-Blackcat and witch- ぷにぷに幻想譚【短編】
「マスター。いつもの白を一つ」
がやついた酒場の隅で、ぽつりと投げられた声に、カウンターの奥のマスターが眉をわずかに上げた。
「へいよ」
棚の奥から、陶器のマグをひとつ。あたたかみのある厚手の白磁。
ゆっくりと注がれるミルクは、まるで夜の霧のように、湯気をたてていた。
「……一丁、上がりだ」
重みのある音と共に、マグが乗せられた木製のスライドボードが、横に滑ってゆく。
静かに、しかしまっすぐに――
ホットミルクは、客のもとへと届いた。
カウンターの端の小柄な客は、それを小さな手のひらで、しっかりとキャッチした。
桜色の肉球が、ちらり。
……おや?
この客は、何かがおかしかった。
ぶかぶかの黒のコートに、端の曲がったウェスタンハット。
短足過ぎて、まるで地面に足がつきそうにない。
背中には、やけに大きな剣を一本、無造作に背負っている。
店内は、グラスの触れ合う音と、にぶい笑い声が混じるだけの、よくある夜の風景。
誰もが、酔いと眠気に身をまかせていた。
……だが、その空気を破るように、ギッ……と椅子のきしむ音がした。
「こ、困りますっ……、離してくださいっ……!」
次の瞬間、店の一角から女性の悲鳴が上がった。
「へへっ、いいじゃねーかよ、ねーちゃん。ちょっと付き合えって……」
酒の臭いを漂わせた粗野な男たちが、盆を抱えたままの店員の腕を、強引に引いていた。
肩には薄汚れたマント、腰には血錆の浮いた剣。
港町で顔の知られた連中。
放浪のふりをして、実際は盗みと暴力で生き延びているならず者たち。
女や子供にも容赦がなく、悪い噂もいくらでもある。
「――賊どもが、好き放題やりやがって」
誰かが低く呟いた。
「あ、あいつら……またかよ……」
「しっ……下手に関わると殺されるぞ……!」
黒いコートの小柄な客は、一口ミルクをすすり、静かに、マグをテーブルに置いた。
背負った剣の柄が、酒場の淡い灯りを受けて、鈍く輝く。
客たちの視線が、騒ぎの方へと集まり始める。
誰もが動けずにいる中――
「離しなさいっ!!乱暴者たちっ!!」
甲高い声が、空気を割いた。
間に割って入ったのは、若い一人の女性だった。
薄手のブラウスに、深い茶色のワンピーススカート。
胸元は小さなリボンで結ばれ、控えめながらも品のある印象を与える。
「エルマ、よせっ……!」
酒場のマスターが、カウンター越しに声を漏らした。
淡い金色の髪が、夜の明かりにさらさらと揺れている。
その瞳は、深海の底にたゆたうような澄んだ蒼。
だが、その奥には、凛然とした光を宿していた。
「は?」
野盗たちはぽかんと口を開けた。
彼女は、丸腰だった。
だが、まるで何も怖れていないかのようだった。
「なんだァ、この小娘……」
「逆らうってことが、どういうことか教えてやるか?」
男たちは口角を吊り上げる。
舐めるような視線が、彼女の全身を這い回った。
わずかな間の後、互いの顔をみて……含みのある笑いを浮かべた。
それでも――
彼女は一歩も引かない。むしろ、睨み返すほどだった。
「マスター。釣りはいらない」
カウンターに声を投げると、黒いコートの客は、すっと椅子を降りた。
「あ、あんた……、まさか……?!」
マスターは、息を呑みながらその小さな背を見ていた。
ムサシはゆっくりと扉を開ける。
「……ミルクの礼だ。ここのミルクは――静謐な夜に染みる」
金属の取っ手を握る手から、丸い肉球が見える。
外は、月明かりが淡く港町を照らしていた。
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野盗たちは、誰にも見られぬ裏道へと、エルマを引きずり込んだ。
「やめて……っ!離して……!」
「へへっ……、誰も来やしねぇよ!」
その時だった。
月の光に、小さな影が浮かび上がった。
まるで猫のような、細い影。
静かに、まるで風のように――
気づけば、そこに“それ”はいた。
「斬」
「ぎゃ、ぎゃああああっ!? う、腕がぁぁぁっ……!!」
何かが、裂けた音。
ぶかぶかのコートを着た、小さな黒猫。
右手には、返り血を浴びた銀の剣。
「退け。いまなら、命までは取らない」
「か、カルマルの……ムサシ……!?」
「猫ヤロウ、また人間様に、立てつくつもりかっ……?!」
男たちは、剣の柄に手をかける。恐怖と意地のせめぎ合いが、その額に汗をにじませる。
ムサシは剣を構えた。
黒猫の騎士。
魔女に呪われた、かつて人だった者。
「——静かな夜に、汚れた影などいらない」
男の喉がひくりと鳴る。
背筋に冷たい汗が這い、足が思わず一歩、退いた。
「……まて!!さっきのは冗談……、冗談だって!」
「なら、これも冗談だ」
「?!」
そして……
酒場の裏路地から、野盗たちの断末魔が――やがて、闇に溶けた。
黒猫はまた、運命に抗った。
だが、彼はまだ知らなかった。
エルマを助けた事で――
この夜から、すべてが変わってしまうことを。