51 慈雨のせつなさ
アルバートはめまぐるしい回想をへて、砂漠の逃避行をもう一度最初からなぞっていた。
城郭都をほうほうのていで脱出し、盗賊団の追尾をおそれてひたすらに砂を蹴って走りつづけて、精も根も尽き果てる頃、ようやく休息がとれそうな大きな珪化木の影までたどりつき、そこから炎上する都市をかえりみていた。
遠景として一本のろうそくのともし火状に燃え盛る城郭都は、やがてうずまく炎のかたまりとなり、まるで世界の終わりを告げる鳥のように天高くたち昇って燃焼した――。
「なんてことなの……」暗い夜にうかびあがる黄色い炎の柱をみつめながら、ルイが口をゆがめる。「これじゃ――もう……」
「いや、まだだ」ディレンツァがルイをみる。
ルイの感嘆のさきを読んだらしい。
これじゃもう終わりだわ――ルイはそう履き捨てそうになったのだ。
「まだアルバート王子がいる。沙漠の国は終わっていない」ディレンツァの声には感情がなかったが、そのぶん説得力があった。
しかし、ルイがうなずいている横で、アルバートはもう何度目かの強い無力感におそわれていた。
ひどく眠気があったし、生まれ故郷が炎のうねりに焼かれている現実感はほとんどなかった。
どこか夢のできごとのようにも感じられた。
アルバートは足腰にちからが入らなくなってきたため、ゆっくりと地面に坐りこんだ。
そして意味もなく自分の手のひらをみつめた。
「――休もう」それをみて、ディレンツァが目を伏せた。「夜明けまえには出発するが、少し落ち着きたい」
それぞれが思い思いのところに腰かけた。
「あの連中はなんなの……?」「あれは〈鹿の角団〉という裏組織だ――」「なにが目的なの……?」「〈伝説の宝石〉という魔石のかけらを――」ルイとディレンツァがぽつぽつと会話をしていたが、アルバートにはやがて聞こえなくなった。
少しさきの砂をみつめていると、目の奥が熱くなり、だんだん視界がにじみ、それにともなってあたまもぼんやりしてきた。
アルバートはずるずると砂地に仰向けにねころがった。
すると満天の星空が目に入った。それがあまりにもきれいで、まるで地上で起きていることなど、ごくちいさなことのように感じられてきて、なんともいえずせつない気持ちになった。
そして、気づかないうちに眠りについていた……。
しばらく経ったとき、それが夢なのか現実なのか判然としないところで、頬に雨粒を感じて一瞬だけ覚醒した――。
目を開けると、ぼんやりした視界はうすい灰色にそまっており、夜空は曇っているようだった。
それでも背中が砂地に貼りついてしまったかのように動く気力が湧かなかった。
気力がないせいで、そもそも起きているのか眠っているのかわからなかった。
全身がだるいものの、特定の痛みはなく、どこか無感覚だった。
それでも雨粒がひとつ、もうひとつと落下してきて、アルバートの顔にあたる……。
そのとき、アルバートに浅い夢のような記憶がよみがえった。
あるいはそれは思い出ではないのかもしれない。事実だったとしても、アルバートがそれをじっさいに明瞭にみたはずがないものだから――。
それは、雨の日のことだった。
アルバートはまだ乳児であり、毛布につつまれて母親の腕に抱かれて眠っていた。
そこは沙漠の国の宮殿の最上階にある一家の自室であり、出窓からは灰色の空と遠い西の空の真っ黒な雨雲のかたまりがみえる。
雨は午前中からふりつづけており、昼をすぎてもやむ気配はなかった。
尖塔につけられた国旗用のポールのわきに、雨宿りする二羽の鳥がいた。
雨の音がした。
雨が屋根を際限なくたたいていた。
そして、雨樋をつたっていくせせらぎのような音がさらさらとひびいていた――。
風読みの予報がはずれ、急な雨になったため、予定されていた父親の外出公務は延期になり、つかのまの家族のだんらんがおとずれたのである。
アルバートは母親に抱かれ、母親は籐椅子に坐っていて、父親は窓際の長椅子に腰かけていた。
母親が父親になにか話しかけ、父親が低い声でそれに応え、母親が微笑する。
その雨だれのような応酬がぽつりぽつりつづいて、部屋は落ち着いた空気に満たされ、世の中にはまるで悩みや不安など少しも存在しないかのようだった。
雨の音と、雨樋の流れと、低く安定した父親の声と、母親のかろやかな笑い声がまざりあい、アルバートは浅い眠りのなかで深く大きな平穏につつまれていた……。
いつまでも尽きることのない安心感――いつか、大人になることで忘れてしまっていた、その圧倒的な慈愛を、アルバートはそのとき、あらためて実感したのである。
こころの深層において、雨だれや雨樋を好んでいた理由を、アルバートはようやく思いだしたのだ。
「だから雨の音が……好きだったのかな。ずっと、そんなこと忘れていたんだけど」
アルバートは半笑いのまま、まるでかかしのようにかたまっていたが、記憶を呼びもどしたことで発作のように身体をふるわせる。
「――ほら、大事なことだって忘れてしまうでしょう?
雨だけじゃない、王子が好きなものは好きな理由がぜったいにあるんだ」
王座についていたはずのコパンが、気づけばすぐ目前まできていた。
「あ、う……」
アルバートはまるで双眼鏡をもつようなポーズでのぞきこんできているコパンに言葉が返せなかった。
「王子につらい想いをさせたかもしれない。でも、きっと王子は大事なことを思いだしたはずだよ」
コパンはすぅーと息を吸う。
二股のとんがり帽子もすぅーっとゆれた。
「人間にとっては、忘れるってことも本質的な能力のひとつさ。そのおかげで生きつづけられるっていう要素もとっても大きい。なにからなにまで忘れずにいたら、だれもが例外なく気が狂ってしまうだろうしね。
だけど、生き延びるためだったとはいえ、王子はその能力で必要な記憶にまでふたをしてしまっていたんだ。
ねぇ、わかるかな? 王子は愛されていたんだ。いまだけでなく、昔からずっとね」
子どもの頃からいまにいたるまでの歳月を想い、アルバートはうつむく。
コパンの巻き靴がぐるぐるとまわってみえる。
多くのできごとを思いだしては忘れていったが、最終的に目に焼きついて離れないのは、幼いアルバートをのぞきこんでくる両親のまなざしだった。
そこには父親と母親の、言葉にできない感情があふれていた。恐怖、不安、緊張、困惑、哀愁、そして興奮、慈しみ、それから期待……読みとろうと思えば、もっとたくさんあるだろう。
どれも言葉にすれば陳腐なものかもしれない。
しかしそれらはただひとつの意味――すなわち、アルバートが生まれたことを喜んでくれたという事実にほかならなかった。
「王子は王子として生をうけたけれど、重い鎖をくくられずに済んでいたように思う。王子は一国の嗣子となるよりもまず健やかに、そして慈悲深い精神をもって育ってほしいと望んでくれた両親の想いを汲みとるべきなんだよ」
うれしさや恥ずかしさ、もどかしさや心細さが腹の底からこみあげてきて目の奥がじんと熱くなる。
かえりみて、だれのことさえ思慮できていない、あまりにふがいないみずからの生きかたに、アルバートはこらえきれずに嗚咽をもらした――。
静まりかえった広い宮殿で、アルバートの泣き声だけがひびいていた。
佇立していることさえままならないぐらい自制心ははたらかず、涙はとめどなくあふれ、やるせなさは果てしなく流れだしていた――。
ずいぶん長いあいだ慟哭していたけれど、まるで時間が無限にひきのばされたかのように、宮殿内は変わらないままだった。
そして、アルバートが泣きやんだあと、宮殿はまるで広いみずうみのほとりのように静かだった。
「うしなったものを嘆くことはだれにでもあることだよ」
すぐ目の前にいるコパンの瞳に、アルバートが映っていた。
「泣くのはいいことさ。どんなときでも涙はきみをひきとどめさせ、あるべきところへみちびいてくれる」
コパンの瞳のなかのアルバートが洟をすすった。
「大事なものを傷つけたり、大切な人を泣かせたりしながら生きてきたのはきみだけじゃない。だれもが傷や痛みをかかえて生きているんだ」
コパンがにっこりする。
「もうもどれないことをせつなさという。そして、せつなさが人生の本質なら、きみは正しい道を歩いた――」
コパンが差しだした両手を、アルバートはゆっくりとる。
ちいさなコパンにすがるようにして小刻みに身体をふるわせているアルバートは、急な雷雨のなか大樹のもとに避難した孤独な旅人のようだった。




