろしいわ。いつでもパーディバ様と一緒にいられますもの」
ふふ、と笑ったアミジュラの指が示す先、ラジャヌは自分の股座を抑えた。
「なにをした! 貴様!」
パーディバは自分の足を切られた痛みにのたうちながら、ラジャヌの異変に恐怖する。
「巫女姫の純潔を汚すようなことがあってはなりません」
「純潔?」
「ご存じでございましょう? 巫女姫は純潔が貴ばれます。でも宮刑によって男であることを失うのでは神官になれませんの。ですから、選ばれた神官になれるよう、男でも女でもない者になれるよう、きれいにしてさし上げましたの。男でも女でもない者は男とも女とも、男としてあるいは女として交わることはできません、だからこそ神聖な者たちとして選ばれるのですから」
ラジャヌは「なんだと!」と悲鳴をあげた。
このグルクマニで、男でも女でもない者は神聖な者たちとして選ばれる。
ただし彼らは「人」としての権利を持つことのない「浄者」という身分で、人として認められる賤民階級よりもさらに下に置かれる者となり、生涯を神殿の奴隷として神官たちに捧げることになる。それゆえに、生まれた子供が浄者だと知った親のなかには賤民の親たちと同じように我が子の手足を切らせる者もいるという。
カニシュカが近くにいた神官に何事かを囁けば、神官たちがラジャヌを取り巻いて、儀典用にと豪勢に仕立てられた衣装を剥いでゆく。
一糸纏わぬところまで衣装を剥ぎとられたラジャヌは、男の象徴も女の象徴もなくただ排泄の機能だけが残された体を晒されて、足を切られたパーディバをその腕に抱きよせた。
「パーディバよ、そなたは足を失った、わたしは人としての身を失った」
「ああ、なんたること! 娘の足を奪い、殿下を浄者にするなど!」
叫んだのはパーディバの父ザッタバである。
「悪しき神の巫女め!」
「ザッタバ、あなたがなにを言っているのか、わたくしにはわからないわ」
そう言うアミジュラの足なき足元へ、パーディバの足が血の足跡を残しながら到着した。
「まあ、悪くない足ね、ねえカニシュカ」
「さようですね、アミジュラ様」
「カニシュカ、わたくし自分でこの大陸に生まれることを選んだけれど、自分が生まれる国がこんなにおぞましい国だなんて思わなかったの」
まるで靴でも履くかのようにパーディバの足に自分の脚を向け、そうしてアミジュラは自分の脚先にぴたりと収まったパーディバの足を少し動かし満足げに小首を傾げる。
「カニシュカ、わたくしラジャヌ殿下と同じく、わたくしはこの国に要らないと思うわ」
「そなた自分でわかっていたならばなぜわたしを浄者にまでして、その巫女姫の玉座にしがみつく!」
ラジャヌはアミジュラの言い方に目を見開いたが、アミジュラはそのラジャヌを尻目に、パーディバから奪った足を動かして具合を確かめている。
「しがみつくだなんてひどい言いよう。そもそもわたくしだって足を切られたりしていなければ巫女姫としてずっとここに縛られる必要もなかったのに。そうは思わなくて? カニシュカ」
アミジュラの言い分にカニシュカが「さようですね」と苦笑する。
「ねえカニシュカ、わたくし、天上から見ていたときは、ここはなんて美しい国かしらと思っていたのよ。どの大陸よりも濃い緑、透明で美しい宝石、その宝石に負けず輝く果実の数々、舌を喜ばせる香辛料の数々。でも見た目の美しさに騙されていただけね」
ふふ、と笑ったアミジュラは大きく両腕を天に向けて広げた。
「天を彷徨う雨雲たち、わたくし天上のお父様お母様のところに帰るわ。最後にこの国をきれいに片付けて行くから集まってちょうだい!」
高らかに告げるアミジュラを、カニシュカが慌てて止める。
「二の姫殿下、なりません、これは人の国です」
「知ってるわよ、でもあなたこの国、要らないでしょ? わたくしも要らないの」
「いいえ、それでも、この国を豪雨と洪水で押し流すようなことをなさっては人の世の均衡が崩れます。そのようなことをなさってはご両親からいかほど怒られましょうか!」
アミジュラはカニシュカをじっと見つめ、それから首を傾げた。
「たぶん、好きにしていいと言ってくださると思うのよ。だってお父様もお母様も、人の世界に対してご機嫌を損ねたときは飢饉を起こすもの。豪雨なんて飢饉に比べたら可愛いイタズラだと思ってくださらないかしら?」
カニシュカが天を仰いで首を振る。
「いくら龍の姫とはいえ、そこまでなさいますか」
「カニシュカ、神様ってニンゲンに都合のよいものではないの。神々と呼ばれるものに善も悪もないなんてこと、あなたよく分かっているでしょう?」
ラジャヌとザッタバは蒼白になった顔で呆然とアミジュラを見つめたが、足を切られたパーディバだけは痛みに悲鳴をあげ続けていた。
「化け物! 返して! わたくしの足を返しなさいよ! 痛い、痛いわ! ああ!」
ザッタバも足を失い痛みを訴える娘を見てアミジュラを罵る。
「娘が死んでしまう! この疫病神め! おまえなぞ巫女姫に迎えなければよかったのだ!」
アミジュラはザッタバを眺め、それから、やれやれとでも言うように首を振った。
「嫌だわ化け物に疫病神だなんて、どれほど脚から血を流しても死なないようにしてあげているから安心してちょうだい。それに、わたくしの足、ですって? あなたの肉体は天の神が人に与えた材料のなかから偶然に作られただけのものだというのに、人ってなんて傲慢な存在なのかしら」
アミジュラが手をひらりと振り、そのその腕に熱帯の広葉樹がきらめいたような鱗を輝かせて一条の龍に姿を変えた。
「地の龍姫」
カニシュカ以外の神官たちが息を飲み、龍になったアミジュラを見つめる。
「神々は、我が子を神民のなかには生まないの。神民のなかにいては、賤民の祈りを聞くことはできないから。これからも神民のなかに龍の落とし子は生まれない。神民の子であるパーディバは、神の落とし子ではあり得ない」
アミジュラの横に侍ったカニシュカも、またその姿を龍に変えた。
「カニシュカ、わたくしは何年この神殿にいたかしら?」
「七つの年から八年です」
「では八年、ラジャヌは八年、この神殿で浄者として神官長を通して天の神に尽くすこと。八年経って天の神にその務めぶりをお訊ねして『十分務めた』とおっしゃったときには体を戻してあげようかしら」
アミジュラの言葉にラジャヌは「なんたる侮辱だ!」と憤ったが、神官たちの視線が浄者となった自分の体を見ていることに気付いて苦々しい表情で黙り込む。
パーディバは、痛みに吐きながら涙に濡れた顔をアミジュラであった龍に向けた。
「わたくしの足は……」
「菩提樹の木で足を作って繋ぎなさい。それから三年、相手の貴賤を問わず慈愛の心を持って接してちょうだいな。そうしたら菩提樹の木から生まれた足があなたの脚から流れる血を吸って血の通った足になってくれるから」
「嫌よ! 三年も足がないままだなんて!」
「わたくしが足を斬り落とされてから神殿に拾われるまでが三年。神殿で過ごした八年間も、わたくしの足はないまま。そうして今日、あなたはラジャヌ殿下と共に、わたくしに足がないことを嘲った。でもあなたにはたった三年だけ貧民に慈愛の心を持って接することができれば足を得られると約束したわ。わたくしとても優しいと思わない?」
カニシュカが横で笑った。
「ご自分でおっしゃいますか」
「カニシュカ、もし、神民に賤民が見えないのであれば、王たちには国の民が見えていないということになるでしょう? 浄者は人と認めてすらもらえない身分、足を失った者も人としては欠けた者としてしか見てもらえない。足を失ったわたくしと、浄者のあなた。わたくしたちは、その辛さを知っているはずです」
アミジュラの言葉に、カニシュカも、神官たちも、それにラジャヌとパーディバも俯く。
「神々は神民の階級に我が子を落とすことがない。王子や神民の娘も同じように神民から落とされてみれば、自分が救うべき世界が見えるのではないかしら。ラジャヌ殿下とパーディバ様がこれからどのように数年間を生きるか、そこで学ぶことがあれば、民から愛される王と王妃足り得るのだろうと思うのよ」
ラジャヌとパーディバはアミジュラであった龍を見上げた。
「そうなったら、そのときこそわたくしは、彼らを類まれなる王と王妃としてこの国に祝福を与えるわ。彼らの治世には飢えることも災害に困ることもないように、この国を宝石のように大事にするつもり」
カニシュカはアミジュラをちらりと見る。
「さっきはこの国要らないとか洪水で流そうとかおっしゃってませんでしたか?」
「だっていまは小憎らしくてたまらない、最低の気分だもの! 賤民差別されるわ足がないと嗤われるわ、こんなに気分の悪いことがあって!? 足なんかさっさと作って逃げてもよかったのよ!」
「……そのことに怒ることができるのはあなたが二の姫殿下だからであって、生まれながらの賤民や、そのために足を失った子供には憤ることもできませんよ」
「知ってるわ! だから我慢したの! だから余計に腹立たしいの! 賤民や五体満足ではない者たちの声も聞けと言いたいの!」
「さようでしたか」
アミジュラの鬱憤払いだったか、とカニシュカはうなだれた。
「アミジュラ様、あなたには自覚が足りません、あなたは次期」
「カニシュカのお説教は聞き飽きるぐらい聞いたから黙ってちょうだい。だいたい次期地龍王として、わたくしは、天龍王が人を作るときに、貴賤の差別なんて作らなかったっていうことを知ってるもの。国々の境界線も、人々の貴賤も、人間が神々の意思を勝手に騙って作り上げただけよ。わたくしはそんなもの要らないわ。だから、賭けるの」
龍の姿でアミジュラに従うカニシュカも、ラジャヌとパーディバもアミジュラをじっと見つめる。
「ラジャヌとパーディバが人の貴賤も浅ましさも知って、そのなにもかもを超えることが出来たら、きっと、この世界にはもっときれいな花が咲くわ」
きらきらと、緑を含んだ金色の光が神殿に降り注ぐ。
ひとり、ザッタバは膝から崩れ落ちていた。
「悪魔め」
アミジュラはザッタバの侮蔑を聞いて笑った。
「わたくしが悪魔にならないで済むように頑張ってね。わたくしこの国は追い出されてあげるからなにか報告や話があるときは儀典で呼んでくれたら気まぐれで聞くかも」
神官長はアミジュラとカニシュカであった龍たちを見上げ、そうして声をかける。
「地の龍姫よ、神々が神民に我が子を委ねることがないとはまことのことですか?」
アミジュラは神官長を見つめ、それから頷いて見せた。
「本当よ。だから神民の娘が巫女姫だと名乗り出てきたら気を付けることです」
「では、神民とは……」
「神民は、神々に連なる者と自らを位置付けているけれど、本当は神々から最も遠い者たちです。彼らは神々が貧民や賤民を憐れんで与える慈悲と恩寵を掠め取りながら生きている者たちです。神々は神民のなかに貧民や賤民の恩寵を加護する者があらわれたときはその者を人々の王と認めて加護を与えるの」
アミジュラはそう言って人に姿を戻し、ラジャヌとパーディバに目を向ける。
「今のあなたたちは、浄者と足を失った者であって神民ではないわ。だから、わたくしが地の龍姫として加護を与えます。あなたがたふたりの行く先で、あなたがたに悪意が降りかかったときは、その悪意が相手に返る加護です。あなたがたが人として欠けた者であると言い、命を奪われそうになったときは、わたくしの加護があなたがたの命を守るでしょう」
パーディバは涙と吐しゃ物をそのままにアミジュラを見上げた。
「ふざけるんじゃないわよ! 賤民のくせにわたくしから足を奪うなんて! そんな女が地龍姫ですって? ふざけないでちょうだい! 悪龍鬼の間違いよ!」
「……カニシュカ、やっぱりこんな民わたくし要らないわ。この女消そうかしら?」
アミジュラはパーディバの足を切ったときのように爪を動かしてパーディバの手をつつく。
パーディバの手はゆっくりと、空気に溶ける煙のように消えていく。
「なに……なんなの……あんた化け物なの……?」
「パーディバ様……」
アミジュラがパーディバを見つめて目を大きく見開いた。
「パーディバ様、わたくしを賤民と言ったり化け物と言ったり、龍の姿を見せても言うことが一貫しているところが素直で大好きよ」
アミジュラは龍の姿を人に変えて、褐色の肌に黒い髪を揺らした。
そのアミジュラの姿は、これまで巫女姫の座にいたアミジュラとは違っている。
艶やかな褐色の肌に漆黒の瞳、絹のような黒髪は長く細やかに波打ち星をまとわせる。
美しいが、その姿は人の倍以上もの大きさで、神官たちは跪き、ラジャヌは腰を抜かし、ザッタバは及び腰になり、ただパーディバだけがアミジュラを正面から見つめていた。
「アミジュラ様は趣味がお悪い」
カニシュカの呆れた言葉に、アミジュラは小さな子供が人形を愛でるかのようにパーディバの頭を指で撫でて笑う。
「だってカニシュカ、彼女は私がこれだけのことをしているのに、賤民や化け物と罵るのよ。これって人の本心ではなくて? わたくしが自分は神々のひとりだと言って、彼女の足を切り、自分の姿も龍に変えて見せたのに、パーディバは、化け物と言いながら、ひたすら賤民のアミジュラと同じ存在であることを認めてくれるのよ。只人の身で、只人の魂で、只人の目でしか見ていないのに、彼女にとってわたくしは、畏怖すべき者ではなく、賤民のアミジュラであり化け物なの。わたくしからなにかの利益を得ようともしないの」
そう言ったアミジュラは、心底から楽しそうに目を細めた。
「わたくしのパーディバ、真実の女神としてわたくしの横に未来永劫ありなさい」
アミジュラはパーディバの額に指を押し付ける。
パーディバの額が縦に割れて金色の瞳が目を開く。
「只人には見えない真実の目と、不老不死をあなたにあげる。だから、わたくしが地龍王となったときに道を誤りそうになったら、あなたがわたくしに、賤民のアミジュラに、真実を説きなさい」
アミジュラはパーディバの額から指を離して満足げにラジャヌを振り返った。
「でも三年間はちゃんと国内各地を回ってもらいたいから、わたくしの人形に手を出さないできちんと守ってちょうだいね元王子。できなかったら死ぬまで浄者よ」
「わ……わかっ……は……はい……」
ラジャヌの脇でひっくり返ったザッタバを見たアミジュラは、小首を傾げる。
「喜んだらいいと思うのよ、あなたが望む以上の娘になったでしょう? わたくしはあなたの娘に巫女姫の座どころか、女神の座を与えたのわかってる? 女神の座よ? 末端だけど」
「あ……」
「さあ! ではわたくし、この国から追放された神なので、天上に帰ってこの国は放置!」
跪いていた神官たちがざわめく。
神殿の騒ぎを聞きつけた王侯貴族たちが、やっと広間に姿を見せたところで、アミジュラは彼らを見た。
「ラジャヌ」
ガタイがよく立派な髭を蓄えた国王の目が情けなく座り込んでいる息子を見、それから神官たちを見る。
「女神アミジュラの思し召しにより、ラジャヌ殿下はその身を男女の穢れから遠ざけられました」
神官長は言い、グルクマニの王は顔を土気色にし、王妃は泣き崩れた。
「宰相の娘パーディバは、女神アミジュラの思し召しにより真実の女神としてこれから三年間を慈悲と慈愛の行幸に出ることを命じられました」
ザッタバの妻がパーディバの足を見て悲鳴をあげた。
「女神とはどういうことだ、アミジュラは巫女姫ではないのか?」
「我々も、先ほど初めてアミジュラ様が正しく女神の化身であったことを知りまして、その……」
「うっふっふ!」
神官たちは言葉を濁したが、アミジュラは軽やかに笑う。
「ラジャヌ王子が出ていけとおっしゃるからわたくし自由になるわ! パーディバの足がどうすれば元に戻るか、ザッタバには伝えてあるから安心なさいな。それからラジャヌ王子は八年きちんと神殿でお勤めを果たせば人と認められる身分で王子に戻れるように天龍王にお伝えしてあるから王も王妃も安心なさって!」
そう言ってアミジュラは自分の姿を消した。
パーディバだけが、アミジュラが天上に昇るのを見た。
「なんなのよ……」
それからパーディバは、血を流し続けている自分の足首が、ただ血を流しているだけで痛みを感じなくなっていることに気が付いた。
「わたくしの足を返しなさいよー!」
その後の伝承では、女神パーディバは両親と神殿が用意した輿で諸国を巡り、三年でみごとに足を取り戻したが、常に慈悲と破壊の女神アミジュラへの報復を狙う者として語り伝えられるようになったという。
ラジャヌのほうはいつまでも「元王子」として不遜な振る舞いを改めずアミジュラの神殿に唾を吐くことが日常であったため、神官たちはその働きを認めず、浄者のまま死んだという。
それから事の顛末も忘れ去られた五百年後、真実の女神パーディバのために作られた神殿に、若い男女の姿があった。
「私は両親に定められた婚約などまっぴらだ、生涯かけてこの娘、パルージャを愛することを真実の女神パーディバに誓います!」
「マシャルハ様!」
ひしと抱き合う男女を前に、婚家となるはずだったであろう娘と、その両親や使用人が並び呆れている。
その神殿にはボロボロの旅装で若い女が立っていた。
旅装の女には、パルージャと呼ばれたその女が、口元を愉悦に歪ませたのが見えた。
「そこの男、真実の女神パーディバに、そのパルージャという女への愛を誓うと、あなたいまそう言った?」
旅装の女はマシャルハという男とパルージャという女の前に立ち、婚儀を前に反故にされた女との間を邪魔した。
「なんだおまえは、ここは賤民が割って入る場ではない」
マシャルハの言葉にパルージャが「そうよ」と同調する。
「じゃ、先ほどの言葉を撤回しなさいな」
旅装の女は男女に告げた。
「先ほどの?」
「女神パーディバに誓うって言葉を撤回しなさいと言ったのよ」
「私はパルージャへの真なる愛を撤回する気はない、それは女神パーディバへの誓いだ」
「その誓いを私に受け取ってほしければ、私を賤民と呼んだことを撤回しなさいって言ってんのよ」
旅装の女は外套の頭巾を落とし、黒髪を陽光にきらめかせながら神殿のパーディバ像と同化して女神の座に腰掛ける。
「ねえアミジュラ、五百年前ラジャヌ王子は人の身分に戻れたのだったかしら?」
女の呼びかけに答えるように、女神の座の横に別の女が姿を見せた。
「わたくしのパーディバ、あなたにあげた不老不死の恩恵は楽しんでもらえているかしら?」
「いいえ、不老不死の五百年は生き地獄だったわ。あのとき、わたくしが欲しかったのは権力と名誉。ラジャヌを縛ったのは色欲」
「ラジャヌ王子はパーディバの行幸に同行すると思ったのに、それもしなかったわね」
「あの王子、ずっと我が身の不運だけを嘆いて神殿の神官たちも自業自得と呆れていたわ」
神殿に居合わせた人々は、伝承のなかではいがみ合うふたりの女神が楽しそうに談笑しているのを見た。
女神たちは「愛し合う男女」に目を向けて声を揃えた。
「男には浄者の試練を、女とその家族には慈愛の試練をあげましょう。わたくしたちに、おまえたちが誓いを違えないという覚悟の証明と、真に相手を思う心を見せてちょうだいな」