黒い刃
水の魔物を打ち倒し、湖の濁りが徐々に晴れていくのを見届けながら、フィオナは一つ大きく息をついた。
「……ふぅ。これで終わり、ですね」
静かになった湖畔。霧は薄まり、太陽の光が少しずつ差し込む。あれほど冷たく重苦しかった空気が、まるで嘘のように穏やかに変わっていく。
「異常の中心だった魔物は消滅……だけど、それだけじゃ帰れないんですよねぇ」
フィオナは手を腰に当てて周囲を見渡す。湖の水面は静かに揺れている。さっきまで暴れていた怪物の影はもうどこにもない。
証拠になりそうなもの──残骸、核、魔力の痕跡、何でもいい。だが、いくら探してもそれらしいものは見当たらない。魔物が水と一体化していたせいか、倒した後は完全に自然へと溶け込んでしまったようだった。
「……どうしましょうか」
唇を尖らせてしばらく考え込むが、名案は浮かばない。そこで視線を向けたのは、湖畔に山積みになっていた装備品や装飾品の山だった。
「せめて、これだけでも整理して持ち帰るしかないですね……討伐隊や他の冒険者の遺品なら、立派な証拠になりますし」
フィオナは地面にしゃがみ込み、装備の山を一つ一つ手に取って確かめていく。中には討伐隊の刻印が刻まれた剣の柄、冒険者ギルドの登録番号が打たれたペンダントなどもあった。
「……ああ、これ、いい素材使ってますね」
ぽつりと呟きながら、ひときわ目を引く金のブローチを手に取った瞬間──
ふと、背中にひやりとした感覚が走った。
(……ん?)
誰かに見られているような──そんな感覚。
フィオナは手を止めて、ゆっくりと立ち上がった。目を細めて周囲を見渡すが、そこには何もない。ただの湖、森、空、風──
「……気のせいかな?」
苦笑を浮かべながらも、念のために声を張る。
「いるのは分かってるんですけど~? 黙って見てるの、ちょっと趣味悪いですよ!」
しかし、返事はなかった。
「……しーんって……うわ、めっちゃ恥ずかしいんですけど……」
ぽりぽりと頬をかきながら、再び整理に戻ろうとしたその瞬間──
フィオナの背後で空気が裂けるような音がした。
「──っ!」
即座に反応し、振り返りながら身を引く。だが、間に合わなかった。
右腕に熱い痛みが走る。薄く赤い線が浮かび、血が滲んだ。
(速っ……!)
フィオナは地を蹴って間合いを取り、一気に後方へ跳んだ。
そして──現れたのは、全身を黒衣で覆った長身の人物。
顔の下半分を覆面で隠し、残された瞳だけが鋭く光っている。
「陰険な人ですねぇ、いきなり背後から切りつけてくるなんて」
口調は軽い。だが、内心は別だった。
(……やられました。毒、ですね。即効性の。けっこう、効きます……!)
右腕に走る灼熱のような痛み。フィオナは微笑みを保ったまま、自身に静かに魔力を流し込む。解毒と回復を同時に行い、何事もなかったように立ち上がる。
「だんまりですかー?」
一拍。
「……毒が効かないのか」
黒衣の男が、低くぼそりと呟いた。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに──男の姿が消えた。
「ッ……!」
視界から完全に消えた黒影。だが──
「左、後ろ!」
直感が告げる。
フィオナは反射的に身体を傾けた。首筋をかすめて、冷たい刃が風を裂く。
フィオナは即座に身を低くしながら間一髪避けるも、追撃の刃が何本も襲いかかる。全てが急所を狙って放たれた、高速連撃。
フィオナは体勢を崩しながらも、ギリギリのところで躱し続けた。
(追いつけないなら、叩き込むしかない!)
そして、連撃のつなぎ目、ほんの一瞬、その隙に──
「せいっ!」
全力の後ろ回し蹴りが男を襲う。
黒衣の男は衝撃を抑えきれず、数メートル弾き飛ばされ、地面に転がる。
「もしかして…転移魔法ですか? 」
だが、男は答えなかった。ただ、転がりながら立ち上がり、低く──
「…強いな」
「まぁ、よく言われます!」
にこっと笑いながら、フィオナは体勢を整える。
(逃げる……!)
相手の動きが、明らかに撤退に移ろうとしていた。
「逃がすわけにはいきませんよっ!」
フィオナの瞳が光る。
次の瞬間──
彼女の姿が掻き消えた。
全てを置き去りにするかのような超速移動であった。
「──っ!」
男が気づいた時には遅かった。
「背中、いただきましたー!」
振り下ろされた拳が、男の背中に直撃。
骨が砕ける音。男の身体が無様に前へと投げ出される。
地面に倒れた黒衣の男は、呻くこともなく、そのまま気を失ったように動かなくなった。
フィオナは少しだけ息を整え、右腕を確認した。すでに痛みは和らぎ、毒も抜けている。
「……さて、この人はどうしましょうか」
空はもう傾き始めていた。
だが、今回の調査は──まだ終わりじゃなかった。
「やれやれ、働かされすぎですよ、ほんと……!」
とりあえず、フィオナは男をどうするか考えた。