35 欠けた月の夜
ザウターは目前の光景に、沙漠の国に夜襲をかけた夜を思いだす――そのとき、沙漠の国の公都はどこかよそよそしい晩春の風に吹かれていた。
初代レヴァス侯爵が築きあげた大城郭は、まるで子どもの悪ふざけでくずされた砂の城のように、一瞬にして西部の半分以上が崩落した。
深夜、市民たちは火山が噴火したかのような爆発音と、この世の終わりのような地響きにおそれおののき、パニックを起こした。
そして、はりめぐらされた環濠を、くずれた城郭のブロック片が埋め尽くしたことが、ハーマンシュタイン卿率いる反乱軍の進軍を容易にしたのである。
沙漠の国の夜襲の序開きは、あまりにも騒々しく荒々しいが、確実で効果的なものになった。
ハーマンシュタイン卿がティファナを介して召喚した土の獣は、その役割を果たしたことで満足げに鼻息をもらし、幻獣の世界に還っていった。
それでも周辺一帯の大気はびりびりとした緊張感をはらんだままだった――。
それからハーマンシュタイン卿の手引きによって西城郭より、徴用された傭兵やならず者で構成された非正規軍が突入していった。
ほどなくザウターの耳にも対抗勢力である警備兵や騎士たちの怒号や、逃げまどう女たちの悲鳴が聞こえてきた。
ザウターは予定された行動として、精霊王の召喚によって疲弊し、砂上でぐったりとしているティファナの頚下に左手を入れて上体を起こす。
魔力に過度にかかわったとき、ティファナはすぐに眠ってしまう習性があるが、このときはただ寝ているだけでなく、あきらかに憔悴しているのがわかった。
全身汗ばんでいるのに首筋は冷えて、顔色もわるく、呼吸も弱い。
月夜のもとで、胸もとの血管が蒼白くうかびあがっていた。
ザウターは右手で小瓶をとりだした。
紙ぶたがしてある茶褐色の瓶である。
器用に右手の親指とひとさし指でひもをほどき、ふたをはがすと、神聖文字が複雑に書かれた羊皮紙がひらひらと風に舞い、とんでいった。
瓶の液体の精霊力をたもつために魔力が付与された用紙だった。
水の国の一部の地底湖の深層水は、妖精たちが棲む森の精霊力の影響で、通常の薬草にはないたぐいまれな治癒力があり、それを用いた秘薬は入手と品質の維持がとても困難なために貴重で高価なものだったが、今般の夜襲のためにハーマンシュタイン卿が、水の国のはなれ島の富豪から購買したものである。
瓶をティファナのくちびるにあてがうと、口もとから少々こぼれたものの、ほぼすべて飲ませることができた。
のどを通りすぎるさい、一度だけちいさくむせた。
するとまもなく、ティファナは目にみえて血色がよくなって肌が桃色にそまり、首すじに汗をかき、肩で大きく呼吸をし、まるで全身から熱を発するようにうちふるえはじめた。
それはまるで野性動物が発情しているようにもみえなくはなかった。
どこか蠱惑的で、それゆえに生命力にあふれている。
発汗したティファナの熟れた果実のような馥郁たる香りがザウターの鼻をつき、ややとまどいをおぼえた。
やがて痙攣が終わると、ティファナはゆっくりと目を開けた。
瞳は驚くほど黒く、まるで遠い宇宙のようだと感想をいだいたザウターがそこに映っている。
ティファナはにやりと笑顔になった。
にやりというか、にたりに近い。
それはどこかザウターが見知ったものではなく、気のせいかもしれないが、だいぶ大人びた面差しにみえた。
ハーマンシュタイン卿がとなりにやってくる。
全身甲冑と外套を身にまとっているため、まるで擬人化された甲虫のような印象をうけた。
「――いけるか?」
その問いかけにザウターがうなずくと、ティファナがスッとたちあがった。
血の気をうしなっていた肌が熱をとりもどしたことが、目線の高さにあるティファナの脚でわかり、ザウターもゆっくりたちあがる。
ティファナは腰に巻いていた〈銀の鎖〉をするりとはずし、それをなでるように右手から左手にもちかえる。
まるで鞭の具合を確かめる調教師のようだ。
ザウターとティファナがこのあと指揮することになるのは、不死の軍隊だった。
ハーマンシュタイン卿は〈鹿の角団〉から離脱するさいに多くの〈太古の遺産〉――マジックアイテムを窃取したが、そのなかにかつて死霊魔術の研究で〈魔導院〉を破門された魔法使いギレロの遺した秘宝〈影占いの書〉があった。
名まえだけだと書物のようだが、古代文字の刻まれた銅版画で、精霊にはじまり死霊、悪霊を出現させるほか、不死者や死者の影などを集結させることができるという呪われた品物である。
ハーマンシュタイン卿の配下に、いわゆる闇属性の魔法使いもいたが、今度の任務にはザウターとティファナしか選ばれなかったため、卿みずからがあつかうことになったのだ。
ザウターはギレロの弾劾文章を読んだことはないが、察するに生命を軽視し、死を翻弄しているところが問題視されたにちがいない。
おそらくは、闇の魔法使いギレロがそれを用いたであろうやりかたで、ハーマンシュタイン卿が銅版画をかかえ、しかるべく古代文字を朗誦すると、まるで周辺の時間や空間が支離滅裂になったかのような錯覚をおぼえる――。
すると、近くの沼地から吸血鬼とともに、毒や病原体をもった腐乱死体がたちあがり、林からは邪悪な妖精にみちびかれて、低知性の食屍鬼たちがうなり声をあげながら顔をみせ、闇の向こうからは骸骨戦士の群れが二刀流のサーベルをぎらつかせながら、それを統率している火球の悪霊とともに現れた。
夜空では、高度魔法や禁呪に失敗して死亡した魔法使いの魂の群れが、怨霊たちとまじわってけんかしており、地上にいる武装した幽鬼たちがそれをゆびさして哄笑している。
ザウターに関心をもち、数人の食屍鬼が近寄ってきたが、その体臭とぎょろぎょろした眼、ゆるい口もとなどの醜悪さに、ザウターは身をひきそうになる。
「さ、おでかけだよ!」
すると、ティファナがいつもよりもかん高い声で叫び、するりと首なしの馬四頭にひかれた戦車に乗りこんだ。
首なし馬をあやつるのは戦車の先頭に坐っている首なし騎士で、ティファナはその騎士にたすきがけに〈銀の鎖〉をからめて後部座席に坐りこんだ。
あやつり人形をさらにあやつるような構図である。
ティファナは嫣然とほほえみ、ザウターをうながすため座席のとなりをバンバン叩く。
戦車に乗りこむさい、首なし騎士が片腕にかかえた(おそらく騎士の)首がなぜかザウターにウィンクしてきた。
戦車が勢いよく駆けだしたあと、ちらりとふりかえってみたが、ハーマンシュタイン卿のすがたはもうみえなくなっていた。
あらくれ馬四頭がひっぱる戦車は、はじけとぶような勢いで城郭内に侵入した。
そのさいに味方であるはずの骸骨戦士や幽鬼たちを数体ばらばらに蹴散らしてしまったが、ティファナは大笑いしただけだった。
「あは、ごめーん!! でも、クラッカーみたいでおもしろいねぇ!」
公都はすでに戦場だった。先行部隊の非正規軍たちによって建物に放たれた火が、沙漠の国の騎士や戦士たちの恐怖をあおり、つづくアンデッドの軍勢の出現がそれを助長した。
黒煙がうずまくように夜空にたちのぼり、うねるような火柱がそこかしこにたちあがった。
ティファナが「ハイヨー!」と声をかけると、右先頭の首なし馬がするどくひづめをかかげ、非正規軍と死闘をくりひろげていた沙漠の国の戦士のあたまをかち割った。
味方から歓声があがる。
「あはは、まるでトマトみたいだね!」
脳漿をふきだしながら地面にたおれこむ戦士を横目に、ティファナが黒猫のようにほほえんだ。
欠けた月のもとで殺戮は容赦なくつづいた。市民たちの悲鳴や慟哭、断末魔のひびくなか、ザウターとティファナは市街をジグザグに移動しながら、巨大な手にまねかれるようにして王宮へと向かっていった――。
「……ふぅむ」
アルバートの目前で道化師コパンは、いかにもまじめそうに両腕をくんだ。
とても真摯なポーズなのだが、ふしぎとふざけているようにもみえる。
100年祭の予行祭参加と王都めぐりの外遊をへて帰郷を果たしたまさにそのとき、沙漠の国の城郭が遠くにかすんでみえるぐらいの高台の丘で、アルバートの使節団は野営をしていた。
日暮れ以降も馬車を走らせれば、深夜には到着できる距離だったが、ディレンツァの判断でひと晩休むことにしたのだった。
夜の砂漠行は楽ではないのでだれも反対しなかった。
「とにかく、夜になって異変に気づいたと」コパン片眉をあげる。
「ええ――もちろん、ぼくじゃないんですけど。ぼくなんかは星空がずいぶんきれいだなって、そんなこと思って寝転んでいたぐらいなんで……」
じっさい、そのときの星空はとても澄んでいた。
「野宿しているならそのぐらいのほうが自然だよね」コパンはにんまりする。
「まぁ、そこで突然、ディレンツァが近くにきて、けむりの匂いがするって――」
「へぇ、ディレンツァ宰相はオオカミみたいだね」コパンはポンポンのついた鼻をひくひくさせる。「焼き討ちを遠くから嗅ぎあてるなんて!」
鼻炎がひどいアルバートはもともと嗅覚が頼りないが、仮に鋭敏な鼻をもっていたとしても、あのときのアルバートにはそれは勘づけなかったにちがいない。
母国が夜襲に遭うなど夢にも思わないからだ。
いつも真顔のディレンツァがいつもよりも深刻そうだった。
そのせいでアルバートは満足にうなずくことさえできなかった。
「王子、すぐ城にもどらなければ」
「え、あ――はい」アルバートはもぞもぞとたちあがる。
ディレンツァは使節団員たちとすぐに会議をはじめたが、内容はあまり聞こえなかった。
身のまわりの荷物を片づけていると、ディレンツァたちと馬車の準備がさきにととのってしまい、アルバート待ちになりどぎまぎした。
不謹慎なのだろうが、そのときアルバートの中枢を支配していたものは謎の億劫さだった。
祖国の異変よりも、なにか新しい厄介ごとがはじまり、それが自分とは無関係のところで起きて、かつ巻きこまれているという情況につかれ、意識がぼんやりしていた。
それでも出発し、馬たちに全力で鞭をうち、公都が近づいてくるにつれ、無言で街をにらむディレンツァの横顔や、崩れ去っている城郭、たちのぼるまっくろなけむりと無数の火柱に事態の深刻さが認識されてきて、アルバートの憂鬱感も息をひそめた。
なにか途方もないことが起きている――そんな事実が足もとをぐらつかせ、アルバートを暗い穴に叩き落とそうとしていた。
「王子、私から離れないように――」
金属板がはがれ、鉄枠がねじまがり、材木がへしおれて残骸となった城門から領内に入るとき、ディレンツァが低い声でささやいた。
言葉よりもその声でとても安心したのを憶えている。
そこから運命の嵐が去るまで、まるで悪夢のなかにいるようだった。
アルバートが固まっているので、コパンは目を細める。
どんなつらいできごとにも、それなりの救いはあるのではないか、あとになれば光明だったと思えるような救いが……コパンはそんな発言をしようか迷ったが、結局アルバートの自発的な発言を待つことにした。
まさに地獄というなら、そうだったのかもしれない。戦場を経験したことのないアルバートには、敵軍の悪念でおおわれた沙漠の国はあまりにも醜悪で、むごたらしく、穢れたものだった。
規則や慈悲はうしなわれ、原始の混沌がうずまいていた。
遭遇したモンスターたちは殺戮の歓喜にみちあふれ、非正規軍の人間たちは法の束縛から解放され、われを忘れているようだった。
しかし、ふとアルバートの脳裏にルイが浮かんだ。
ルイに初めて出逢ったのも、その夜のことだった。
ルイもまたそのとき、猜疑心と恐怖心、それから殺気にあふれる目つきをしていたのだ――。




