50 茫漠とした霧の向こう
「――ふうむ」鼻についた赤いポンポンも冗談にみえないぐらいまじめな顔でコパンが腕組みする。「針の穴をぬけるような脱出劇だったみたいだけど、ところどころしか憶えていないんだね」
「ええ……ルイやディレンツァのおかげなんでしょうけど」
アルバートはあらためて回想すると、思っていたよりもずっと精神的に不安定だったことを実感した。
命を賭けた逃走をしていたという感覚があまりにも希薄だったのである。
明確に思いかえせることといったら、ルイがのぞきこんできたときの不機嫌そうな顔だったり、休憩で坐りこんだ砂地の感触だったりといった、雑然としたどちらかといえば瑣末なことばかりだった。
「そこからさきは――?」
コパンは目を細める。
遠くをみるような目でアルバートをみた。
少しだけ責められているような気持ちになってアルバートは少したじろぐ。
――翌早朝に出発し、ディレンツァの采配にしたがって砂漠の民の集落をめざした。
太陽が昇ると熱射に体力消耗もはげしく、飲み水も充分になかったため、過酷な強行軍となった。
ディレンツァの記憶だけを頼りに進んだが、少人数(しかも徒歩)ではあまり踏みこまない砂漠東部だったため、予想どおり時間との戦いになった。
いつもの臆病なアルバートなら恐怖との戦いにもなっただろうが、そこは精神的ショックで自分の殻に閉じこもっていることが幸いした。
ルイにときどき叱咤されたことぐらいしか、いやな記憶はない。
「――まぁ、こころがどのくらい病んでいるかって、自分でもわからないことは多いとは思うね。
砂漠の話のときに雪にたとえるのもあれだけど、雪がふるみたいに少しずつ積もっていったストレスの重みが急に動けないほどの負担に感じられるようになるっていうこともあるし。
だけど、王子の場合はつらいところもふくめて忘れていられたみたいだから、幸運といえば幸運だね。そういっちゃ失礼なのかもしれないけど」
コパンは鼻で息をスゥーと吸う。
「そう……ですね」
その翌日の夕方に飲み水が尽きてしまった。残念ながら当初の思惑がはずれ、砂漠の民の集落をみつけることはできず、ディレンツァの顔にも若干の焦りがみえだした。
ルイは露骨に苛々しており、アルバートはあいかわらず現実逃避していた。
夜のあいだは冷えこむため水不足は問題にならなかったが、太陽が顔をだすと気温はどんどんあがり、乾燥した西風がたたきつけるように吹きつけてきた。
アルバートはディレンツァとルイの背中をみながらひたすら歩くことになった。
くちびるは渇いてひびわれ、のどに痛みがあり、砂風で目も開けづらいため、ぼやいていたルイさえもやがて黙るようになった。
長年歩き慣れていた砂地で、足をとられるようになった。
星座の位置で確認しつつ、見当をつけて進路をとったが、三日目の昼過ぎまで前進してみても、砂漠の民の集落を発見することはできなかった。
「せっかく生き残ったのに――」ルイのつぶやきが皮肉にひびいた。
不運がかさなり、砂嵐にも見舞われた。
砂の丘ははげしく波うち、陽の光さえにじむような砂塵で視界はほとんどなくなった。
ディレンツァが防備の魔法をとなえてくれたが、風量がこころもち緩和されたぐらいで、あまり効果はなかった。
目や耳、鼻の穴にいたるまで細かい砂がまぎれこんできて、ルイの悲鳴が聞こえたが、すぐそばにいるのになにをしゃべっているのかは聞きとれなかった。
嵐のあとは苛烈な熱射が襲ってきた。
ルイも悪態さえつけないぐらい疲弊していた。
アルバートにいたってはすでに衰弱にともなう意識混濁があり、目前のルイのうなじすら蜃気楼の向こうにあるようにみえるときがあり、もはや順序だてて思考できる状況になく、気づいたら砂地にひざを折っていた。
ルイも限界を迎えており、外套をテントのようにしてあたまからかぶり、坐りこんでいるようだった。
もはや言葉さえも思いつかず、熱風で水分をうしなったのどでは話すこともできなかった――。
じっさい、アルバートはその直後に意識をうしなっており――つぎに目を醒ましたとき、顔に水をあびせられ、目を開けると知らない男がアルバートを見おろしていた。
浅黒く、前歯が欠けており、深い笑いじわのある壮年の男だった。
「なんでぇ、ふしぎそうな顔してら」
男は笑った。
男のわきにはディレンツァがいて、目前ではルイがべつの男からおなじように水をあたえられていた――。
「――よかったねぇ、衰弱死しなかったんだ!」
コパンは鼻のあたまのポンポンをふんふんふりながらうなずく。
笑わそうとしているのだろうが、本気でよろこんでくれているようにもみえて、アルバートは反応にこまる。「ええ、ディレンツァのおかげですね」
うずくまり動けなくなってしまったアルバートたちを残してさきに向かったディレンツァが、砂漠を横断中のキャラバンをつれてきてくれたことを理解するのに、たっぷり30秒はかかったが、ルイが興奮した顔でふりかえり、呆然としているアルバートをみて微笑をうかべたとき、アルバートにもようやく助かったという認識がうまれた――。
キャラバンは王都から出発し、〈ひざまずく者の山〉経由で草原の国に入り、ひとしきり行商したのち、ふたたび〈ひざまずく者の山〉の東部をまわり、砂漠に入って、オアシスで逗留していた行商連隊だった。
王都の商工会に所属しており、大小10のグループを形成し、護衛兵も雇っている大規模な組織で、ディレンツァが遭遇したのは貴金属商の小隊だった。
キャラバンはディレンツァからの情報提供のおかげで沙漠の国行きを中止し、道筋を王都にもどすことにした。
「危険回避できたうえ、無駄も省けて助かったぜ」と商人たちは笑い、仲間の隊に進路変更の伝令をだした。
そして情報の見返りとして、アルバートたちも行けるところまで馬車に同乗できることになったのである。
いずれもディレンツァが交渉してくれた。
くわえて、あとから聞いた話だが、このときべつの小隊が〈鹿の角団〉と思われる男女二人に(水や食料などの)日用備品を販売し、その二人が草原の国の〈月の城〉をめざすと話していたという情報もディレンツァは仕入れていたのである。
「――王子はそのあいだ、やっぱりずっとぼんやり、もやもやしていただけなんだ?」
コパンは目を細める。
「そうですね……当初は虚無感ばっかりで――ルイに説得してもらったり……なんていうか冷静になれたのは草原の国に入ってからかもしれないです」
落ちのびて以降の行動において、アルバートはいちばんの当事者でありながら、つねに提案される側だった。
〈伝説の宝石〉を収集し、ハーマンシュタインの野望の阻止と祖国の復興を同時に果たすという案を思いついたのもルイだったし、それを承認し現実的な目標設定をしてくれたのもディレンツァだった。
アルバートはいつも尻をせっつかれ、自発的というよりは強風にとばされるようにして進んできたのである。
旅路をかえりみても、アルバートが正気をとりもどしたと実感するまでにはそこから10日間以上――キャラバンとともに砂漠と山脈を越えて、隊から離脱し、草原の国の〈星のふる丘の街〉あたりに到着するまでかかったといえる。
コパンはよろよろとふらつく演技をして、世界樹製の王座にどっかりと腰かけて天井を仰いだ。「やれやれ、従者さまさまだね!」
愛想をつかされているようなせりふと動作だったが、道化の恰好と小柄な体型もあいまって、アルバートはかわいらしいと思ってしまった。
コパンは右手の小指で眉間をかく。
「まぁ、そこからはわりと詳しく聞いているよ。〈星のふる丘の街〉ではうまく馴染めて調子よかったけど、〈月の城〉では盗賊たちにさきを越されちゃったんだよね。そのあと〈はずれの港町〉でもギャングの少年二人を助けたけど、漂流船にあった宝石のかけらは手に入れられなかった。それで火の国の王子たちと合流してずいぶん無謀な内海渡航をこころみて、いまにいたる――と」
「そうですね。よくご存知で」
「こうみえても王さまの代理人だしね」
コパンは王座に深く坐り、肘掛に両腕をのせる。
手足が短いため、ヘビのように巻かれているとんがり靴はぷらぷら宙に浮く。
そうやってコパンはしばらく靴をぶらぶらさせた。
「――ぼくの個人的な感想だけど、王子はやっぱり幸運だと思う。
もちろん、世間からすれば王族なんていう星のもとに生をうけている時点で運がいいに決まってるんだけど、ぼくが言いたいのはそういうことではなくてね。
ぼくが考える強運っていうのは、当人のあずかりしらないところで行動や時機がきっちりハマるってことなんだよ」
コパンはいったん深呼吸する。
「人間だれしも生きていればいろんなことがある。それは太陽王だろうが、路地裏の飲んだくれだろうがおなじことでね。
要するに、運がいいっていうのは、不幸な目に遇わないってことじゃないわけ。
なにか困難があったときに、ふさわしい瞬間に、そうでなければ生き残れなかったってあとから驚くぐらいの方法でうまくたちまわれるっていうことなんだよ」
アルバートはどう応えていいかわからず半笑いになる。
困惑したときの常套反応だった。
「――王子は救いようもなく情けないし、ふがいないし、威厳も貫禄もないけれど、そのおかげもあって、おおむね他人から好かれているように思う。
良い面と悪い面っていうのは表裏一体だし、みる角度によって変わるものなのかもしれないけど、でも、王子のその特性は独特のものだし、なんていうか、かけがいのないものだと思う」
コパンのゆれていた靴がとまる。
いっしょに鼻のポンポンもとまった。
「そう、個性っていえば語弊は少ないのかな。性格でもいいんだけど。
つまり、王子の運のよさはきっと、王子の個性に由来するものだとぼくは考えているわけ。わかるかな。
それでね、ぼくは思うんだよ、個性っていうのは生い立ちとか、生きかたとかも無関係じゃないってね」
コパンはじっとアルバートをみていた。
その瞳に半笑いのアルバートが映っている。
「王子にその個性をもたらしたものは、なんだろう。あるいはだれだろう。
ね、きっと王子は大切なことを忘れているんだよ。
草原の国で冷静になったっていってるけど、いちばん重要なことを失念しているんじゃないかと思う。
よく思いだしてごらんよ。きっと、王子はいろんなものをみていたはずなんだ――」
コパンが話し終えると、宮殿は急に静かになった。
まるですべての音が暗闇に呑みこまれてしまったかのように――。
アルバートは半笑いのままかたまっていた。
やがて、沈黙があまりにも重くのしかかってきて、その重みで体内のなにかが押しだされるような感触を味わう。
身体全体がぐにゃぐにゃなゴムのようになり、あたまからまるめられ、つぶされて、足さきからずぶずぶと中身がでてくるみたいに……。
アルバートはものが考えられなくなってきた。
思いだそうとしているのに、まるで茫漠とした淡い白い霧のようなものが周囲にたちこめているみたいだった。
そして、そのぼんやりとした濃霧の向こうに浮かんでくる光景は――砂漠だった。
生まれ育ち、好きになったり嫌いになったりして、やがてそのどちらでもなくなって、最終的には離れなくてはならなくなった砂の世界だった――。




