18 夕暮れのこうもりたち
露店や店舗からただよう焼いた肉の匂いやアルコール臭が充満し、それが大勢の観光客の人いきれにまざり、暑かった日中の陽射しの照りかえしもあいまって、夕刻を迎えた街路はむせかえるような熱気にあふれていた。
街の喧騒とは裏腹に、空にはブラシでぼかしたみたいなうすい紫色の雲がうかんでいて、どことなく親しげな雰囲気をかもしだしている。
ザウターとティファナは、大河のような人ごみあふれる主要道路や、その支流のような路地をかれこれ半日つれだって歩いていた。
ティファナは自覚のない問題児だったから、帽子を買うために衣料店に入れば、サイズの合わないドレスを無理して試着する婦人に「似合ってないよ!?」とわざわざ指摘して婦人と店員を激怒させるし、軽食店に入ってサンドイッチをつまめば「このソースはしょっぱいね、もっと甘いほうが好みかなぁ」とぶつくさ不平をこぼして店員と店長を辟易させるし、雑貨屋に入れば、つまずいて赤とうがらしを原料としている激辛香辛料が詰められたつぼを割ってしまい、店内がまるで煙幕にやられたような騒動になり逃亡せねばならなくなったり、音楽堂から合唱が聞こえてくれば勝手に参加するし、トランプを使った手品師の奇術を大声で邪魔するし、基本的にトラブルは多発した。
そしてまた、ととのった顔だけでなく、かくしきれない豊満な肉体をしているせいで、目を離すと驕傲そうな優男にナンパされていたり、無頼な男たちに路地裏につれこまれそうになっていたり、不審な集団に「ぜひ、わが傭兵団の一員に!」などとスカウトされていたりと面倒このうえなかった。
ティファナは〈魔女の角笛〉を吹ける召喚士だし、野獣さえも意のままにできる〈銀の鎖〉をあつかえるので、万が一の事態は起こりえないのだが、それでも、たんぽぽの綿毛のようにふわふわしているティファナをみると、ザウターは落ち着かなかった。
それでもなんとかハーマンシュタイン卿との約束の時間まであと少しのところまできていた。
そして、待ち合わせ場所となっている展望台までもあと少しだった。
街道をぬけた二人は展望台をめざして、無軌道に流れるにぎやかな人ごみや、だれかの怒号、雷鳴のような笛や太鼓の音、さまざまな臭気でみちた中央第一広場をまっすぐ横切った。
展望台までの花崗岩の石階段は湾曲しながら昇っており、下段のほうには寝ころがった乞食や、悪さをたくらむ子どもたち、ぼんやりと広場をみつめる老夫婦、夜伽の場所を模索している男女といった面々がいた。
「へへ、見晴台はやめたほうがいいよ、けっこうめだつし――」
すれちがいざまに男が耳打ちしてきた。
ザウターとティファナを自分たちと同様のカップルとかんちがいしたのだろう。ティファナが耳ざとく聞きつけなくてよかった。
ティファナは石階段を跳ねたり横回転したりしながら昇っていく。
旧い石造りだから雑な加工を施されている箇所もあり、ふざけているとわりと危険なのだが、ティファナは高いヒールの靴で意に介さず進んでいく。
ザウターは制止しようかと思ったがやめた。
深く考えないほうが安全なのかもしれない。
ふと、強風が吹きあがり、ティファナの新しい帽子がとばされそうになった。
「あっ!」
しかし、ふわりと舞いあがった帽子は、そのまま鳥の羽根のように宙をただよい、10段下にいるザウターの手もとにとびこんできた。
「わぁ! ナイスキャッチ! 愛のなせるわざ!」とティファナが叫び、ちょうど上から降りてきた通行人の老夫婦がにっこりした。
老夫婦がみえなくなるまで待ってから、ザウターは大きくため息をつき、ティファナまで追いつく。
「苦労して買ったんだからもっと大事にしろよ」ザウターが帽子を手渡すと、ティファナは「はーい」と元気よく返事をして、両目をつぶり、むぎゅーとあたまに押しつけるようにしてかぶった。
購入に手間どったのはほんとうで、専門店、衣料店から洋服屋、はては古着屋まで何件もまわるはめになったのである。
ザウターからすれば、どの帽子もティファナに似合っているといえば似合っているし、色やかたちなどティファナがこだわるほど他人はみていないような気がしたのだが、ティファナは「感触と匂いとかたちとイメージの一致」が重要だと断固として妥協しなかった。
それが女性としてなのか魔法使いとしてなのかは聞いていない。
「素材とか色とか裁縫技術の問題か?」と問えば、ティファナは「わかってないなぁ、ザウターは」と悲壮感をまるだしにした。「女心と秋の空!」
難解すぎてザウターは意見するのをやめた。
結局、ティファナはふたたび三角帽子を選んだ。
それも色がまえより少し明るめなだけの、失くしたものとよく似たデザインのものだった。
ティファナの独自基準の「イメージ」というのは魔法使いについて他者が抱く固定観念ということなのかもしれない。
よくもわるくも絵本なんかに登場する魔女がもっているパブリックイメージである。
感触や匂いについては、まえの帽子のものを憶えていないので判断できなかった。
内海で失神したティファナから離れ、どんどん流されていってしまったマジックハットを思いだす。
あのときは必死だったので、それをとりもどす手立てはなかったにひとしい。そもそも二人して無事に生き残り、王都に到着できたことが奇蹟的である。
あれ以後、接触していないが、ザウターの脳裏には何度となく沙漠の国や火の国の連中が回想された。
忌まわしき敵一味はいま祭典に参加しているはずだから、王都に滞在しているはずだった。
その事実が、ザウターになんとなく胸騒ぎをもたらす――。
「どうしたの、とつぜん――」ティファナがきらきらした瞳で、顔をのぞきこんでくる。「男心とうわの空?」
遠くからみれば女性からキスをしたようにみえたかもしれない。
ふと、ザウターは目線をそらす。
眼下にひろがる靄がかかったみたいな街の夕景をみつめ、それから空を仰ぐ。
ときにゆるやかで、ときに強めの変則的な風が吹いている。
気まぐれな風の神が空を駆けまわっているみたいに。
ティファナもめずらしく空気を読んだのか、口をつぐんで街を見おろす。
ふと、展望台に設置されている時計塔が鐘をうった。
そして、それと同時に無数の影が遠くの森からとびたち、夕陽に浮かびあがる――。
無数の黒い点はやがて大きな楕円状の影となり、街の上空へ舞ってきて、鐘の音のあいだをぬうようにとび、たくさんの羽音がひびいた。
「夕暮れのこうもりか……」
ザウターは胸によぎるかすかな不安をごまかすようにつぶやいた。
しかし、いつもなら茶々をいれてくるティファナがなにも応えず、猫のように目を細めた。
ティファナのきれいなあごのラインも茜色に染まっていた。