1 空想の鳥(第一楽章)
だれも顔さえしらないし、きっとどこにもいきはしない
でもなんでもしっている、しらないことなどきっとない
どんなにこそこそしていても、きみのつぶやき聞いてるよ
だれをも照らす光をまとい、手足を世界にぐるりとまわす
太陽の申し子だけど、それはまるで影のよう――(わらべうた)
まるで繭みたいな沈黙が場を支配していた。
それは厚みと重みをもつ白い雲がたちこめた空のような沈黙である。
やがて、その雲をつきぬけてとぶ鳥のように、自然に、なめらかに、チェロとコントラバスの演奏がはじまる。
鳥はやがて、たなびく雲の向こうに、天をつくような山々をみる。
けわしく厳しい山嶺の出現は、膜鳴楽器のポリフォニーで表現される――。
第一楽章はそんなゆらめきをもってはじまった。
詩人アルフォンスは会場一階のはじの席で、楽団の指揮者ギュスターヴの背中をみつめていた。
そこは王都最大の音楽劇場だった。
祝祭のために準備された新設劇場だったため、竣工式もままならないほど期限間際の完成だったが、大聖堂さながらの荘厳さをたたえ、少なくともアルフォンスの目には粗放だったり、手落ちにうかがえるところはなかった。
三階席を見あげれば、まばゆいほどのシャンデリアやシーリング照明が天井を埋め、随所に配置された女神や天使たちをはじめとするオブジェも気品と威厳をたもっていた。
構造上、音響についても計算されていたし、シートの坐りごこちもわるくない。
ギュスターヴ率いる管弦楽団の交響曲発表は、本日のめだま演目だった。
アルフォンスが会場入りしたときは夕暮れだったが、もう太陽は沈んでいるだろう。
昼過ぎから劇団の羊飼いをテーマにした歌劇、女神教会選抜の聖歌隊による合唱、クラリネットのアルフレッド、オーボエのギュンター、ホルンのゴットフリートらの独奏および協奏曲がつづき、王立音楽院の巨匠ラザールのピアノソナタを経て、満を持しての登場だった。
ギュスターヴと旧知の間柄だったため足をはこんだのだが、アルフォンスは純粋に音楽祭を愉しんでいた。
長らく停滞していたギュスターヴの作曲作業が未完に終わった場合に、穴埋め役を買って小品の歌曲を披露しようと待機していたのだが、その必要もなさそうだった。
そもそもアルフォンスが準備していた最後の人魚をテーマにした小歌曲は、全編あまり華やかではなく、締めの大舞台にはそぐわない気もしたのでそれでよかっただろう。
交響楽団は堂々たるたたずまいを誇っていた。
譜面の完成から楽団の習得まで寸暇を惜しんで練習していたようだが、最初の一音からすでにギュスターヴの意図したものが演奏されていると思われた。
かねてより神経衰弱状態にあるギュスターヴと楽団とのあいだで意思疎通不足による軋轢が生じたり、ギュスターヴによる執拗な楽譜の改訂や再編集によって根深い確執が生まれているとのことだったが、そういった関係も観客には感じさせない仕上がりをみせていた。
交響曲には〈名まえを失くした国〉という題名がつけられている。
アルフォンスは目を閉じる。
そしてふたたび、想像のなかで、雲に覆われた山脈を翔ける鳥へとみずからのすがたを変えた。
旋律はゆるやかに明度を増して、物語のはじまりを奏でている。
朝陽のなかでまどろむようにして、アルフォンスはしばらく、楽団の音色に身をゆだねていた。
ふと――気配を感じてとなりをみると、そこに酒樽のような体型の老人が坐っていた。
椅子にどっぷりと沈みこむように腰かけて目を細めている。
老魔法使いマイニエリだった。
アルフォンスの目には一瞬、マイニエリが実体のないけむりかなにかのようにみえた。
霧のように不定形で不確実なものである。
潜在的な魔力のつよさによるものか、あるいは気配さえ感じさせずとなりに坐っていたせいもあるだろうか。
しかしその印象はあながち誇張でもない。
マイニエリは年齢不詳と呼ばれるほど長生きしているし、秘めたる魔力をもってすれば、いつでもどこでも行きたいところに行くことのできる存在にちがいないからだ。
この老人はけむりでもあるし、霧でもあるし、あるいは鳥でもある。
「あいかわらず、きれいな顔をしているね」マイニエリがアルフォンスににっこりした。
詩人もうすくほほえみかえす。
「突貫工事のわりにはうまくできた劇場だ。遠くからみたら、大きなくじらのような建造物だった」マイニエリは深く息を吐いた。そして、右手の親指とひとさし指をすりあわせる。「しかしパイプ禁止とは驚いた。聴衆はリラックスしてもいいと思うが……」そのまま目を閉じて鼻をふくらませた。
マイニエリは魔法使いの育成機関〈魔導院〉の長にして、歴代国王の補佐役をつとめる大賢人であり、人々から齢何百歳だとまことしやかに語られ、世界樹の魔力を付与されて森羅万象に通じていると噂されたりする謎多き一面をもつものの、みずからを一介の牧師と位置づけている風変わりな人物だった。
もっともアルフォンスもまた、性別年齢不詳の伝説の詩人という浮評のベールをまとっているので、世間からみれば同類ともいえるだろう。
「こんなところでお逢いするとは思いませんでしたね」アルフォンスは片眉を動かす。
「……ふむ」マイニエリは鼻をならす。「そもそも初対面のときから、こんな世界で出逢ってしまうとも思わなかったろう」
アルフォンスは微笑をたもつ。
しかし建国記念祝祭の初日に国家重鎮のマイニエリがどこにいてなにをしているのが適切かを勘案すると、やはり新設劇場にいて新作交響曲を傾聴することではない気がする。
「ただのひまつぶしだよ」マイニエリはくつくつ笑う。「人生なんてそんなもの」
アルフォンスは観念する。
そもそもこの牧師は基本的に道化気質だし、明言を避ける傾向がある。
それになにか危急を声明するときにはまだるっこしい言葉は選ばないだろう。意図があっても口にしたくない事情があるのかもしれない。
それでもこの音楽劇場は王都西部のはずれにある。
〈魔導院〉からは最も近い劇場になるし、北西部はもともと教会主導の装飾的な街づくりをしている区域でもあるから、ほんとうに退屈しのぎにおとずれている可能性もあるかもしれない。しかも(王宮を含む)王城やその関連施設からもそれほど離れていない。
すると横から寝息が聞こえた。
マイニエリはふたたび目を閉じている。
ハンモックで横になっているような、おだやかな表情である。
アルフォンスはちいさく嘆息して、舞台上をみた。
見守るべき指揮者の友人は、まるでよみがえった死者のように微弱にゆれながら、両手をかかげて指揮棒をにぎっている。
痩せていて、蓬髪はみだれ、いかにも芸術家然としているものの、それゆえに息苦しそうで、安定を欠き、落ち着きがない。
まわりこんで顔をみれば隈がひどいにちがいない。
アルフォンスもまぶたを閉じる。
そして、一音一音のすべてに耳をすませた。
指揮者がいかにおぼつかなくとも、楽団は徐々に、しかるべき方向へとみちびかれており、彼らがつむぐ調べは少しずつ、その新しい音世界を構築していた。
アルフォンスはその旋律に触発されて、ひとつの挿話を題材にとった独自の物語を空想しはじめた。
その挿話はかつて、最後の人魚の小歌曲を創作するさいにたずねた人魚の資料館において、偶然知り合った旅人たちに披露した「失われた時代と悪魔」をモチーフにした現在は朗誦を禁止されている抒情詩だった――。
――詩人の空想の鳥は、ぶ厚な雲をぬけて、屹立する山脈の上空を舞っていた。
そして何度か旋回すると、やがて谷間にある台地へと急降下していく。
まわりが渓谷であるため、いかにも秘密めいた土地だった。
草原をぬうように流れる河に、太陽の照りかえしがまぶしい。
四方が森林にかこまれていたものの、壁のような閉塞感はもたらさなかった。
そして、そこでは100年以上もまえから、少数だが善良でおとなしく、つつしみぶかい民族が暮らしていた。
農耕や牧畜、狩猟に漁撈、採集を日課とし、ときに台風による破壊や、落雷でもたらされる火災、旱魃や虫害凶作による飢饉や疫病が発生し、人口がいちじるしく減少するようなこともあったが、手に手をとりあうことで種をつないできた人々だった――。
命のありかたをつむぐように――楽団は粛々と演奏をつづける。
おだやかながらも迫力をはらんだ序奏からみちびかれる主題は、ときにはげしい展開をみせることもあったが、徐々に落ち着きをみせ、最後はやわらかな印象を残した。
管弦楽器の調べはやさしく静かで、暗さのなかに平穏があった。それは長い冬の夜、暖炉にちいさな火をおこすような、素朴な美しさだった。