異常の始まり
ローベルクの朝は、いつもと変わらぬ平穏な光景だった。
冒険者ギルドの掲示板には、依頼を吟味する冒険者たちの姿があり、ギルド内の食堂では朝食を頬張る者、情報交換に勤しむ者で賑わっていた。
──だが、その“平穏”はすでに音を立てて崩れ始めていた。
「依頼が……多すぎますわ」
ギルドの受付カウンターで山積みになった依頼書を前に、エリスは困惑した顔でため息をついた。
「どうかしましたか?」
フィオナは、お気に入りの水色ワンピースではなく、討伐隊用の黒い戦闘服をきっちり着込み、エリスの隣で手伝いを申し出ていた。
「フィオナさん……ちょっと、これをご覧になってください」
エリスは数枚の依頼書を手渡す。
「えーと、『森林付近でゴブリンの群れを目撃』、『南方草原でキラービーの大群』、『山道でオオカミ型魔物の集団出現』……」
ほかにも積まれた依頼書を見てフィオナは眉をひそめた。
「……あれ? なんか多くないですか?」
「そうなんです」
エリスは肩を落としながら、机の上の依頼書の山を示す。
「ここ最近、魔物の目撃情報が急激に増えているんです。しかも、場所も種類もバラバラ……これではギルドの人手がまるで足りませんわ」
「うーん、確かに……」
フィオナも依頼書に目を落としながら、妙な違和感を覚えた。
「魔物って、普段は自分たちの縄張りを持っているんじゃないんですか? こんなに同時多発的にあちこちに現れるなんて……」
「そうですわ。普段なら、これほど広範囲で魔物が動き回ることはありません」
エリスの顔に、普段の穏やかさはなく、明らかに緊張の色が浮かんでいた。
「フィオナさん、これ、何かおかしいですわ」
「うん……」
フィオナも同じ意見だった。
普通、魔物が活発化するのは繁殖期や、餌が不足した場合くらいのものだ。それが今、あちこちで群れをなして現れている。
「もしかして……魔族?」
「……いえ、まだその段階で断定はできませんわ」
エリスは慎重に言葉を選びながらも、表情は硬いままだった。
「でも、こういう異常事態が続けば、いずれはギルドだけでは手に負えなくなります」
「……ふーむ」
フィオナは腕を組んで考え込んだ。
(この前の魔族の件……まさか関係ないよね?)
東部森林で遭遇した魔族の女の姿が、脳裏にちらついた。
「……あの時の魔族も、“ただ封印を解かれただけ”みたいなことを言ってましたよね」
「ええ。でも、その魔族が消滅した後も、魔物の動きが活発化しているということは──」
「他にも何か原因が?」
「その可能性が高いですわ」
エリスは真剣な眼差しで頷いた。
「……まずいですねぇ」
フィオナがぽつりと呟いた、その時だった。
「おーい、フィオナ!」
ギルドの奥から、レイラが姿を見せた。
「レイラさん、おはようございます!」
「おう、元気そうだな」
レイラはカウンターの状況を一目見て、眉をひそめた。
「……なんだ、この依頼の山は?」
「それが……最近、魔物の出現報告が異常に増えていまして」
エリスが説明を加えると、レイラの表情が険しくなった。
「なるほどな……そういうことか」
「何か心当たりが?」
「いや、心当たりはねぇが──」
レイラはちらりとフィオナに目を向けた。
「この前の魔族の件もある。どう考えても、偶然じゃねぇよな」
「やっぱり……」
フィオナは肩をすくめた。
「で、どうするんですか?」
「討伐隊は、これからチームをいくつか編成して、各地の状況を確認する」
レイラはそう言いながら、フィオナの肩をポンと叩いた。
「もちろん、お前もその一員だ」
「ですよねー」
「明日、詳細な作戦会議がある。それまでに準備を整えとけよ」
「了解です!」
フィオナは敬礼のような仕草をしながら、にこっと笑った。
「それと、フィオナ」
「はい?」
「今回ばかりは、力任せの戦いだけじゃどうにもならん可能性もある」
「え……?」
レイラの言葉に、フィオナは少し驚いた。
「相手が単なる魔物じゃない場合、慎重に動く必要がある」
「わ、わかりました!」
「よし」
レイラは頷くと、ジークの方を向いた。
「ジークにも連絡しておく。索敵と情報収集はあいつの得意分野だからな」
「ですね!」
フィオナは少し安心した。
ジークがいれば、どんな状況でも的確に情報を掴み、危険を回避できる可能性が高い。
「じゃあ、私は準備しておきます!」
「頼んだぞ」
レイラが軽く手を振りながら立ち去るのを見送って、フィオナは改めてエリスの方に向き直った。
「……なんだか、大変なことになりそうですね」
「ええ、フィオナさん……お気をつけて」
エリスの心配そうな顔に、フィオナは笑顔で応えた。
「大丈夫ですよ! 私、こう見えて討伐隊のエース候補ですから!」
「えぇ……自信過剰もほどほどにしてくださいませ……」
「ふふふ、大丈夫ですって!」
そう言いながら、フィオナは意気揚々とギルドを後にした。
しかし──
その時はまだ、誰も気づいていなかった。
これが、ローベルクを揺るがす“異変の始まり”であることに。