工藤家の問題児7
「……なに、やってるのぉ…おにいちゃん、なにやってるのおおおっっ…!!」
「…えっと…わりぃ…」
工藤家のエントランスで、小学生姿の兄を見た末っ子の慟哭が響いた…。
娘の叫びに飛び出して来た両親は、絶望に打ちひしがれている娘と、そんな彼女に抱きしめられたまま居た堪れなさそうにだぶだぶの服を着た少年を見て目を丸くした。
「し、新一!?」
「え!?新ちゃん何があったの!?」
駆け寄って来る二人に、新一はくしゃりと顔を歪め俯くが、それに応えたのは、小さくなった兄を抱きしめた妹だった。
「そんなの、お兄ちゃんが危ないことに首突っ込んだ一択でしょう!?」
怒髪天突く勢いの千華の言葉に反論することなく目を逸らした子供に、事件に巻き込まれたのではなく突っ込んで行ったことを確信し、二人もガックリと項垂れた。
リビングに場所を移し、家族会議が開かれる。
まずは突然縮んだ長男の姿だが、全会一致で『工藤新一』であることは認められた。
たかが縮んだ位で、家族を見間違う者はいない。
その後新一の申し開きから始まるが、怪しげな人物を単独で追いかけた挙句、音も気配も消さずにカメラを使い、殴られて毒薬を飲まされ体が縮んだという話になると、優作は片手で目を覆い天井を仰ぎ、有希子は両手で顔を覆った。
千華は座り込んでいたカーペットに蹲っている。
家族のそんな様子に、流石の新一もバツが悪そうに身を縮こませている。
脱力し、体中から吐いた様な溜め息の後、ぽつりと優作が零す。
「………運が良かったな、新一…」
「へ?」
間抜け面を曝す幼くなった息子に、もう一度溜め息をつく。
「運が悪ければ、眉間に一発ドンと拳銃撃たれて終わりだったかもしれないだろう?」
「…っ」
「それだけじゃないでしょ…?」
優作の言葉に今気づいたのかはっとする新一に、地を這う様な声が忍び寄る。
「…ち、千華…?」
「犯罪組織と関わって、拳銃で一発で終わらせてくれれば御の字だよね?」
「へ?」
「殺人快楽者だったら、死ぬまでナイフで切り刻まれたかもしれないし、逃げられないように足の腱を切って生きたまま解体されたかもしれないし、誘拐されて毒薬のモルモットにされてたかもしれないし!拷問されて家族や友人を呼び出されて、一族郎党全員始末されることになったかもしれないしっ!」
「そ、れは…っ」
「もしその怪しげな男達が人身売買の組織だったら、どうなってたと思う!?はい、パパ!」
「今頃新一は船の中だね」
「薬漬けの性奴隷調教の真っ最中だったかもねっ!パパの書斎の秘密の扉の向こうの本の様にっ!」
「ち、千華っ!?」
「本当に!運が!良かったよね!!」
顔色を真っ青にして落ち込む少年姿の新一だが、そんなことで千華の怒りは収まらない。
だが、怒りよりも悲しみが強くなる。
「…だから、何度も言ったじゃん…危ないことに首突っ込むなって、事件に遭ったら警察に連絡しろって…言ったじゃんかぁ~…もぉ、お兄ちゃんのばかあぁ…」
だけど、生きてて良かった…と泣く妹に、新一も泣きたくなった。
これからどうする?という問いに返せる言葉は無い。
けれど、立ち止まっている訳にもいかないのが現状なのは痛いほど分かっている。
「…ホームズ拗らせたお兄ちゃんが、イギリスに単身留学したことにするか、それとも死んだことにするか…まあ、死んだことにする方が無難よね」
「はあ!?何でだよ!」
「新一。新一に毒薬を飲ませた男は、何かの犯罪組織の人間だろう?お前を殺したと思っているのに、死体も無く事件にもならなければ、必ず家を探って来るぞ」
「そっれは、でもっ」
「新一を亡くし、君の思い出の残るこの家にいるのは辛いと引っ越す方が新一の死に信憑性を深めることが出来るかな。葬式を挙げた後、組織の監視がある様ならそれも考慮に入れよう」
「なんっ、そんなことまでっ」
「新一はある程度落ち着くまで、とにかく人目につかない様隠れている必要がある。いいね、新一?組織の事は、警察に任せなさい。君の葬式の偽装をするためにも警察の協力は必要だ」
肩に手を置き説得する優作に、新一は俯くしかない。
けれど、腹の底から煮えたぎる想いは隠せない。
「…嫌だ」
「新ちゃん!」
「嫌だっ!オレはっ、自分のこの手で組織を捕まえて!そして元に戻るんだ!!」
決意を秘めた新一の瞳を、冷めた妹の眼差しが見返した。
「…どうやって?」
「組織の情報を集めて探る。そして、ぶっ潰してやる!」
「どうやって?」
「だからっ」
「その小さな体で、どうやって探るの?パパやママや千華を使って?千華達に、殺されるかもしれない危ない橋を自分の矜持のために渡れって、そう言いたいの?」
「…っ」
「それともパパの個人的な伝手を利用して?まさか個人でやるとか、探偵してる毛利のおじさんを巻き込むなんて言わないわよね?」
「それは…っ」
「パパにしろ毛利のおじさんにしろ、巻き込むってことは、お兄ちゃんのスケープゴート、肉の盾になってお兄ちゃんの代わりに殺されるかもしれないってこと、分かってて言ってるのよね?」
「…っっ」
千華の言葉に言い返すことは出来ないが、強く握られた両の拳から納得していないことだけは伺える。
出来ると思っていたことが出来なくて、自分のミスが招いた事態に、組織を潰すことで帳消しにしたいという思いは分かる。けれど、それに巻き込まれる者の危険度が度外視されていることは頂けない。
手を貸して欲しいと、一緒に危ない橋を渡ってくれと頭を下げて懇願している訳でも無いのだから、こちらから甘い汁を差し出す義理も無い。
何せ担保が己の命だ。
新一がこうなってしまったことで半ば強制的に、千華も有希子や優作の命もベットされてしまっているのだ、こんな目に遭ってすらも認識の甘い新一に、現実をこれでもか突き付けて差し上げる位しても罰は当たらないだろう。
「それに、元に戻るってどうやって?」
「それはっ、組織を潰せば薬のデータがあるはずだ!それを使って」
「お兄ちゃんは、殺そうと毒薬を飲まされたのよね?それはつまり、今のお兄ちゃんが生きてる状態がイレギュラーだってこと。そうでしょう?」
「それは…っ」
「普通に考えて、遅効性の毒薬なら解毒薬はセットにしないと売れないけれど、即効性の致死性の毒に解毒薬なんて無いわよ。殺すためのものに解毒なんて必要無いんだから」
「………」
「運良く近々に組織が壊滅したとして、これまた運良く薬のデータが残ってて、これまた奇跡的にそれを手に入れられたとします。で、それからどうするの?」
「どうするって…」
「毒薬のデータから解毒薬を作るのにどれ位の時間とお金がかかるのかってこと。一つの病気を治すのにどれだけの医者と研究者が臨床実験を繰り返して何年もかけて、人の命一生分を使って待っても難しいのに、お兄ちゃん一人のために、誰がその解毒薬を作ってくれるのかってこと。研究費なんて、それこそパパの全財産つぎ込んでも足りるの?」
「あ…」
「考えて無かったね?うん、お兄ちゃんて反射で行動するトコあるもんね。だからこーなってるんだもんね。…開発出来たとして、お兄ちゃんが今から普通に年を重ねる方が早いんじゃないの?有史以前より時の支配者や美女達が血眼になって求めてまだ実現されていない若返りの薬の解毒でしょ?しかも本来の効能とは違う形で現れた症状での解毒剤…千華達が大往生したとしてもそれまでに出来るかも怪しくない?漫画の神様手塚大先生のメルモちゃんの世界だよ?」
「……っ」
目の前に現れた巨大な犯罪組織に対する憤りに燃えていた新一は、次々と差し出される現実に愕然とする。
簡潔に纏めると、お先真っ暗ですよ?ということだ。
「そもそも若返りなんて、下手な研究者にバレたら、あっという間にモルモットの上解剖よ。パパ、千華の認識間違ってる?」
「…いや、間違って無いだろう。新一、毒薬を作った組織の研究者を捕まえて薬を作らせるのかい?組織壊滅前にどうにかその研究者を突き止めて、協力を仰ぐ?どうやって?犯罪組織の人間だ。生半可なことでは子供一人のために動いてはくれないだろう。逆にこちらの弱みを握ったと脅してくるかもしれない。だが何とか上手く研究者の同意を得て解毒薬の研究に従事して貰えたとしよう…けれど、それは我々の専任隠匿の罪や薬事法違反や、研究者に無理矢理作らせた場合は脅迫罪やらついてくるかもしれないね…それはもはや、私達の犯罪記録だ」
「……それ、は…っ」
「ならば、組織壊滅後、公式に解毒薬の開発を依頼するとして、新一の情報が表に出ない様交渉することは出来るだろう。だが、一個人のために公的機関に拘束された者が怪しげな薬の開発に携わることが許されるかどうか…」
重い溜め息と共に出された予想は、新一の矜持を打ちのめす。
とりあえず、この数年守秘義務を守ってアドバイザーをして来た優作は、犯罪組織を追っている公安組織との伝手も得ていた。その信用出来る人物に連絡することにする。
新一の死を偽装するにしろしないにしろ、警察に協力して貰わなければ、明日の朝には組織からの追手がかかるかもしれないのだ。
優作が連絡を取っている間にじっと何かを考えている様子の新一に眉を寄せ、徐に指を突きつける。
「…選びなさい」
「へ?」
「病弱で家に籠り切り、学校にも行けず根暗でお友達の一人もいない兆介君か、フリフリひらひらのエプロンドレスがお似合いの脳内お花畑の転校生な兆子ちゃんか」
「は?」
「新『一』、『千』華ときたら、次は『兆』でしょうが!」
「問題はそこじゃねぇ!!何でその二択なんだよ!?」
「おバカ!?分かんないの!?体だけじゃなく脳内まで子供に戻っちゃったの!?」
「んなっ!?ちゃんと知識はあるっ!」
「知識じゃなくて、精神年齢の話よっ!いい!?耳の穴かっぽじってよく聞きなさいっ!」
「はあ!?」
「我が家はパパとママが結婚してこの地に住まいを構えてから、一度も引っ越ししてません。つまり、お兄ちゃんも千華もこの家で生まれ育ったの。ここまではいい!?」
「お、おう」
「ということは!?ご近所さん、地域の皆さん、PTAの皆さん、学校の先生、そして何よりご町内のお年寄りの皆さんが『工藤新一』をおぎゃあから思春期まで知ってるわけ!二十年も昔のことを昨日のことのように語るおじいちゃんおばあちゃんが、お兄ちゃんと工藤家にいる子供との類似点に気づかないとでも思う!?」
「えっ、あ、えっと…」
「外に出るなら小学校だって通わなきゃでしょ!?どの学校に!?工藤家の子供が、工藤新一と工藤千華が通った帝丹小学校よね!?学校に行ったら誰がいる?お兄ちゃんが五年前、千華が三年前に卒業した学校にお世話になった先生方がいらっしゃるわよね!?兄弟・親戚なら類似点はあるわよね!けれどその類似点を外で話されると困るのよ!何処にその組織とやらの耳があるか分かんないからっ!」
「お、おう」
「まさか眼鏡一つで変装したとかいう世迷言抜かすつもりは無いでしょう?一人で怪しい人の後着けちゃうような危機感の無い、楽観的なお兄ちゃんでも、まさか、まさか!流石にそんなことは言わないわよねえ!?それなら、男の子のままなら、なるべく人目につかない病弱設定で、人目を忍んで閉じこもっているべきでしょう?けれど、それだと息も詰まるでしょうから、外へ出るつもりなら工藤新一とは分かり辛い女装で誤魔化した方がいいでしょうって言ってるの!組織だけじゃなく、何処にどんな目があるか分かんないんだから!分かった!?」
「……お、おう…」
千華の怒涛の説明に、一応の理解を示した新一だが、『外に出るなら女装』というのが納得出来ないらしく、ぐちぐちと不満を零す。
「~~っ、ママ!この推理おバカな世間知らずに、世間の恐ろしさを教えてあげて!」
「そうねぇ~、三軒隣の藤堂さんは旦那様が某大企業にお勤めだったんだけど、若い女の子にセクハラ訴訟で訴えられて、二番目のお嬢さんの縁談がご破談になって、ご夫婦も離婚訴訟の真っ只中ですって。一丁目の三井さんは、ご長男が二浪の後医学部に入れたけれどインターン先で問題を起こして賠償金額がとんでもないことになったって噂ね。おかげで弟さんは高校を卒業した後就職して家と縁切ることになったんですって。お向かいの佐々木さんはお嬢さんに彼氏が出来て、毎週の様に四駆でデートのお迎えに来られるからアウトドアが好きなのねって、けれど随分昔の型落ち車だからあまりお金は無さそうね、将来は大丈夫かしらって渡辺さんが言ってらしたわ。はす向かいの田中さんのおじいさまは認知症が進んじゃって、独り立ちしてらした息子さん夫婦が同居で介護をするか、預けられるホームを探すかで揉めてるって。長澤さんのお宅は姉妹の妹さんが反抗期で大変だった時期にお姉さんの方が受験を失敗しちゃって、大人しくて賢い姉と活発で我が侭な妹って話だったのに、受験失敗で自暴自棄になったお姉さんが妊娠しちゃって、家庭内殺人事件か一家離散かって騒ぎだったけど、流石に責任を感じたらしい妹さんが反抗期終わらせて落ち着いたそうよ。他にも…」
「有希子、その辺でいいだろう…」
「あら、そう?」
警察との連絡を終えた優作が苦笑いで妻を止めた。
つらつらと並べ立てられるご近所事情に、新一は蛇が蛙を丸のみするのを目撃してしまった様な顔をする。
マンションではお隣に誰が住んでいるかも分からないという話は珍しくも無いが、住宅街では悪事でなくても千里を走るし、噂話の真偽は問えなくても数が減ることは無い。
新一が謎に飢えたハイエナだった様に、ご近所のちょっとした不幸を見逃さないハンター達はそこら中にいる。
見ていないようでいて、実は目を皿の様にして見ている…それが住宅街の人間だ。
自分の全く知らない所で、根も葉もない噂話のネタにされることなどザラにある。
ましてや、火のある所の煙では、パンデミックの様に噂が拡散されるだろう。
表沙汰に出来ない脛に傷持つ身となってしまったからには、そんなハンター達を敵に回すことは避けねばならないのだ。
衝撃を受けたらしい新一の様子は、あれほど犯罪トリックへの造詣が深いと言うのに、そこに繋がる人の闇に疎い所がアンバランスさを物語る。
噂が人を殺すこともあるというのに、基本的に人が良いのか、スクールカーストの上位にいる弊害か、人の噂や陰口にあまり曝されたことが無いのが原因かもしれない。
「で、どうするの?警察が来る前に、ある程度決めておかないと、あっちの決定に従わざるを得なくなっちゃうよ」
ぐっと押し黙った新一が、苦渋の決断を下す。
兆子ちゃん変装をした新一が、目が開いてるんだか開いていないんだか分からない怪しい男を連れ帰って来た。
地毛に合わせたロングのエクステを可愛らしくサイドだけ結い上げ、夢見る清楚なエプロンドレスの少女が、玄関先で見た事の無いガタイの良い背の高い男と並んで立っている姿は、視界の暴力そのものだった。
例え可憐な少女から飛び出すのが、最後の抵抗と言わんばかりの男言葉でも、新一扮する兆子ちゃんは、変態垂涎の美少女なのだ。
「もと居た場所に返してらっしゃい!」
「捨て犬じゃねえし!」
「じゃあ何なの!?幼女について来る見知らぬ成人男性に対し、ストレートに変態は帰ってどうぞ!とでも言えばいいわけ!?」
「へ、変態でもねーよ!?」
玄関先で騒いだせいか、優作と有希子もやって来て、とりあえず家に上げることになってしまった。
千華は大変不服である。
「…お前なぁ…あんまり失礼な事言うなよ」
呆れを滲ます新一に、千華はそれを睨みつけて剥れる。
「だって、見るから怪しい男と女児のツーショットなんて、即通報案件でもいいトコなのに、口撃だけで済ませた私は、とっても物凄く最大級に慈悲深いと主張する」
「はあ?出会い頭に唐突に暴言吐いといて何言ってんだ」
「じゃあ聞くけど、七歳女児が家族の知らない成人男性と一緒に居て、怪しくない根拠を述べてよ」
「は?そりゃ……」
ジト目の千華に、初めて自分の状況を客観的に見たらしい新一は、たらりと冷や汗を流す。
「…ほ~らごらん…360度、何処からどうみても怪しさ大爆発でしょうが…」
「い、いや!えっと、そう!迷子の子供を届けに来たかもしれないだろ!?」
「あなたを?てか、家まで案内出来る迷子の子供って何?」
「………」
客観的に見過ぎて、『子供』の前提が自分であることを抜かしたらしい。
「そもそも、真っ当な大人なら、家の者が出て来た時に、何故自分がここに居るのか、女児といるのか、どういう経緯で女児宅に来ることになったのか、誤解無きよう自分で語るものよ。この後に及んでだんまり決め込んでる所が更に怪しさを上乗せしてるって分かってる?」
「あ、いや、それは…」
あらゆる変態に纏わりつかれ、身分保証されていない人間には警戒心MAXな妹に、やべぇ、と視線をうろつかせた新一は、真顔のまま招かれざる客をただ見つめている両親に気づく。
しかも気づけば、彼の対面に優作が座り、その隣に有希子、千華と新一は更にその隣で一番遠い位置に誘導されていた。
家族が自分が連れて来た人間に対し、全く心を許していない事実を目の当たりにし慌てる。
「あ、父さん母さんも!昴さんは怪しい人じゃないんだ!」
「挨拶が遅れてすみません。兆子さんの友人の沖矢昴といいます」
ぺこりと頭を下げた沖矢に新一はほっとした様だが、家族の視線はますます温度を下げていく。
「…沖矢君、と言ったかね」
「はい」
「年はいくつかね?」
「二十七になります」
「ほう、では何処かにお勤めかな?」
「いえ、東都大学院の工学部博士課程に通っています」
「ほーう、大学院にね…」
「はい」
「博士課程は何年目だね?」
「…三年目です」
「二十七歳で、三年目かい」
「二年ほどアメリカに留学していましたので…」
「なるほど。海外は他にも?」
「いえ、二年の留学以外は日本で育っています」
「なるほど、なるほど…」
優作の眇められた視線を受けても、沖矢は飄々と答えを返す。
「それで、うちの兆子は何故我が家に君を連れて来たのかな?」
「それは…」
「昴さん、うちに住んでもらえないかなって思って連れて来たんだ!」
「「「…は?」」」
新一以外の工藤家がシンクロ率100%で真顔になった。
「だって昴さん気の毒なんだよ!住んでたアパートが火事で燃えちゃって、焼け出されちゃったんだ!だから家に来たらって誘ったの!」
「ハハハ。兆子は面白い冗談を言うな~。…良い訳無いだろう」
「な、なんで!?」
断られるとは思わなかった!といった新一の顔は、写真に残したい位間抜け面だった。
「年頃の娘がいる家に、何処の馬の骨とも分からぬ男を寝泊まりさせることに頷く父親はまずいない」
「あっ、う…」
全く笑っていない目で答えられ、考えがいっていなかったのか、気まずげに新一が俯く。
「…有希子、あれを出してあげてくれ」
「はい。…まあ、ぶぶ漬けでも食べて、ゆっくりしてっておくれやす~」
いつの間にか有希子が茶漬けを準備して立っていた。
ぎょっとする新一とは裏腹に、有希子は完ぺきな良妻の仕草で沖矢の前にそれを置く。
「ちょっ!母さんなんで!?父さんも!!」
突然出された茶漬けセットに戸惑いながらも手を伸ばそうとして沖矢に、新一は慌ててその前の茶漬けセットを体で押しのける様にどかす。
宙で不自然に止まった手を下ろして差し上げられる者はいない。
「あの…」
「ああ、少し試させて貰ったよ」
「は?」
「昴さんは悪い人じゃないよ!」
「だが彼は、嘘ばかりだろう」
ぎょっとする新一に、優作は出来の悪い子を相手にする様に笑う。
「工学部の博士課程にいると言ったね?」
「…はい」
「工学部の博士課程など、寝る間も無いほど忙しいだろう?小学一年生の兆子とどうやって知り合ったんだね?午後の三時には帰宅する小学生と、着替えを取りに帰るのもままならず研究室でほぼ暮らしていると言っていい学部生とでは知り合う隙などありはしない。良くてすれ違う位だが、娘から声をかけたなら忙しいと断るのが普通だろうし、君から声をかけたなら大問題だ」
「ロリコンね」
「ロリコンだわ。通報しました」
「違います」
即座に否定が返るが、優作はもちろん、有希子も千華も取り合わない。
沖矢を見つめる視線は、絶対零度のままだ。
「繰り返しになるが、嘘ばかりの君の発言に信用はおけない。ああ、アパートが火事になったのだったね。ここで学院生ならば、これ幸いとは言わないが、そのまま研究室を根城にしてしまうだろう。荷物の置き場が入用なら、それこそ大学の寮に入ればいいだろう?火事で焼け出されたと言えば、大学側だって融通を効かせてくれる。その大学院に本当に席があるのなら、だがね」
「…まるで無い様なおっしゃりようですね」
「あるのかい?本当に席があるのなら、この時期、こんな所で縁もゆかりも無い小学生の家族の相手をしていられるような余裕は無いだろう?」
「………」
「そう言えば、先ほど妻が出した『ぶぶ漬け』はお茶漬けのことなのだが、分からなかったようだね?」
「いえ、茶漬けなのは分かりましたが」
「そういうことじゃないよ。妻は京都弁で茶漬けを差し出しただろう?あれは『さっさと帰れ』の意味でね、京都人で無くても日本人なら大体はその意味を知っている。まあ普通は本当に茶漬けを出したりはしないが、出した物に手を付けようとするのか、それも見させて貰った。…沖矢君、君、生粋の日本人ですら無いだろう?」
「何を…」
「なに、日本人なら誰でも知っていそうな京都の言葉を知らず、そうで無くても歓迎されていないと分かっている場で、そんなにもどっしりと座っていられる日本人はそうはいないよ。まして頼み事をしようという立場の者は、もう少し殊勝な態度で座るだろう。それが日本人のお国柄というものだね」
淡く微笑みながら言う優作に、沖矢は沈黙で返す。
「まだ考察が必要かい?そうだね…そんな多忙な学部に所属しているという割には、目の下に隈も無く、肌荒れも無く、髪も服装も整っている。とても『大学院工学部博士課程に在籍』しているとするには無理があるね。それに研究畑の人間にしては、有り得ないほど良く鍛えられた体だということは、服の上からも分かるよ」
「あら、隈や肌荒れが無いのは当り前よ。あれ、マスクだもの。貴方、それ本当の顔じゃないわよね?」
口を挟んだ有希子に視線が集まるが、有希子が揺らぐことは無い。
「話す時の筋肉の動きが不自然だわ。髪で隠しているけれど頬骨の辺り、マスクの境目がちょっと分かるし。私の目は誤魔化されないわよ?」
ウィンク付きで説明する有希子に優作は苦笑を零すが、やはり沖矢は何も言わない。
ただハラハラと新一だけが視線を右往左往している状況に、まず千華が切れた。
「貴方も!言われて着いて来ただけなのにこの言われ様、なんて理不尽!とか思ってるのかもしれないけど、そもそも!子供の戯言にほいほい着いて来た大人の貴方にも問題大有りですからね!?」
「おいっ!子供の戯言って!」
「…ボウヤは、見た目以上にしっかりした子供だと思いましたが…」
「…なんですって…?」
沖矢の発言には千華には聞き捨てならなかった。
が、千華が何に引っかかったか、新一と沖矢は分かっていないためきょとんとする。
「何故、この子が『女の子じゃない』って知ってるの…?」
空気が凍った。
「この子の変装は見た目だけは完璧よ。声だってちょっとハスキーな女の子で十分通じるわ。言葉遣いはちょっと乱暴だけど。それにあなたも『兆子さんの友人』って言ったわよね?私達もこの子の事は『兆子』としか呼んでないし」
「………」
「……スカートを捲って、パンツを脱がせたのね?」
「違うっ!!」
「…沖矢君。うちの子のスカートを捲って、パンツを脱がせたのかね?」
「違いますっ!!」
「七歳女児の胸に膨らみは無いわ。胸を揉んで確認しててもその腕切り落としてくれるけど。下半身を目視で確認したというなら、その目かっ開いて潰してくれるわ!」
「見てませんっ!!」
「じゃあ触ったの!?」
「触ってませんっ!!本人からの自己申告ですっ!!」
ばっと工藤家の三人が新一を振り返る。
沖矢は必死だった。
自分の正体を暴かれようとした時の何倍もの焦りを感じている。己の無罪を証明するために、形振り構っていられなかった。
そして家族に勢いよく振り返られた新一は心底ビビった。
「…兆子、自分から彼に正体を告げたのかい…?」
「え…あ…その…」
「…そうでは無いかと思っていたが、お前達、昨日今日の知り合いでは無いだろう」
「…と、父さん…」
「兆子。私達に隠れて、彼と何をしていたんだ」
「あの…」
「お前達だけでは無い。家族の私達、学校の友人知人やご近所の方々、その全てを危険に晒す覚悟で行動しているのかい?」
「そ、れは…っ」
優作の言葉に、新一は自分と沖矢との関係が、己を小さくしたあの組織がらみであることを推測されていることに気づく。
自分程度では、父を誤魔化し通すことも欺けもしないのだと突き付けられ、歯噛みするしかない。
「すみません、自分の話を聞いてもらえませんか」
「君の話に耳を貸す価値があるとは思えない。信頼とは、築くに難く、壊れるは一瞬だ。そして人の印象は、出会って数分で大体が決まる。その数分を嘘で固めてきた君の話に、どんな価値があると言うのだね」
「……それは…」
「沖矢さんはFBIの人なんだ!」
怪しい人の話は聞きません、と突っぱねた優作の努力は、その子によって脆くも崩されてしまった。
強制的に渡された個人情報に、関わるまいとした父は一瞬天を仰ぐ。
しかもそれは、他人が言っていい事でも無いだろう。
「兆子!」
「例の組織の情報も持ってる!だからオレは、沖矢さんと協力したい!組織を潰すためにそれがきっと一番」
「黙りなさいっ!」
新一は焦っていたのだろう。
安全の為に身を隠し、自分では何一つ出来ない状況で、確かな情報も、組織を壊滅させるための一翼にも加われない状況に、視野狭窄で悪手を打ったことにも気づいていない。
そんな騒ぎの中、リビングの扉が開いて、硬い表情の少女が入って来た。
「哀ちゃん!?」
「哀ちゃん駄目よ、こっち来ちゃ!危険外来種がいるから!」
ある日工藤家の前で倒れていた少女。
サイズの違う、大人の服を身に纏った小さな少女。
それだけで感ずるものがあった。
組織関係でお世話になっている公安警察に連絡し、以来彼女を匿っているが、いざという時には『工藤家』そのものが囮となるのだろう。その為に関係者を一所に集めているのだと思っている。
だからか、滅多に他人がいる時は出て来ない彼女が自分から出て来たことに驚く。
「…知ってるわ、その声…」
地を這う、怨嗟を固めて詰めた様な声がリビングに響いた。
変装はしていても、変声機も声帯模写も出来ない彼の声は、決して忘れるものかと誓った優秀な記憶力を持つ彼女が、間違えるはずが無い。
「FBIのNOCだった、赤井、秀一…」
ここに来て漸く動揺を見せた男を、昏い瞳が見据えた。
「お姉ちゃんを利用して弄ぶだけ弄んで…捨てた男…っ」
哀の言葉が終わった時には、千華は新一を抱き上げ数歩下がり、有希子はいつでも哀を抱き上げられる位置に立ち、それを更に庇う様に優作が前に出た。
「警察だっ!」
「っ!?」
哀が開けた扉から、数人の警察官が雪崩れ込んで来た。
窓の外にも数人配置されているのか、ちらほらと影が見える。
ただ、家に入って来た者達が土足なのがちょっと気になる。
「な、何で警察が!?」
「さっき、通報したって言ったでしょ?あれからずっと、通話のままにしてこちらの声は届くようにしておいたもの」
「は!?あ、あの時っ、なんでっ」
動揺する新一に、千華は彼にだけ聞こえる音量で宥めるが、新一にとっては蜘蛛の糸にも等しい希望が警官達に捕縛されて行く様に落ち着けるはずも無い。
けれど、何処で知り合ったのかは知らないが、日本警察の保護を受けている身で、外国の捜査機関と誼を通じ、今まだ組織も健在で元に戻れる保証も何も無い中、警察の反感を買う訳にはいかない。
それは同時に、工藤家の下の子供が女の子では無いと知っている他国の捜査員を野放しに出来ないということなのだ。
「しっ!お兄ちゃん黙って!」
「だ、だけど千華っ、赤井さんはっ、本当に悪い人じゃ無いんだ…っ」
「お兄ちゃん!」
鋭い妹の声に、新一は息を呑む。
「…お兄ちゃんがあのヤリチンヤローをどう思ってるかとか、実際の為人とかは問題じゃないの」
「や、やりち…」
絶句する新一に、千華は静かに語り掛ける。
「法治国家に違法に入国した挙句、警察組織には内密に武力行使をしようと武器を隠し持って潜伏してる人間を何て言うか、分かってる?」
「へ?」
妹は真剣な顔で、小さくなった兄の瞳を射抜く。
「テロリストって、言うのよ」
新一の目が、限界まで見開かれる。
「え、いや、でも、え…」
線香を束のまま丸飲みした様な顔の新一。
いや違う、その顔は…。
「恋に恋した青臭い初恋じゃなくてこれが大人の恋なのねって浮かれて貢ぎまくってたら相手が既婚者だったことが分かった時の顔っっ!!」
「どんな顔だ、それ…」
千華の叫びに気づいて駆けつけたらしい新一が、十八歳の姿で扉から顔を覗かせていた。
千華はそれを見て、次いで壁にかけてある今年の四月から通っている高校の制服を視界に入れる。
夢だった。
「お、おい千華!?どうした!?」
「おにいちゃんがおバカだったああぁぁ~っっ!」
ベッドで半身を起こしたまま呆然としていた妹が突然滂沱の涙を流し出したとあって、慌てて新一は千華の側に駆け寄った。
「は!?どんな夢見たんだ!?」
「おにいちゃんがおバカなゆめぇえぇ~っ」
「え?何でオレが責められてんの??」
泣き縋る妹を腑に落ちない表情で慰めつつ、新一は辛抱強く落ち着くのを待ったが、千華の十年の努力が水泡に帰した夢は中々の攻撃力を持って千華の心を傷つけていた。
「ううぅ…お兄ちゃんのばかぁ…」
「はいはい、オレが悪かった。ごめんな」
理不尽に責める千華に、兄の包容力で受け止める新一。
イケメンだ。
頑張って良かった。
そして、明日からも頑張ろうと、千華は決意も新たに思うのだった。
今日も今日とて起こった、出先での事件。
駆けだそうとした新一の前に、千華が立ちはだかった。
「この先に進みたかったら、千華の出す謎を解いてからにして貰いましょうか!?」
「なんだと!?」
「工藤新一は…絶対音感があるのに、何故音痴のままなのか?」
雷のような衝撃が新一を襲う。
この世に生を受け十年弱、未だ解き明かせぬ謎をこの場で解けと言うのか。
不敵に微笑む妹が、新一の行方を阻む。
「身近な謎を放置したまま、手近な謎に尻尾を振るなんて、それでも探偵と言えるのかしら?」
「ぐっ…」
事件は優作が解き、近場の警察官に耳打ちして解決した。
新一は家に帰ってから、父に事件の概要を教授して貰うことになる。
「お兄ちゃんは本当に、『謎』に取り憑かれてるよねぇ~」
「んだよ、それは」
「なぞめくあなたのあいを~てにぃいれたとき♪」
「なんで突然歌い出した…」
「何でだと思う?ねぇ、何でだと思う?」
「は!?」
「お兄ちゃんの好きな謎だよ?なんで妹は突然歌い出したのでしょうか?この謎が君に解けるか!?」
「はあっ!?」
「ahh なぞがとけていく~♪」
「とけねーよ!!」
「はい、失格ー。正解は、歌いたくなったから。でしたー」
「そんなんありかよ!?」
「兄なら、推理しなくても妹の気分位分かって欲しかったなぁ~」
「ホームズにだって解けねーよ!」
「残念。妹はホームズに分かって欲しい訳では無く、たった一人の兄に分かって貰いたかったんだなぁ~」
「ぐぬぬ…っっ」
珍しく事件にも遭遇しなかったショッピングモールでの昼下がり、新一と千華は待ち合わせ場所のソファで両親を待ちながら暇を持て余していた。
「お兄ちゃんはさ、目の前にある謎にパン食い競争の走者のごとく食いつくよね」
「…お前のその独特な表現方法には、いつも兄ちゃん驚かされてる」
「ありがと。で、本題。お兄ちゃんはどんな謎でも解かずにはいられないの?謎は謎のまま隠しておいた方がいいこともあるじゃない?」
「いや、真実は明らかにするべきだ。どんな謎でも、解き明かせないものは無い」
「ふ~ん…じゃあさ、あのお姉さんどんな下着つけてると思う?」
「は!?」
千華の指さす先には、ぴったりと体にフィットしたミニスカートからすらりとした足を惜しげも無く晒す、後姿の女性がいた。
「ち、千華、おまっ」
「女性のスカートの中なんて、男の子にとっては最大の謎なんじゃないの?ほら、お兄ちゃんの推理は?」
「なっ、そっ、ばっ」
「紐パンかな、あのスカートのフィット具合から言って、フリフリレースでは無い感じよね?」
「そっんなん、知るかよっ!」
「え、何?謎の選り好みするの?全ての謎の真実を解き明かすのがお兄ちゃんの使命なんでしょ?謎は全て解くんでしょ?自分の好きな謎だけが対象なんて言わないよね?お兄ちゃんの言う謎は、事件とセットじゃないとダメなの?誰かの不幸を手ぐすね引いて待ってるの?」
「いやっ、ちがっ」
「ほらよく見てよ、あの見事なヒップライン。下着の線が出てないってことはTバックやiバックのせんもあるんじゃないかな?そうなると自力で支えている大臀筋が」
「知るかーっっ!!」
大量の紙袋を抱えて戻った両親は、真っ赤になって顔を覆う兄の背中をつんつんつつく妹の姿に首を傾げた。
「千華、新一はどうしたんだい?」
「お兄ちゃん結構むっつりだったみたい。ちょっと突いたら妄想が弾けちゃったんじゃないかな。まさかの性癖に妹はショックを隠し切れずつついてるトコ」
「お前が変な事言うからだろ!?つか性癖って言うなっ!」
「いや、見知らぬ女性の下着の話でそこまで意識されるとは露とも思わなかったもので…お相手さんにも聞かれてないし、あと五年したら犯罪な会話でも、今の年齢ならセーフじゃん?」
「自覚あったらアウトだろ!?」
噛みつく新一は耳まで真っ赤で、弱冠涙目でもある。
「…つまり?」
「お兄ちゃんは必要以上に女性の下着に夢を見ていたみたい。そんな思春期の少年の繊細な部分に踏み込んじゃったみたいで、ちょっぴり千華反省」
「~~だからっ、そーいうこと母さん達に言わなくてもいいだろっ!」
「だってお兄ちゃんが、真実は明らかにするべきだって言ったんじゃん」
「ちがっ、そういう意味じゃっ、と、父さん~っ!」
父に泣きつく新一に、優作は苦笑して受け入れる。
「うん、分かってる。分かってるよ、新一」
「うぅ~っっ」
口が達者過ぎる妹に、基本彼女に甘い兄や父が叶うはずも無い。
言葉と手段を選ばなければ、新一の知識と語彙力で妹一人言い負かすことなど恐らく造作も無いだろうに、傷つける言葉が出て来ず負けてくれる新一の優しさを優作はもちろん、千華や有希子だって知っている。
だがそのおかげで、新一は優作に甘えることを覚えたし、優作も新一の甘やかし方を知った。そもそも数年前、同じ様に泣きべそをかきながらも誰に頼ることも出来ず立ち尽くした新一を勢い良く優作に押し付け、「ほらパパ!息子とのコミュニケーションチャンスよ!慰めて!今のままだといざって時頼って貰えない木偶の棒ATMよ!?」と言ったのが始まりである。
そうして発せられる父から息子への拙い慰めの言葉を、泣くのも忘れて目を白黒させる新一の前で千華が端から駄目出しし、優作をこてんぱんに凹ませる偉業を成し遂げた。
それまでどちらかと言うと世間一般の親子や子供を導くと言うよりは、子供をからかって遊ぶ駄目な親だったのだが、この一件により徐々に優作は父親としての器を作っていったのだ。
子が親を育てるとは、良く言ったものである。だが、そのどさくさに紛れ、新一を泣かしかけた原因が千華だという真実は全員が忘れ、闇に葬られた。
完全犯罪はかなり身近で起こっている。
だから、千華としても贖罪も兼ねて積極的に兄に塩を送りたい。
「そーだ!お兄ちゃん、洗濯物をたたむトコから入ろっか?」
「は?」
「ママの下着可愛いよ?凄いのもあるけど。見知らぬ夢を追いかけるより、現実を受け止めるとこから始めよーよ。千華の下着も小学生らしく子供子供してて可愛いよ?」
「は?」
「そうねぇ。新ちゃん中身が無い状態で免疫つけとかないと、後々困ることになるかもしれないものね~」
「は?」
現実を受け止め切れない、そろそろ重くなってきた息子を抱っこしたまま、父は慎ましく発言を控える。
こういう時、余計な口出しをしてはいけないことを、優作はよく分かっていた。
妻と娘の思いやりと言うという名の愛が息子にとっては残酷な刃でしかないことを分かっていても…口を挟むことは出来無かった。
『父親』というのものが、自負していたよりもずっと無力であることを、優作は日々学んでいる。
「今日のご飯は千華ちゃんも手伝ってくれたのよ~」
「がんばりました!」
初心者料理の代表、カレーライスを前に千華はにっこり笑顔で言った。
有希子とお揃いのエプロンは可愛らしく、優作の周囲にも花が咲く。
「さて、お兄ちゃんに問題です!この料理の隠し味は何でしょうか?」
「は?」
「目の前の謎も解けずに実際の事件に挑もうなんて、片腹痛いわー」
挑発するように笑う千華に、新一もその喧嘩買ったと早速カレーの匂いを嗅ぎ出す。
美味しい物は美味しいが、それほど舌に自信が無い優作は早々に妻にカンニングする。
「…有希子、隠し味は何なんだい?」
「あら、そんなの入れて無いわよ?」
「は?」
「何の変哲も無い、普通のルーを使ったカレーよ?そもそも、料理初心者の千華ちゃんもいるのに、基本もやらずにアレンジなんて教えられないわ」
「…なるほど。隠し味は何かと問うておいて、隠し味など無い、という真実を見つけるのは、新一にはまだ早かったかな」
ルーをかき混ぜたり掬ったスプーンから落としたりする新一に、千華の目がジト目になる。
「…お兄ちゃん、お行儀悪い」
「いや、でも、謎を解くには…」
「謎を解くのに行儀が悪くてもいいなんてことは無いでしょ?ほら、物語ではよくあるじゃない?犯罪者が正体を隠して招待された場で起こる事件。そこでそんなに分かり易く捜査するの?誰にも分からない様に、怪しまれない様に、自然な行動の中で謎を解いてこそじゃないの?」
「そ、そうか!そうだよな!」
「はい、じゃあお行儀悪かったペナルティで、洗い物はお兄ちゃんの役目ね?」
「はあ?何でだよ!?」
声を荒げる新一に、何てことないように千華は返す。
「あら、洗い物をすれば合法的にキッチンに入れる。キッチンに入れば周囲に不自然な印象を持たせず隠し味の元を調査出来るかもしれないのに?突然何かに気づきました!とアピールしつつ証拠を探しに場を荒らすとか格好悪い。分かり易過ぎて後ろから殴られて犯人に殺されそう」
「な、なるほど…そうか、自然な行動で犯人には知られないように、か…」
ぶつぶつ呟く新一に、うんうんと千華も頷く。
「そうそう。それで犯行に使われる前にトリック用の道具を回収出来ちゃえば、未然に犯罪も防げて一石二鳥よね」
「は?犯行後じゃねぇの?」
「犯行後に現場うろついてたらただの不審者じゃない。ドラマなら犯行前にトリックが見つかったら放送事故だけど、現実なら事件が起きないに越したことは無いじゃん?」
「それは…」
「それに隠された犯行後のトリック材料なんか鑑識さんが写真撮る前に持ちだしたら、持ち込んだのもお前だろうって言われて証拠能力無くなっちゃうじゃん。犯行前のビリっとした空気とか、緊張した顔色とか、そういうのを敏感に感じ取って被害者が出る前に犯行を止めてこそ名探偵だと千華は思うなぁ」
「うっ…それは、そうか…」
「そうだよ」
何か思うことがあったらしい新一と、気にせず食事を再開した千華を見つつ、優作はこっそり有希子に聞く。
「…隠し味は、無いんだろう?」
「隠し味は無いわ。でも…」
悪戯っぽく笑った有希子に、目を瞬く。
「焦げたお鍋はあるわ」
なるほど、謎は全て解けた。
そうして、新一はそこそこ家事が出来る男になっていく。
新一が洗い物をしつつ無い隠し味の捜査をしている頃、それの監視に行く前に、有希子は苦笑しつつ後片付けまでが料理よ、と千華を叱ったことは、優作だけが知っている。
「お兄ちゃーん、千華も洗い物手伝うよー」
「いらない!オレがやる!」
「え~?そ~お~?」
新一が凝り性で、一度やり始めるととことんやり込まないことには気が済まないことは、結構家族全員が知っている。
有希子はそっと、茂〇和哉をシンク横に置いた。
その日新一は、園子に誘われ蘭と一緒に鈴木財閥が招待されたパーティに同伴することになったと、夕食時に思い出して両親に告げた。
正式に招待されたのは園子の両親だが、子供同伴でとのことで、親は挨拶周りなどで忙しいが、自分は一人だとつまらないから一緒に来て欲しいとの園子の願いに二人が応えた形だ。
新ちゃんのスーツ出さなきゃ~と歌いそうな有希子を眺めつつ、千華は眉を顰めた。
「…そのパーティ、行くのお断り出来ないの?」
「へ?なんで?」
不信感も露わにそう告げた千華は、きょとんと見返して来た新一に大仰に溜め息をつく。
「お兄ちゃんは、事件が起こるとお目々ギラギラなのに、普段は本当にポンコツだよねぇ…」
「はあ!?なんだそれ!?」
やれやれと呆れて見せる千華に、新一が気色ばむ。
「いーい?パパやママが招待されたパーティで、子供同伴歓迎って但し書きがあるなら、お兄ちゃんや私が参加するのも吝かじゃないけど、鈴木財閥が招待を受けたパーティに何でお兄ちゃんや蘭さんが行くことになるわけ?おかしいでしょ」
「それは、園子がオレ達を誘ったからだろ?」
それ以外何がある、とでも言いた気な新一に、頭が痛いと千華は頭を振る。
「…そもそも、鈴木さん家が招かれたんじゃなく鈴木財閥が受けた招待って事は、企業主催、つまりそのパーティはお仕事なわけですよ。お友達の誕生日パーティとは訳が違う。服装・挨拶・立ち居振る舞い・食事の取り方等々全てを観察され、その相手と今後ビジネス上で付き合っていけるか、メリットがあるか、デメリットは許容範囲かを精査される場が、企業主催のパーティ。そうよね?パパ」
「あ、ああ。そうだね」
「招待先はキッズアトラクションや玩具メーカーなの?子供向けアニメーションの先行上映があるとか、パーティ会場の一角にキッズコーナーやゲーム会場が設けられていて、一人でも多く子供のモニターが欲しいとか、そういうお誘い?その割にはドレスコードの指定が無いようだけど?」
「い、いや、それは聞いてねぇ…」
「じゃあ違うのね、きっと。そんなビジネスの場にマナーも分かってない、企業の評判を落とし兼ねない無関係の子供を誘うとか鈴木財閥は正気?財閥系列上役の子供ならまだしも」
「………」
「利害関係無く、無関係な子供を呼ぶ企業は無いでしょ。商談の前段階、為人を探っている横を子供達がはしゃいで走り回れば、それだけでパーティの格が下がる。では何故お兄ちゃん達まで招待されるの?」
「えっ、え、主催者が子供好き?」
「ド阿呆!!それでも米花町民か!?危機感は事件が起きるまでおねむなの!?パパ!正解を教えてあげてっ!!」
能天気なことを宣った新一の頭を叩き、優作をズビシと指名する。
「鈴木財閥直系のご息女、鈴木園子嬢の交友関係を知るため、かな」
「60点!交友関係を知り、いざという時脅しになりそうな弱点を知るためよ!」
「え、いやそんな、考え過ぎじゃね?」
「スカポンタン!園子さんにはBGが付いてても、お兄ちゃんや蘭さんにはBGいないでしょ!?それとも付ける!?四六時中見張られる生活をお望みなら一人でやってね!ホシが鈴木財閥の仕事を邪魔したい場合、ガードの厳しい娘を攫うより、パーティにまで連れてくる娘の友人を攫って脅迫する方がどれだけ難易度が下がるか!逆に、攫われる友人の生存率は娘本人よりもぐっと下がるけどね!」
「………」
「パーティ主催者本人じゃ無く、招待客の誰かが同じように『娘の友人誘拐』を企んだ場合、更に犯人が誰か分かり辛くなる。ますます生存率は下がる一方ね」
「いや、でも…」
「お兄ちゃん…じーけんはぁ、あーるいてこない、だーからあるいていくんだね~じゃなくて、事件を起こさない、起こさせない、そんな努力が必要だと思うの。ここは米花町よ?権力中枢の欲望渦巻く大人達の中に何の事前準備も無く行くとかそれ何て自殺行為?…信頼出来る人に友人を紹介するんじゃないんだよ?初対面の人に交友関係を含む個人情報バラ撒くとか、狙ってくれって言ってるよーなもんじゃない」
妹に言い負かされぺしゃんこになっている新一に、更に千華は追い打ちをかける。
「そもそもお兄ちゃん探偵になりたいんだよね?だったら顔売っちゃ駄目でしょ?それとも何?企業家達に顔売って、彼等のパーティに招待してもらい、そこでお家騒動なんかがあって事件が起こり、「犯人はこの中にいる!」とかやりたい感じ?それ、かなり趣味悪いよ?」
「ちちちちげーっし!!」
「ホントに?目がめっちゃ泳いでるけど大丈夫?事件起こりそうなパーティに潜り込んで、事件待ちたい訳じゃ無いんだよね?金持ちは血族間の地位と財産を巡った愛憎乱れて絶好の事件の苗床だとか思ってない?まさか無残にトリックまみれで殺されろとか思って無いよね?そのためにオレは馬鹿で何も知らない気づかないふりしていつか出会う事件のためにほいほいパーティに参加するぜとか考えてたりしてない?」
「無ぇしっ!!そんなこと考えて無ぇっっ!!」
「じゃあ、頭の回転が速いお兄ちゃんが何故これに気づかないの」
「……っ」
「…状況証拠しかない疑惑段階だとしても、自衛は必要なんじゃない?」
今までの実績()を鑑みて、何も起こらないと本気で思っているのか、と千華の物言わぬはずの視線が語っていた。
情け容赦の無い突っ込みに、新一は返す言葉を無くす。
過去を振り返ることが殆ど無かったせいで自覚が薄かったが、普段回転の速い頭が、事件が起こりそうなフラグは何故か全てスルーして、気づけば事件の渦中にいるという経験が多々あるという現実は、不思議で仕方が無い。
例え真実はそうで無かったとしても、事件が起きることを予想していながら止めもせず実際事件が起きればほくそ笑んでそれを待っいたと思われても仕方が無い遭遇回数がある。いや、もし誰かが何かの拍子に疑問を持った時、第三者にそう思われ兼ねないことが問題なのだ。
要約すると、面白そうだからで何でもかんでも首を突っ込むと、後で痛くも無い腹を探られ傷つくのは自分だぞ、ということだ。
「…有希子」
「ええ、私の方から鈴木さんにお断りしておくわ。いいわよね?新ちゃん」
「お願いします…」
「ああ、いや、やはり私から鈴木さんに連絡しよう。身辺の警備も進言した方が良いだろうからね」
がっくりと項垂れた新一の背をぽんぽんと叩き、一度本格的にお祓いに行った方がいいかと考える。
「…事件がお兄ちゃんを呼ぶのか、お兄ちゃんが事件を呼ぶのか、どっちなんだろうねぇ」
「どっちでもねぇ…はず、だ………たぶん」
当日、そのパーティで事件が起こったことを知らされる。
パーティに集まった大勢の子供達を人質に取って己の要求を通そうとした立て籠もり事件となったそれはテレビでもLIVE中継で放映されたのだ。
千華の予想とは少し違い犯罪規模も大きく優作の進言も活かされなかったが、警告した以上自己責任だろうし、新一が行かなくて正解だったことは確かである。
ただ、工藤家が居なくても事件は関係無く起きるという、ある意味大変はっきりした米花町らしさを証明してしまった事に、しょっぱい思いは隠せなかった。
優作の小説『闇の男爵』シリーズの最新作の発行部数が百万部を突破した記念に、ホテルでの美味しいディナーを堪能した工藤家は、何やら落ち着かないロビーの様子に足を止めた。
嫌な予感しかしない。
周囲の状況など物ともせずに自分が世界の主役と言わんばかりの騒ぎの元凶は、他人様から顰蹙を買っていることにすら気付かない。
上座のソファに一見上品そうな、けれど滲み出る性悪さを隠し切れない年配の婦人が座り、その右サイドに男、その男に寄り添うように座る女、そして下座側にお上品な罵倒を浴びている女が座っていた。
良かった、死体は無い…と思った千華は既に末期だ。
見事なまでにその周辺に人はいないが、結界で仕切られたかのような一定距離を開けたこちら側には、食事時を過ぎたせいでそれほど人は多くないが、それでもそれなりの人数はいる。
諫めるホテルマンはいないのかと視線を巡らすが、相手はちょっと声が高いだけで乱闘している訳でも酒に酔って暴れている訳でも無いため、手を出しあぐねているらしい。
「分かったかしら?跡取りを産めないような不出来な嫁は、我が家には必要無いの」
すごい。
こんなにも人目のある所で、座敷牢内でしてもよさそうな話をしている。
せめて個室を借りるかしろよ、家を誇る割には無料のロビーで家族会議とかビンボー人か、と千華は思った。
「私達は十分待ったわ。でもあなたが産んだのは二人共女だった。だからもう結構。我が家の跡取りはこちらのお嬢さんが産んでくれます。あなたはさっさとこの離婚届に判を押し、娘達を連れて出てお行きなさい」
ますます家でやれよ、と思う。
この話し合いを公共の場でやる意味が分からない。
母親らしき女の言葉ににやにや笑う男も、勝ち誇ったドヤ顔を曝す女も意味が分からない。
見ろ、周辺で譲り合いをしていたホテルマン達が頭を抱えた。止める機会を逸したことに気づいたらしい。
始末書で済めばいいね。
びっくりするほど観衆の嫌悪感を稼いでいる自覚が無いらしい老人の向かいで、項垂れていた女の肩が上がった。
「あ、あれはヤバイ気がする。事件の臭い!ちょっと千華止めてくる!」
「は!?ちょっ、千華っ!?」
「千華ちゃんっ!?」
言い置き、千華は立ち上がった女性の前に素早く出てその背に庇った。
「おばあさん!お姉さんをイジメないで!」
背後からぎょっとした気配と、突然割り込んで来た異物に不快を表す向かいの老人、美少女の登場に場も弁えず少し嬉しそうな男、そして思考が追い付いていないのだろう女を横目に確認する。
うん、大丈夫。
この人達は自分が上だと思っているから、小娘一人視界に入った所で石ころ程度の認識でしか無い。
その石ころが、時に凶器としてガラスを割り破り、被害を加えることもある等と考えてもいないだろう。
その証拠に、老人は取り繕った笑顔で千華を宥めにかかって来た。
「…お嬢ちゃん、私達は別に虐めていた訳では無いわ。全部その女が悪いことなのよ」
「嘘よ!だってお姉さんが女の子しか産めないっておばあさんがイジメてた!そんなのお姉さんのせいじゃ無いのに!旦那さんのせいなのに!」
「は?」
その声は、果たして誰のものだったのか。
「おばあさん知らないの?子作りの時、女の人が気持ち良くならないと男の子が生まれ難いのよ?」
「んなっ!?」
今度は色んな所から声が上がったが、千華は気にしない。
全然気にしない。
「膣内がアルカリ性か酸性かでX染色体が生き残るか、Y染色体が生き残るかの確率が違うの。男の子を作りたいと思っているのに女の子しか生まれないのは酸性のまま、つまりよっぽどの早撃ちか、下手くそかよ!」
男に寄り添っていた女が、隙間を開けた。
「後は、2001年にあったアメリカの同時多発テロで、多大なストレスを感じた女性達によって、翌年生まれたのは女の子が多くて、残念なことに流産は男の子の方が多かったんですって。この意味分かります?」
「………」
「お姉さんは旦那さんとの行為が、テロ並みにストレスだったのよ!」
「いい加減なこと言うなっ!お、お前の様な子供に何が分かるっ!?」
男が立ち上がり、真っ赤になって反論するが、隣の女は既に拳二つ分ほど物理的に離れている。
「分かるよ!女の子しか生まれなかったんでしょう?それが証拠だわ!男の子を作りたかったら、あなたがお嫁さんを気持ち良くすれば良かったのに、ただの一度も出来なかったんでしょう?お姉さんは旦那さんとの子作りが、ただただストレスだったのよ!」
「ち、千華―っっ!!」
「間違いないわ!パパの書斎の本に書いてあったもの!」
「そういう研究結果の載っている本を持っているのは確かだっ!」
止めようと走り寄って来たはずの優作が罪を告白する罪人の様に認めた。
女の子を欲しがった有希子のために勉強した時の残骸である。
千華は有象無象の変態達に対抗するため、危なそうな本は網羅している。
誰も悪くない。
女は既にソファの端まで寄り、胡乱気に未来の夫を半目で見ていて、老人は考えたことも無かった言葉の爆撃を見目愛らしい少女から投げかけられ、思考回路はショート寸前だ。
「お、お、お前…っ、この俺によくも…っっ」
「事実は受け止めなくちゃ、いつまでたっても早撃ち選手権ランカーだよ?そんなんじゃあだ名はキリンさんになっちゃうわ。おばあさんも!母親なら息子に自覚を持たせなきゃ、このままじゃ男の子の跡取りなんて夢のまた夢よ?」
「え?…え??」
「あなたの息子は、ド下手くそってことよ!」
「……っっ」
「お母さんっ!」
老人は白目を剥いて引っ繰り返った。
男が母親を振り返った隙をつき、テーブルの上に置いてあった離婚届を掴み、もう片方の手に呆然としたままの女の手を取り走り出す。
優作は片手で顔を覆っているが、離れずに付いて来ている。
笑死しかけている屍達を後目に、新一と有希子の元に戻った。
「その人連れ出せる様に、フロントで部屋を借りといた。移動するぞ」
「さっすがお兄ちゃん!分かってる~!」
「馬鹿か。部屋言ったらちゃんと話すからな!?」
「のぞむところー」
「え?え?…え?」
状況が把握出来ないままの彼女を促し、新一の案内で部屋に辿り着き、全員中に入ってオートロックが作動すると、千華を抜いた工藤家の面々が大きく溜め息をついた。
連れて来た彼女をソファに座らせ、ベッドに蹲る優作を苦笑する有希子、そしてギッと睨んで来る新一に、千華はにっこり微笑んでみせた。
「………ちぃかあぁあ~っ、お前なあっ!?」
「はぁい?」
「はぁいじゃねーよ!危ないことしやがってっ!」
「何で?いつもパパやお兄ちゃん達が首突っ込む事件よりはよっぽど平和よ?クソ野郎の男の沽券を完膚なきまでにすり潰してやっただけだもん」
「それが危ねぇことだって言うんだよ!」
「真実は白日の下に曝すべきなんでしょー?お兄ちゃんがいつも言ってることじゃん」
「なっ、やっ、それはっ」
「お姉さんが悪くないことで責められてるなんて理不尽じゃない。だから跡継ぎが出来ないって謎を千華が解いてあげたのー!危ないことするなとか、お兄ちゃんには言われたくない~」
「~~っ、そ、そーいうこっちゃねーんだよ!あの男が逆上して襲って来たらどーすんだってこと!」
「あらぁ、お嫁さん一人自分で選べないような僕ちゃんは、ママのお許しがなければ年下の女の子に掴みかかることも出来ないわー」
「は?」
目を見開く新一の後で、優作が身を起こす。
「気づかなかった?千華に怒った時だって、あのへたれちゃん婆の方ちらっちら見てたじゃない。あれはもう完全ママの制御下でしか生きて行けないマリオネットね」
「おま…」
絶句する新一を置いて、千華はソファに呆然と座ったまま聞くとも無しに会話を聞いていただろう彼女に近づき、膝を着いて大事に抱えたままのバッグの上の手に両手を重ねる。
「…だからお姉さん。その鞄の中のモノは、使わないでね?」
その目が驚愕に開かれる。
何故…と唇が動いた。
「分かるよ。あの婆に最後通牒された時、もう我慢するの止めようって思ったでしょ?どうでもいい様に婆の話を聞き流していたのに、あの時力の入った肩、鞄を抱きしめ続けて強張った腕、そして何より憎しみの溢れた眼差し…あんなに人目のある所で実行しようと思うほど、許せなかったんだよね?」
「……っ」
「お疲れ様」
有希子がそっと彼女の肩を抱く。
「貴女の悪夢は終わったの。もう、一人で堪えなくていいのよ?」
「娘さん達が嫌いな訳じゃないんでしょう?写真入りストラップが鞄から見えてるもん。でも、どうしようもなく何もかもがどうでもよくなっちゃうことってあるよね?千華も覚えあるし」
「娘さん達は今どこに?」
「…あ、あの人達の知らないっ、夜間保育に預け…っ」
「そう、じゃあ今は心配いらないわね」
「あ、あの子達とっ、生きて、行きたい…っ!あの子達は、私のっ、私だけの子ですっ!」
ポロポロと泣き出した彼女を優しく慰める。
今まで我慢していた分も、泣けるだけ泣けばいい。
「…あのね、私の親友が弁護士をしているの。とっても腕がいい弁護士なの。あの人達から、慰謝料と養育費搾り取れるだけ取ってお別れしたらどうかしら」
「母親としては及第点でも、弁護士としては信頼出来ると思うよ?」
「ちょっ、千華ちゃん!?」
「あの人、自分で立派な母親じゃないって思ってるから、父親がいないのがどーとか、母親としてどーこーしろとか言う指図はしてこない所は美点だと思うよ?」
「あ、あぁ~、う~…」
千華の言葉に、抗議を引き下げ有希子は唸り声しか捻り出せない。
そんな母子の様子に、彼女もくすりと小さく笑った。
「離婚届はこっちの手にあるんだから、これは好きな時に記入して出せばいいと思う。夜間でも受け付けて貰えるから出そうと思えば今すぐでも出せるし、全て貴女の自由だよ。慰謝料の請求とかは離婚後でも出来るし」
「そうね。今まであったことの記録とかある?」
「あ、日記には全て書いて、あります」
「それはいい。他に音声はあるかね?音声がある方が証拠として確実ではある」
「映像とかもあれば裁判では効果的だよな」
「それは…」
俯いてしまった彼女に、千華はにっこり微笑みかける。
「テレレレッテレ~♪なんと、こんな所に婆達が騒いでた時のボイスレコーダーが~」
「千華!?お前録ってたのか!?」
「んふふ~。この米花町で生きる限り必需品だよね」
「すごいわ、千華ちゃん!」
「王子様に見つけられたシンデレラがもう一つの靴をポケットから出す時って、こんな気分かしら~」
「絶対違うと思う」
新一が真顔でお伽噺のプリンセスの気持ちを代弁した。
事件だ。
「あの、どうしてここまで…」
辛い事ばかりだったろう彼女は、突然差し出された救いの手に戸惑いを隠せない。
何故かと問われれば、工藤家としては千華が走り出したからだ。
そして千華は…。
「せっかくこの世界に生まれたんだから、幸せになりたいの!」
事件ばかりのこの街で、救うことが出来たのが、何よりも嬉しかったのだ。
そして、暴く必要の無い謎もあると、新一に思ってもらえたのなら…それが一番いい。
「やったー!大成功ー!」
「美味しそうに出来たわね~」
オーブンから取り出したマドレーヌは綺麗なキツネ色で、湯気と共に香るバターは人を笑顔にさせる。
先に用意していたフルーツタルトとサンドウィッチを冷蔵庫から取り出し、切り分けて焼き立てのケーキと一緒にアフタヌーンティースタンドにセットし、リビングに運ぶ。
その間に有希子が最近お気に入りのすみれのティーセットで紅茶を淹れ、揃いの陶器の砂時計で時間を計る。
綺麗に並べられたアフタヌーンティセットを満足気に眺め、有希子は何通りか写真を撮ってスマフォを操作する。
SNSに上げているのだろう、母が楽しそうで千華も嬉しい。
今日は家族で出かける予定だったが、朝から警察の捜査に優作が呼ばれ、それにもちろん新一もついて行き、千華は出かける前か後かの差よね、という皮肉で送り出した。
そのため有希子は千華のご機嫌取りも兼ねて、女二人で気兼ねなくスイーツパーティをしましょうと誘ったのだ。
可愛らしく飾り付け出来たおかげもあり、娘の機嫌も良さそうでほっとする。
「そうだ。千華ちゃんにママ聞きたかった事があるんだけど、いいかしら?」
「なぁに?」
「千華ちゃんは、パパ達の探偵活動…反対してる?」
「………うーん…」
事件というと、分かり易く顔を顰める娘を知っているだけに、どこか心配そうに告げた有希子に、千華は口の中のサンドウィッチを飲み込み、紅茶を一口飲む。
神妙にしている有希子には悪いが、千華は少し前にも優作に新一の将来について聞かれたな、と思っていた。
分かり易く行動していたおかげで、基本人の機微を気にしない両親達でも気になる程度には千華の思いは浸透していたらしい。
ならば、優作とは別口からの考えを伝えてみようと考える。
「…好みの差、だとも思うのよね…」
「好み?」
繰り返す有希子に、重々しく頷く。
「パパやお兄ちゃんのやってる探偵って、小説やドラマの中みたいに、関係者集めて、あなたはこうこうこういう理由があって、こういう動機もあるけれど、犯人では無い、今回使われたのはこういうトリックで、この道具があるから犯行は可能だ。そしてこれを出来るのはあなたしかいない。あなたが犯人だ!あなたは被害者とこうこうこういう関係で、こん感情を持っていて、けれどこんな事があり恨みを抱くようになった。殺意が抑えられなかったあなたは今日犯行に及んだんだ!違いますか?…て流れじゃない?」
「そ、そうね…」
過去何度も遭遇したその場面が、有希子の脳裏に蘇る。
「ドラマならいいのよ。視聴者に伏線やら犯行動機やら教える必要があるから。でも現実でそれは駄目でしょ。そんな暴露は不特定多数の前じゃなくて、取り調べ室の中でやるべきことじゃない?」
「そ、そうかしら…?」
「しかも、犯人でも被害者でも無い、思う所はあったとしても犯罪だって犯して無い人達のプライベートや交友関係、相手に抱いていた負の感情まで晒し者にして、下手したらただその場に居たってだけの見知らぬ容疑者候補だっただけの人にも暴露されて。更に関係無い知り合いが野次馬にでも居たら、その後の人生も真っ暗よ」
「あ、ああ~…」
「事件現場には、観衆も観客も野次馬もいらない。ひっそり粛々と被害者の方の無念を晴らすべきよ。スポットライト浴びてドヤ顔するとか有り得ない」
「そ、そうねぇ~…」
忌々し気に語る千華に、有希子の視線が彷徨う。
事件と言う非日常の中での異様な事態を落ち着いて考えれば、実にその通りなのだ。
「例えばよ、ママ」
「え?」
「もし千華が殺されたとして」
「えっ!?」
「まあ、例え話よ、落ち着いて。で、千華の無残な死体もそのままに人払いもせず規制線もすぐそこだから野次馬もいて、警察でも無い人がズカズカ入って来て、傷口見たり、体触ったり、服を探ったりするわけですよ」
「殺意が湧くわね」
「挙句、工藤千華さんは有名なご両親の元に生まれ、蝶よ花よと育てられ苦労も知らず、本人も親譲りのこの美貌…色々恨みを買っていた様ですね、とか何とか色んな人達の前で知った様に千華の半生を語るのね。警察が言うのでも腹立たしいけど、たまたまそこに居た探偵が訳知り顔で言うわけよ。千華にも殺されるだけの理由があったって。その後犯人を見つけてくれたからって、感謝の気持ちになる?」
「殺意が湧くわねっ!」
「それよ、ママ」
「え?」
怒りから一転、きょとんとした有希子を指さす。
「その気持ちが、パパ達が推理ショーした時の関係者の気持ちだと思うの」
「……あ…」
大きな溜息を一つ。
「それに、そーいう殺意が向く方って、普通か弱い女子供じゃない?」
「…え…」
「つまり、パパ達のやったことの清算が千華やママ、取り分け千華に来る確率が高いから、パパ達の推理ショーが好きじゃ無いのもある。そもそも被害者の人権護ってあげてよ、てのもあるけど」
「………」
それは既に、好みの問題では無く、生死がかかわっているのでは…と有希子の顔色も悪くなる。
好き勝手に騒ぎ、推理を聞き、歓声を上げる野次馬達の中心で、被害者や犯人に近しい者達は何を思っていたのだろう。
真実を暴かれて、もう駄目だと項垂れる?
知られてしまったのならと神妙に罪を認める?
憎い人間は殺せたのだからもういいと開き直る?
いや、何故ここで暴露するのかと、警察でも無いお前が何故しゃしゃり出てくるのかと怒りを覚える者もいるのではないだろうか。
そんな時、有希子はちゃんと子供達を守れるのだろうか…。
有希子は漸くそこに思考が辿り着く。
そんな風に自己を鑑みていた有希子の耳に、更に怖い娘の発言が届く。
「逆恨みでも自分で襲って来たならいいよ?本当は良くないけど。けど、誰か人雇って襲われたら、もう裏で手を引いてた人なんて追えないし、あんなにも多くの事件に関係していたら、人一人挟んだだけで誰が主犯か分かんないよね。もしかしたら結託してアリバイ証明作って来るかもしれないし、実行犯しか掴まらなかったら何度でも同じことが起こるだろうし…自重をお願いして今日みたいに警察署に行ってくれるならいいけど、事件あるとすっ飛んでっちゃうからねぇ…。千華の好みに合わせろって言う訳じゃ無いけど、こっちの命の危険が無いよう立ち回る位はして欲しい」
後顧の憂いが全く失せていないのが現状なのだ。
憂いを込めて呟く娘は、ちょっと人生に疲れた感じが出ていた。
まだ小学生生なのに…!
一年前には爆弾事件に巻き込まれ大きな怪我をして、それでも健気に笑ってくれた家族思いの優しい子だと言うのに!
ぐっと千華を抱きしめる。
「ごめんね、千華ちゃん!ママが頼りないばっかりにっ!」
「事件に関する頼り無さでは、パパもお兄ちゃんもどっこいだから自衛してるし今の所は大丈夫!」
「………」
何のフォローでも無かった。
とどめを刺された有希子が落ち込みながらも、何とか話を戻す。
「…千華ちゃんの探偵の好みってどんななの?」
「ん?ママは今のパパが一番カッコイイって思ってるんでしょ?人の理想にケチつけるのはちょっと…」
「いいから教えて~!絶対否定したりしないから!」
「そう?」
それならば、と一度紅茶で喉を潤す。
「…まあ、現実の事件は四の五の言わずに警察が全部やれとは思うし、探偵頼みか給料ドロボウが、とも思うけど」
「あ、あはは…」
「ドラマや小説で見たい探偵の理想は、事件現場に行く事無く供述調書なんかの資料だけで解いちゃう安楽椅子探偵が一番カッコイイと思うけど、例えば、事件が起こったら「私が探偵です。どうしましたか?」て入って行くよりも、規制線の外から野次馬に混じって、もしくはもっと遠くから、誰にも注意されない様な所から小さな違和感や点と点を繋げパースを組み上げ真実を導き出し、そっと誰にも知られない所で仏様に手を合わせ、もしくは黙とうし、現場をちょっと離れることになった警察官を捕まえて…」
申し訳無い、怪しい者ではありません。
けれど刑事さんに少しだけお伝えしたいことがありまして…。
現場にこんな物はありませんでしたか?
事情聴取はお済ですか?
では、こんなことを言っている人はいませんでしたか?
もし居たならば…こう伝えては頂けませんか。
あなたが一人で背負うには、その荷物は重すぎやしませんか…と。
「…自首を勧めて貰うのね?」
芝居がかった千華の様子を観ていた有希子に頷き、「叶うのなら」と付け足す。
…自首してくれましたか、そうですか…それは良かった。
あなたにはあの人が犯人だと分かっていたんですか?
こんなトリックまで使って人一人殺めたって言うのに、あの人はちっとも晴れやかな顔をしていなかった。
辛そうだった。
そんな人が、この先罪を隠して生きていくのは、きっと辛いだけの人生でしょう。
それでは、出しゃばったことをしてすみません、私はこれで…。
あの、あなたは一体…。
「…ただの通りすがりの者です」
「キャー!素敵!カッコイイ!!」
「でしょう!? 自己顕示欲丸出しで探偵を名乗られるより、こっちの方がミステリアスで奥ゆかしくて素敵でしょう!?」
「目から鱗だわ!己の功績をひけらかさず、けれど社会の闇に差し込む光!知る人ぞ知る!けれど助けられた人ですらその人の事は知らないのね!?そんなあなたの君の名は!?」
興奮する有希子に押されるように軽やかに回った千華は、ウォールハンガーから外した帽子で顔の半分を隠す。
「しがない小説家の一人です」
「キャーっ!優作さんーっ!」
「ね!?ね!?パパがこんなだったら、問答無用でカッコイイよね!?」
「千華ちゃん、ママが間違っていたわ!パパにはもっと違う可能性があったのね!?」
この場合、探偵は職業では無く、本業は他になくてはならないとか、前へ前へ出るより一歩引いて俯瞰の目線で人に知られる事無く全体を見ることが出来ないと駄目だとか、相手を警戒させないために柔らかな物腰で不快にさせる事無くむしろつい頼ってしまいたくなる包容力が必要など、きゃいきゃいと盛り上がる母子の会話を、扉一つ隔てた向こうで聞いている者がいた。
優作と新一である。
約束を破った手前バツが悪く、こっそり帰って来ていた二人は、千華の理想の探偵像を聞いてしまうことになった。
「…父さん」
「新一。ちょっとコロンボで今後のことについて語り合おうか」
「お、おう」
そうして、中の二人に知られる事無く再度優作と新一が出かけた頃、有希子と千華の盛り上がりも一気に鎮火していた。
「…ま、有名になり過ぎたパパの名前と姿じゃ、もう無理だけどね」
「そうね、それがとっても悔やまれるわ…」
現実ってキビシーと零す娘に自分がもっと早くに気づいていたらと落ち込む有希子を千華が慰め、その空気を変えようと有希子は明るい声を出す。
「でも千華ちゃん、演技上手よね~。ママの目から見ても全然不自然な所ないもの」
「ふふ~ん、ママの娘ですから?」
「ふふ。ねえ、千華ちゃん?女優に興味ない?」
「それはノーサンキューで!」
有希子の誘いをあっさり退けた千華に、不満顔で縋る。
「え~っ、どうして~?とっても上手なのにぃ」
「だって千華、ファーストキスは好きな人とって決めてるもの!」
そのために数ある変態共から逃げ回っているのだ。
素敵ね、と言ってくれると思った母からの反応か無く、訝しんで見れば、絶望色に染まった有希子が居た。
「え、ちょ、ママ、何?」
「…千華ちゃん、残念なお知らせだけど…」
「え、まさか、え…」
「千華ちゃんのファーストキスは、パパが奪っていきました」
「ちょっと!」
「生後五分の事です…」
「産湯は!?」
ファーストキスは、羊水の味…。
―――― トゥルルルル、トゥル、カチャ
「はい、妃法律事務所です」
『突然のお電話申し訳ありません。少し相談させて頂きたいことがあるのですが、本日妃先生はお手すきでしょうか?』
「はい、ご相談ありがとうございます。少々お待ちくださいませ。…先生、ご相談のご予約ですが、本日よろしいでしょうか?」
「ええ。今日なら他にお客様もいらっしゃらないし出かける予定も無いから、大丈夫よ」
「かしこまりました。…お待たせ致しました。本日のご面談ご予約承れます。何時頃をご希望でしょうか」
『これから伺わせて頂いてもよろしいでしょうか?おそらく、十五分位かと…』
「かしこまりました。お電話承りました、栗山と申します。お名前頂けますでしょうか」
『工藤と申します』
「工藤様。かしこまりました。お待ちしております。失礼致します」
「妃先生。十五分後、工藤様ご来所です」
「分かったわ、ありがとう」
「親の顔を見に来てやったわっ!!」
秘書に呼ばれ、来客を待たせている応接室の扉を開けた英理を迎えたのは、仁王立ちして腕を組む工藤千華の姿だった。
一瞬扉を閉めそうになったが、気力で止まる。
千華の後ろのソファでは、気まずそうにこっそり見上げてくる新一と、更に奥で何が起こっているのか分からず不安そうな、けれど母に会えて嬉しい様な、複雑な混乱に陥っている蘭が居た。
「………」
「あ、その…ご相談者の、工藤様と…そのお連れ様です」
無言で後ろの秘書に目を向けると、彼女も若干混乱している様だが、状況の説明はしてくれた。
解決はしなかったが。
「電話でアポ取ったのは私です」
「あ、やっぱり。声は幼かったけど、でもすごく大人びた口調だったから…」
「栗山さん、下がってていいわ。友人のお子さん達とうちの娘なの」
「あっ、はい!……え!?」
更に混乱の渦に秘書を叩き落し、無情にもそのまま扉を閉めた。
下を見ると、先ほどよりも更にご立腹らしい工藤家の末っ子の姿に口元が引きつる。
過去数度この少女にやり込められている身としては、立ち込める不穏な空気に若干逃げ腰にもなるが、法曹界に飛び込み未だ負け無しのプライドにかけてもここは踏ん張るしか無い。
何とか笑顔を浮かべて着席を促せば、千華の眉がぴくりと跳ねたのが分かった。
対応を何か間違えたらしい…。
だが何も言わずすっと新一と蘭の間に座った千華は、英理とは目を合わさないまま蘭に視線をやった。
「…あんた、さっきの秘書さんに挨拶しなくて良かったの?」
「え?」
「母親の仕事仲間でしょ?普通、こーいう時は『母がいつもお世話になっております』とか言うもんなんじゃないの?」
「あっ!」
「もう時間切れですー」
慌てて立ち上がろうとした蘭を再度座らせ、これ見よがしに英理に視線を送る。
ジャブが来た。
消沈する娘の姿を見せつけ、ご教育がなっていないようで…という視線が痛い。
「あーあー。あんたが挨拶しなかったから、あの秘書さん上司が来るまで上司の娘って知らないままだったじゃない~」
「う、あ、だって…」
「そうね。この場に娘がいるって分かっても、母親の方からもまともな紹介無かったものねぇ、それは私でも挨拶し辛いわぁ~、てか、普通、お・や・が、教えるものだしぃ~」
「あ゛…」
千華の癪に障った所が分かった。
蘭を責めている様で、ちゃんと同僚に娘を紹介しなかった英理にちくりと棘を刺していた。
「自分の秘書に娘の写真一枚見せて無かったとか、そんな、いや、まさかぁ~、この犯罪都市で何かがあって娘が一人で訪ねてくる可能性を考えて、事務所の人間にちゃんと、予め、前もって、保護という根回しを依頼もしていないなんて、小学生の子を持つ母が、そんなそんなまさかぁ~、お兄ちゃんどう思う?」
「オレにふるな」
「あーりーえーなーいーわぁ~。毛利さん?妃先生?一児の母親として、一弁護士として、そういった姿勢どう思われます?」
「私の不徳の致すところです…」
「お母さんのせいじゃないわっ!」
「そうよ。毛利家三人の問題よ。後であんたら三人で解決してちょうだい。今日の本題はそれじゃないの」
「「ご、ごめんなさい…」」
毛利母子が揃って肩を落とした時、ノックが響いた。
「あ、あの…お茶をお持ちしました…」
秘書がそろ…と扉から顔を出し、室内を伺った。
普通ならそのままお茶出しにくるのだろうが、中に居るのが上司の娘を筆頭に子供だけという普段では有り得ない状況に手探りなのだろう。
英理の前に緑茶を、そして子供達用のオレンジジュースが盆に乗っている。
千華は所長である英理を差し置いて、秘書に笑顔で会釈した。
「すみません。わざわざオレンジジュースご用意下さったんですか?」
「「「えっ?」」」
毛利家プラスワンの声が揃った。
「普通弁護士事務所に、子供用の飲み物なんて用意されてないだろうからな。ありがとうございます」
「「あっ」」
解説して頭を下げた新一の言葉に、毛利母子が気付く。
照れたように飲み物を並べていく秘書は、子供達の案内後、初めて顔を合わせた上司の娘へのもてなしの為近所のコンビニまでジュースを買いに行ってくれたらしい…呆然と眺めている毛利母子に、千華は右隣の蘭の脇を肘で突いた。
「…え?」
「挨拶」
「あっ!あのっ、私毛利蘭です!母がいつもお世話になってます!」
「栗山緑です。こちらこそ、お母様には大変お世話になっております。こちらの事務所の受付もしておりますので、先生にご用がある時は、私がお言付け預からせて頂くこともありますので、よろしくお願いします」
「は、はい!よろしくお願いしますっ!」
立ち上がって挨拶する蘭に丁寧に返す栗山は、千華の目から見ても好感度が高い。それに比べて母親は…という目で見られるのが英理は辛い。
そっと視線を逸らした英理の耳に、小さく吐かれた溜め息の音が届く。
「ご挨拶が遅れてすみません。工藤千華と申します、こちらは兄の新一です。私達は母がこちらの弁護士先生と個人的に親しくさせて頂いております関係で、本日相談に伺わせて頂きました」
「そうなんですね。しっかりしてますね~先生!」
「そ、そうね…」
ぺこりと頭を下げる新一の姿を視界の端に収めつつ、英理の背中に冷や汗が伝う。
にっこりと栗山の好感度を稼いでいる千華だが、英理には何故自分達の紹介をあんたが部下にしないのだ、と無言で伝えてくるのが分かる。
先ほどの溜め息は、弁護士事務所に来た不自然な子供を『知人』程度の紹介で済ませた英理に対する諦めだったことを悟った。
流石元大女優の血縁と言うべきか、完ぺきな『躾の行き届いたお嬢さんとお坊ちゃん』を演じているが、栗山には気づかせず英理にだけ白けた視線を送って来るのが見事だ。
その、もの言わぬはずの視線がはっきりと何も期待していませんよ、分かっていましたから。ええ、分かっていましたとも。と、言っている様で辛い。被害妄想も少しあるかもしれない。
言い訳をさせて貰えるならば、自業自得とはいえ、見っとも無い所を多々見られている上に常に厳しい視線を送って来る少女に英理は緊張していたのだ。
それこそ、法廷で弁論を戦わせている時よりも緊張していた。
何故なら、千華は自分の母親の友人で、兄の同級生の母親だというのに、英理が『母親』であることをちっとも期待していないのだ。
まるで中学生位の思春期の娘を相手しているかの様に接せられている。
東都大学を出て、弁護士資格も取り、結婚して一児の母であると知っていながらその対応なのだ。今までが今までで仕方が無いとはいえ、辛い。
以前有希子からの電話だと思って気軽に出たら、受話器から『ごきげんよう、毛利のおば様。お仕事お忙しいご様子で、儲かってらっしゃるようで結構なことですわ~。そんな売れっ子弁護士様のお時間をちょうだいするのは大・変心苦しいのですが、ほんのちょっとでよろしいですので、うちの母からのお話にお耳をお貸し頂けません?』と流れて来た時は、心臓が飛び出るかと思った。
しかも有希子に変わったら変わったで、数週間後にある授業参観の話をされ、もちろん知らずにいた英理は、この数日仕事が忙しくて娘に連絡を取っていないことを突きつけられた。出席するしないはあるだろうけれど、存在自体知らないのはいかがなものかと宅の娘が言っておりまして~と親友に告げられた。
お互いにお互いの言を伝言形式で伝えないで欲しい。
蘭が母からの連絡が無いため授業参観の話を伝えられないと落ち込んで新一に愚痴を零す、それを新一が家で話す、その兄の憂いを晴らすため妹即行動…という流れらしいが、躊躇無く行動に移した工藤家の末っ子は、毛利家に対しての遠慮は売り切れました、と真顔で公言している。
そんなこともあって、まだ十歳にもならない少女相手に英理は緊張してしまうのだ。
しかも今回は、全く予想だにしていなかった場所で遭遇し、冷静な思考がストライキを起こした。
取り繕うのに精いっぱいだった。
けれど、その結果彼女の目に映ったのは、部下に娘の紹介一つまともにしない母親、という事実だけ…辛い。
挨拶が出来たとほっとしている蘭が何も気づいていない様子なのが唯一の救いだ。
「…先ほども申しましたが、本日は先生にご相談があってまいりました」
「えっ、あ、はい?」
突然丁寧な口調で語り掛けられ、英理はハッとして顔を上げる。
未だかつて、彼女にこんなにも丁寧に話しかけられたことは無い。
どちらかと言うと怒鳴りつけられることの方が多かった過去に、情けなくも怖くなる。
「うちの兄とお宅のお嬢様が友人として仲が良いのは存じておりますが、お宅のお嬢様、最近空手を習っておられるとか…ご存知ですか?」
「え、ええ。蘭のお稽古の月謝は私が払っていますので…」
「ああ、では話が早いですね」
つられて言葉が丁寧になる英理に、千華はにっこりと笑いかけてポケットからボイスレコーダーを取り出した。
ギョッとした新一と、きょとんとした蘭の表情の落差に戸惑う。
「本当は動画の方が良いのでしょうけれど、咄嗟だったので音声しか入っておりませんが、どうぞお聞きください」
『っ、もう!何で避けるのよっ!?』
『はんっ!そんなへなちょこの足技、蚊だって止まるぜ!』
『何よ!絶対当ててやるんだからっ!』
『何やってんの!二人共っ!!』
『え、ち、千華!?』
『千華ちゃん!?』
カチリ、と再生を止める。
「「「……………」」」
「弁護士先生、お分かりになったかと思いますが、お宅のお嬢様に、うちの兄が暴行を受けそうになっている場面の音声です。ほんの一時間ほど前の事で、下校時間の校門近くでの出来事で、目撃者も多く存在していたかと思います」
「ち、千華!これは別にそんなんじゃっ」
「おだまり、ポンコツ兄貴」
「ポン…っ」
割って入ろうとした兄を射殺さんばかりの眼差しで睨みつけ、英理に向き直る。
「聞けば、些細な言い合いから、お嬢様が空手技で兄を攻撃し、それを避けた兄が更に挑発した末のやり取りだとか。挑発的な言動をとった浅はかな兄も問題ですが」
「あさはか…」
「前提として、武道を修めようとする者はその技を素人にかけることを禁じられていることは、武道とは縁の無い私のような子供でも知っている事です。それなのに、空手道場で教えを受け、師がある身でそれを知らないなんてことは、有り得るのでしょうか?」
「…蘭、どういうこと?」
「あ、あの、その、ちょっと、ふざけてて…」
「そ、そう!別に本気で…っ」
バンっと千華が手の平を叩きつけた激しい音を立ててテーブルが揺れた。
びくりと肩を強張らせた毛利母子を捨て置き、言葉を詰まらせた兄の襟首を掴んで引っ張る。
「じゃれ合ってたじゃすまないの!いい!?この子が空手を習う前ならそれで済んでた事も、この子が武道を習い始めたなら、それて済ませちゃいけないの!型を覚え、技を習った武道家の手足は凶器!それで素人を攻撃したら、凶器を以って人を襲った犯人と同じなの!」
「…っ」
「例えばよ?この子が蹴撃して、お兄ちゃんが避けた。避けた場所に子供がいて攻撃が当たったらどうするの?避けた場所に盲導犬が通って当たった攻撃の弾みでユーザーさんがホームから落ちたらどうするの?」
「それは…っ」
「有り得ない事態じゃないよね?あんなに人がいる場所で技をかけて来てたんだから!そもそも、目の前で兄が蹴られそうになった妹の気持ち、お兄ちゃん分かる!?考えた!?」
「あ、う…っ」
「千華の他にも、下校時間なんだからたくさん下級生もいたし、なのに突然上級生の人が蹴られそうになるのを見せられた子達の気持ちは!?」
「…っ」
「お兄ちゃんは蹴りを避けて得意げになるんじゃなくて、そんなことしたら駄目だって諫めなきゃ駄目だったの!武道家の心得位、知らなかったとは言わせないからね!?」
「……」
「…犯罪が起きる前に止められる事があるのに、何で助長しちゃうの…」
「……」
妹に諭され、ぺしょん、と落ち込んだ新一を放り出し、縮こまった蘭は一顧だにせず英理に視線を戻す。
「失礼しました。うちの兄の考え無しの行動が事を大きくしたのは確かですが、武道を志すお嬢様が先に仕掛けて来られたのは事実です。…これについて、どう思われますか」
「…うちの蘭がしたこと、本当に申し訳なく思います。新一君も、危険な目に合わせてごめんなさい」
「う、あ…オレも、その…悪かったんで…」
「お、お母さんが謝ることじゃ…」
「あんたのしでかした事、親が謝らなくて誰が謝るのよ」
「うっ…」
狼狽える蘭に呆れたように千華が返す。
そのままジト目を向けられ蘭がおどおどと視線を動かすのに、また一つ溜め息をつく。
「…あっちの席移りなさいよ」
「え?」
「弁護士先生として話すのかと思ったけど、あんたの親として謝って来たから、あんたの席はあっち」
「え…」
戸惑う蘭を無視して立たせ、ぐいっと押し出す。
英理が慌てて手を伸ばし、戸惑う蘭を自分の隣に座らせた。
そして気づく…普通、この座り方だろう、と。
子供達に対し、己が弁護士として向かい合っていた事に今更ながら気づいた。
そう案内されてそのまま席に着いただけかもしけないが、蘭はここが母親の事務所だと分かっていたのに、それなのに母の隣に座ろうとしなかったその意味は…。
千華の必要以上に丁寧な言い回しも、いつも以上に鋭い眼差しも、どの立場で子供に向かい合うつもりなのかを試していたのだ。
開口一番に言っていたでは無いか…『親の顔を見に来た』と。
つまりは、蘭のことで言いたいことが、はっきり言えばクレームがあると伝えているのに、それに気づかず英理は子供三人に向かい合って座ったのだ…親の自覚は無くしたのか、そもそも芽生えてもいないのかどっちだ、と思われていたに違いない。
英理は思わず両手で顔を覆う。
「お、お母さん…?」
「ごめんね、蘭…お母さんいつも、本当に気づくの遅くて…」
「えっ、え…え??」
「はいはい、茶番は結構です」
「そうね、蘭。…千華ちゃん、あなたの前でお兄さんを傷つけかけた事も、本当にごめんなさい」
「ご、ごめんなさいっ」
蘭の背に手を添え、母子で頭を下げた。
「……その謝罪を受け取ります。ただし、条件があります」
「何かしら」
「おふざけだとしても、空手の技を人に向けたことを、通っている空手道場の方に報告してください」
「っ、そ、それは…」
「マズイって思います?それはつまり、やっちゃいけないことだったって自覚があることになりますよね?それなら、包み隠さず報告してください。それで破門になるなら…それほどの事だということだし、まだ習い始めたばかりであること、兄に怪我が無かったことなどで不問となるのなら、それはそれで結構です。兄の認識不足も否めませんので。ただ、なあなあで済ませて良い事では無いはずです」
武道家は、己の手足が凶器になる恐れがあるからこそ、清廉潔白であるべきだ。
きっぱり告げた千華に、その隣で新一が何かを言おうとし、言葉に出来ず、眉を下げて黙り込んだ。
「分かりました。蘭も、それでいいわね」
「…うん」
目に涙を溜めながらも受け入れた蘭に、千華も肩の力を抜く。
「お兄ちゃんも、今はただのじゃれ合いで済んだとしても、お兄ちゃんとこの子は男と女なんだから、もし技を交わしきれなくて反撃したら、第三者から見た場合非難されるのは女に手を上げた男のお兄ちゃんの方になるかもしれない。そのせいでただ防戦一方になるかもしれない…それって公平な間柄って言えるの?」
「……」
「この先この人がますます空手が上達して、自覚無いまま気軽に技を仕掛けてくるのに、お兄ちゃんはただ避けるしかないって状況になるかもしれない。それはもうただ避ければいいってことでも無いし、今ここで断ち切っておかないと、いつか技をくらうお兄ちゃんを見ることになるかもしれない。千華はそんなのごめんだわ」
「……うん」
「お兄ちゃん頭良いんだから、ちゃんと想像力働かせて、先々の事を考えて行動して」
「面目ない…」
妹の説教を神妙に聞く新一の姿に、この少女に叱られる立場なのは同じなのかと、場違いにも親近感が湧いてしまった。小学生に対してそんな親近感を感じるのもどうかと思うが、英理には工藤家に対して微妙な劣等感あり目が曇っている所があるせいで、目から鱗の様な心情だった。
話は終わった、と千華は出されていたジュースをぐいっと飲み干し、新一も力無い仕草で続く。
「それでは、私達これで失礼します」
「ええ、結果はまた有希子を通して連絡させて頂くわ」
「毛利のおじ様を仲間外れにして進めないでくださいね?柔道経験者のおじ様が、武道家の心得をご存じ無いはずが無いので。それも含めよお~く、話し合ってください」
「そ、そうね、その通りだわ。…そういえば、あなた達この事務所までどうやって来たの?」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、帰りかけていた千華が素晴らしい笑顔でくるんっと振り返った。
「もちろん、タクシーです。お宅のお嬢様、お母様のお勤め先をご存知無い所か、名刺一枚お持ちで無かったので!」
「うっ」
忘れた頃に、見事なストレートが急所に決まった。
こんの出来損ないの母親もどきがああぁぁっという副音声も聞こえた。
英理の被害妄想だとしても、聞こえたと言ったら聞こえた。
「あ、あのっ、それじゃあ行きと帰りのタクシー代…っ」
「結構です。それより今回の相談料、秘書さんに伺えばよろしいですか?」
「え!?いいえ!いらないわ、結構です!千華ちゃん、私蘭の母親としてお話させて貰ったつもりなの!」
「えぇ~そうですかぁ?お忙しいお仕事中にプライベートな用事でお邪魔することになったなんて、とっても心苦しいんですけど~」
「母として!娘の事を話し合うのは当然のことだわ!」
言いながら、何故自分がこんなに必死になっているのか、内なる英理が問いかけてくるが、それが分かっているなら必死にならない。
「…行きにタクシーの中から駅の場所を確認してますから帰りの心配はいりません。ね、お兄ちゃん?」
「ああ。…なので、ここで大丈夫です」
「え、あ、そ、そう。分かったわ。あ、これ、また何かあるかもしれないから、渡しておくわね」
そう言って取り出した、先ほど娘にも渡していないと話題に上がった名刺を、千華は一瞬胡乱な瞳で見たが、すぐに笑顔で隠し、すっと両手でロゴや名前を隠さない様受け取った。
「お名刺頂戴します」
「…千華ちゃん、そういうのどこで覚えてくるの…?」
「父の書斎にはビジネスマナーの本もありますので」
「父さん、社会人経験無く作家になったんで、そういうの後から勉強したみたいで結構あるんです」
「そう…」
年齢一桁の少女に両手で受け取られるとは思わずつい零せば、その兄も同じ仕草で受け取った。この兄妹怖い。完璧人間に思っていた優作だが、人知れず努力をしていたのかと思い、また彼も子供に振り回される立場なのだと考えれば、肩の力が少しだけ抜けた気がした。
蘭はよく分かっていなくても二人の受け取り方がカッコイイと思ったのか、見様見真似で受け取り、両端の文字を潰していたが嬉しそうに掲げた。
うちの子が一番可愛い、英理の荒んだ心がキュンキュンする。
「それじゃ、お兄ちゃん帰ろ」
「おう。じゃあ、蘭。また明日学校でなー」
「うん、バイバーイ!」
爽やかに子供達が別れの挨拶を交わし、扉が閉まり、部屋に二人だけで残された時、英理の頭は混乱した。
武道を習い始めた娘が、同級生の男の子を暴行しかけたという深刻な相談を持ち込まれたはずなのだが、今英理は娘と手を繋ぎ、帰る二人を見送る時に振った手もそのままに固まる。
こんな爽やかに別れて良い案件だっただろうか。
事の重大さが今一伝わっていない気が…。
「お母さん?」
見上げてくる娘に意識が戻る。
まず、何をすべきか、この子のためにやるべき事を…。
「蘭、今日お父さんは事務所にいる?」
「う、うん。出かけるって聞いてない」
「そう。じゃあ、まず一緒にお父さんに今回の事を話しましょう。きっと怒られるでしょうけど、それから、蘭がどうしたいのか考えましょう。武道の事はお母さんよりお父さんの方がよく知っているから、お父さんからのお説教が終わった後、蘭がまだ空手を続けたいのか、止めても良いのかを聞くわね。その後空手の先生とお話ししなくちゃいけないから」
「…はい」
しゅん、と落ち込む娘の頭を撫でる。
この子の為に何が出来るのか、英理ははっきりとは分からない。
けれど今、この繋いだ手を離してはいけないことだけは、分かったのだ。
「千華、ちょっと降りてきなさい」
優作の呼ぶ声に返事をして降りると、リビングに家族が揃っていた。
揃って座る両親に向かい合って座る新一が少し萎れている。
帰ってから母に話した今日の出来事の件だろう、どんな話をしたのか、かなり落ち込んでいるらしい新一の隣に千華は静かに座った。
「…千華。有希子と新一から今日の話を聞いた。色々と思う所はあるが、まず、新一を守ってくれてありがとう」
「え、はい」
「うん。千華の言い分、主張は私も同感だ。子供のじゃれ合いと、片方が武道経験者とでは意味合いが随分変わる。実害が出る前に話し合えたのは重畳だ。…ただ、その後の行動だが…英理君の事務所へ行くのはやり過ぎだ」
「そう?あの人千華に苦手意識あるから簡単にマウント取れるし、ママだと丸めこまれちゃう可能性あるし、何より千華が騒いで無かったら、ママはなあなあで済ませちゃわない?子供同士だしとか、お兄ちゃんに怪我無かったからとか、蘭さんが女の子だからとか内々で~とか」
「そっ、そ、そんなことっ、無いわ!無いわよ!?」
「ホントに?」
「本当よ!蘭ちゃんの味方するなんて無いからね、千華ちゃん!ちゃんと新ちゃんの名誉を守ったわっ! 母として!」
「いや、名誉ってより犯罪に通じそうな事態を鈍感力全開で見逃しかけたっていう間抜けを曝してたんだけど…」
「千華…」
「…千華…」
有希子の力説の下で、男二人が顔を覆った。
「うん。でも、ママがちゃんと母としてあの人と戦ってくれるって言うのなら、千華は余計なことをしました。ごめんなさい」
「うっ、英理とちゃんと真正面から戦えるかっていうと」
「そう、先方の親御さんと話し合いを持つというのなら、こちらも親である私達が出るべきだ。例え100%千華が倒せる相手だとしても、それは私達親の役目だ。千華が取ってはいけない」
「はい。話し合いの場なんて数時間拘束されることもあるのにパパ締め切り近いなとか、編集さんと打ち合わせあるしとか、ママだけだとゴリ押しで遺恨残りそうだとかもう考えない!遠慮しないでパパを頼るね!」
「ん?んん?」
先ほどまで出来ていたはずのキャッチボールが、突然の暴投により強制終了となった。
「いつパパに頼っても良い様に、パパは締め切り前倒しで時間に余裕をもっていてくれるってことよね?」
「んんん?そういう話だったかな??」
管制塔から許可の下りた滑走路の隣に着陸した気分である。このままそこにいると、事故は免れないのでは無いだろうか。
「ママも、親友とかママ友とか友人とか女優時代のファンだったとか関係無く、毅然として対応してくれるってことよね?」
「え?ん?あ、保護者会でファンだったって人達と騒ぎになったこと、千華ちゃんまだずっと怒ってた??」
「ん?何の話だい?」
「いいの!パパとママが親として親らしく親の仕事をしてくれるって言うなら、千華もうでしゃばらない!」
「ち、千華!?」
良い笑顔の千華と、ぎょっとする新一。
「お兄ちゃんが学校でしょーもない事を「事件だ!」て言って大事にしても、女の子同士の秘密の話に首突っ込んで五歳児みたいに「なんで?なんで?」して女の子泣かせても、全部親呼び出しで纏めていただきましょう!」
「「………………」」
「千華、それは内緒ってっっ!?」
「……新一」
「新ちゃん…?」
慌てて妹の口を塞ごうとしていた新一の耳に地獄を這いずる様な両親の呼びかけが届く。
誤魔化し笑いでは納めてくれるはずも無く、二人がかりでびっしり叱られた挙句、小学校高学年には少し恥ずかしい、父のお膝の上でほっぺどこまで伸びるかの刑に処された。
「…そーいやさぁ、千華ぁ?」
「ん~何?」
ひりひりする頬を両手で抑えつつ、新一は気になっていたことを聞いてみることにした。
「千華って、うちじゃ蘭の事『蘭さん』って言うのに、本人の前じゃ『あの子』とか『この子』とか『あんた』っつって、絶対名前呼ばないよな?なんで?」
にっこり笑った千華に、頭の中で警報が響く。
が、知りたがりの新一は、その警報スイッチを早々に切ってしまう。
なんでなんででさっき痛い目にあったのに、懲りない子供だ。
「パパの書斎の本にね…」
嫌な予感…けれど、スイッチを切ったのは新一だ。
「名前を呼ぶと親しみが湧くって書いてあるのがあったの。だからよ」
「えーと、それはつまり…」
親しくなるつもりは無い、ということだ。
雉も鳴かずば撃たれまい。
後日、毛利一家と空手道場の師範が揃って詫びに訪れ、蘭は一カ月の練習時間の正座と反省文と道場訓の書き取りをすることで、空手を続けることとなったらしい。
千華個人としては、お詫びで持って来られたお菓子が美味しかったので、それで良しとした。
下校の途中、友人と別れ一人になった途端現れた変態に、千華は舌打ちして踵を返した。
コートの前を開けっ広げにするタイプの変態で、何処かに専門学校でもあるのかと思うほど、テンプレートに嵌った見た目・衣装・セリフで日本全国に出没する。
そして当然の様に米花町にだってよく現れる。
家を知られる訳にはいかないため、この変態を撒いて通報してからで無いと帰れない。
悲鳴も上げずに全力疾走で逃げ出した千華に、一瞬虚を突かれたが変態も追い縋って来た。
失敗した。
この手の変態は見せるだけで満足する者と、触らせたがる者がいるが、大体は用が済めば追いかけて来ず、自分のテリトリー()に獲物がかかるのを待つ。だが稀に逃げると追いかけて来るお犬様タイプが存在する。
この変態はそれだった様だ。
「わっ!?」
「ごめんなさいっ、て、あ…」
「え、千華ちゃん?」
曲がり角で人にぶつかりかけ、相手を確認すれば毛利蘭だった。
彼女の行く先に例の変態がいるのだから、ここで置いて行くわけにはいかない。
「ついて来て!」
「へ?え?」
手を取って走り出そうとしたが、それよりも変態が追い付く方が早かった。
「お嬢ちゃん達~」
「ああ、もう何だってこんな時に会っちゃうかなあ!」
「え、ご、ごめん?」
「ねぇ、お嬢ちゃん達ってばぁ~」
「うっさいわよ!あんたのポークピッツなんか興味無いのよ!曝してないで、ホースにでも突っ込んどきなさいよ!」
「え…ちっちゃ…」
純粋で素直な子供は、時として誰よりも残酷だ。
「そもそも変態さん?まだ父親とお風呂入ってる年代の子供に、結婚して子供もいる父親のモノと比べて欲しいなんて、中々のMね!」
「わっ、わわわっ、わたしはポークピッツじゃないぃぃいいぃっっ!!!」
「じゃあブナシメジよ!」
激高して襲って来た変態をひらりと交わし、大きく開いた口にスプレーをかける。
「ぎゃあああっっっ!?」
もんどり打って倒れる変態の軌道に巻き込まれないよう駆け寄り、もう一吹き、二吹き、オマケに三吹き。
「うがああっっ!!」
「せめてホンシメジになってから出歩きな!」
暴言に反射で反論も出来ず大きく動かなくなったことを確認し、結束バンドで親指を括る。
ひくひくと痙攣し始めた変態に怯える蘭の傍まで退避し、110番をした。
こいつ、ひっくり返すと丸出しです、と警察が到着したら伝えねばならないのかと思うとしょっぱい気分になる。
「ね、ねぇ、千華ちゃん…この人どうなったの?てか、何?」
「見ての通り、オリジナリティーも何も無い変態。デスソースをウォッカで割った液体を口回りと局部にぶちかけたから、刺激で気絶したんじゃない?やっぱりこの手の変態は、怒らせると真っ正直に正面から襲ってくるから対処しやすくて助かるわ。うつぶせになってくれたのも良かった。必要以上に触りたくない」
「う、うん。うん?」
ハテナを大量に飛ばし、よく分かっていないだろう蘭に対し、変態対処方を伝授することにする。
危機感が足りない。
「いい?今回は距離が近かったからこのデスソーススプレーで倒したけど、普通変態にあったら逃げ一択だからね?」
「え、で、でも!自分の身を守るためなら、空手使ってもいいって先生言ってたよ?」
「そうね。どうしようもない場合の使用は認められているそうね。でも、考えて」
確かに、アクション映画なんかで体術で敵を倒す姿は格好良い。
けれど、あれは予め順序立てて、倒される役の人が予定通りに倒されてくれるから格好良いのだ。
時代劇の殺陣も素晴らしい。
あれはやられ役の方達が気持ち良く吹っ飛んでくれるから格好良いのだ。
「相手の変態が武道経験者だったら?そうじゃなくても、たまたま偶然でも、あんたの蹴りを捕まえられちゃったらどうなると思う?」
「え、ど、どうなるって…」
「捕まえられた足をそのまま撫で回されて」
「ひっ!?」
「更に嘗め回されたりして」
「ひぃっ!?」
「それで、パンツ脱がされたりするわけよ」
「ウソウソウソウソっ!?無理!だめ!いやあっ!?」
「嫌でしょ?無理でしょ?気持ち悪いでしょ?なら、逃げ一択しかないのよ!足上げただけで盗撮してくる変態だっているからね!?いい!?逃げるのよ!?逃げればそんな目に合わないから!立ち向かうから餌食になるのよ!」
「逃げる逃げる逃げるっ!絶っ対、逃げる!」
「ホラー映画だって物音を探りに行かなければ殺されないでしょ?呪いのビデオを観なかったら呪われないでしょ?コックリさんしなかったら憑かれないでしょ?変態に立ち向かったりせず逃げ切れば、絶対に変態の餌食になることは無いのよ!千華の防犯グッズも、あんたの空手も、最後の最後の最後の手段!変態や逃亡中の犯罪者にかち合った時も、逃げるだけで逆らう手段が無いと油断させた後の手よ!」
「分かった!絶対逃げる!」
「よし!」
そこに通報した警察車両が到着した。
顔馴染みになってしまった刑事が千華の顔を見て、伸びている犯人を確認し、ほっとした様に力を抜いた。
「いつもお世話になっております」
「やあ、今回も災難だったみたいだね。無事で良かった…こんな変態をのさばらせていて本当にすまない」
「いいえ、警察の方々は市民の安全のために頑張って下さっています。…ただ、自分の欲望に忠実で、その行動の末のお先真っ暗な未来を想像出来ないクソ野郎が多いだけで」
「は、はは…本当にすまない」
情けなさそうに謝罪を繰り返す刑事の向こう、被疑者に向かった者達がうおっと叫び声を上げた事で、奴がもろ出しであることを伝え忘れたことを思い出した。
そっと手を合わせる。
「あ、あれについてる赤いの、この防犯スプレーです。目に入ると恐ろしいことになるかもしれないので気を付けて下さい」
「ああ、ありがとう。そちらのお嬢さんは友人かな?後で話しを聞かせて欲しいのだが、大丈夫かい?」
「あ、はい!」
「兄のクラスメイトです。私があれから逃げてる時にたまたま会いまして…」
そして伝えられる、相も変らぬ容赦の無さに、漏れ聞こえた捜査員一同、乾いた笑いを浮かべるまでがセットの事件であった。
「ところで千華ちゃん。千華ちゃんまだお父さんとお風呂入ってるの?」
「あんたは入ってるの?」
「え?私は、三年生位までは入ってたかなぁ」
「実は千華はパパとお風呂、入った記憶が無い」
「え?」
「すっごいちっちゃい頃は入ってたのかもしれないけど写真も無いし、うちのパパ子供のお風呂の時間、基本お仕事の構想練ってるか筆が乗ってる時間なのよねぇ。だから低学年の内は、ママやお兄ちゃんと入ってたけど、パパとは入ったこと無いの」
「ふ~ん、そうなんだ…」
「いつ気づくかなって思ってる」
「え?」
父が、子供達とのお風呂の思い出が無い事に。
巷では、男同士の秘密の話や約束や取引が行われるという噂の父子のお風呂タイム。
成人して家族旅行か何かで温泉に行った時、新一から何気無しに「親父と一緒に風呂入るの初めてだな」と言われて初めて愕然とする優作しか想像出来ない。
「…それで、今でもその女は自分の足を探して彷徨い歩いてるそうだ」
「うわー気味悪ぅー」
「けどあんまり怖くは無いな」
千華の鞄に新一の本が紛れ込んでいたため訪れた上級生の教室で、何故か怪談話がされていた。
放課後ならまだしも、こんな真っ昼間の昼休みに怪談して何が楽しいのかと思う。さっさと退散するためにも兄の姿を探すが、居ない。
「あれー?工藤妹じゃん。上級生の教室に何の用だよ」
見つかった。
怪談話をしていた三人組がにやにやと千華を見ていた。
両親が官庁だか省庁だかにお勤めか会社経営者だかで、庶民とは違う、負け犬には用は無い、選ばれた人間だと公言する中々痛いお人柄であることは下級生の千華の耳にも入っている。
そのためなるべく距離を取りたいのだが、新一が同じクラスの上何かと目立つことが気に入らないらしく、走り抜けようとするチャンスの女神の前をカバティで待ち構えて捕まえるが如く突っかかって来るのだ。
「兄に用があるだけなのでお構いなく」
「工藤ならどっか行ったままずっと帰って来てないぜ?」
彼等の向こうにいた蘭と園子が千華に気づいたらしいのだが、蘭が頷いて園子が首を振った。
新一の行方を知らないということで首を振って、彼等の言ってることが正しいと頷いているのか、反対なのかどっちだ。
声出してこーぜ。
「そーいや工藤妹。お前よく事件に遭ってるそうじゃん」
声出して欲しいのはお前じゃ無い。
そう突っ込みたいが、か弱い下級生の身では、最上級生に逆らうなど出来るはずも無い。
「そうそう。お前等家族、事件によく関わってるってな~」
「被害者化けて出たりしねぇの?」
「夜中に枕元に立ってたり?はは!怖い話知ってるだろ?何か話せよ」
園子が何かを言おうとするのを手を上げて止め、苦笑を浮かべ教室に入る。
千華は逆らえないのだ。決して喧嘩を買ったわけでは無い。
「私の話なんか、先輩方にご満足頂けるかどうか…」
そんなの気にするなと馬鹿にした様に笑う彼等に従順に近づき、すっと表情を消すと揃って息を呑まれた。
真顔の美少女の怖さを、彼等は今日初めて知ったらしい。
心配そうに様子を伺っていた蘭や園子、その他クラスメイト達までが息を詰めている。
「…ある所に、お父様は誰もが知るような立派な職種にお勤めで、お母様は専業主婦ながらお茶やお花の習い事をされている格式高いご夫婦の元に生まれた男の子がおりました」
淡々とした口調で話し出した千華に、三人はそれぞれ視線を交わしつつも口を噤む。
いつの間か教室中が静まっていたが、そんな事は気にしない。
「お父様はおっしゃいます『お前は特別な人間だ』『低級な者の言葉など聞く必要は無い』と。お母様はおっしゃいます『貴方は選ばれた人間なの』『付き合う人は全てママが貴方に相応しい人を用意してあげる』と」
ぴくりと誰かが反応した。
『そんな聞いたことも無い会社に勤めている親の子供とは付き合うな』
『テストが90点だと?何故あと10点が取れないんだ』
『レギュラーになれなかった?時間の無駄だ、辞めてしまえ』
『くだらない話で時間を無駄にさせるな。私は仕事に行く』
「少年は言います『はい、パパ』」
誰かの顔が強張った。
『こちらの子ならあなたの将来にきっと役立つお家の子よ。お友達はこの子になさい』
『今からカルチャー教室なの。お話は帰ってからでいいかしら』
『あら、そんな服は下品で貴方には似合わないわ。ママが用意した物を着なさい』
『ママは出かけるから、お夕飯は家政婦が用意してあるものを一人で食べられるわね?』
「少年は言います『はい、ママ』」
誰かは顔色が悪くなった。
「少年は両親の言う通り、二人の前では大変良い子で、良い中学・有名進学校の高校・大学最高学府に進み、言われるままお父様と同じ所に就職、正に順風満帆!我が世の春!初めて『よくやった』と褒めてくれるお父様。手を取って『貴方は私の誇りよ』と涙ぐむお母様。辛いと思ったこともあった。胸にぽっかり穴が開いている気がしたこともあった。けれど、ボクは間違ってなかった!!」
三人の顔色が少し良くなる。
「少年は大人になり、順調にキャリアを重ね、職場では部下が出来、給料も標準よりずっと高い。何も恐れることは無い。両親の言う通りにしていれば、何も間違いは無い。そんな青年になった少年に、お母様がお見合いの話を持って来ました」
教室に居る六年生達が、固唾を呑んで千華の話を聞いている。
声を弾ませ、楽しそうに語る千華を見ている。
「青年になった少年は喜んでその話を受けました。お母様が持って来た話だ、間違いがあるはずが無い。現に相手は、有名お嬢様大学出身で、笑顔の可愛い清楚な美人だ。一目で恋に落ちた。実際に会った彼女は写真よりももっと可愛らしかった。『初めまして…』恥ずかしそうに眼を伏せた彼女を自分のモノだと思った。全く自分の人生は素晴らしい!こんなに可愛い人と夫婦になれるなんて!」
三人はうっすらと笑みを浮かべていた。
「執り行われたのは、両親がプロデュースしてくれた盛大な結婚式!職場の上司、先輩、後輩、親戚、学生時代の友人、妻となる彼女の沢山の関係者。大きなチャペルで沢山の人達の祝福を受け、神の御前で彼女を待つ」
ふと、雰囲気が変わる。
「彼は緊張していた。とても緊張していた」
固く握りしめられた両手から、緊張が伝わる。
「今までこんなにも緊張したことは無い。それほどまでに緊張していた。…仕方が無い。彼は今まで言われた通り進んで来ただけで、引かれたレールの上を歩いて来ただけで、自分で何かを考え、成し遂げたことなどただの一度も無いのだから。これから妻を迎え、子を成し、一家の長として全てを考え決定していく必要がある。それが今まで言われるままだった彼に出来るのか…」
三人の表情が凍る。
彼等の前でふわりと回った手の角度で、ドレスのふくらみが分かる。
「真っ白なドレスに身を包んだ妻となる彼女が微笑んで彼の前に立った時、鼻を突く臭いに気づいた…『キャアッ!』」
「「「っ!?」」」
わざとガタンっと音を立てて後ろに飛び退き、怯えた目を向けてやれば、訳が分からず狼狽える視線が返る。
何事も無かったように再びすっと表情を消して続ける。
「新婦の悲鳴に会場中が何事かと一瞬ざわめき静まり返る。そして気づく、アンモニア臭…新郎の真っ白なタキシードの股間を染め、足元に広がる液体に…そう、彼は緊張のあまり漏らしてしまったの…」
「ひっ…!」
「オートクチュールの真っ白なドレスの裾を新郎に汚され呆然とする新婦。目の前の現実を受け入れられない列席者。神父は神に祈りを捧げ、子供達ですら空気を読んで口を噤んでいるというのに、その空気を彼自身の叫びが切り裂いた」
「『式前にトイレに行くよう言ってくれなかったママが悪いんだーっ!!』」
両手で顔を覆い、大袈裟なほどのアクションで叫び、蹲る千華の姿を、三人は口元を戦慄かせて見るしかない。
だが、千華はすぐに立ち上がり、不自然なほど平坦な声で言った。
「…っていう、実話よ」
時が止まる。
開いた窓の外、校庭で遊ぶ子供達の声が聞こえた。
「…………え?」
「実話よ」
「え?」
「そして…誰の未来なのかしら…?」
「「「っ!?」」」
くすり、と笑った千華に、三人は目を見開いて固まる。その時、扉が開いた。
「あれ?千華どうしたんだ?」
「お兄ちゃん、この本千華の方に入ってたから持って来たの。午後の授業に必要なんでしょ?」
「あ、サンキュー。わざわざ悪かったな」
「ううん、じゃあね」
さっさと帰って行く妹を見送り、そしてやっと教室内の空気がおかしい事に気づく。
妹と一緒に居たのが、いつも何かと絡んで来る三人組で、彼等が何も言って来ないのも不思議だ。
「おめーら…」
「し、新一!」
「へ?」
話しかけようとすると、蘭と園子に強く引き留められた。
「今はそっとしといたげなさい…」
「そうだよ、新一今は…」
「流石元大女優の娘ってとこね…恐れ入ったわ…」
「へ?」
「「ひっ」」
何が?と聞き返そうとした新一の肩ががっしりと捕まえられる。
「は?な?え?」
「工藤、それからどうなるんだ…?」
「な、何がだよ??」
「職場の関係者だけじゃなく、親戚や学生時代の奴らもいて、それからそいつ、どうなったんだ?」
「だから、何がだよ!?」
「ふざけんな!奥さんとはどうなるんだよ!?」
「だから、何の話なんだよ!?」
新一の叫びと共に、昼休みの終わるチャイムが鳴り響いた。
食後のまったりとした時間をリビングで寛いでいた工藤一家は、本を読みながら歌い出した千華に注目する。
あなたが好きだから それでいいのよ
たとえ一緒に街を 歩けなくても
この部屋にいつも 帰ってくれたら
わたしは待つ身の 女でいいの
「…なんだ、その歌…」
「こないだママがかけてた昔の歌。探偵の彼女や嫁の心得っぽいな、と思って歌ってみた」
返った答えに虚を突かれ、新一の手からぽろりと文庫本が転がり落ちる。
「は?…え?なんで?」
「だって、探偵って身分を隠して捜査するじゃない?捜査対象だけで無く、いつ誰に見られているのか分からないんだから、恋人と出かけたり嫁や家族に家族サービスとか出来ないんだろーなって思って。ね?ママ」
「そうねぇ、危ない事件や人質にされたり巻き込んだりしない様に、外では他人のふりをするしか無いのかもしれないわねぇ。そう考えると奥様も辛いでしょうけど、探偵って孤独な仕事ねぇ」
「え?でも…」
考えたことも無かった事を言われ、新一の目がうろ、と父の姿を探す。
「パパも探偵業ちょっとしてるけど、裏の危ない事には首突っ込んで無いよね?ママの知名度なら狙われ難いけど、組織だった裏家業の人達には関係無いし、その辺はちゃんと気をつけて警察に協力してくれてるでしょ?今は推理ショーもしてないし」
「もっ、もちろんじゃないか、千華!有希子も安心してくれ」
「頼もしいわぁ、優作さん!」
ちょっと優作の声が上擦っていた気がするが、ここはスルーするが吉だろう。
何か問題があっても、早急に調整してくれるはずだ。
「それに、パパがお友達少ないのも、自分が事件に関わっているからでしょ?お出かけするの、ICPOとか事件関係の人ばかりよね?」
末っ子の素朴な疑問に、リビングが静寂に支配された。
「……パパってお友達、いないのね…」
娘が溜め息交じりに呟き、息子が縋る様に父を見上げる。
その瞳が、探偵になると普通の友人は持てないのか、という悲しみに満ちている。
「い、いるぞ!?パパのお友達は世界中に沢山いるよ!?」
「…事件に関係の無いお友達は…?」
娘の残酷な問いに、父はキュッと口を閉じ目を逸らした。
「…そう、やっぱりパパは、そのお友達とも人の死に方や遺体の損傷や殺人トリックをお話ししながらお酒を飲むのね…」
血生臭そうなつまみね…と娘が呟く。
優作は徐に携帯を取り出した。
「……………樫村!この留守電を聞いたら折り返し…て、出れるなら直ぐに出ろ!」
相手は留守電の途中で出たらしい。
「こんな時間まで残業してるのか?お前、確かお子さんまだ小さかったろう?寂しがって…は?離婚した!?奥さんのご両親は!?…そんなもの、嫁の両親が健在なら父方が親権を取れる確率が低くなるからだろう!……知らずに離婚裁判に挑んだのか!?…何故その時連絡してこなかった!?」
声を荒げる優作に、新一と千華は顔を見合わせる。
「こんな時間まで残業して帰れないような父親に、裁判所がそう易々と親権を渡してくれるものか!…は?連絡がつかない?元嫁に?…子供にもか!?分かった、もういい!私が居所を調べるから、今分かっている状況だけでも全てこちらに送れ!…一週間だ!一週間でお前の子供を見つけてみせる!…ああ、また後でな」
荒々しく電話を切り、くるりと家族に向き直る。
「父さんは少し用事が出来た。これから少し忙しくなるけど皆は気にしなくていいからな?」
それだけ言うと、返事も待たずに颯爽とリビングを出て行った。
「…パパ、普通のお友達、居たのね…」
「居たっつーか、思い出したってーか、絞り出したっつーか…まあ、居たでいいか…」
「うん。あんなに必死なんだから、居たでいいよ…ママは知ってる人?」
千華の問いに、有希子はにっこり微笑み沈黙を守った。
「あの、樫村ヒロキですっ。よろしくお願いしますっ」
緊張した面持ちで工藤家を訪れたのは、優作の大学時代の友人だという樫村親子だった。
ドヤ顔の優作の隣で苦笑している樫村父に、親しい友人だったということは間違いなさそうだと胸を撫で下ろす。
無理矢理連れて来られた訳では無さそうな雰囲気なので、優作の一方通行友情では無いのだろう。
「初めまして、オレは工藤新一です」
「妹の千華です。よろしくね!ヒロキ君って呼んでもいいかな?」
「はいっ」
元気に返事をしてくれたヒロキは、まだ九歳だと言うのに、新一や千華よりもずっとITに造詣が深く、色々教えて貰い、かなり楽しい邂逅となった。
小学生に知識で全く歯が立たなかった新一はかなり悔しがり、また遊びに来いよ!と約束を取り付け、驚きながらも照れさせることに成功し、父’Sの優しい眼差しを浴びていた。
有希子と千華の心尽くしの夕飯を一緒にし名残惜し気に別れたが、きっと今後末永く付き合える仲になるだろう。
優作も旧友と事件の関係無い親交を温められて嬉しそうだった。
ただ一人、有希子だけは自分の友人の子供と千華の親交が大失敗しているのを振り返り、少し遠い目をしていたことは、新一と千華の胸に収めておくことにする。
「…そーいや、千華。父さんの友達がどうとか話した日に、探偵の嫁とかの歌歌ってただろ?」
「うん、歌ってたねぇ」
「あれ、何て歌だった?」
「テレサ・テンの『愛人』」
「………」
知らなくていいことは、結構多い。